第三話 セヴラン:妻の名を知らなかった
妻を迎えることになったと薬院長に告げたとき、ギルベルトは眼鏡を押し上げてこう言った。
「お相手の方は、ご存じなのですか。あなたの身体のことを」
「知らせる必要はない」
「では、そのように」
八年の付き合いで、この男は必要以上のことを聞かない。私はそれを美点だと思ってきた。今になって、聞かれなかったこと自体が問題だったのではないかと考えている。
婚礼は先代の遺言による義務だった。バルドー子爵家との縁組は十年前に交わされた約束で、私が家督を継ぐ前から決まっていた。相手が次女に変わったのは、去年のことだ。長女は薬房の後継として家に残す、と先方から通知が来た。
つまり、余ったほうが来る。
それを不快とは思わなかった。私も、余った人生を渡す側だったからだ。
五年前に盛られた毒は、命を取らずに内臓だけを削っていった。ギルベルトは十年は保つと言い、私は五年と見積もっている。どちらが正しいにせよ、二十年三十年と続く生活を誰かに約束できる身体ではない。
だから婚礼の日に離縁の条項を渡した。一年。持参金は全額返す。土地も選ばせる。これが私にできる最も誠実な処理だと思っていた。
書斎で書面を差し出したとき、彼女は即答した。
承知いたしました、と。
顔色ひとつ変えなかった。安堵でも落胆でもなく、業務の連絡を受け取った顔だった。あの表情を、私は自分と似ていると感じた。
そのあと、第四条を読まれた。
七条まである書面の、住まいの規定がない箇所を、二十秒で見つけてきた。あの契約書は王都の法務官が三日かけて作ったものである。
驚いたのはそこまでで、次の瞬間には手首を掴まれていた。
止まります、と彼女は言った。
淡々とした声だった。脅しでも心配でもなく、事実の報告だった。
私は八年間、六つの瓶を疑ったことがない。ギルベルトが組み、王都の薬房が調え、執事が運んでくる。その流れのどこにも私の判断は入っていなかった。入れる必要がないと思っていた。
嫁いで一日目の娘に、三分でその前提を崩された。
離れに移った妻について、執事から報告が上がってくる。
荷物は鞄が二つ。ドレスは持参なし。持ち込んだ箱の中身は乳鉢と秤と薬研。
裏の空き地を掘り返して、三日で畝を作った。侍女が手伝おうとしたら断られた。土の深さを覚えたいので自分で掘りますと言ったらしい。
朝は必ず本邸に上がる。六つの瓶を順に検め、私が飲むまで立っている。飲み終えると一礼して下がる。それ以外の時間、彼女は離れから出ない。
「奥様は、一日じゅう机に向かっておいでです」
執事はそう言った。
「何を書いている」
「存じません。ただ、赤いインクをよくお使いになります」
分量を二匁に戻して三日目の朝、私は久しぶりに眠りが浅くならなかった。
そのことを伝えると、彼女は「よかったです」とだけ言って、四つ目の瓶を差し出した。喜ぶでもなく、得意がるでもない。
「戻しますか」
「戻さない」
「では、月末にもう一度お伺いします。肝の具合は、顔色よりも爪に出ますので」
爪、と繰り返すと、彼女は自分の手を広げて見せた。
「私の爪は、これが平常です。三年前より白いですが」
言ってから、しまったという顔をした。何かを言いかけて、視線を落とし、そのまま飲み込んだ。
その動作を、私はこの数日で四度見ている。
言おうとして、やめる。落とすのは目線ではなく、たぶん声のほうだ。
「今、何を言おうとしましたか」
彼女は驚いた顔をした。
「……いえ、大したことでは」
「大したことでなくていい」
「三年前より白いのは、あまり良い意味ではないという話です。ただ、朝からする話ではありませんので」
「なぜ」
「食事がまずくなります」
「あなたの話でまずくなる食事なら、もともとまずい」
彼女は少し黙ってから、「変わったことをおっしゃいますね」と言った。
変わっているのはそちらだと思ったが、言わずにおいた。
薬草の畝を見に行ったのは、その翌週のことだった。
離れの裏に回ると、木札が並んでいた。名前と、植えた日と、水やりの間隔が書いてある。字は細く、読みやすい。
そのうちの一枚に、四日ごと、と書いてあった。
私はその晩、執事に頼んで水差しを用意させた。
翌朝、彼女が本邸に上がってきて、六つの瓶を検めたあとで言った。
「あの、裏の畝に水がやってありました」
「四日ごとと書いてあった」
「……お読みになったのですか」
「書いてあるものは読む」
彼女は瓶を持ったまま、しばらく黙っていた。
それから、たぶん本人は気づいていないと思うが、少し笑った。
私はその顔を見て、自分の胸のあたりに妙な引っかかりを覚えた。毒の後遺症とは違う場所だった。
三日後の夜、離れに明かりがついていた。
刻限をとうに過ぎている。私は外套だけ羽織って様子を見に行った。
扉を開けると、彼女は暖炉の前に座って、紙を燃やしていた。
一枚ずつ、丁寧に。急いでもいないし、乱暴でもない。片づけの手つきだった。
顔を上げた彼女の目は乾いていた。泣いた跡もない。
何を燃やしているのかと聞くと、答えが返ってこなかった。
答えられないのだ、と分かった。
私は隣に座った。理由を聞かないことにしたのは、聞いたところで彼女がまた声を落とすと思ったからだ。あの動作を、この夜にさせたくなかった。
よく燃えますね、と言うと、ええ、と返ってきた。
紙は乾いていると燃える、と続けると、彼女はこちらを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
炎が小さくなるまで、二人で座っていた。
その間ずっと、私はひとつのことを考えていた。
一年で終わる契約である。
離縁の条項は私が用意した。持参金も土地も、彼女が困らないように手配してある。あれは誠実な処理だったはずだ。
だが今夜、この人が何を燃やしたにせよ、私は一年後にそれを見送る側にいる。
見送るのは構わない。
彼女がまた、言いかけて飲み込む場所へ帰っていくのだとしたら、話は別だ。
炎が消えたあと、彼女は机に向かって短い手紙を書いた。三行だけの、封蝋を落とすところまで見ていた。
離れを出るとき、私は聞いた。
「明日の朝も、来ますか」
「参ります。契約ですので」
「そうか」
契約ですので、と彼女は言った。
その通りである。私が書いた条項だ。
書斎に戻り、金庫から離縁の書面を出して読み直した。第一条から第七条まで、不備はない。誰にとっても損の出ない、よくできた書面だ。
住まいの規定がないことにだけ、誰も気づかなかった。
私は書面を戻し、鍵をかけた。
一年で終わる契約のはずだった。
私は初めて、その期限を短いと思った。




