95 銀の眼の騎士と、狙わない矢
「――あの若者は、眼だ」
砦に着いた翌朝、エトワールは、大広間の長卓でそう言った。
「ラークが言ったね。銀の糸の向こうで、でっけぇ眼がこいつの身体を見て動かしている、と。……なら、逆もありうる。あの若者の目を通して、向こうの眼は、この砦の中を見ているかもしれない」
長卓の周りの全員が、顔を見合わせた。
「では、すぐに別の場所へ移して――」
アイシャ会長が言いかけると、エトワールは、首を横に振った。
「いいや。あのままにしておこう」
エトワールは、眼鏡を指先で押し上げた。
「見たいものを、見せてやればいい」
◇
その日のうちに、砦の地下の牢のすぐ隣の物置が、鍛冶場に変わった。
ラークが持ち込んだ鉄の塊が運び込まれ、炉が組まれ、ふいごが据えつけられた。炉には、毎晩遅くまで火が入った。槌の音が、地下の石の壁にかん、かん、と響き続けた。
鉄格子の向こうで、あの若者は、膝を抱えて床の一点を見つめていた。
見つめている先は、隣の物置の開け放たれた扉の、向こう側だった。
――本物の鍛冶場は、別の場所にあった。
砦の裏手の崖にへばりつくように建つ、小さな、古い礼拝堂。何十年も前に、使われなくなった場所。その床下に、ラークは二つ目の炉を組んだ。
塔から下ろした、古い青銅の鐘は、そっちに運び込まれていた。
地下の物置で、毎晩槌を振るっていたのは、ラークではなかった。バルトロの部下の、盆栽の水やりが一番上手いという兵士だった。ラークに、槌の振り方だけを半日叩き込まれて。
「――向こうの眼が、本当にこちらを見ているなら」
エトワールは、礼拝堂の床下に降りる梯子の前で、言った。
「鐘を作らせまいとして、必ず誰かを寄越す。……地下の偽の鍛冶場へ」
◇
それは、砦に着いて七日目の夜だった。
月のない夜だった。北の空は、厚い雲に覆われて、星ひとつ見えなかった。湖の水面は、真っ黒だった。その向こう岸の千五百の焚き火だけが、ぼんやりと橙色に滲んでいた。
俺は、礼拝堂の床下でラークの炉の番をしていた。
ラークは、炉の前に、どっかりと胡坐をかいて、溶けた青銅の色をじっと睨んでいた。七日間、ほとんど寝ていなかった。目の下の隈が、炉の火に照らされて黒々と浮かび上がっていた。
炉の脇の小さな台の上に、あの石のかけらが、置かれていた。
髪の毛一本ぶんの薄さの、乳白色の小さな欠片。
「……親父」
ラークが、炉を睨んだまま言った。
「あと、三日ッス。三日あれば、鐘の形に流し込める」
「わかった」
「……あの若者。名前、聞けなかったッス」
ラークの声が、低くなった。
「鐘が鳴ったら、真っ先に名前聞いてやるんス。……かあさん、って言ってた。あいつにも、待ってる母ちゃんがいるんスよ」
炉の中で、青銅がごぼりと泡を立てた。
床下の隅で、セルカが膝を抱えて座っていた。
淡い水色の目が、礼拝堂の床板の隙間から差し込む、かすかな夜気のほうを、じっと見ていた。小さく鼻が動いた。
「……ハストさま」
「どうした」
「……雪の、においがする。……まだ降ってないのに」
その、直後だった。
砦の地下のほうから、鋭い、金属の打ち合う音が響いてきた。
◇
あとで、アイシャ会長から聞いた話だ。
地下の偽の鍛冶場に、影が十降りてきたという。
砦の城壁を、どうやって越えたのかは、わからなかった。見張りの兵の誰も、気づかなかった。気がついたときには、物置の扉の前に、銀色の甲冑の騎士が十人、音もなく並んで立っていた。
全員の兜の面頬の隙間から、銀色の光が、漏れていた。
銀の眼の騎士。
物置の中で槌を振るっていた兵士が、悲鳴を上げて、炉の陰に転がり込んだ。
騎士たちが、物置に踏み込んだ。
踏み込んだ先に待っていたのは、三人だった。
「――ようこそ。月のない夜に、銀の眼の騎士たち」
リュシアンが、炉の火の向こうで、槍をくるりと回した。
その隣に、シュベルト。木剣ではなく本物の剣を、鞘から抜かずに、だらりと下げていた。
そして、物置の一番奥の暗がりに、バルトロが腕を組んで立っていた。
◇
最初に動いたのは、リュシアンだった。
槍の穂先が、炉の火を映して閃いた。一番手前の騎士の、喉元へ。速かった。並の騎士なら、穂先が動いたことにすら、気づけない速さだった。
騎士は、穂先が届くほんの一瞬前に、首を指一本ぶんだけ傾けた。
穂先が、兜の横をかすめて空を突いた。
リュシアンは、すぐに槍を引いた。引きざまに、石突きで騎士の膝を払う。騎士は、膝を払われる前に片足を半歩、引いていた。石突きが空を薙いだ。
三度目の突き。四度目の払い。五度目の穂先を返しての、斬り上げ。
全部、届く前に躱された。
リュシアンの槍が、動き出す前に。リュシアンの肩が、ほんのわずかに沈んだだけで。騎士たちの銀の眼は、もう穂先が向かう先を、見ていた。
「……やはり、か」
リュシアンが、珍しく詩を吟じずに舌打ちした。
シュベルトの剣も、同じだった。鞘のまま振るった剣が、騎士の甲冑の継ぎ目を狙うたびに、騎士は、狙われる前に、継ぎ目をずらしていた。
「……困ったね。こっちが何を考えてるか、全部筒抜けだ」
シュベルトが、困ったように笑った。
「剣を振ろうと思った瞬間に、もう向こうは、躱し始めてる」
騎士たちは、反撃しなかった。
ただ、躱しながら、物置の奥の炉のほうへ、少しずつ、少しずつ進んでいった。偽の鍛冶場の炉と金床と、溶けかけの鉄の塊へ。
壊すために来たのだ。
◇
物置の奥の暗がりで、バルトロが、組んでいた腕をほどいた。
「ふむ」
一歩、前に出た。
騎士のひとりが、バルトロのほうを向いた。銀の眼が、バルトロの拳を見た。
バルトロが、拳を引いた。
騎士は、拳が放たれる前に横に跳んでいた。
その騎士の跳んだ先の、空気が。
殴られた。
四歩先の空気を、ただの拳で殴る。魔術ではない。権能でもない。三十年、ただひたすらに、拳を振り続けてきた男の、ただの拳圧。
騎士は拳を躱した。けれど、拳が押し出した空気の塊までは、躱せなかった。銀色の甲冑ごと、物置の石の壁に叩きつけられた。
石の壁に罅が走った。
「ふむ。……読めても、避けきれぬものは、ある」
バルトロは静かに言って、もう一度拳を引いた。
騎士たちが、一斉にバルトロから距離を取った。
それでも、残りの九人はまだ立っていた。そして、九人とも、炉への距離を少しずつ詰めていた。
◇
――そのとき、物置の天井の煙抜きの穴の、ずっと上から。
高らかな、笑い声が降ってきた。
「おーほっほっほ! 皆々さま、ごきげんよう!」
砦の、一番高い見張りの塔の上。鐘を下ろして、空っぽになった鐘楼に、エレナが扇子を片手に立っていた。
あとで聞いた話だと、エトワールは、エレナにこう頼んだらしい。
――塔の上から、物置の煙抜きの穴に向かって、好きなだけ射ってくれ。狙わずに。
エレナは、扇子をぱちんと閉じた。
弓を引いた。
つがえた矢はなかった。指先から光の矢が、何十本も生まれた。
エレナは、それを夜空へ放った。
狙っていなかった。どこにも。煙抜きの穴の方角へ、ただなんとなく。
何十本もの光の矢が、月のない夜空に、弧を描いて昇っていった。
昇りきって、止まって。
雨のように降ってきた。
物置の天井の煙抜きの穴を、くぐって。
銀の眼の騎士たちが、天井を見上げた。
銀の眼が、降ってくる光の矢を見た。
――見て、それから動かなかった。
躱さなかった。躱せなかった。
あとでエトワールは、こう言った。
「真眼は、嘘を見る。意図を見る。……剣を振ろうとする意志を、槍を突こうとする意志を、その意志が生まれた瞬間に、見る。だから、意志の向かう先を先回りして躱せる」
エトワールは、眼鏡を押し上げた。
「では、意志がどこにも向かっていない矢は?」
光の矢は、一本残らず、何かの真ん中に突き刺さった。
九人の騎士の兜の、面頬の隙間の、銀色の光のちょうど真ん中に。
◇
銀の光が砕けた。
九人の騎士が、同時に膝をついた。兜の面頬の隙間から、銀色の粉が、さらさらとこぼれ落ちていった。
物置の床に、銀色の粉がうっすらと積もった。
リュシアンが、槍の穂先で、一番手前の騎士の兜をそっと持ち上げた。
兜の下から、ひとりの男の顔が現れた。
四十を過ぎた、髭面の男だった。
その両目の黒い瞳の真ん中に、小さな小さな銀色の欠片が刺さっていた。砕けた欠片の残りの、ひとかけら。そこから、銀色の涙のように粉が頬を伝って流れ落ちていた。
男の目が、ゆっくりと瞬いた。
焦点が合った。目の前のリュシアンの顔を、見た。
「……ここ、は」
男の声はかすれていた。
「……峠の、砦か。……俺は、何を」
◇
その頃、俺は礼拝堂の床下にいた。
物置の騒ぎの音を聞きながら、炉の前で、身構えていた。
――エトワールの読みは、ひとつだけ外れていた。
十人ではなかった。
礼拝堂の床板の隙間から、銀色の光がひと筋差し込んだ。
床板が、音もなく持ち上げられた。
十一人目の騎士が、梯子も使わずに、床下へ降り立った。
銀の眼が炉を見た。炉の脇の台の上の石のかけらを、見た。
騎士の手が、剣の柄にかかった。
俺の右手が、膝の上で動きかけた。
碧を使えば。
けれど、あの銀の眼は、向こう岸のでっけぇ眼に繋がっている。碧を使えば、それも見られる。……ここに、九人目がいると。鐘がここにあると。
一瞬の迷い。
使うか、使わないか。……そんなことで迷う自分に、腹が立った。四年前の俺なら、迷わなかった。迷わずに、目の前のものを全部焼いていた。
その一瞬の、俺のほんの少しだけ後ろで。
「……ハストさま」
セルカの声がした。
静かな声だった。
「……汲んで、いい?」
俺は、騎士から目を離さずに言った。
「――浅くだ」
「……うん」
床下の空気が凍った。
騎士の足元から、白い霜が、音もなく這い上がった。銀色の甲冑の脚甲が、膝が、腰が、みるみるうちに白く覆われていった。騎士の剣を抜きかけた手が、柄にかかったまま、凍りついた。
騎士の銀の眼が、セルカを見た。
見て、意図を読もうとした。
けれど、セルカの中には何の意図もなかった。
ハストさまの邪魔をするものを、止める。それは、意図というよりも、息をすることと同じだった。
騎士は、首まで霜に覆われて、炉の前で白い彫像のように固まった。
兜の面頬の隙間の銀の光だけが、まだかすかに明滅していた。
ラークが、炉の前からのっそりと立ち上がった。
火傷の痕だらけの分厚い指先に、細い、錬成の光を灯した。
騎士の兜の面頬の隙間に、その指先を、そっと差し入れた。
「……眼、借りるッスよ」
かちり、と小さな音がした。
銀の光が消えた。
◇
床下の隅で、セルカが膝を抱えたまま俺を見上げていた。
「……浅く、した」
「ああ」
俺は、セルカの前にしゃがみ込んだ。
セルカの右手を、取った。
冷たかった。
いつもより、ほんの少しだけ冷たかったような気がした。気のせいかもしれなかった。わからなかった。
わからないことが、ひどく怖かった。セルカの指先の冷たさを、俺はもう何度も確かめている。確かめるたびに、昨日の冷たさと比べてしまう。
ミリエルの縫った、聖布の手袋を、その手にはめてやった。
「……ちゃんと言えたな」
セルカは、手袋をはめた自分の手を、ぼんやりと見下ろしていた。
それから、小さく頷いた。
「……ハストさまが、だめって、言わなかった、から」
◇
夜明け前。
砦の大広間で、物置で倒れた九人の騎士のうち、一番年かさのあの髭面の男が、毛布にくるまって震えながら、温かい山羊の乳をすすっていた。
両目の瞳に、まだ小さな、銀色の傷が残っていた。
「……殿下の眼は、もうほとんど見えておられぬ」
男は椀を両手で包んだまま、ぽつりと言った。
大広間の全員が、男を見た。
陛下が、長卓の端でゆっくりと顔を上げた。
「……なんだって?」
「二年ほど前から、だ。……少しずつ、少しずつ、殿下の銀の眼が曇っていかれた。今では、昼の光の中でも人の顔がぼんやりとしかわからぬと。……代わりに、我らの眼に銀の光が宿るようになった」
男は、自分の目元に、震える指先を当てた。
「殿下は、我らに、眼を分けてくださったのだと思っていた。……ご自分の眼を、削ってまで」
「……誰が、削ったのだね」
陛下の声が低かった。
男は首を横に振った。
「わからぬ。……ただ」
男は、椀の中の山羊の乳を見つめた。
「毎晩、殿下の寝所へ、薬湯を運んでいかれる方がおられる。殿下がただ一人、おそば近くに置かれる方だ。目に良い薬湯だと。……殿下は、その方の淹れた薬湯しか口になさらぬ」
「……誰なのだ」
男は少しだけ黙った。
それから、言った。
「乳母殿だ。……殿下を、幼い頃からお育てになった」
大広間が、しんと静まり返った。
陛下の手から、椀が滑り落ちた。
床に落ちて、乾いた音を立てて転がった。
陛下は、それを拾わなかった。
拾えなかったのだと思う。床に転がった椀を見下ろす陛下の顔からは、血の気がすっかり引いていた。
「……乳母」
陛下の声が、かすれていた。
「……マルタ、なのか」




