96 黒猫と、雪の庭
「――罠です」
エトワールは、言い切った。
夜明けの大広間だった。銀の眼の騎士たちは、毛布にくるまったまま、砦の兵舎へ運ばれていった。長卓の上には、冷めた山羊の乳の椀と、物置の床から集めた、銀色の粉の小瓶が置かれていた。
「陛下。二十二年前、北の離宮の死者の名簿に、マルタの名はありませんでした。行方知れず。……それから二十二年、陛下がどれほど人をやって探させても、見つからなかった」
エトワールは、眼鏡を外して目頭を押さえた。
「見つからなかったのではなく、見つからないようにされていたのだとしたら」
「……あれは、マルタだよ」
陛下は、長卓の端で拳を握りしめていた。
「ルチアの、母上だ。ゼノンを、赤ん坊の頃から育てた人だ。……あの人が、ゼノンの眼を、削るなどということがあるはず――」
「本物のマルタ殿なら、そうでしょう」
エトワールの声は、静かだった。
けれど、少しも引かなかった。
「顔を盗む者は、生きた人間から、顔と声と記憶を写し取る。……そして、盗めば盗むほど、自分の顔を忘れていく。最後には、誰かの顔でしか生きられなくなる」
エトワールは、陛下をまっすぐに見た。
「二十二年間、ひとつの顔だけをかぶり続ける。……自分の顔を忘れた者にとって、それは、きっととても居心地のいい場所でしょう」
陛下は、何も言わなかった。
長いこと、長卓の上の銀色の粉の小瓶を見つめていた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「――確かめに行く」
「陛下」
「私の目で、確かめる。……あれがマルタなのか、そうではないのか」
陛下は、外套の襟をぎゅっと掴んだ。
その手が震えていた。
「二十二年前、私は間に合わなかった。……今度は、自分の目で見てから決めたいのだよ」
エトワールは、しばらく陛下の顔を見ていた。
それから、深く息を吐いた。
「――条件が、三つ」
エトワールは、指を一本ずつ立てた。
「一。見るだけです。触れない。話しかけない。名を呼ばない。二。日が昇りきる前に、引き返す。三。ハスト君と、セルカ嬢と、フィアット嬢を連れていく。……ハスト君は護衛。セルカ嬢は、においを確かめるため。フィアット嬢は、真眼の前で、映しが本当に通じるのかを確かめるため」
「……ずいぶんと注文が多いね」
「陛下の命は、この国のものですので」
暖炉の前の椅子で、ロリババアが、毛布の中から顔を出した。
「ハスト」
「なんだ」
「アーク君が向こうで、猫のまま帰らぬと駄々をこねたら。……首根っこを掴んで、連れて帰ってこい」
ロリババアは、それだけ言うと、また毛布の中に潜り込んだ。
◇
北の離宮へは、湖を渡らなければ行けなかった。
まだ湖は、凍っていなかった。舟を出せば、向こう岸の千五百の焚き火に、丸見えになる。
けれど、陛下はもうひとつの道を知っていた。
「湖の西の岸の、岩壁のずっと上のほうに。……人の足では通れないほど細い岩棚が、続いている」
陛下は、砦の城壁の上から、湖の西の切り立った岩壁を指差した。
月のない夜だった。岩壁は、真っ黒な影の塊にしか見えなかった。
「二十二年前、私はそこを走った。猫になって。……人間の足では無理でも、猫の足なら通れる」
陛下は、城壁の上で外套を脱いだ。
麦わら帽子を脱いだ。
それから、俺とフィアットとセルカを、順番に見た。
「――見せるのは、二十二年ぶりだ」
陛下の輪郭がぶれた。
幻の継ぎ目が揺らぐのとは、違った。身体そのものがほどけて、縮んでいくような。骨が、肉が、静かに形を変えていくような。
城壁の上の石の床に、陛下の外套だけが、ぱさりと落ちた。
外套の下から、黒い猫が一匹這い出してきた。
小さな、痩せた黒猫だった。毛並みは、夜の闇に溶けるほどに黒かった。目だけが、金色に光っていた。
黒猫は、城壁の上でぶるりと身体を震わせた。それから、金色の目で俺を見上げた。
二十二年前、ゼノンとルチアが、手を叩いて喜んだ猫。
二十二年前、ルチアの亡骸の前で、兄の姿に化けて、弟に化け物と呼ばれた猫。
フィアットが、息を呑んだ。
セルカが、しゃがみ込んで、黒猫の顔をじっと覗き込んだ。
「……陛下。……ちいさい」
黒猫は、セルカの鼻先にふん、と鼻息を吹きかけた。
セルカは、手袋をはめた指先で、黒猫の頭をそっと撫でようとした。黒猫は、ひょいと首をすくめてそれを避けた。それから、金色の目でじろりとセルカを睨んだ。
一国の王は、どうやら、撫でられるのが嫌いらしい。
……それでも、セルカの手を避けたあと、黒猫はほんの少しだけ、セルカの膝のそばに身を寄せていた。北風が冷たかったのか。それとも、二十二年ぶりの小さな身体を、どう扱えばいいのかわからなかったのか。
◇
岩棚は、本当に細かった。
人ひとりの足の幅もなかった。岩壁から、ほんの少しだけ突き出した、でこぼこの棚。その下は闇だった。何十丈下に、湖の黒い水面があるはずだったけれど、何も見えなかった。北風が、岩壁に沿って、ごうごうと吹き上げてきた。
黒猫は、その岩棚を、何の迷いもなく駆けていった。
俺は碧を使わなかった。
使えば、向こう岸のでっけぇ眼に見られる。……代わりに、足の裏に薄く風の術式を張った。岩の凹凸に、靴底が吸いつくように。身体強化を、膝と足首に通した。ギルドにいた頃、崖の上の魔物の巣を潰しに行くたびに、何百回も使った、地味な術だ。
フィアットは、俺のすぐ後ろを歩いていた。
その身体が、ほとんど見えなかった。
映しだった。
フィアットは、自分の身体の表面に、薄く薄く映しを張っていた。自分の背中の向こうにある、岩壁の黒い岩肌を。自分の足の下にある、岩棚のでこぼこを。……今、そこにある、本物の景色をそのまま写して。
嘘は、ひとつも混じっていなかった。
だから、真眼にも嘘とは映らない。……はずだった。
けれど、映しは楽な術じゃなかった。
北風が、岩壁に沿って、雪の粉を吹き上げるたびに。本物の景色が、一瞬ごとに変わっていく。舞い上がる雪の粉。揺れる枯れ草。岩肌を流れていく、細い霧。……そのすべてを、本物と寸分違わず、同じ瞬間に、写し続けなければならない。ほんの一瞬でも遅れたら、それは、もう今の写しじゃない。過去の写しだ。過去は今じゃない。今じゃないものは、嘘になる。
陛下の言葉を、フィアットは、四日間の馬車の中で、何百回も繰り返していた。
すぐ後ろで、フィアットの息が、少しずつ浅く、速くなっていくのが、わかった。
「……休むか」
「いいえ。……大丈夫です。まだいけます」
フィアットは、映しを張ったまま言った。見えない顔の声だけが、俺の背中に届いた。
「……ハスト様。足元、凍ってます」
「セルカだ」
一番後ろを歩くセルカが、岩棚の足を置く場所にだけ、ほんの薄く、霜を張っていた。霜は、靴底にざらりと引っかかって、滑り止めになっていた。
「……浅く、だよ」
後ろから、セルカが小さな声で言った。
「……ハストさまに、言われたから。……ちゃんと浅く」
「ああ。それでいい」
ミリエルの縫った手袋をはめた手で、セルカは、岩壁に、そっと手を添えていた。
◇
岩棚を渡りきったのは、夜明けの少し前だった。
岩壁が途切れて、急な斜面になった。斜面には、もう雪が積もっていた。膝まで埋まるほどの、柔らかい雪。その雪の斜面を、黒猫は跳ねるように駆け下りていった。
斜面の下に、谷があった。
深い、針葉樹の森に囲まれた小さな谷。
森の木々の黒い梢の間から、灰色の石の屋根が見えた。
北の離宮だった。
俺たちは、谷を見下ろす、尾根の上の岩の陰に身を伏せた。
離宮は小さな館だった。王家の離宮というより、山の中の少し大きな屋敷といったほうが、近かった。灰色の石の壁。東の翼の屋根が半分、崩れ落ちていた。窓の硝子は、ほとんど割れていた。壁を、枯れた蔦がびっしりと覆っていた。
二十二年。
誰も、住んでいないように見えた。
割れた窓の奥に、闇が溜まっていた。二十二年ぶんの冬が、そのまま閉じ込められているような闇だった。
南側の、一階の角の部屋の窓だけが、ほかの窓よりも、少しだけ低い位置にあった。窓の外に、小さな石の台が据えつけてあった。猫が、ひと跳びで、窓枠まで上がれるくらいの高さの台。
……あそこから、入っていったのか。
光の蝶を飛ばして。離宮の庭に、雪を降らせて。ゼノンとルチアが、手を叩いて喜んで。
岩の陰で、黒猫は、その窓をじっと見つめていた。金色の目が、朝の来る前の薄闇の中で、揺れていた。
けれど。
館の南側の庭だけが。
雪が掃かれていた。
庭の真ん中の、葉を落とした楡の木の下に、小さな石の墓が二つ並んでいた。墓の周りだけ、雪が丁寧に取り除かれていた。墓石の前には、白く小さな花が手向けられていた。
雪の中で咲く、雪割草だった。
岩の陰で、黒猫が動かなくなった。
金色の目が、二つの墓を見つめていた。
◇
夜が明けた。
谷の東の尾根から、白い朝日が差し込んできた。雪に覆われた谷が、ゆっくりと、淡い金色に染まっていった。
館の勝手口の扉が、きい、と開いた。
ひとりの老婆が、出てきた。
小柄な、ふっくらとした老婆だった。白い髪を、後ろで小さくまとめている。毛糸の肩掛け。古びた厚手の前掛け。片手に、竹の箒を持っていた。
老婆は、勝手口の石段をよいしょ、とゆっくり降りてきた。
それから、庭の墓の前まで歩いていって、墓石の周りに夜のうちに積もった薄い雪を、箒でさっ、さっ、と掃き始めた。
鼻歌が聞こえた。
ここまで、はっきりと聞こえるはずのない、距離だった。それでも、北風に乗って、かすかにその旋律が届いてきた。
子守唄だった。
岩の陰で、黒猫の身体が震え始めた。
小さな身体が、雪の上でがたがたと震えていた。金色の目が、見開かれていた。
俺は、黒猫の背中にそっと手を置いた。
骨ばった、小さな背中だった。
「……マルタ、なのか」
小声で訊くと、黒猫は答えなかった。
答えられなかったのだろう。
ただ、震えていた。
◇
「……セルカ」
俺は、隣で身を伏せているセルカに囁いた。
「あの婆さんの、におい。わかるか」
セルカは、小さく鼻を動かした。
何度も、何度も。
それから、首をふるふると横に振った。
「……とおい。……それに、風が。……こっちから、あっちに吹いてる」
セルカは、悔しそうに唇を噛んだ。
「……わかんない」
フィアットが、映しを張ったまま岩の陰から谷を見下ろしていた。
「……ハスト様。あのおばあさん、すごく優しそうな顔してます」
フィアットの声が、少しだけ揺れていた。
「お墓を、毎朝ああやって掃いてるんでしょうか。……二十二年間、ずっと」
俺は、何も言わなかった。
言えなかった。
二十二年、墓を掃き続ける。それが本物の乳母の哀しみなら、これほど切ないものはない。……もし、そうでないなら。これほど恐ろしいものも、なかった。
老婆は、墓石の周りの雪を、きれいに掃き終えると、箒を楡の木に立てかけた。
それから、前掛けの大きなポケットに、手を入れた。
取り出したのは、小さな紙の包みだった。
老婆は包みを開いた。中から、何かきつね色の丸いものを取り出した。
焼き菓子だった。
蜂蜜の匂いが、風に乗ってかすかに届いた。
老婆は、焼き菓子を両手で半分に割った。
半分を、自分の口に運んだ。
もう半分を、館の南側の割れた窓の窓辺に。
そっと置いた。
黒猫が、雪の上で動かなくなった。
震えすら止まっていた。
「――今日あたり、来るかと思ってね」
老婆の声が聞こえた。
独り言だった。誰に向けたわけでもない、穏やかで優しい、しわがれた声。
「あの子は、昔から猫が好きだったからねぇ。……猫ちゃんの分も、ちゃんと取っておかないとねぇ」
老婆は、窓辺の焼き菓子を、指先で、ほんの少しだけまっすぐに置き直した。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
谷を見下ろす尾根の上。
俺たちが身を伏せている、岩の陰を。
まっすぐに見た。
ここまで、遠いはずだった。顔なんか、見えるはずのない距離だった。
それでも、老婆が、にっこりと笑ったのがわかった。
優しい優しい、皺だらけの笑顔だった。
孫の顔を見た、祖母のような。
俺の背筋を、冷たいものが、ゆっくりと這い上がっていった。
朝日の中で、老婆の左目が、ほんの一瞬だけ銀色に光った気がした。
光った気が、しただけかもしれない。
わからなかった。
黒猫が、雪の上で小さく小さく鳴いた。
二十二年ぶりに聞く、猫の声だった。
老婆は、もうこちらを見ていなかった。箒を手に取って、勝手口の石段をよいしょ、と上っていった。扉が、きいと鳴って閉じた。
庭には、二つの墓と、雪割草と、窓辺の半分の焼き菓子だけが残された。
「……戻るぞ」
俺は、黒猫の首根っこをそっと掴んだ。
黒猫は抵抗しなかった。俺の手の中で、だらりと身体の力を抜いていた。
金色の目だけが、最後まで、窓辺の焼き菓子を見ていた。
日が昇りきる前だった。




