99 一拍先の鏡
「――ゼノン殿下は、ふたりはいない」
翌朝の大広間で、エトワールは、長卓の上の地図にペンの先を落とした。
湖の上。白い橋。
それから、湖の向こうの谷のさらに奥。北の離宮。
「書状は、ハスト君を白い橋に、陛下を離宮に呼んだ。……昨日、殿下ご自身もそう言った。白い橋で待つ、兄上は離宮で、と。だが、ひとりの人間が、同じ夜に二か所には立てない」
エトワールは、ペンの先で、白い橋をとんと叩いた。
「本物のゼノン殿下は、こちらだ。……殿下が答えを求めているのは、ハスト君だからね。あの夜、自分が斬ったのが何だったのか。それを知っているかもしれない、ただひとりの相手」
ペンの先が、離宮に移った。
「では、離宮で陛下を待つのは、誰か」
大広間が静まり返った。
長卓の端で、陛下が、黙って地図の上の離宮の印を見つめていた。
「……マルタだろうね」
陛下が言った。
静かな声だった。
「マルタの顔で来るのか。それとも、ゼノンの顔で来るのか。……どちらにしても、私を待っているのは、あの子ではない」
「おそらく、ゼノン殿下の顔でしょう」
エトワールは、眼鏡を押し上げた。
「顔を盗む者が、二十二年かけて欲しがってきたものは何か。……陛下が、弟の顔をした何かをその手で斬ること。あるいは、弟の顔をした何かに斬られること。どちらに転んでも、あの夜の続きになる」
長卓の上の陛下の指が、ほんのわずかに震えた。
それから、陛下は顔を上げた。
「――それでも、私が行こう」
「陛下」
「弟の顔をしているのなら、なおさらだよ、博識王。……弟の顔を、あれ以上汚させるわけにはいかない」
エトワールは、しばらく陛下を見ていた。
それから、長卓の端に立っていたフィアットのほうを、振り返った。
「フィアット嬢。陛下と、離宮へ」
フィアットの背筋が、ぴんと伸びた。
「写し身の術は、真眼の欠片を使う。……そして、君の映しは真眼に映らない。昨日、それが証明された」
エトワールは、フィアットをまっすぐに見た。
「嘘を見る眼に、嘘のない剣で挑んでくれ」
フィアットは、一瞬だけ俺のほうを見た。
それから、エトワールに向き直って、深く頭を下げた。
「――はい」
◇
それから、七日間。
砦の中庭の雪の上で、フィアットとセルカは、毎日稽古をした。
稽古と呼んでいいのか、最初は、よくわからなかった。
「――セルカ。もう一回」
「……さっきも、もう一回って言った」
「さっきのは、さっきの。今のは、今の」
「……屁理屈」
「屁理屈じゃないよ。陛下の受け売り」
フィアットは、木剣を構えたままくすりと笑った。
セルカは、むう、と頬を膨らませた。
それでも、雪の上にもう一度立った。
「……なに。フィアット」
「なに? セルカ」
「……呼んだだけ」
「呼んだだけなら、構えて」
中庭の端の、城壁の階段に座って、俺は、それを見ていた。
隣には、バルトロが、盆栽を膝に乗せて座っていた。いつの間にか、そこが、ふたりの見物席になっていた。
「ふむ。……仲が良いな」
「どうだかな」
「喧嘩をするほど、だ」
バルトロは、盆栽の松の枝を、太い指でそっと撫でた。
◇
一日目と二日目は、ほとんどうまくいかなかった。
フィアットが考えたのは、映しをもう一段、先へ進めることだった。
「……陛下の幻は、嘘を見せる。私の映しは、本当のことしか見せられない」
フィアットは、木剣を雪に突き立てて言った。
「だったら、本当のことの見せ方を変えればいい」
フィアットの手のひらから、淡い、蒼い光がこぼれた。
光は、雪の上に薄く広がっていった。それから、ゆっくりと立ち上がった。フィアットの身の丈ほどの、透き通った一枚の板。
鏡だった。
けれど、その鏡に映っていたのは、フィアットではなかった。
鏡の正面に立っていた、セルカだった。
「――『鏡映し』」
フィアットが言った。
「目の前にあるものを、目の前にあるまま、相手に返す。……私が映すのは、相手自身。相手の構え。相手の顔。相手の、剣の向き」
セルカが、鏡の中の自分をじっと見た。
鏡の中のセルカも、じっとセルカを見ていた。
「……わたしが、いる」
「うん。本物のセルカが、本物のまま映ってる。……嘘は、ひとつもない」
フィアットは、鏡の陰にすっと身を隠した。
鏡は、セルカのほうから見れば、セルカ自身しか映していない。その向こうに、フィアットがいるのかどうか、わからない。けれど、鏡に映っているのは、全部、本当のことだ。
「相手の意図を読む眼の前に、相手自身の意図を、返してやるの。……真眼で、この鏡を見たら、自分が斬ろうとしている向きが、そのまま自分に向かって返ってくる」
フィアットは、鏡の陰から顔を出した。
「……読む人ほど、迷うと思う」
俺は、階段の上で思わず息を呑んでいた。
隣で、バルトロが低く言った。
「……ふむ。面白い」
◇
けれど、鏡映しには弱点があった。
鏡は、本物の景色を本物の速さでしか映せない。相手が動けば、鏡の中の相手も同じだけ動く。……相手が速ければ、鏡の陰から飛び出すフィアットの剣は、相手に追いつけない。
三日目の昼。
セルカが、鏡の正面から氷の礫を放った。
フィアットは、鏡の陰からその礫を斬り落とそうとして、一瞬遅れた。
礫が、フィアットの頬をかすめた。
細い赤い線が一本、走った。
「……っ」
フィアットは、頬に手を当てた。
セルカの顔から、すっと血の気が引いた。
「……ごめん」
「ううん。大丈夫」
フィアットは、笑って首を振った。
「当てていいって言ったの、私だから。……でも、やっぱり一拍、遅れる。鏡は、今しか映せないから」
フィアットは、雪の上に座り込んだ。
木剣を膝に乗せて、空を見上げた。
「……今より、ほんの少しだけ先が映せたら、いいのに」
セルカが、フィアットの隣にちょこんと座った。
しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……できる、かも」
フィアットが、セルカを見た。
セルカは、自分の手袋をそっと外した。指先は、まだ少しだけ白かった。
「……鏡の中の、時間。……わたしが、速めたら」
◇
最初にそれが成功したのは、五日目の夕方だった。
それまでに、何十回も失敗していた。
セルカが加速をかけると、鏡の中の景色が、ばらばらに崩れた。フィアットの映しは、本物の景色を、本物と寸分違わず写し続けなければ、成り立たない。そこに、外から別の時の流れを流し込めば、映しのほうが悲鳴を上げる。
鏡が、何度も粉々に砕けた。
フィアットが、何度も鼻血を出した。
セルカの指先が、何度も冷たくなった。
「……やめる?」
四日目の夜、セルカが言った。
兵舎の小部屋で、フィアットの鼻に、布を当ててやりながら。
「……フィアット、また血、出てる」
「やめない」
フィアットは、布の下から、くぐもった声で言った。
「セルカこそ、指冷たいでしょ。……三呼吸、超えてる」
「……超えてない」
「超えてる。見ればわかるよ。……ずっと隣で、見てたんだから」
セルカは、少しだけ黙った。
それから、小さな声で言った。
「……ずれてる、の。……わたしの速める速さと、フィアットの映す速さが」
「うん。私も、そう思う」
フィアットは、布を鼻から外して天井を見上げた。
「セルカは、自分の心臓の音で、時間を測ってるんだよね」
「……うん。サリナさまに、そう教わった」
「じゃあ」
フィアットは、寝台の上で身体を起こした。
それから、セルカの手首をそっと取った。
指先じゃなく、手首。脈の打つ場所。
「私も、セルカの心臓の音に合わせる」
セルカの目が、大きく見開かれた。
「……フィアットの、映しを?」
「うん。セルカの心臓が一回打つたびに、私が一回映す。セルカが、その一回分を速める。……ふたりで、同じ時計を使えばいい」
◇
五日目の夕方。
砦の中庭の雪の上で。
フィアットは、左手で、セルカの右手首を握っていた。
セルカは、左手をフィアットの映した鏡の縁に、そっと添えていた。
ふたりとも、目を閉じていた。
「……いくよ」
「……うん」
フィアットの右手の木剣の切っ先が、ほんのわずかに持ち上がった。
鏡の正面には、陛下が立っていた。
フィアットに頼まれて、相手役を引き受けたのだ。手には、自分の幻で作った光の剣。
「――ふむ。では、遠慮なく」
陛下の光の剣が閃いた。
鏡の中で、陛下の剣が閃いた。
――その、ほんの一呼吸、先に。
鏡の中の陛下の剣が、本物の陛下の剣よりも、一拍だけ早く振り下ろされていた。
本物の陛下が、まだ振りかぶっているうちに。鏡の中の陛下は、もう振り下ろし終えていた。
フィアットが、目を開けた。
鏡の中の、一拍先の陛下の剣の軌道を見た。
それから、鏡の陰から踏み出した。
本物の陛下の剣が、振り下ろされるその場所の、ほんの指一本ぶん横へ。
陛下の光の剣が、雪を斬った。
フィアットの木剣の切っ先が、陛下の喉元の指一本手前で、止まっていた。
中庭が静まり返った。
城壁の上で見ていた兵士たちが、ぽかんと口を開けていた。
陛下が、ゆっくりと光の剣を消した。
それから、喉元の木剣の切っ先を見下ろした。
「……今のは」
「――『先映し』、です」
フィアットが、息を切らせながら言った。
「鏡の中の時間だけを、セルカが一拍分速めました。……鏡に映ってるのは、全部、本当のことです。陛下が、一拍後に本当にする動き。……嘘は、ひとつもありません」
陛下は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
心の底から、楽しそうな笑い方だった。
「――ふむ。一拍先の、鏡か」
陛下は、フィアットの頭にぽん、と手を置いた。
「まったく。……二十二年、弟子を取らなかった私の、最初の弟子が、師匠にもできないことを、やってのけるとはね」
陛下は、それからフィアットの隣で、手袋をはめ直しているセルカを見た。
「君もだよ。……時を速める者と、今を映す者。ふたり揃って、初めて未来が映る」
セルカは、少しだけそっぽを向いた。
耳の先が赤かった。
「……フィアットが手首、強く握りすぎ」
「セルカが途中で心臓、速くなったからでしょ」
「……なってない」
「なってた。どきどきしてた」
「……してない」
城壁の階段の上で、バルトロが盆栽の松の枝を撫でながら、低く笑った。
「ふむ。……喧嘩をするほど、だ」
◇
六日目と七日目。
ふたりは、先映しを何度も繰り返した。
一拍先が、安定して映せるようになった。
それから、もうひとつ、セルカの停止を使った技も生まれた。
フィアットが駆ける。駆けながら、自分の身体に薄く映しを張る。その映しの、ほんの一瞬の姿を、セルカが停止でその場に縫い止める。
フィアットは、もうそこにいない。けれど、そこには、さっきまでのフィアットがそのまま残っている。
一瞬前に、本当にそこにいたフィアットの姿。
止まった時間の中の、本物。
「――『残し映し』」
フィアットが、そう名付けた。
「嘘の残像じゃないよ。……一瞬前の、本当の私。セルカが、その一瞬を止めてくれてるだけ」
真眼で見れば、そこにいるのは、本物のフィアットだ。……一瞬前の。
七日目の夕方、陛下は、残し映しのフィアットに光の剣を三度、振り下ろして、三度とも空を斬った。
四度目を振りかぶったところで、背中に、木剣の切っ先を当てられた。
陛下は両手を上げた。
「――降参だ」
◇
八日目の夕方。
砦の城壁の上で、俺は北の空を見上げていた。
厚い雲が、空の低いところまで垂れこめていた。風が止んでいた。湖の黒い水面が、鏡のように静まり返っていた。
今夜が初雪の夜だ。
山の民が、そう言った。バルトロの部下の、盆栽の水やりが一番上手い兵士も、そう言った。雲の匂いでわかる、と。湖の向こう岸では、千五百の焚き火が、いつもより早く消されていた。
城壁の階段を、二つの足音が上ってきた。
「――ハスト様」
フィアットだった。
その後ろに、セルカ。
フィアットの頬には、三日目の稽古でついた、細い赤い線が、まだうっすらと残っていた。セルカの手には、ミリエルの縫った手袋。
ふたりは、俺の両隣に並んで立った。
「……今夜、ですね」
「ああ」
「私は、陛下と離宮へ行きます」
フィアットは、北の空を見たまま言った。
「……ハスト様は、白い橋へ。セルカと一緒に」
「ああ」
「離れますね」
フィアットの声が、ほんの少しだけ揺れた。
「パートナーなのに」
俺は、何も言えなかった。
フィアットは、それからふっと笑った。
「――でも、大丈夫です。私、強くなりましたから」
フィアットは、腰の剣の柄にそっと手を置いた。
ラークが打ってくれた、白鋼の剣。セルカの氷の水で、焼き入れをした剣。
「陛下を、ちゃんと守ります。……それから、あの人の顔を、もう誰にも汚させません」
反対側で、セルカが、俺の外套の裾をきゅっとつまんだ。
「……フィアット」
「なに? セルカ」
「……鏡。割らないで、ね」
フィアットは、少しだけ目を丸くした。
それから、セルカの頭にそっと手を伸ばして。
撫でようとして、セルカに、ぺしりと払いのけられた。
「……ハストさま、だけ」
「はいはい」
フィアットは、くすくすと笑って手を引っ込めた。
それから、言った。
「セルカこそ。……指、止めないでね。橋の上で。ハスト様の隣で」
セルカは、少しだけ黙った。
それから、こくりと頷いた。
「……うん。……春、見るから」
「春?」
「……ないしょ」
俺は、ふたりの真ん中で北の空を見上げていた。
厚い雲の一番低いところから。
白いものがひとひら。
ふわりと舞い落ちてきた。
フィアットの、蒼い髪の上に。セルカの銀色がかった髪の上に。俺の外套の肩に。
今度は溶けなかった。
ひとひら。またひとひら。
雪が降り始めていた。




