92 底のない井戸
分館の台所には、いつも何かが煮える匂いがしている。
その日は玉葱と豆と、干し肉の汁だった。竈の上の大鍋が、くつくつと静かな音を立てていた。
「――で。俺に、そのチビの身体を調べろってのか」
アルスは、台所の長卓に頬杖をついて、気だるそうに言った。
くたびれた灰色の外套。伸び放題の髪。教師になっても、四年前と、何ひとつ変わっていない。ハブられ分館の、表の教師。
長卓の向かいには、セルカが、ちょこんと座っていた。
膝の上で両手を重ねて、淡い水色の目で、アルスをじっと見ていた。
そして、セルカの隣にはもうひとり。
「……セルカおねえちゃん、つめたい」
アベルだった。
白い髪の小さな男の子。分館に引き取られてから、もうすぐひと月。最初の頃は、部屋の隅で膝を抱えてばかりいたのに、今では、分館の子どもたちに混じって、庭を走り回るようになっていた。
台所の柱には、ナイフで刻んだ、小さな横線が三本あった。一番下の線の横に、アルスの汚い字で「アベル 一週目」。その少し上に「二週目」。さらに、その少し上に「三週目」。線と線の間は、指の幅の半分ほどしかなかった。
けれど、たしかに伸びていた。
聖火の夜まで、何年も、何年も同じ背丈のまま止まっていた身体が。一週間ごとに、指の幅の半分ずつ。
アルスは、毎週、日曜の朝にアベルを柱の前に立たせて、頭のてっぺんに手のひらを当てて、ナイフで線を刻んでいるらしい。そのたびにアベルは、自分の線を見上げて、「のびた」と、小さな声で言うのだそうだ。
アベルは、セルカの手の甲に、自分の小さな手をぺたりと乗せていた。
「……アベル。離れて」
「やだ」
「……つめたいよ」
「つめたいの、すき」
アベルは、セルカの手に頬までくっつけた。
セルカは、困ったように俺のほうを見た。
俺は肩をすくめた。
◇
「――ラークの話じゃ、こいつの氷には、底がねぇらしい」
俺は、長卓の端に腰を下ろして言った。
「魔力の筋の始まりが、見えない。井戸みたいに、どこまでも続いてるって。……聖火の夜から、セルカが魔術を使って疲れたところを、一度も見てない。あれだけでかい時の魔術を使ったのにな」
「…………」
「北へ行く前に、知っておきたいんだ。こいつが、何を払ってるのか」
アルスは、頬杖をついたまま、しばらくセルカを見ていた。
それから、面倒くさそうに舌打ちをした。
「……チッ。わーったよ」
アルスの右手が、ゆっくりと持ち上がった。
顎に当てられた。
探しているのだ。セルカの身体の中で、何が起きているのか。その答えを。
アルスの目が、すっと細くなった。焦点がセルカを通り越して、どこか、遠いところに合っていた。全知の書。本の形をしていない、アルス自身の頭の中に、勝手に流れ込んでくる、知識の奔流。
台所が静かになった。
大鍋のくつくつという音だけが、続いていた。
アベルが、セルカの手に頬をくっつけたまま、アルスの顔を、不思議そうに見上げていた。
顎に当てた手が、止まった。
見つけたのだ。
「……なるほどな」
アルスは、顎から手を離した。
その右手が、指鉄砲の形を作った。人差し指の先が、セルカの膝の上の手に、向けられた。
「チビ。ちょっと指、貸せ」
セルカは俺を見た。
俺が頷くと、セルカは、右手の人差し指をそっと長卓の上に差し出した。
アルスの中指が、引き金を引くように、くいと曲がった。
アルスの腕から、紅い煙がふわりと立ちのぼった。指先から細い、紅い糸のような光が、すうっと伸びて、セルカの人差し指の先に触れた。
触れた瞬間。
紅い糸が止まった。
セルカの指先に触れたところで、ぴたりと。糸の先端が、まるで凍りついたように、空中で動かなくなった。紅い煙が、揺れるのをやめた。煙の粒のひとつひとつが、宙に、縫い止められたように静止していた。
台所の大鍋の湯気だけが、ゆらゆらと揺れ続けていた。
アルスが、指鉄砲を解いた。
紅い糸が、ふっとほどけて消えた。
「――やっぱりな」
アルスは、長卓に背中を預けた。
◇
「時の魔術ってのは、ほんとは、割に合わねぇ術なんだよ」
アルスは、天井を見上げながら言った。
「時間を止めるには、止めた時間の分だけ魔力を食う。でかい時間を止めりゃ、でかい魔力を食う。だから、普通の魔術師は、ほんの一瞬、手のひら一枚ぶんの時間を止めるのが精一杯だ。……ババアが代償が要る、って言ってたのは、そういうことだ」
「でも、セルカは」
「ああ。こいつは、ひっくり返しちまった」
アルスは、セルカのほうを顎でしゃくった。
「止まった時間の中じゃあ、何も起きねぇ。何も変わらねぇ。……ってことは、止まった時間の中で使った魔力も、使われなかったことになる」
台所がしんとした。
「止めた時間の中で、魔力を汲む。汲んだ魔力は、止まった時間の中にあるから減らねぇ。減らねぇ魔力で、また時間を止める。……井戸の底に、井戸を掘ってるようなもんだ。どこまで汲んでも、底がねぇ」
アルスは、ふん、と鼻を鳴らした。
「魔術の理屈の、矛盾だ。……その矛盾を、本人は何にも考えずに踏み抜いちまった」
セルカは、膝の上で両手を重ねたまま、きょとんとしていた。
「……わかんない」
「だろうな。わかってたら、こんなことにはなってねぇ」
「アルス」
俺は、長卓の上で拳を握った。
「それで。……こいつは、何を払ってる」
アルスは、すぐには答えなかった。
天井を見上げたまま、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりとセルカの指先に、目を落とした。
「指だ」
「……指?」
「チビ。お前、指先がいつも冷てぇだろ」
セルカは、こくりと頷いた。
「……むかしから。……氷の魔術、使うから」
「昔から冷えてたのは、そうだろうよ。氷使いの指先は、たいてい冷えてる。……けどな」
アルスは、長卓に身を乗り出した。
「あの聖火の夜からは、冷えてるんじゃねぇ。止まってんだ」
俺の背筋を、冷たいものが走った。
「お前の指先は、もうほんの少しだけ時間が止まってる。井戸の底から魔力を汲むたびに、汲んだ分のほんのひとかけらだけ、お前自身の時間が、止まった側に、置いてかれてる。……さっき、俺の紅い糸がお前の指先で止まったろ。あそこはもう半分、時間の外側なんだよ」
アルスは、セルカの手の上に、ぺたりと頬をくっつけているアベルを見た。
「……そいつがつめたいのがすき、って言ってんのは、たぶんそのせいだ」
アベルが顔を上げた。
白い髪の下の大きな目が、きょとんとアルスを見た。
「……ぼく?」
「ああ。お前の身体も、ちょっと前まで、時間が止まってたからな。……似たもんが、わかるんだろ」
アベルは、しばらくセルカの手を、じっと見つめていた。
それから、小さな声で言った。
「……セルカおねえちゃんの、ゆび。……ぼくのまえのからだと、おなじ」
アベルは、セルカの手を両手で、ぎゅっと包み込んだ。
「……おなか、すかないの。……ねむくも、ならないの。……ずっとおなじなの」
セルカの目が、ほんの少しだけ揺れた。
◇
「――このまま、汲み続けたらどうなる」
俺の声は、自分で思っていたよりも低かった。
アルスは俺の顔を見た。
四年前と同じ、面倒くさそうな顔だった。けれど、その目だけは、少しもふざけていなかった。
「止まる場所が、増える。指先から手首。手首から腕。……少しずつ、少しずつ、お前の身体の時間が止まった側に持っていかれる」
アルスは言葉を切った。
「浅く汲む分には、たいしたことはねぇ。溶けねぇ氷の器を五十個作るくらいなら、指の先っぽが、ほんのちょっと冷たくなるだけだ。……だが、深く汲めば」
アルスの視線が、セルカの胸元に落ちた。
「一番深いところまで汲んだら、心臓の時間が、止まる」
台所の大鍋の音が、遠くなった。
鍋の中で豆が煮崩れていく、くぐもった音。さっきまで眠たくなるほど穏やかに聞こえていたそれが、急に、ひどく遠い場所のもののように思えた。
「止まった心臓は、死なねぇ。……生きてもいねぇ。ただ、止まってる。そこのチビ助が、聖火の夜まで、そうだったみてぇにな」
アベルが、セルカの手をさらに強く握った。
セルカは黙っていた。
膝の上で、アベルに包まれた自分の手を、ぼんやりと見下ろしていた。それから、ゆっくりと顔を上げて俺を見た。
「……ハストさま」
「…………」
「……わたし、べつにいい」
セルカの声は、静かだった。
いつもと同じ、ぼんやりとした静かな声。
「……ハストさまを、まもれるなら。……指が、止まっても。……手が、止まっても。……それで、ハストさまが、生きてるなら」
セルカは、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……それは、わたしにとっていいこと」
淡い水色の目が、まっすぐに俺を見ていた。
少しも、揺れていなかった。怖がってもいなかった。ただ、当たり前のことを、当たり前に言っている顔だった。
それが怖かった。
自分の命を、天秤に載せてすらいない。載せる前から、皿は俺のほうへ傾ききっている。……四年前、あの雪の夜を越えたばかりの俺も、こんな目をしていたんだろうか。何もかもどうでもよくて、ひとつのことだけが大事だった、あの頃の俺も。
◇
「――だめだ」
俺は言った。
「深く汲むな。北でも、どこでも。……絶対に、だ」
セルカは、まばたきをひとつした。
「……でも」
「でも、じゃない」
俺は、長卓を回り込んで、セルカの前にしゃがみ込んだ。
アベルが、セルカの手を握ったまま俺を見上げた。
「セルカ。お前が俺のために何かを払うのは、なしだ」
「…………」
「俺は、何かを払って何かを忘れた。何を払ったのかも、思い出せない。……それが、どういうことか、俺が一番よく知ってる」
胸の奥の霧のかかった白い場所が、きしりと軋んだ。
「お前まで、そっち側に行くな」
セルカは、俺の顔をじっと見ていた。
長いこと見ていた。
それから、小さな声で言った。
「……ハストさまが、先、だよ」
「セルカ」
「……ハストさまが、生きてるのが、先。……わたしの指は、あと」
セルカは、少しも譲らなかった。
聖火の夜、ガブリエルの前に立って、「ハストさまが先」と言ったときと、同じ目だった。
俺は溜め息をついた。
それから、セルカの頭に手を置いた。
冷たかった。
雪を握ったときの冷たさとは、違った。冷えているというより、そこだけ季節が巡ってこないような、静かな冷たさだった。
ぽん、と撫でた。
五十六回目だった。
「……なら、こうしろ。汲むときは、俺に言え。俺が、だめだって言ったらやめろ」
「…………」
「それが、守れないなら北には連れていかない」
セルカは、頭を撫でられたまま、しばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ口を尖らせた。
「……ずるい」
「ずるくていい」
「……わかった」
セルカは、こくりと頷いた。
アベルが、セルカの手を、両手で包んだまま俺のほうを見た。
「……ハストおにいちゃん。セルカおねえちゃんのゆび、あっためていい?」
「ああ。いくらでも、あっためてやれ」
アベルは、嬉しそうに、セルカの指先にはあっと息を吹きかけた。
セルカは、くすぐったそうに、ほんの少しだけ目を細めた。
◇
台所を出ると、分館の廊下で、アルスが壁にもたれて待っていた。
「……おい、ハスト」
「なんだ」
「さっきの払っただの忘れただのって話」
アルスは、廊下の窓の外を見ていた。俺の顔は見なかった。
「……チビの前で、言うことじゃねぇだろ」
「…………」
「あいつは、お前の真似をするぞ。お前が払ったんなら、自分も払っていいって、思っちまう」
俺は、何も言い返せなかった。
アルスは、しばらく黙って窓の外を見ていた。
それから、ぼそりと言った。
「……お前が払ったもんは、お前が、ちゃんと取り戻せ。……そしたら、あいつも払わなくて済む」
「アルス」
「なんだよ」
「お前は、知ってるのか。……俺が、何を払ったのか」
アルスは答えなかった。
窓の外の冬枯れの庭を、ただ見ていた。分館の子どもたちが、落ち葉を集めて、きゃあきゃあと、焚き火の準備をしていた。
「……俺は、北には行かねぇ」
やがて、アルスは言った。
「王都に残る。眼鏡に、頼まれた。顔を盗む化け物が、王都にもう一匹いねぇとも限らねぇからな。……チビ助も、ここの連中も俺が見てる」
アルスは、壁から背中を離して、廊下を歩き出した。
数歩、行って足を止めた。
振り返らずに言った。
「――死ぬなよ、相棒」
それから、灰色の外套の裾を翻して、廊下の角を曲がっていった。
俺は、その背中が消えた角を、しばらく見つめていた。
答えなかったのは、知らないからか。
それとも。
台所の扉の隙間から、柱の傷がちらりと見えた。指の幅の半分ずつ、上へ、上へと刻まれていく三本の線。
止まっていた時間は、もう一度動き出すこともある。
あのチビ助が、それを証明している。
なら、セルカの指先も。……俺の胸の奥の、白い場所も。
俺は、扉の隙間から目を逸らした。
窓の外で、子どもたちの焚き火から細い煙が、北風に流されて空へ昇っていった。




