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98 四つの理


その夜、わたしは眠れなかった。


砦の兵舎の、二階の小部屋。フィアットとわたしと、ふたりで使っている部屋。窓の外は真っ暗だった。北風が、窓の隙間からひゅうひゅうと鳴いていた。


隣の寝台で、フィアットが、すうすうと寝息を立てていた。


半刻以上、一瞬も遅れずに、景色を写し続けていたのだ。砦に戻って、夕ごはんのスープを半分飲んだところで、匙を持ったまま、こくりこくりと舟を漕ぎ始めた。ハストさまが、フィアットを抱えて、この部屋の寝台まで運んできた。


……ちょっとだけ、ずるいと思った。


でも、今日は許してあげる。フィアットは、がんばったから。


わたしは、寝台の上で膝を抱えていた。


目を閉じると、あの顔が浮かんだ。


皺だらけの、優しい優しい笑顔。それが、ほんの一瞬だけ笑うのをやめて、わたしのほうを見たときの顔。


目の奥に、何もなかった。


白い、のっぺりとした何もない場所。


――においが、ない人なんていない。


学園の廊下で、わたしはハストさまにそう言った。


でも、いた。


ずっといた。二十二年も。あの王子さまの、すぐ後ろに。


わたしは膝を抱えたまま、自分の右手を見た。


ミリエルが縫ってくれた、聖布の手袋。それをそっと外した。


人差し指の先が、白かった。


爪の色が、他の指よりほんの少しだけ薄かった。触ってみても、何も感じなかった。冷たい、とすら思わなかった。


止まっているから。


アルスさまが、そう言った。わたしの指先は、もう半分、時間の外側にある、と。


……怖くはなかった。


ハストさまを守れるなら、指の一本や二本、止まってもいい。手が止まっても、腕が止まってもいい。


本当にそう思っていた。


なのに。


――お前まで、そっち側に行くな。


あのときのハストさまの顔が、どうしても、頭から離れなかった。


◇


寝台を抜け出して、兵舎を出た。


砦の中庭を横切って、一番高い見張りの塔の石の階段を、上った。


ラークさまが、鐘を下ろしてしまったから、塔のてっぺんの鐘楼は、空っぽだった。鐘を吊るしていた太い梁だけが、真っ暗な空の下で、ぽつんと横たわっていた。


その梁の上に。


小さな人影が、腰掛けていた。


黒い衣。足が、ぶらぶらと宙に揺れていた。


「――眠れぬか」


サリナさまだった。


「……サリナさまも」

「儂は、もとよりあまり眠らぬ」


サリナさまは、梁の上からぴょんと飛び降りた。


石の床に、音もなく降り立った。


それから、わたしの右手を見た。手袋を外したままの、白い指先を。


「……見せてみよ」


わたしは、右手を差し出した。


サリナさまの小さな手が、わたしの人差し指を、そっと包んだ。


温かかった。


……温かい、と思った。指先では感じなかった。手のひらの、まだ止まっていないところで、感じた。


サリナさまは、しばらく黙って、わたしの指を握っていた。


それから、ぽつりと言った。


「――お主には、まだ半分しか、教えておらなんだな」


◇


「時空魔術にはな、四つの理がある」


サリナさまは、鐘楼の石の縁に腰を下ろした。


わたしも、その隣に座った。


真っ暗な空の下に、峠の湖が黒く広がっていた。その向こう岸に、千五百の焚き火が、ぼんやりと滲んでいた。


「ひとつ。停止」


サリナさまは、小さな指を一本立てた。


「流れを、止める。……お主が、倉庫で汗の粒を止めたのも。聖火の夜に、世界を止めたのも。これじゃ」

「……うん」

「ふたつ。再生」


指が二本になった。


「止めたものを、もう一度流す。……止めた世界を、元に戻すとき。お主は毎度、これを使っておる。止めるだけ止めて、流し直せぬ者は、二度と自分の時間に戻ってこられぬからの」


わたしは、こくりと頷いた。


それは知っていた。知っていたというより、身体が勝手にやっていた。止めた世界を、ふっとほどく感じ。


「みっつ」


サリナさまの指が、三本になった。


「加速」


わたしは、まばたきをした。


「……かそく?」

「流れを、速める。……儂の修行部屋を、覚えておるか。外の一日が、中では一月。あれは、部屋の中の時を速めておるのじゃ」


サリナさまは、四本目の指を立てた。


「そして、よっつ。均衡」

「……きんこう」

「ふたつの流れを、釣り合わせる。……速めた部屋の中と、外の森と。その境目で、時の流れがぶつかって裂けぬように。儂の修行部屋の壁が、何百年も崩れずにおるのは、均衡のおかげじゃ」


サリナさまは、四本の指を、わたしの前に並べてみせた。


「停止。再生。加速。均衡。……四つ揃って、初めて時空魔術じゃ。お主は、まだ最初のふたつしか使っておらん」


わたしは、サリナさまの指をじっと見つめた。


「……なんで、教えてくれなかったの」

「教えようとはした」


サリナさまは、少しだけ困ったような顔をした。


「森の家で、何度も。……じゃが、お主は加速の術式を組めなんだ。何度やっても。術式の形は、正しかったのにの」

「…………」

「なぜだと思う」


わたしは黙っていた。


わからなかった。


……いや。


本当は、少しだけわかっていた。


◇


「――止めたかったの」


わたしは膝を抱えた。


「……ハストさまと、いる時間。ずっとこのままで、いたかった。森の家で、パンを焼いてるハストさまを、見てる時間。屋上で、ハストさまが、寝たふりしてる横に、座ってる時間。……ずっとずっと、そのまま止まってたら、いいのにって」


膝の上に顎を乗せた。


「……速くなんか、なってほしくない。……先になんか、行ってほしくない。……ずっとここに、いてほしい」


サリナさまは、何も言わなかった。


ただ黙って、わたしの頭に小さな手を置いた。


「――それが、答えじゃ」


サリナさまは、静かに言った。


「停止は、ここに留まりたいと願う者の理。……加速は、先へ行きたいと願う者の理じゃ」


サリナさまの手が、わたしの髪を、ゆっくりと撫でた。


「お主の心が、ずっと止まりたがっておった。じゃから、加速の術式は組めても動かなんだ。……魔術の火種は、身にあらず。想いじゃ」


わたしは、膝に顔を埋めた。


◇


「――さて」


サリナさまは、わたしの頭から手を離した。


「お主の指の話じゃ」


わたしは顔を上げた。


「お主の指先は、止まっておる。井戸の底から汲むたびに、汲んだ分のひとかけらだけ、お主の時が、止まった側に置いていかれておる。……再生で、流し直すことはできる。じゃが、それだけでは足りぬ」

「……どうして」

「流し直しても、遅れは遅れのままじゃからな」


サリナさまは、わたしの白い指先を、指でちょんとつついた。


「お主の身体のほかのところは、ずっと今を生きておる。この指だけが、何日も、何十日も後ろに取り残されておる。……流し直したところで、この指は、ずっと遅れたまま、追いかけ続けることになる」

「……じゃあ」

「追いつかせればよい」


サリナさまは、にやりと笑った。


「加速じゃ。……遅れておる指の時を、速めて、身体のほかのところに追いつかせる」


わたしは、自分の指先を見た。


追いつかせる。


「じゃが、それだけでもまだ足りぬ」


サリナさまは、四本目の指をもう一度立てた。


「お主は、これからも井戸から汲む。汲めば、またどこかが置いていかれる。……そのたびに、置いていかれた分とまったく同じだけ、同じ瞬間に速める。汲んだ分と、速めた分をぴたりと釣り合わせる」

「……均衡」

「そうじゃ」


サリナさまは頷いた。


「釣り合えば、お主の身体のどこも止まらぬ。どこも、置いていかれぬ。……底のない井戸から、どれだけ汲んでも、お主はお主のままでおれる」


わたしの胸の奥で、何かが小さく跳ねた。


「――じゃが、気をつけよ」


サリナさまの声が、少しだけ低くなった。


「速めすぎれば、そこだけ歳を取る。……指先だけ、婆さんの指になるぞ。均衡は、一分一厘の狂いも許さぬ理じゃ」

「……どうやって、はかるの」

「お主の、心の臓で」


サリナさまは、わたしの胸にそっと手を当てた。


「お主の身体の時を、一番正しく刻んでおるのは、そこじゃ。……心の臓の音を、聞け。その音と同じ速さで、指の時が流れておれば、釣り合っておる」


わたしは、サリナさまの手の下で、自分の胸の音を聞こうとした。


心臓がひとつ打った。小さな手のひらの下で、もうひとつ打った。静かで、ゆっくりで、少しだけ頼りない音だった。


思えば、ちゃんと聞いたのは、初めてだったかもしれない。


倉庫で汗の粒を止めたときも。聖火の夜に世界を止めたときも。わたしは、ハストさまの顔だけを見ていた。自分の心臓の音なんて、聞く必要がないと、思っていた。


◇


最初の稽古は、雪のひとひらだった。


サリナさまが、手のひらの上に、小さな雪の結晶をひとつ浮かべた。六つに枝分かれした、細かな細かな氷の花。


「速めてみよ」


わたしは、雪の結晶に指をかざした。


停止の術式なら、目を閉じていても組める。でも、加速の術式は組んだことがなかった。組んでも、動いたことがなかった。


――先へ、行きたいと願う者の理。


わたしは、術式を組んだ。


形は、正しいはずだった。サリナさまに、森の家で何度も教わった形。


雪の結晶は、動かなかった。


もう一度。


動かなかった。


三度目。四度目。


動かなかった。


指先が震えた。


「……できない」

「なぜじゃと思う」

「…………」

「お主は、どこへ行きたいのじゃ」


サリナさまが言った。


「この先。……ハストと、どこへ行きたい」


わたしは、雪の結晶を見つめた。


どこへ。


ハストさまと。


――碧い小鬼亭の厨房。ハストさまが、パン生地を丸めていて、わたしが隣で氷の器を作っていて。クルトが黙々と、お皿を洗っていて。


――後夜祭の花火。ハストさまの隣で、空を見上げた。……あのときは、それどころじゃなかったけど。


――森の家の春。窓の外で、木の芽がふくらんでいく。


――夏。ハストさまは、暑いのが苦手。わたしが、溶けない氷で部屋を冷やしてあげる。


――秋。また、学園祭。今度は、ちゃんと花火を見たい。


――冬。


その、次の春。


その、また次の。


「……ハストさまと」


声が震えていた。


「……春を、見たい」


術式が動いた。


雪の結晶が、わたしの指の下で、きらきらと震えた。それから、ほんの一呼吸のうちに、端のほうから、しずくになって溶けていった。溶けて、蒸気になって、真っ暗な夜空にふわりと消えていった。


ほんの一呼吸の間に。雪の結晶ひとつぶんの、何日分もの時間が、過ぎていった。


「――ほう」


サリナさまが、目を細めた。


「よう、できた」


◇


次は、わたしの指だった。


白い人差し指の先。


わたしは、そこに加速の術式をかけた。


心臓の音を聞きながら。一回。二回。その音と同じ速さで、指先の時が流れるように。


指先の奥で、何かが、ゆっくりとほどけていくのがわかった。止まっていた水が、また流れ始めるような。凍った川の底で、氷がぴしりと割れるような。


それから。


じわり、と。


指先に、何かが戻ってきた。


最初はちくちくする、痛いような感じだった。それから、じんわりと内側から、熱がにじみ出してきた。


白かった爪の色に、ほんのりと桃色が差した。


「……あ」


わたしは、自分の指先を見つめた。


「……あったかい」


指先で感じた。


自分の指が温かいと。


いつから、感じていなかったのか、思い出せなかった。氷の魔術を使い始めてから、わたしの指先は、ずっと冷たかった。冷たいのが、当たり前だった。


それが温かかった。


「――そこまでじゃ!」


サリナさまの声が、飛んだ。


はっとして、術式を止めた。


指先の爪が、ほんの少しだけ伸びていた。指の腹の皮膚が、ほんの少しだけかさかさに乾いていた。


「行き過ぎじゃ。……今ので、その指だけ、十日ほど歳を取った」


わたしは慌てて、指先を見た。


それから、サリナさまを見た。


「……ハストさまより、先におばあちゃんに、なっちゃう?」


サリナさまは、一瞬きょとんとした。


それから、腹を抱えて笑い出した。


「十日じゃ、十日! この程度で、婆さんになるか!」


サリナさまは、しばらく笑っていた。笑いながら、目の端を指で拭っていた。


「……じゃが、それでよい。その怖さを、忘れるな。それが、均衡のはじまりじゃ」


◇


均衡の稽古は、うまくいかなかった。


左手で、井戸の底から、ほんの少しだけ魔力を汲む。汲んだ瞬間に、右手の指先が、ほんの少しだけ止まった側に、置いていかれる。その置いていかれた分を、同じ瞬間に加速で取り戻す。


心臓の音を聞きながら。


一呼吸。心臓が打つたびに、汲んで速める。指先は、温かいままだった。


二呼吸。まだ温かい。胸の音と、指先の時が同じ速さで、並んで流れていた。


三呼吸。


四呼吸目で、汲む速さと速める速さがずれた。


指先が、すうっと冷えていった。


五呼吸目で、慌てて速めすぎて、指先がちりっと熱くなった。


術式がほどけた。


わたしは、肩で息をしていた。


「……三つ」

「うむ」

「……三呼吸しか、もたない」

「最初は、そんなものじゃ」


サリナさまは、わたしの隣にまた腰を下ろした。


「儂が、均衡を身につけるのに、どれだけかかったと思う」

「……どれくらい」

「五十年じゃ」


わたしは目を丸くした。


サリナさまは、ふん、と鼻を鳴らした。


「お主には、そんなに待ってはおれぬがの。……初雪の夜まで、あと八日」


◇


「――それと、もうひとつ」


サリナさまは、真っ暗な湖の向こうを見つめた。


「四つの理を、すべて重ねた先に、時空魔術の本当の果てがある」

「……はて?」

「跳躍じゃ」


サリナさまの声が、静かになった。


「世界を止める。止めた世界の中で、己の時だけを限りなく速める。速めすぎて己が擦り切れぬよう、均衡で釣り合わせる。……そうすれば、どれだけ遠い場所へでも、世界にとっては、一瞬も経たぬうちに届く」


サリナさまは、わたしを見た。


「届くための魔術の、果てじゃ。……儂が、二百年前に、間に合わなんだあとで覚えた術じゃ」


わたしは息を呑んだ。


「……ハストさまの、ところへ」

「うむ。お主が、ハストのところへ跳べるのは、均衡が完成したときじゃ」


サリナさまは、わたしのまだほんのりと温かい指先を、そっと握った。


「間に合う前に、覚えよ」


◇


塔の階段を、誰かが上ってくる音がした。


聞き慣れた足音だった。


少しだけだるそうで。でも、迷わない足音。


「――お前ら、こんなところで何してんだ」


ハストさまだった。


外套を羽織って、髪が、少しだけ寝癖で跳ねていた。わたしが部屋にいないのに気づいて、探しに来てくれたのかもしれない。……フィアットが、教えたのかもしれない。


サリナさまは、ふん、と鼻を鳴らした。


「女同士の、内緒話じゃ」

「なんだそりゃ」


わたしは、石の縁から立ち上がって、ハストさまの前まで歩いていった。


それから、右手の人差し指を、ハストさまの前に差し出した。


ハストさまは、少しだけ首を傾げた。それから、わたしの指先をそっと握った。


ハストさまの目が、ほんの少しだけ見開かれた。


指先は、もうまた冷たくなりかけていた。均衡がほどけたあとだったから。


でも、ほんの少しだけ。


ほんの少しだけ、まだ温かさが残っていた。


「……セルカ。お前、これ」

「……ちょっとだけ、あったかくできた」


わたしは言った。


「……まだ三呼吸しか、もたない。……でも、初雪の夜までに、もっと、もたせる」


ハストさまは、しばらく黙ってわたしの指を握っていた。


それから、もう片方の手を、わたしの頭の上に置いた。


ぽん、と。


撫でてくれた。


ハストさまが、自分から。


――五十七回目。


数えているのは、ないしょ。


「……無理は、するなよ」

「……うん」


わたしは頷いた。


ハストさまの手のひらは、温かかった。


指先で、感じることができた。


わたしは、ハストさまに握られた自分の指先の奥で、心臓の音を聞いていた。


ゆっくりと、静かに打っていた。止まらずに。ハストさまの手のひらの温かさに、少しだけ急かされるように。


先へ行きたい。


ハストさまと、春を見たい。


それは、止まっていたいと思うのと同じくらい、強い願いだった。


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