第二話 家族なのだから、と言われましたので
写し間違いは、分量だった。
私が書いた処方には、鎮痛のための根を一日あたり二匁と記してある。貼り紙には、二匁半とあった。
半匁。指先に載る程度の差だ。
その程度でどうということはない、と大抵の人は言う。実際、健康な人が一度飲んだところで何も起きない。
けれどセヴラン様の内臓は五年前の毒で削れている。この根は肝で分解される。半匁の上乗せを、二年間、毎日である。
私は貼り紙を明るいところで三度読み直し、それから朝を待った。
本邸の朝食室に上がると、セヴラン様はすでに席に着いていた。盆の上には六つの瓶。私が上がるのを待って、まだ一本も開けていない。
律儀な方だと思う。
「おはようございます。琥珀色の三番から、順に」
「その前に、聞きたいことがある顔をしている」
「顔に出ておりましたか」
「昨夜から、盥の前で立っていたと聞いた」
見られていた。侯爵家の使用人は優秀である。
私は昨夜の貼り紙を机に置いた。
「この処方箋の写しについて、伺ってもよろしいですか。分量が、少し多めに出ております」
「私の薬だ。薬院長が組み、王都の薬房で調えている」
「その薬房の名前を、伺っても」
「バルドー薬房。二年前から出入りしている」
そうですか、と言った。声が思ったより平らに出たので、我ながら三年の訓練は無駄ではなかったと思う。
実家である。
貴族の患者の名は、薬房の紙には書かない決まりだった。どこの誰が何を患っているかを残せば、それだけで商いになってしまう。だから私が三年間書いてきた処方の何割かは、北三番、西七番といった符牒でしか呼ばれていない。
つまり私は、二年前から自分の夫になる人の薬を書いていた。符牒しか知らないまま。そして姉が写すときに、半匁が増えていた。
「量を、二匁に戻していただけますか。今日から」
「根拠は」
「あなたの肝が、二年分の余りを抱えているからです」
セヴラン様は瓶を手に取り、しばらく眺めていた。
「薬院長は八年、私の身体を診ている。あなたは昨日来た」
「その通りです」
「それでも言うのか」
「はい」
言い切ってから、少し後悔した。嫁いで二日目の妻が言う台詞ではない。
けれどセヴラン様は、意外にもうなずいた。
「では二匁にする。三日試して、具合が悪くなれば戻す」
「よろしいのですか」
「試すだけなら、どちらの言い分でも安い」
そういう考え方をする方らしい。私は少し安心して、それから、この人が薬を飲む間ずっとそばに立っていることにした。
三日目の朝、セヴラン様は「よく眠れた」と短く言った。
その日、実家から招待状が届いた。
姉の婚約祝いである。
バルドー邸の広間は、私が出ていったときよりずっと明るかった。
蝋燭の数が増えている。壁には新しい織物がかかっている。薬房の景気がいいのだと分かった。ここ三年で顧客が倍になったことは、私が誰より知っている。
姉のユリアは、薄紅のドレスで人の輪の中心にいた。
「ローゼ。よく来たわね」
「おめでとうございます、姉さん」
「そのドレス、去年のじゃない」
「はい」
「侯爵家に嫁いだのだから、少しは見栄というものを」
姉は笑いながらそう言って、すぐ別の話題に移った。悪意はない。姉の言葉にはいつも悪意がない。それが一番、扱いにくいところだった。
婚約者のテオドール様は、薬種問屋の跡取りだという方だった。背が高く、姉の隣で満足そうにしている。
「妹君ですか。ユリアからよく聞いています。清書がお上手だとか」
「……はい」
「助かりますね。書き手が二人いれば、薬房も回りましょう」
書き手が二人。
私は微笑んで、グラスの水を飲んだ。
しばらくして、王立薬院の役人の方が姉に声をかけた。銀縁の眼鏡をかけた年配の方で、名をギルベルト様といった。薬院長だと後で知る。
「バルドー嬢。昨年の、産み月の近い方への処方は見事でした。あの配合は、どなたの発案です」
姉は、ほんの少しだけ間を置いた。
その間の長さを、たぶん私だけが数えた。
「ええ。あれは苦労いたしました」
ギルベルト様は満足そうにうなずき、次の話へ移った。
私はグラスを持ったまま、その場に立っていた。
あの処方を書いた夜のことは覚えている。冬で、書き物机の指先が凍えて、羽根ペンを三度落とした。四日かけて組んだ。姉はそのとき、社交の集まりに出ていた。
苦労した、というのは本当だ。
ただ、苦労した人間がここにいない。
食卓に移ってから、母が薬包を取り出した。
「近ごろ、めまいが治まらなくてね」
私は反射で手を伸ばし、薬包の中身を見た。見なければよかったのだが、三年の癖はそう簡単に抜けない。
配合が変わっている。眠りを促す草が増え、代わりに血を巡らせる根が抜けていた。
「お母様。これは量を減らしてください。できれば別のものに」
「あら、どうして」
「めまいの原因が血の巡りでしたら、この配合は逆に働きます。眠くなって、余計にふらつきます」
一瞬、食卓が静かになった。
母は薬包を手元に戻し、私を見た。
「余計なことを言わないで」
「お母様」
「ユリアが可哀想でしょう」
私は口を閉じた。
父が咳払いをして、話を明るいほうへ引き取った。
「いや、次女が嫁いだので、これからは薬房も身軽になりましてな。ユリアひとりで十分に回りますとも」
笑い声が起きた。姉も笑っていた。テオドール様も笑っていた。ギルベルト様だけが、少し不思議そうな顔をしていたように思う。
私は微笑んで、水を飲んだ。テーブルの下で、右手を一度だけ強く握った。
三年間、この家で私は一度も怒鳴っていない。物を投げたこともない。皿を割ったことすらない。
家族はそれを、聞き分けがいいと呼んだ。
違う。命の話をしているのに、姉の面子のほうが重いと言われたら、返す言葉がないだけだ。返す言葉がない状態が三年続くと、人はもう言わなくなる。
そういう仕組みである。
帰りの馬車で、私は膝の上の包みを見ていた。
帰り際、姉が「ついでに」と言って渡してきた、次の処方の依頼書である。四十枚ほど。
離れに戻ると、暖炉に火が入っていた。ノエルが気を利かせてくれたらしい。
私は包みを解き、依頼書を一枚ずつ読んだ。読みながら、いつものように顧客の名前と体質を頭の中で照らしていく。
二枚、赤い印をつけた。
肺の弱い老人への処方に、咳を止める代わりに痰を固める草が入っている。もう一枚は、去年の夏に胃を焼いた方への処方で、空腹時に飲めば穴が開く配合だった。
その二枚を封筒に入れ、余白に書いた。
『この配合は中止。理由は同封の通り』
三年間、毎週押してきた印である。
残りの三十八枚を、私は膝の上でそろえた。
それから、一枚ずつ暖炉にくべた。
紙は端から丸まって、赤いインクの跡が黒くなって、消えた。三十八枚は思ったより早く終わった。三年分の私の字が、三十八枚分だけ先に燃えた。
火を見ながら、私は自分の手が震えていないことを確かめた。
震えていなかった。怒っていないからではない。怒りは、たぶんもっと前に燃え尽きている。
背後で扉が開いた。
セヴラン様だった。夜着の上に外套を羽織っただけの、ひどく無防備な格好で立っている。
「明かりが」
「起こしてしまいましたか」
「いや。……何を燃やしている」
私は答えなかった。答えられなかった、というほうが近い。
セヴラン様は、それ以上聞かなかった。
暖炉の前まで来て、私の隣に腰を下ろし、火を見た。
「よく燃えますね」
「……ええ」
「紙は、乾いていると燃える」
当たり前のことを言う人だと思った。当たり前のことしか言わない人と、当たり前のことを何も聞かない人は、たぶん違う生き物だ。
私たちはしばらく、黙って火を見ていた。
炎が小さくなってから、私は立ち上がって机に向かい、便箋を一枚取った。
書いたのは三行だった。
『今後、処方は書きません。
同封の二枚は、配合を中止してください。
ご息災を』
封をして、封蝋を落とした。
三年分の私の字は、この三行で終わりだ。
炎は、残りをきれいに食べ終えていた。




