第一話 一年で離縁するそうです
「一年で離縁する。それまで顔を合わせる必要はない」
婚礼衣装のまま通された書斎で、夫になったばかりの人はそう言った。
アシュフォード侯爵セヴラン様。二十八歳。銀灰色の髪に、感情の読めない目をした方。式の間じゅう一度も笑わなかったので、私も笑わないでおいた。合わせるという意味では、それなりに気の合う夫婦だと思う。
机の上には、婚姻契約書とは別に、もう一枚の書面が置かれていた。
「離縁の条項だ。一年後の同じ日付で効力を持つ。あなたには実家に戻るか、持参金を持って好きな土地へ行くか、選ぶ権利がある」
「承知いたしました」
私が即答したせいだろうか。セヴラン様の視線が、初めて私の顔で止まった。
「……確認しないのか」
「いたします」
私は書面を手に取り、上から順に読んだ。第一条から第七条まで。読み終えるのに、たぶん二十秒もかかっていない。
「第四条ですが、住まいを分けろとは書かれていませんね」
「そこを読む人間は初めてだ」
「離れをお借りできますか。日当たりのいい場所がありましたら」
薬草を育てたいのですと言いかけて、やめておいた。嫁いだ初日に自分の要望を並べる娘は、面倒だと思われる。実家で三年かけて覚えたことのひとつだ。
セヴラン様は少し黙ってから、「好きにしてくれ」と言った。
私は頭を下げた。これで話は終わりのはずだった。
終わらなかったのは、そのあと執事の方が銀の盆を運んできたからである。
盆の上には、六つの薬瓶が並んでいた。琥珀色が三つ、乳白色が二つ、透明が一つ。
セヴラン様は書類に目を落としたまま、慣れた手つきで琥珀色の瓶と乳白色の瓶を同時に取った。
私の身体のほうが先に動いた。
気がついたときには、机を回り込んで、その人の手首を掴んでいた。
「その二つは、いけません」
書斎が静まり返る。執事の方が息を飲む音がした。
セヴラン様は、掴まれた自分の手首と、私の顔を順番に見た。
「……理由を」
「琥珀色のほうは、心の臓の動きを緩やかにする薬草が入っています。乳白色は逆に、脈を速めて熱を散らす配合です。片方ずつなら効きます。同時に飲むと、身体の中で押し合いになります」
「押し合いになると、どうなる」
「止まります」
言ってから、自分がまだ手首を掴んだままだと気づいた。慌てて離す。指が触れていたところが、妙に熱い。
「し、失礼いたしました。婚礼の日に夫の腕を掴む妻というのは、たぶん、あまり例がないと存じます」
「例がないな」
「以後は口頭で申し上げます」
「掴んでいい」
思っていたのと違う返事が来た。
セヴラン様は瓶を盆に戻し、六つを並べ直した。それから、初めてこちらへ身体ごと向いた。
「五年前に毒を盛られた。命は拾ったが、内臓に残った。以来この六種を飲んでいる。薬院長が組んだ処方だ」
「その薬院長様は、この二つを同時に飲むなとおっしゃいませんでしたか」
「時間を空けろとは言われた。どのくらいかは、聞いた記憶がない」
私は口を閉じた。
言いたいことは山ほどあったけれど、嫁いで一日目の妻が、王国第二の薬院の長を批判するのは、控えめに言って早い。
「四時間です」
代わりにそれだけ言った。
「朝に琥珀色、昼過ぎに乳白色。透明のものは食事の直後に。順番を間違えると効きが落ちますが、命には関わりません」
セヴラン様は、しばらく私を見ていた。
それから執事の方に何か短く指示を出し、こう言った。
「では、毎朝あなたが見てくれ」
「……顔を合わせる必要はないと、先ほど」
「訂正する」
「一年で離縁なさるのでは」
「一年間は、朝だけ会う」
つまり、白い結婚のまま、毎朝薬を数えに本邸へ上がる妻ということになる。
そんな結婚生活の形は聞いたことがなかったけれど、実家にいた頃よりずっとましだとは思った。少なくともこの人は、私が言ったことを訂正の理由にしてくれる。
離れは、思っていたよりずっと良い場所だった。
南向きの窓が三つ。裏に小さな空き地があって、土を掘り返せば薬草を植えられそうだった。荷物は鞄が二つだけなので、片づけは日暮れ前に終わった。
夕食を運んできた侍女のノエルが、驚いた顔で部屋を見回した。
「奥様、これで全部でございますか」
「ええ。ドレスは実家に置いてきました。どうせ着ませんので」
「では、こちらの箱は」
「乳鉢と、秤と、薬研です」
ノエルは何とも言えない表情になって、静かに下がっていった。おそらく、変わった奥様が来たと本邸で報告されるのだと思う。事実なので仕方がない。
その夜、私はよく眠った。
三年ぶりに、朝までひと続きで眠った。
そして翌朝、実家からの早馬が来た。
婚礼の翌朝である。
包みの中身は、処方の依頼書が四十七枚。表書きには「至急」とだけあった。
一番上に、姉の走り書きが挟まっていた。
『嫁ぎ先なら暇でしょう。三日以内で』
挨拶はなかった。嫁いだことに触れる一行もなかった。
私は依頼書を机に広げ、上から順に読み始めた。読みながら、頭の中で顧客の名前と体質を照らし合わせる。誰が去年の冬に胃を痛めたか。誰が乳飲み子を抱えているか。それは帳面ではなく、私の頭の中にしかない。
十六枚目で手が止まった。
若い妊婦の方への処方に、子宮を収縮させる作用のある薬草が入っている。単体なら微量で問題ない。だが同じ包みの三十一枚目に、同じ方への別の処方があり、そちらにも似た作用の根が使われていた。二つ重なれば、量が三倍になる。
私は赤いインクを取り出し、二枚に大きく印をつけて、余白に書いた。
『この配合は中止。理由は同封の通り』
三年間、毎週押してきた印である。
姉が押したことは、一度もない。
昼過ぎ、返信を持たせるために使いの者を呼んだ。三十代の男で、実家の薬房から通っている顔なじみだ。
彼は赤い印のついた二枚を見て、露骨に面倒そうな顔をした。
「またですか、ローゼ様」
「命に関わります」
「ユリア様は、妹が神経質なだけだとおっしゃっておいででしたが」
「そう伝えてくださって構いません。ただ、中止だけはさせてください」
使いの者は肩をすくめて出ていった。
窓の外で馬の足音が遠ざかるのを聞きながら、私は残りの四十五枚に取りかかった。夕方までに二十枚。夜半までに全部。
三日以内と書いてあったので、二日で仕上げるつもりだった。そのほうが、次の催促が来るのが一日遅くなる。
夜、水を汲みに勝手口へ出たとき、本邸から下げられた盥が置かれているのが見えた。
中身は、使い終わった薬瓶だった。
侯爵家では、飲み終えた瓶をまとめて洗って戻すらしい。琥珀色の瓶が三つ、乳白色が二つ、転がっている。
その一つに、貼り紙が残っていた。
処方箋の写しだ。薬院で瓶に貼り付ける、あの細長い紙。
私は屈んで、その紙を月明かりに向けた。
配合と、分量と、服用の順番。全部、見覚えがあった。
見覚えがあるどころではない。
二年前の冬、実家の書き物机で、私が組んだ処方だった。
姉の字で、そっくり書き写されていた。
そして、一箇所だけ違っていた。




