97 銀の眼の王子
尾根を、引き返し始めたときだった。
背後の森の、黒い針葉樹の間から、雪を踏む音がした。
さく、と。
ひとつだけ。
俺は足を止めた。
首根っこを掴んでいた黒猫の身体が、俺の手の中で、ぴんと硬くなった。
すぐ後ろを歩いていたフィアットの映しの輪郭が、ほんのわずかに揺らいだ。息を呑んだのだ。息を呑んだ一瞬だけ、映しが、本物の景色から遅れた。
――遅れたら嘘になる。
フィアットは、すぐに息を整えた。映しの輪郭が、また岩肌と雪の中に、溶けていった。
一番後ろで、セルカが、ゆっくりと振り返っていた。
◇
森の縁に、ひとりの男が立っていた。
痩せた男だった。背は高い。黒い外套を、肩から無造作に羽織っている。その下は、飾り気のない黒い軍装。腰に細身の剣が一振り。
髪は灰色だった。三十を少し過ぎたくらいの歳のはずなのに、雪をかぶったように、色が抜けていた。
そして、目。
銀色だった。
けれど、それは王城の封蝋の中で光ったような、鋭く澄んだ銀ではなかった。冬の湖に張った、薄い氷のような濁った銀。瞳の奥に、白い靄がうっすらとかかっていた。
男は、まっすぐにこちらを見ていた。
見ていたのだと思う。
けれど、その視線は、俺の顔のほんの少しだけ横を通り過ぎていた。
「――来たのか」
低い声だった。かすれていて、ひどく静かだった。
「兄上」
男の視線が、俺の手の中の黒猫の上で止まった。
ゼノンだった。
◇
俺は動かなかった。
動けなかった、というほうが正しいかもしれない。
ゼノンは、剣に手をかけていなかった。殺気もなかった。ただ、雪の中に立っているだけだった。
それなのに、全身の皮膚がぴりぴりと痛んだ。
見られている。
目で見られているのとは、違った。皮膚の内側。骨の中。もっと奥。俺の中を流れている魔力の筋の一本一本を、細い指でなぞられているような感覚。
真眼だった。
半分、濁っていても。
「……猫の姿で来るとはな」
ゼノンが言った。
「二十二年前と、同じだ。……あのときも、兄上は猫だった」
黒猫は、俺の手の中で身じろぎひとつしなかった。
金色の目が、ゼノンをじっと見上げていた。
ゼノンの口元が、ほんのわずかに歪んだ。笑ったのか、それとも別の何かだったのか、わからなかった。
「化けて、来たのか。今度は、何を奪いに来た」
黒猫は答えなかった。
答えられなかったのだろう。エトワールとの約束があった。話しかけない。名を呼ばない。
けれど、それだけじゃなかったと思う。
黒猫の小さな身体が、俺の手の中で震えていた。
寒さのせいじゃなかった。
◇
ゼノンの視線が、ゆっくりと動いた。
黒猫から俺へ。俺から、俺の後ろのセルカへ。
それから、セルカのさらに隣。
フィアットが、映しを張って立っている、岩と雪の上を。
ゼノンの濁った銀の目が、その場所を、通り過ぎていった。
止まらなかった。
ほんの一瞬も、引っかからなかった。そこにあるのは、岩と雪と、吹き上げてくる北風に舞う細かな雪の粉だけ。……ゼノンの眼には、そう見えたのだ。
本物の景色を、本物のまま写しているだけの幻。嘘が、ひとつも混じっていない幻。
嘘を見る眼には、嘘のないものは映らない。
「……三人、か」
ゼノンが呟いた。
猫と、俺と、セルカ。
すぐ隣で、フィアットが、息を止めているのがわかった。止めたまま、映しを、一瞬も遅らせずに張り続けていた。
ゼノンの視線が、俺の上に戻ってきた。
俺の顔のほんの少しだけ横。俺の胸のあたり。俺の右手。
「……お前が、九人目か」
「…………」
「碧の小鬼」
ゼノンは、雪の上をこちらへ一歩踏み出した。
「お前の碧は、見た。……雪鳩が運んできた、写しの眼を通してな。深く昏い色だった」
ゼノンの濁った銀の目が、細くなった。
「だが、こうして自分の眼で見ると。……もっと深いな」
俺の胸の奥の、霧のかかった白い場所が、きしりと軋んだ。
見られている。
あの場所を。
「お前の中に、穴がある」
ゼノンが言った。
「白い穴だ。……俺の眼でも、底が見えない。何もない。何も映らない。……まるで、最初からそこだけ、雪に埋もれているように」
ゼノンは、そこで言葉を切った。
雪の上を、北風がひと筋吹き抜けていった。
「あの夜の、雪と同じ白さだ」
◇
「……答えは、まだだ」
気がつくと、俺は口を開いていた。
エトワールとの約束が、頭をよぎった。話しかけない。……けれど、それは陛下との約束だ。俺の約束じゃない。
「あんたが書状で訊いたこと。あの夜、あんたが斬ったのが何だったのか。……俺は、まだ答えを持ってない」
ゼノンは、しばらく黙っていた。
濁った銀の目が、俺の顔の少しだけ横を、じっと見ていた。
「そうか」
ゼノンは短く言った。
「なら、初雪の夜に剣で訊く」
ゼノンの右手が、腰の剣の柄にそっと触れた。抜きはしなかった。ただ、触れただけだった。
「白い橋で、待つ。……兄上は、離宮で」
それから、ゼノンは、黒猫のほうをもう一度見た。
「母上と、ルチアの墓の前で。……今度こそ、化けの皮を剥いでやる」
黒猫の震えが止まった。
◇
――そのとき、森の奥から、もうひとつ足音がした。
さく、さく、と。
ゆっくりとした、小さな老いた足音。
「――坊ちゃま」
穏やかな、しわがれた声だった。
「まあまあ、こんな雪の中に、外套一枚で。……お身体が、冷えてしまいますよ」
森の木々の間から、小柄な、ふっくらとした老婆が出てきた。
白い髪を、後ろで小さくまとめている。毛糸の肩掛け。古びた厚手の前掛け。片腕に、分厚い毛皮の外套を抱えていた。
さっき、離宮の庭で、墓の雪を掃いていた老婆だった。
老婆は、雪の上をよちよちと歩いてきて、ゼノンの背中に、毛皮の外套をふわりとかけた。
ゼノンは、何も言わなかった。
ただ、その外套の襟を、片手でほんの少しだけ引き寄せた。
その仕草が。
ひどく幼く見えた。
雪の日に、母親に襟巻きを直してもらう子どもみたいだった。さっきまで俺の胸の奥を覗き込んでいた男と、同じ人間だとは思えなかった。
「……マルタ」
ゼノンが言った。
振り返りもせずに。
「下がっていろ。……すぐに戻る」
「はいはい。お夕飯は、坊ちゃまの好きな、山鳥の煮込みですからね。冷めないうちに、帰ってきてくださいな」
老婆は、それから俺たちのほうを見た。
にっこりと笑った。
さっき、尾根を見上げたときと同じ笑顔だった。
「あらまあ。猫ちゃん。……焼き菓子、食べていかないのかい」
黒猫が、俺の手の中で小さく息を呑んだ。
二十二年前と、同じ言葉だったのだろう。
猫の窓辺に、蜂蜜の焼き菓子を半分置いて、窓の外の黒い影に、そう声をかけるふくよかな乳母。陛下が焚き火の前で話してくれた、あの人の言葉。
黒猫の前足が、俺の手首に爪を立てていた。痛くはなかった。ただ、しがみついていた。そうしていないと、俺の手から飛び出して、あの老婆の足元へ、駆けていってしまいそうだったのかもしれない。
◇
俺は、ゼノンの濁った銀の目を見ていた。
ゼノンは、俺のほうを向いたまま、老婆には一度も目を向けなかった。
背中に外套をかけられたときも。名を呼んだときも。
ずっと。
一度も。
――真眼で、決して見ようとしない相手。
エトワールの言葉が、耳の奥で響いた。
――疑うことを、最初から放棄している相手。
ゼノンの眼は、俺の中の白い穴まで見通した。
それなのに、自分の背中に外套をかけた、すぐ後ろの老婆のことは、一度も見ようとしなかった。
見られないのか。
見たくないのか。
……たぶん両方だ。
◇
北風が向きを変えた。
さっきまで、尾根から森へ吹き下ろしていた風が。
ふっと止んで。
それから、森から尾根へ吹き上げてきた。
針葉樹の冷たい匂い。雪の匂い。ゼノンの外套から、かすかに鉄と、薬草を煎じたような苦い匂い。
俺のすぐ後ろで。
セルカが、小さく鼻を動かした。
何度も。何度も。
それから。
外套の背中を、ぎゅっと掴まれた。
冷たい指先だった。ミリエルの縫った手袋の上からでも、わかるくらいに。
「……ハストさま」
セルカの声は、ほとんど息だけだった。俺の背中に、額を押しつけるようにして。俺にしか、聞こえないくらいの声で。
「……あの、おばあさん」
外套の背中を掴む指に、力がこもった。
「……においが、ない」
俺の手の中で、黒猫の身体が、凍りついたように動かなくなった。
猫の耳は、人間の耳よりもずっとよく聞こえる。
聞こえてしまったのだ。
◇
老婆は、まだにこにこと笑っていた。
ゼノンの背中に寄り添うように、立って。毛皮の外套の裾を、そっと整えてやりながら。
優しい優しい、皺だらけの笑顔だった。
その笑顔のどこにも、においがない。
二十二年。
あの顔で。あの声で。あの、蜂蜜の焼き菓子を半分に割る手で。
ゼノンの背中に、外套をかけ続けてきた。
毎晩、目に良い薬湯を運び続けてきた。
俺は、右手を握りしめた。
碧が、指の隙間からこぼれかけた。
今、ここで。
あの老婆を、碧で縛れば。
――見るだけです。触れない。
エトワールの声がした。
それに、ゼノンがいる。あの老婆のすぐ前に。真眼を持った、俺の村を焼かせた男が。今ここで碧を使えば、ゼノンは、それを老婆への攻撃とは見ない。自分への宣戦と見る。
そして、老婆は。
……そうなることを、きっとわかっている。わかっていて、あそこで笑っている。
俺は、碧を指の中に押し戻した。
握りしめた拳の中で、爪が手のひらに食い込んだ。押し戻した碧が、行き場をなくして、指の骨の内側で、じりじりと熱を持っていた。
背中のセルカの指先も、同じだった。外套越しに、霜がうっすらと降り始めていた。それでも、セルカは動かなかった。俺が、だめだと言っていないのに。俺が動かないから。
「――初雪の夜に」
俺は言った。
ゼノンは、小さく頷いた。
それから、背中を向けた。毛皮の外套を、肩に引き寄せて。森の奥へ歩き出した。
老婆が、その後ろをよちよちとついていった。
途中で、一度だけ振り返った。
俺のほうを。
――いや。
俺の、すぐ後ろのセルカのほうを。
老婆の顔が、ほんの一瞬だけ笑うのをやめた。
皺だらけの顔の、その目の奥に、何もなかった。
白い、のっぺりとした何もない場所が、一瞬だけのぞいた。
それから、老婆は、またにっこりと笑って、森の暗がりの中へ消えていった。
◇
帰り道の岩棚で、黒猫は一度も鳴かなかった。
俺の外套の懐の中で、小さく丸まって、ずっと黙っていた。
湖の西の岩壁を渡りきって、砦の城壁が見えてきたところで、黒猫は、ようやく懐から顔を出した。
金色の目が、城壁の上の篝火を見ていた。
それから、俺を見上げた。
猫の顔に、表情なんてあるはずがない。
けれど、その金色の目は泣いていた。
涙は流れていなかった。猫は泣かない。
それでも、泣いていた。
二十二年前。
ルチアの亡骸の前で、猫から兄の姿に戻ったとき。弟に、化け物と呼ばれたとき。
この人は、たぶんこういう目をしていたのだ。
岩棚の終わりで、フィアットが、ようやく映しを解いた。
蒼い瞳の下に、濃い隈ができていた。半刻以上、一瞬も遅れずに、景色を写し続けていたのだ。膝が、がくりと折れかけた。俺が腕を掴むと、フィアットは、小さく笑って首を振った。
「……大丈夫、です。……あの人には、見えてませんでした」
「ああ。見えてなかった」
「三人、って……言いましたよね」
フィアットは、自分の手のひらをじっと見つめた。
それから、ぽつりと言った。
「……あの人の目。すごく寂しそうでした」
見えていなかったはずの相手を、フィアットのほうは、ずっと見ていたのだ。息を止めて、一瞬も遅れずに映しを張り続けながら。
俺は何も言わなかった。
俺の顔のほんの少しだけ横を見ていた、濁った銀の目。自分の背中に外套をかける手を、一度も、振り返らなかった目。
寂しそう、という言葉が、一番近いのかもしれなかった。
城壁の上で、エトワールが眼鏡を光らせて、俺たちを待っていた。
その隣で、ロリババアが毛布にくるまって、黙って北の空を見上げていた。
黒猫は、俺の懐から飛び降りると、城壁の石の上で、ぶるりと身体を震わせた。
輪郭がほどけて、伸びて。
陛下が、そこに立っていた。
麦わら帽子はなかった。外套も、砦に置いてきたままだった。北風の中で、薄い肌着一枚の肩が、小さく震えていた。
陛下は、エトワールの前まで、ゆっくりと歩いていった。
「……博識王」
陛下の声は、かすれていた。
「君の、読みどおりだったよ」
エトワールは、何も言わなかった。
ただ、自分の外套を脱いで、陛下の肩にそっとかけた。
陛下は、その外套の襟を、片手でほんの少しだけ引き寄せた。
さっき、森の縁でゼノンがしたのと、まったく同じ仕草だった。
北の空には、厚い雲が低く垂れこめていた。
初雪の夜まで、あと八日だった。




