↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
94/142

94 峠の砦と、胸の石

峠の砦は、思っていたよりもずっと静かだった。


城壁の上を、王国軍の兵士たちが、白い息を吐きながら、黙々と行き来していた。槍の穂先には、霜がこびりついていた。見張りの塔の上で、篝火が北風に煽られて、横倒しに燃えていた。


城壁の上には、本当に盆栽の鉢が、ずらりと並んでいた。


松。楓。小さな梅。どれも、手のひらに乗るくらいの大きさで、どれも、丁寧に針金で枝を整えてあった。冬の北風に吹きさらされて、それでも、一本も枯れていなかった。


「……バルトロの爺さんのだよ」


城壁の階段を上がったところで、リュシアンが、肩をすくめた。


「北に来てから、三か月で四十二鉢。兵たちの間では、盆栽を一鉢倒すと、明日の朝の稽古で、爺さんに投げ飛ばされるって噂になってる。……実際、ひとり投げ飛ばされた」

「本当にか」

「本当だとも。その兵は、今では砦で一番、盆栽の水やりが上手い」


城壁の上の見張りの塔の陰に、見慣れた二人が、立っていた。


「――やあ、ハスト君。思ったより、早かったね」


シュベルトだった。旅の外套の上に、分厚い毛皮の肩掛けを羽織って、両手に、湯気の立つ木の椀を持っていた。その隣で、レイラが、魔術師協会の外套の襟を、首元まできっちりと閉じていた。長い髪をひとつに束ねた頭の上に、うっすらと、霜が乗っていた。


「僕たちは、三日前に着いたんだ。レイラが、どうしても、湖の水を先に調べておきたいって言うから」

「調べたのか」

「はい」


レイラが、静かに頷いた。


「湖の底に、古い陣の跡がありました。……とても古いものです。二百年か、それより前。山の民が、湖の氷が割れないように祈った跡だと思います。初雪の夜だけ、氷が厚く張るのは、そのせいかもしれません」


レイラは、白い息を吐いた。


「陣は、まだ生きています。……誰かが最近、手を入れた跡もありました」


シュベルトが、木の椀のひとつを、俺に差し出した。


「はい、山羊の乳の温めたやつ。……北の冬は、腹の中から温めないと、剣が鈍るからね」


椀は温かかった。


一口すすると、少しだけ獣の匂いがした。それから、腹の底に、じんわりと熱が落ちていった。


後ろで、セルカが、シュベルトから受け取った椀を両手で包んで、ふうふうと冷ましていた。冷ます必要なんか、ないくらいの温かさだった。それでも、指先が冷たいから熱いものが、少しだけ怖いらしい。


リュシアンは、城壁の上から谷の奥を指差した。


「見たまえ。あれが、白い橋になる湖だ」


◇


湖は、峠の一番高いところにあった。


左右から、切り立った岩壁が迫っていて、その間の細長い窪みに、黒い水が溜まっていた。端から端まで、歩いて半刻ほど。幅は、矢が三本届くかどうか。


湖のこちら側の岸に、この砦。


湖の向こう側の岸に、黒く小さな点が、いくつもいくつも並んでいた。


天幕だった。


数えきれないほどの、黒い天幕。その間から、細い煙が何本も灰色の空へ昇っていた。


「三千だ」


いつの間にか、隣にエトワールが立っていた。眼鏡のレンズが、北風で白く曇っていた。


「バルトロ殿の物見が、毎晩数えている。……増えもしない。減りもしない。夜になると、焚き火の数がきっちり千五百。二人でひとつの焚き火を囲む、軍の決まりどおりだ」


エトワールは、眼鏡を外して、外套の裾でレンズを拭いた。


「ただ、ひとつだけ、決まりどおりじゃないことがある」

「何だ」

「焚き火の周りで、誰も喋っていない」


エトワールは、眼鏡を掛け直した。


「三千の兵が、毎晩焚き火を囲んで、ひと言も喋らない。笑わない。歌わない。……酒も、飲まない」


北風が、城壁の上をごうと吹き抜けていった。


城壁の上の盆栽の松の枝が、小さく揺れた。


◇


砦の地下に牢があった。


石を積んだ、天井の低い湿った部屋。壁の燭台の灯りが、ゆらゆらと揺れていた。


その一番奥の牢に、ひとりの男が、鎖で繋がれていた。


若い男だった。二十歳になるかならないか。粗末な革鎧。顔は、日に焼けて痩せこけていた。壁に背中を預けて、膝を抱えて、床の一点をじっと見つめていた。


目は開いていた。


開いているのに、何も見ていなかった。


人形の目だ、と思った。ガラス玉のように澄んでいるのに、その奥には誰も住んでいない。見ているこちらのほうが、背中を冷たい指でなぞられているような心地になった。


「ふむ。一週間前、湖の岸で物見の兵が捕まえた」


バルトロが、牢の鉄格子の前で言った。


「ひとりでこちらの岸まで、歩いてきた。……斥候かと思うた。だが、違った。何も持っておらなんだ。剣も、槍も。ただ、歩いてきて岸辺で止まった。そこから、一歩も動かなんだ」

「喋らないのか」

「ふむ。一言も」


バルトロは、鉄格子の前にしゃがみ込んだ。岩のような手を、格子の隙間から、そっと差し入れた。


男は反応しなかった。


「飯を、食わせようとした。食わぬ。水も飲まぬ。眠りもせぬ。……それでいて、少しも弱らぬ」


バルトロの声は、低く静かだった。


「斬っても、斬っても立ち上がる兵というのは、こういうものだ」


◇


ラークが、鉄格子の扉を開けて、牢の中に入っていった。


大きな背中を丸めて、男の前にしゃがみ込んだ。男は、ラークのことも見なかった。


ラークは、男の革鎧の胸元の紐を、太い指でひとつずつほどいていった。


革鎧の下の、粗末な麻の肌着。その肌着の胸の真ん中に、小さな膨らみがあった。


ラークが、肌着をそっとめくった。


男の胸の心臓の真上に。


白い石が埋まっていた。


小指の爪くらいの大きさの、乳白色の半透明な石。皮膚を破って、肉の中に半分めり込んでいた。石の周りの皮膚は、傷が塞がったように、ぴたりと石に張りついていた。


そして、その石に、細い細い銀色の糸が、何重にも巻きついていた。


髪の毛よりも細い糸。燭台の灯りを受けて、きらきらと冷たく光っていた。


ラークの大きな手が、止まった。


「……親父」


ラークの声が、かすれていた。


「これ。……ジセリアの、石ッス」


牢の中がしんとした。


「あの白い騎士の兄ちゃんの剣の柄頭に嵌まってたのと、同じ石だ。……間違いねぇ。オレが、工房で毎晩読んだ石だ」


ラークは、火傷の痕だらけの手のひらを、男の胸の石の上に、そっとかざした。


目を閉じた。


長いこと、そのまま動かなかった。


燭台の炎が揺れていた。


やがて、ラークの肩が震え始めた。


「……聞こえるッス」


ラークは、目を閉じたまま言った。


「何百人分の、うめき声。……ジセリアで、聖火に吸われた、何百人分の命の欠片。泣いてる奴。もう泣く力も残ってねぇ奴。……あのときと、同じだ」


ラークの大きな手のひらが、震えていた。


「それと、もうひとつ。……この銀の糸。こいつが、石の中の声を全部、ひとつの方向にねじ曲げてる。……眼だ。どこか遠くにある、でっけぇ眼が、この糸を通して、こいつの身体を見てる。見て、動かしてる」


ラークは目を開けた。


その目が真っ赤だった。


「……ジセリアの石を、誰かが拾い集めて。銀の糸で、打ち直して。……生きてる人間の胸に、埋め込んでやがる」


ラークの拳が、牢の石の床をどん、と叩いた。


床石に罅が走った。


「オレは、絶対に許さねぇ」


ラークは、壊れたものを見ると怒る。鉄でも、人でも。壊れたまま放っておかれるものを、こいつは決して見過ごせない。その怒りが、今は、湖の向こうの三千人ぶん、まるごと燃えていた。


◇


「――ジセリアの騒ぎのあと、聖騎士たちの剣の柄頭から、石はすべて回収されたはずだった」


地上の砦の大広間で、エトワールが言った。


長卓の上に、北の山脈の地図が広げられていた。湖。砦。峠。湖の向こうの谷。そして、さらにその奥の深い森の中に、小さな印がひとつ。


北の離宮。


長卓の周りに、頂天者たちが集まっていた。バルトロ。リュシアン。シュベルト。レイラ。クレハ。ラーク。エレナ。アイシャ会長。それから、陛下。暖炉の前の椅子には、ロリババアが、毛布にくるまって座っていた。


フィアットとセルカは、俺の後ろに立っていた。


「ジセリアの新しい評議会から、回収した石の目録を、取り寄せた。……聖騎士団の剣、三百四十二振り。回収された石、二百十一個」


エトワールは、目録の紙を長卓の上に置いた。


「百三十一個が、行方不明だ」

「……百三十一」


シュベルトが、繰り返した。


「でも、湖の向こうの兵は三千だよね。石が百三十一個じゃ、足りないんじゃないかな」

「割ったのでしょう」


レイラが静かに言った。


「小指の爪くらいの石を、さらに細かく。二十に割れば、二千六百。……ひとつの欠片は、小さくなるけれど、銀の糸で、外から力を流し込めば足りる」

「外から、力を」


エトワールは、地図の上の北の離宮の印を、指先でとんと叩いた。


「銀の糸のもう一方の端は、どこに繋がっているのか。……ラーク。あの糸から、何がわかる」


ラークは、長卓の端で大きな背中を丸めていた。


「……真眼ッス」


ラークは、低い声で言った。


「学園で拾った、雪鳩の尾羽。あの軸に詰まってた銀の粉と、同じもんだ。……あの粉も、この糸も、どっちも真眼の欠片ッス。真眼の力を削って、粉にして糸に撚ってる」


長卓の上の、陛下の拳が白くなった。


「……削って、だと」

「そうとしか、思えねぇッス。……生まれつきの眼の力を削るなんて、オレは、聞いたこともねぇ。でも、これは削られたもんだ。削られた傷の、匂いがする」


大広間が静まり返った。


暖炉の火が、ぱちりとはぜた。


「――ゼノン殿下の真眼が、誰かに削られている」


エトワールが、ゆっくりと言った。


「その欠片で、三千の兵を動かしている。……それを、ゼノン殿下ご自身が承知しているのかどうかは、わからない」


陛下は、何も言わなかった。


ただ、地図の上の北の離宮の印を、じっと見つめていた。


◇


「ふむ。石を、取り出せばどうなる」


バルトロが、腕を組んで言った。


「さっきの若者だ。……胸の石を、抉り出せば元に戻るのか」


ラークは、少しだけ黙った。


それから、首を横に振った。


「抉り出すのは、だめッス。石の周りの肉が、もう石とくっついてる。無理に抉ったら、心臓ごと持ってかれる」

「では」

「でも」


ラークは、長卓の上に身を乗り出した。


「石をほどくことは、できるかもしれねぇ」

「ほどく?」

「石の中には、何百人分の声が閉じ込められてる。その声が、銀の糸で無理やり、ひとつの方向にねじ曲げられてる。……だったら、その声に答えてやればいい」


ラークの目が、燭台の灯りを受けて、ぎらりと光った。


「石と、同じ音で鳴るもんを作るんス。石の声に、答える音。……ちゃんと聞いてるぞ、って。もう泣かなくていいぞ、って。……その音を聞いたら、石の中の声は、きっとほどけて出ていく。出ていったら、石はただの石ころに戻る。銀の糸も、絡みつく先がなくなって切れる」

「その音を、どうやって三千人に聞かせるの」


アイシャ会長が、首を傾げた。


ラークは、大広間の天井を見上げた。


天井のさらに上。砦の、一番高い見張りの塔のてっぺん。


そこに、古く大きな青銅の鐘が吊るされていた。


「――あの鐘を、鋳直すッス」


ラークの声が、大広間に響いた。


「さっきの若者の胸から、石の欠片を、ほんのひとかけらだけ削らせてもらう。命に障らねぇくらいのほんのひとかけら。……それを、鐘の青銅に溶かし込む。石と同じ声で鳴る鐘を、作る」


ラークは、拳を握りしめた。


「湖の端から端まで、この砦の鐘なら届く。三千人の胸の石に、いっぺんに答えてやれる」


大広間の誰もが、しばらく黙っていた。


それから、エトワールが、眼鏡を指先で押し上げた。


「――どれくらい、かかる」

「二週間。……寝ずにやれば、十日」

「初雪の夜まで、あと十六日だ」


エトワールは、地図の上にペンを走らせ始めた。


「寝なくていい。……鐘は、ラークに任せる」


◇


その夜。


砦の地下の牢で、ラークは、あの若者の胸の石から、ほんのひとかけらだけ石を削り取った。


火傷の痕だらけの分厚い指先に、細い細い錬成の光を灯して。髪の毛一本ぶんの薄さで。息を止めて。


削り取った瞬間、若者の身体がびくりと震えた。


それから、若者の目に、ほんの一瞬だけ光が戻った。


焦点が合った。目の前のラークの顔を、見た。


若者の乾いた唇が、動いた。


「……か、あさん」


かすれた声だった。


「……やく、とう。……やさしい、おばあさんが。……のめって。……あったかい、やくとう」


若者の目から、また光が引いていった。


焦点が、ぼやけて、もう一度床の一点を見つめ始めた。


ラークは、削り取った石のかけらを、手のひらに乗せたまま、しばらく動かなかった。


それから、若者の肩に、そっと毛布を掛けてやった。


その手つきが、驚くほど優しかった。槌を振るう太い腕で、割れ物を包むみたいに。


「……待ってろ。必ずほどいてやるからな」


牢の外の鉄格子の前で、俺は、その背中を見ていた。


やさしいおばあさん。


あったかい薬湯。


その言葉が、なぜか、耳の奥に引っかかって離れなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。