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93 北への道

出発の朝は、霜が降りていた。


学園の正門の前の石畳が、うっすらと白く、凍っていた。吐く息も白かった。空は高く晴れていたけれど、北の山並みの上にだけ、灰色の雲が、重たく垂れこめていた。


正門の前には、幌馬車が四台並んでいた。


一台目と二台目には、北の峠の砦へ運ぶ、食糧と薬と、ラークが鍛冶通りの工房から持ち出してきた、得体の知れない鉄の塊。三台目は、エトワールとアイシャ会長と、それから、壁にもたれて煙草を我慢しているクレハ。


四台目が、俺たちの馬車だった。


「……ハスト君っ!」


正門の脇の楡の木の陰から、栗色の三つ編みが、飛び出してきた。


ペトラだった。


両腕に、大きな紙袋を抱えていた。袋の口から、焼きたてのパンの匂いが、湯気と一緒に立ちのぼっていた。


「間に合った……! よかった……!」


ペトラは息を切らせて、俺の前で足を止めた。それから、紙袋をぐいと俺の胸に押しつけた。


「これ、うちの店の、パン。胡桃のと、干し葡萄のと、黒麦の。……北は、寒いから。日持ちするやつ、父さんにいっぱい焼いてもらった」


紙袋は、ずっしりと重かった。


温かかった。


焼きたての熱が、紙越しに胸まで染みてきた。夜明け前から、店の窯の前に立っていたんだろう。粉だらけの手で、三つ編みを振り乱して。


「……ありがとな」

「お礼は、いいの。……私が、勝手に持ってきただけだから」


ペトラは、鼻の頭を赤くしていた。寒さのせいなのか、それとも、別の何かのせいなのかわからなかった。


奈落の衣装箱から助け出されて、まだ半月も経っていない。ペトラは、あのあと三日ほど、熱を出して寝込んでいたらしい。今は、すっかり元気になって、また毎日王都新聞の社会部で、走り回っているそうだ。


「……ねえ、ハスト君」


ペトラは、紙袋から手を離して俺を見上げた。


「学園祭の記事、書いたよ。槍聖様の大胆演出と、碧い小鬼亭の大行列と、茨の塔の話。……一面には、ならなかったけど、社会面の真ん中に載った」

「そうか」

「碧い小鬼のことは、書かなかった」


ペトラは、まっすぐに俺を見ていた。


「塔が止まったとき、何が起きたのか。……あいつが、私の頭の中から、何を書き写していったのか。全部、書けた。書こうと思えば、書けたの」

「…………」

「でも、書かなかった」


ペトラは、少しだけ笑った。


「英雄は名前を残すべきだって、今でも思ってるよ。……でもね、名前を残すかどうかは、英雄が自分で決めることなんだって。槍聖様に、演出論の続きを聞いてたとき、そう言われたの。詩の名前は、最後に書いた本人が決めるものだ、って」


ペトラは、紙袋の上から俺の胸を、指先でとんと叩いた。


「だから、待ってる。……いつか、ハスト君が、書いていいって言ってくれるまで。それまで、私の手帳の一番最後の頁は、白いままにしておく」


俺は、紙袋を抱えたままペトラを見た。


右手の親指は、人差し指から離れていた。


「……気長に待ってろ」

「うん。気長に、待ってる」


ペトラは、にっと笑った。それから、くるりと背中を向けて、正門の前の石畳を小走りに駆けていった。


途中で、一度だけ振り返って、大きく手を振った。


「――ちゃんと帰ってきてね! パンの感想、聞かせてもらうんだから!」


◇


ペトラと入れ違いに、教室の連中が、ぞろぞろと正門に出てきた。


「――料理長! ほんとに行っちまうのかよ!」


ラインハルトが、両腕を振り回しながら、駆け寄ってきた。


俺たち三人は、表向きには、「北の親戚の家へ、冬の手伝いに行く」ことになっていた。フィアットはセルジーネの家の用事で、セルカは俺の付き添い。三人そろって、三週間の休み。エトワールが、そういうふうに、届けを出してくれていた。


「打ち上げ、まだやってないんだぞ! 碧い小鬼亭、売上学年一位の打ち上げ! 料理長抜きで、やれるかよ!」

「……帰ってきたら、何か作ってやる」

「肉な! 絶対、肉な!」


ラインハルトの後ろで、レオンが、腕を組んで立っていた。


じっと俺の顔を、見ていた。


「……北の親戚、ね」

「なんだよ」

「別に」


レオンは、そっぽを向いた。それから、ぼそりと言った。


「北の峠のほうで、何かきな臭いことが起きてるって、うちの親父が言ってた。……親戚の家が、そっちのほうじゃなきゃ、いいけどな」

「…………」

「帰ってこいよ。料理長がいねぇと、ラインハルトがうるせぇ」


レオンは、それだけ言って、教室のほうへさっさと戻っていった。


クルトは、少し離れたところに立っていた。何も言わなかった。ただ、俺と目が合うと、小さく一度だけ頷いた。


それで、十分だった。


見送りなんて柄じゃない連中ばかりだ。それでも、霜の降りた朝に、わざわざ正門まで出てきた。そのことが、思っていたよりもずっと胸に堪えた。


◇


正門の反対側の柱の陰に、レイアーヌが、立っていた。


その隣に、ミリエル。


レイアーヌは、学園の制服の上に、王家の紋の入った、白い外套を羽織っていた。腰には王家の剣。


「……やっぱり、連れていってはもらえないのね」

「陛下の命令だろ」

「ええ。お父様が王都を空けている間、王女は、王都にいなくてはならない。……わかってるわ。わかってるけど」


レイアーヌは、唇をきゅっと噛んだ。


陛下が北へ向かうことを知っているのは、ほんの一握りだった。表向きには、国王は、風邪をこじらせて、寝室で伏せっていることになっている。寝室の前には、近衛騎士が立っていて、侍医以外は誰も通さない。……その寝室に、本当は誰もいないことを知っているのは、エトワールと、侍医と、レイアーヌだけだった。


「ハスト」


レイアーヌは、俺の前に一歩進み出た。


それから、俺の外套の襟をぎゅっと掴んだ。


「お父様を、お願い」


その目が、まっすぐだった。


「あの人は、王様のくせに自分のことになると、すごくすごく不器用なの。……叔父様のことを、ずっとずっとひとりで抱えてきた人なの。私にすら、一度も話してくれなかった」


レイアーヌの指先が、震えていた。


「だから。……お父様が、帰ってきたら、今度こそちゃんと話を聞かせてもらうんだから。……必ず連れて帰ってきて」

「……ああ」


レイアーヌは、俺の襟から手を離した。


それから、ふん、と顔を背けた。目の縁が、少しだけ赤かった。


ミリエルが、その肩にそっと手を置いた。


「ハストさん。……北は、とても寒いと聞きました」


ミリエルは、小さな布の包みを俺に差し出した。


「聖布の端切れで、手袋を縫いました。三人分。……少しだけ温かくなるように、祈りを、縫い込んであります」

「……セルカの分も、か」

「はい。セルカさんの分は、特にたくさん」


ミリエルは、ふわりと笑った。


それから、四台目の馬車の幌の隙間から顔を出していたセルカに向かって、小さく手を振った。


セルカは、少しだけ迷うように目を泳がせた。


それから、幌の隙間から、ほんの少しだけ手を出して、ひらひらと振り返した。


◇


馬車が動き出した。


正門が、遠ざかっていった。手を振るラインハルトの姿が、小さくなって、楡の木の陰に隠れた。


四台目の馬車の中には、俺とフィアットとセルカ。


それから、麦わら帽子を目深にかぶった、行商人の男。


そして、なぜか、ロリババア。


「……なんで、あんたまで来てんだ」

「初雪の匂いを、近くで嗅ぎたくなったのじゃ」


ロリババアは、馬車の座席の一番奥で、毛布にくるまって、ペトラのパンの袋を勝手に開けていた。胡桃のパンを、両手で抱えてかじっていた。


「それに儂がおらねば、誰がお主らの面倒を見る」

「面倒を見てるのは、こっちだろ」

「ふん」


ロリババアは、パンをかじりながら、そっぽを向いた。


麦わら帽子の行商人――陛下が、帽子のつばの下で、愉快そうに笑った。


「いやはや。賑やかで、結構なことだ」


◇


北への道は、四日かかった。


一日目は、王都の周りの収穫の終わった麦畑の中を、ひたすら走った。刈り取られた麦の株が、どこまでも、茶色く続いていた。畑の端で、農夫たちが、冬に備えて藁を束ねていた。こんなにのどかな道の先に、三千の兵が待っているとは、とても思えなかった。


昼に、ペトラのパンをみんなで分けた。胡桃のパンは、ロリババアが、ひとりで三つ食べた。干し葡萄のパンは、セルカが、半分にちぎって、片方を俺の膝の上に黙って置いた。


二日目は、なだらかな丘陵地帯。道の両側に、葉を落とした楢の林が続いていた。


三日目の昼を過ぎた頃から、道の脇の草に、霜が残るようになった。日が高くなっても、溶けなかった。


馬車の中で、フィアットは、ずっと稽古を続けていた。


手のひらの上に、陛下に渡された小さな銀の匙を乗せて、その匙を、じっと見つめていた。


淡い、蒼い光が手のひらからこぼれる。


匙がふたつになる。


本物の匙が、馬車の揺れでかたかたと震えると。映しの匙も、まったく同じように、かたかたと震えた。窓から差し込む光が、本物の匙の窪みに映ると、映しの匙の窪みにも、同じ光が、同じ形で映った。


「――三十八、数えた。昨日より十二、長いな」


陛下が、麦わら帽子の下から言った。


フィアットが、映しの匙をそっと消した。額に、うっすらと汗が浮いていた。


「まだぶれているね。左の縁が、ほんの少しだけ本物より遅れて揺れている。……本物より一瞬でも遅れたら、それはもう、本物の写しではない。過去の写しだ。過去は、今ではない。今ではないものは、嘘なのだよ」

「……はい」

「もう一度」

「はい」


フィアットは、また匙を見つめ始めた。


その隣で、セルカが、フィアットの手のひらをじっと覗き込んでいた。


「……フィアット」

「なに? セルカ」

「……それ、わたしにもできる?」


フィアットは、少しだけ考えて首を傾げた。


「どうだろう。……セルカは、何を映したいの?」


セルカは、少しだけ黙った。


それから、俺のほうをちらりと見た。


「……ハストさま。……ふたりに、なる」

「却下だ」


俺が言うと、セルカは、ほんの少しだけ口を尖らせた。


フィアットが、くすくすと笑った。


◇


三日目の夜は、街道沿いの小さな宿場町の外れで、野営をした。


宿場町には、宿が一軒しかなかった。その一軒には、エトワールとアイシャ会長とロリババアとフィアットとセルカが泊まることになった。残りは、馬車の脇で焚き火を囲んだ。


焚き火の前に、陛下と俺が並んで座っていた。


ラークとクレハは、とっくに馬車の中で、毛布にくるまって、寝息を立てていた。


陛下は、麦わら帽子を膝の上に置いていた。焚き火の炎が、無精髭の伸び始めた顎を、橙色に照らしていた。


「……ハスト」

「なんだ」

「北の離宮にはね、もうひとりいたのだよ」


陛下は、焚き火を見つめたまま言った。


「ゼノンの乳母だ。……ルチアの、母上。マルタという名の、ふくよかでよく笑うご婦人だった」


陛下の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「私が猫になって、離宮の窓から入っていくだろう? そうすると、マルタはいつも蜂蜜の焼き菓子を半分に割って、皿に乗せて、窓辺に置いておいてくれた。……猫に焼き菓子をやる乳母など、聞いたことがないだろう? あの人は、最初からわかっていたのだと思う。猫の正体が、誰なのか」


焚き火が、ぱちりとはぜた。


「あの夜、マルタは離宮にいなかった。……麓の村の自分の母親が倒れたという報せがあって、二日前から、里帰りしていたのだ。だから、助かった」


陛下の声が低くなった。


「だが、そのあと行方知れずになった。……ルチアの葬儀にも、来なかった。私は、何年も人をやって探させた。麓の村にも、北の村々にも。……見つからなかった」


陛下は、焚き火に薪を一本放り込んだ。


「娘を、あんな死に方で亡くしたのだ。……王家の顔など、二度と、見たくなかったのだろうね」


火の粉が、夜空に舞い上がった。


「……生きていれば、もう七十近いはずだ」


陛下は、それきり黙った。


俺も、何も言わなかった。


生きていれば、と陛下は言った。死んでいるかもしれない、とは言わなかった。二十二年、人をやって探させ続けた人の、それが精一杯の言い方なのだと思った。


焚き火の向こうの北の空に、星が、少しずつ少なくなっていった。


雲が出てきていた。


◇


四日目の昼。


道の先に、北の山脈が壁のように立ちはだかっていた。


山の頂は、もう真っ白だった。中腹から下は、まだ黒い岩肌と、葉を落とした木々。その境目に、灰色の雲が、帯のようにたなびいていた。


山の麓の谷の入口に、石造りの砦が見えた。


古い砦だった。灰色の石を積み上げた城壁。四隅に見張りの塔。城壁の上に王国の旗と、それからなぜか、小さな盆栽の鉢が、ずらりと並んでいた。


「……あれが、峠の砦か」

「ふむ」


いつの間にか、馬車の外を歩いていたバルトロが、言った。先に北へ戻って、砦で俺たちを待っていたのだ。


「ようこそ。……ここから先は、もう北の冬だ」


バルトロの吐く息が、白く凍って、風に流れていった。


砦の向こうの谷の奥。


山と山の間の深い窪みに、何か、白く平らなものが、広がっているのが見えた。


湖だった。


まだ凍ってはいなかった。黒い水面が灰色の空を映して、鈍く光っていた。


初雪の夜には、あの湖が凍る。


重い鎧を着た兵でも、渡れるくらいに。


白い橋になる。


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