91 旧幻術帝の弟子
「――断る」
陛下は、執務机から顔も上げずに言った。
王城の執務室だった。窓の外では、北から吹いてくる風が、中庭の木々の最後に残った葉を、一枚、また一枚とさらっていた。
執務机の前に、フィアットが、まっすぐに立っていた。
学園の制服の上に、紺の外套。腰にはいつもの剣。背筋を伸ばして、両手を身体の横で、ぎゅっと握りしめていた。指の関節が白くなるほどに。
学園祭の夜、銀の封蝋の書状を見てから、フィアットはずっとこういう顔をしていた。教室で笑っていても、剣の稽古をしていても、目の奥だけがどこか遠くの一点を見据えている。何かを、もう決めてしまった人間の顔だった。
俺は、執務室の扉の脇の壁にもたれて、それを見ていた。エトワールに頼まれた書類を届けに来たら、ちょうど、この場面に居合わせてしまったのだ。帰るに帰れず、かといって口を挟むわけにもいかず、俺は、壁の木目になることに決めた。
「お願いします。陛下に、幻術を教えていただきたいんです」
「だから、断ると言っているのだよ」
陛下は、書類に羽根ペンを走らせ続けていた。書状の山が、机の端から、今にも崩れ落ちそうなくらい積み上がっている。北の峠の砦への補給。王都の守備の配置換え。初雪の夜まで、あと三週間と少し。国王の机の上は、戦の前の紙の戦場だった。
「私は、弟子は取らない主義でね。二十二年、ひとりも取っていない。……それに、幻術というのは、教わって身につくものではないのだよ。生まれつき嘘の上手い者が、もっと上手に嘘をつけるようになるだけのろくでもない術さ」
「それでも、です」
「なぜだね」
陛下は、ようやく羽根ペンを止めた。
麦わら帽子の行商人とは、まるで違う顔だった。無精髭はなく、目の下には何日も眠っていないような濃い隈があった。
「君は、剣士だろう。セルジーネ家のご令嬢だ。剣を磨きたまえ。三週間あれば、剣ならまだ少しは伸びる」
フィアットは、首を横に振った。
「剣だけじゃ、届かないってわかったんです」
フィアットは、執務机の上の二通の書状を見た。
銀の封蝋の割れた書状だった。
「銀の眼の騎士は、槍聖様の槍の軌道を、放つ前から読んだそうです。……私の剣は、槍聖様の槍よりずっと遅いです。ずっと正直です。読まれたら、それで終わりです」
「…………」
「陛下の幻は、嘘を見せる術だって仰いました。でも、真眼は嘘を見抜く眼です。……それなら、真眼の前で、嘘じゃない何かを見せられたら。読まれても、読まれたことにならない何かが、あったら」
フィアットは執務机に一歩、近づいた。
「私は、それを陛下から学びたいんです」
陛下は、しばらくフィアットの顔を見ていた。
それから、ふむ、と顎を撫でた。
「――嘘ではない幻、かね? そんなものがあったら、私が、二十二年前にとっくに使っているよ」
陛下は、羽根ペンをもう一度取り上げた。
「帰りたまえ。三週間、剣を磨くといい。……それが、君がいちばん死なずに済む道だ」
◇
フィアットは、帰らなかった。
あとで王城の衛兵から聞いた話だと、翌日も、執務室の扉の前に、立っていたらしい。
その次の日も。
三日目の朝、俺がまたエトワールの使いで王城へ行くと、ちょうど、陛下が、執務室の扉を開けたところだった。フィアットは、廊下の窓辺に、背筋を伸ばして立っていた。夜明け前から、ずっとそこにいたらしい。外套の肩に窓の隙間から吹き込んだ霜が、うっすらと白く積もっていた。
俺は、声をかけそびれた。
あいつがあんなふうに意地を張るのを、初めて見た気がした。いつもは俺の半歩うしろで、困ったように笑っているやつなのに。
「……君。学園は、どうしたのだね」
「エトワール学園長に、三週間のお休みを、いただきました」
「博識王め……」
陛下は、こめかみを押さえた。
その後ろから、小さな影が、ひょいと執務室の中を覗き込んだ。
「――よいではないか、アーク君」
ロリババアだった。
いつの間に、王城に来ていたのか。裾の長い黒の衣を引きずって、執務室の暖炉の前の椅子に、勝手に、ちょこんと腰を下ろした。卓の上の陛下の茶を、勝手に飲んだ。
「サリナ。君まで、何をしに来たのだ」
「この娘に、茶の一杯も出さぬ王の顔を、見に来たのじゃ」
ロリババアは、茶をずずっとすすった。
それから、暖炉の火を見つめたまま言った。
「嘘ではない幻、か。……二百年前にも、それを探しておった男がおったな」
陛下が、ロリババアのほうを振り返った。
「……誰のことだね」
「さあの。昔の話じゃ」
ロリババアは、茶碗を卓の上にそっと置いた。
その横顔はいつもと同じ、ふざけた顔だった。けれど、紅い炎を映した瞳の奥だけが、ほんの少しだけ遠かった。
「アーク君。お主は二十二年前、嘘で弟を救えなんだ。……ならば、嘘ではないもので、救える術を、この娘と探してみるのも悪くはあるまい」
陛下は、何も言わなかった。
長いこと、壁に掛けられた小さな絵を見ていた。
陛下の横顔から、王の顔がすっと抜け落ちたように見えた。代わりにそこにあったのは、手のかかる弟を持て余して、それでも放っておけない兄の顔だった。
面倒くさそうな顔の年上の少年と、その袖を、ぎゅっと握って離さない、小さな少年の絵。
それから、深く深く溜め息をついた。
「――入りたまえ。茶くらいは、出そう」
◇
最初の稽古は、執務室の来客用の卓の上で、始まった。
卓の上には、白い茶碗がひとつ置かれていた。
「まずは、見ていたまえ」
陛下は、卓の向こうで指をぱちんと鳴らした。
茶碗がふたつになった。
まったく同じ、白い茶碗が、卓の上にふたつ並んでいた。湯気の立ち方も、縁の小さな欠けも、窓から差し込む光の映り方も、寸分違わず同じだった。
「さて。どちらが、本物かね」
フィアットは、ふたつの茶碗をじっと見つめた。
顔を近づけて、角度を変えて、息を詰めて見比べた。それから、ゆっくりと右の茶碗を指差した。
「……こっち、です」
陛下が指を鳴らした。
右の茶碗が消えた。
「残念。外れだ」
フィアットの唇が、きゅっと引き結ばれた。
「普通の者には、わからない。私の幻は、そういうふうに作ってあるのでね」
陛下は残った茶碗を、指先でとんと叩いた。
「だが、真眼の前では今の幻など紙切れだ。ゼノンの眼には、偽物の茶碗が、最初から透けて見える。嘘は、嘘のまま丸見えなのだよ。……二十二年前、私は、それであの子に何ひとつ届かなかった」
陛下は、卓の上で両手を組んだ。
「幻というのはね、ないものをあるように見せる術だ。あるものを、ないように見せる術だ。……どちらにしたって、嘘なのだよ。嘘ではない幻など、言葉からして矛盾している」
「…………」
「わかったら、帰りたまえ。……と、言いたいところだが、サリナがうるさいのでね」
陛下は、暖炉の前のロリババアをちらりと見た。ロリババアは、知らん顔で、二杯目の茶をすすっていた。
「三日あげよう。三日で、何か掴んでみたまえ。掴めなければ、剣に戻ること」
◇
フィアットは、執務室の卓の前に座り込んだ。
陛下は、書類仕事に戻った。羽根ペンの音だけが、執務室に響いていた。
フィアットは、白い茶碗を見つめていた。
ずっと見つめていた。
俺は、書類を置いて執務室を出た。出がけに振り返ると、フィアットは、さっきと同じ姿勢のまま、まばたきすら惜しむように、茶碗を見つめていた。
その日の夕方、学園の帰りに王城の前を通ると、執務室の窓に、まだ灯りがともっていた。窓辺に、背筋を伸ばして座った、小さな影が映っていた。
次の日の昼に、もう一度書類を届けに行ったときも、その影は、同じ場所にあった。茶碗は何度か、淹れ直されたらしい。卓の端に、冷めた茶の入った茶碗が、いくつも並んでいた。
陛下はときどき、書類から目を上げて、その背中を横目で見ていた。何も言わなかった。けれど、冷めた茶碗が増えるたびに、黙って新しい茶を淹れてやっていた。
◇
二日目の夜。
俺は、エトワールに頼まれた書類を届けに、執務室の扉を叩いた。
返事がなかった。
扉を開けると、執務室の灯りは、暖炉の火だけになっていた。陛下は、執務机に突っ伏して眠っていた。羽根ペンを握ったまま。
来客用の卓の前に、フィアットが、まだ座っていた。
白い茶碗を、見つめていた。
「……おい」
声をかけると、フィアットは、ゆっくりと振り返った。
蒼い瞳の下に、うっすらと隈が浮いていた。
「ハスト様」
「寝てないのか」
「少しは、寝ました。……たぶん」
たぶん寝ていない。
俺は、書類を陛下の机の端に置いて、それから卓の向かいに腰を下ろした。
「……何か、掴めたのか」
フィアットは、首を横に振った。
「ずっと考えてるんです。嘘じゃない幻って、何だろうって。……ないものを見せたら、嘘。あるものを隠したら、嘘。……じゃあ、あるものをあるまま見せたら」
フィアットは、白い茶碗にそっと手をかざした。
「それは幻じゃなくてただの本物、ですよね」
「……そうだな」
「でも、もし」
フィアットは、手をかざしたまま目を閉じた。
「あるものをあるまま、もうひとつ作れたら。……嘘をひとつも混ぜないで。茶碗の欠けも、光の映り方も、湯気の揺れも。……今、ここにある、ほんとうのことだけで作れたら」
フィアットの手のひらから、淡い光がこぼれた。
ほんのわずかな、頼りない蒼い光。
卓の上の白い茶碗の、すぐ隣に。
茶碗が、もうひとつ生まれかけた。
輪郭が、ゆらゆらと揺れていた。半分透けていて、縁のところが、霧のようにぼやけていた。陛下の茶碗とは、比べものにならない、下手くそな幻だった。
けれど。
その茶碗には、本物と同じ場所に、同じ欠けがあった。湯気が、本物と、まったく同じ揺れ方で立ちのぼっていた。暖炉の火の橙色の光が、本物と同じ角度で、縁に映っていた。
本物の茶碗の、湯気が揺れると。
幻の茶碗の湯気も、同じように揺れた。
まるで、本物の茶碗を映しているみたいに。
フィアットが、目を開けた。
幻の茶碗が、ふっと消えた。
「……だめでした。すぐ消えちゃう」
フィアットは、肩を落とした。
俺は何も言えなかった。
今のは、幻じゃなかった。少なくとも、俺の知っている幻術とは違う。ロリババアの書斎で読み漁ったどの術式の本にも、あんなものは載っていなかった。
今のは。
「――鏡か」
声がした。
執務机に突っ伏していたはずの陛下が、顔を上げていた。
いつから、起きていたのか。机に頬杖をついて、半分だけ開いた目で、卓の上の何もない場所を、じっと見ていた。
「……陛下」
「今のを、もう一度やってみてくれたまえ」
陛下は、執務机から立ち上がって、卓のほうへ歩いてきた。眠気は、もうどこにもなかった。
フィアットは慌てて、茶碗に手をかざした。
淡い蒼い光。
ゆらゆらと揺れる、半分透けた茶碗の幻。本物の湯気が揺れると、幻の湯気も揺れる。
陛下は、その幻を長いこと見つめていた。
それから、本物の茶碗を指先で、そっと少しだけ回した。
幻の茶碗も、同じだけ回った。
縁の欠けが、本物と同じだけ向きを変えた。
「……ないものを、作っていない。あるものを、隠してもいない」
陛下の声は低かった。
「今、ここにある本物をそのまま写しているだけだ。……嘘が、ひとつも混じっていない」
陛下は、ゆっくりと顔を上げて、フィアットを見た。
「君、これをどこで覚えたのだね」
「……わかりません。茶碗を、ずっと見てたら。……ほんとうのことだけで、作りたいって思ったら」
陛下は、しばらく黙っていた。
暖炉の火が、ぱちりとはぜた。
「――『映し』だ」
陛下が言った。
「そう呼びたまえ。……これは、幻術ではない。幻術の裏側だ。嘘で作る幻の、真逆。本物だけで作る幻」
陛下は壁の、小さな絵のほうをちらりと見た。
「真眼は、嘘を見る眼だ。……嘘のないものを、あの眼がどう見るのか。私にも、わからない」
それから、もう一度フィアットを見た。
「三日の約束は、なしだ。……初雪の夜まで、毎朝来たまえ。みっちり、叩き込んであげよう」
フィアットの顔が、ぱっと明るくなった。
「――はいっ!」
「声が大きい。夜中だよ」
陛下は、執務机に戻りかけて、それからふと足を止めた。
背中を向けたまま、言った。
「……フィアット君」
「はい」
「二十二年で、初めての弟子だ。……簡単に、死んでくれるなよ」
フィアットは、目を瞬いた。
それから、深く深く頭を下げた。
◇
執務室を出て、王城の長い廊下を二人で歩いた。
窓の外は真っ暗だった。北の空に星が、少しだけ見えていた。
「……ハスト様」
「なんだ」
「さっきの、茶碗。……ほんとうのことだけで、作りたいって思ったとき」
フィアットは、少しだけ言葉を探すように、黙った。
「なんだか、懐かしい感じがしたんです。……前にも、どこかで、誰かのほんとうの顔を、ずっとずっと見ていたことがあるような」
「…………」
「変ですよね。そんなこと、ないのに」
フィアットは、照れたように笑った。
俺は、何も言わなかった。
胸の奥の霧のかかった白い場所が、ほんの少しだけ軋んだような気がした。
それが、なぜなのかはわからなかった。
「……変じゃない」
気がつくと、そう言っていた。
フィアットが、きょとんとした顔で俺を見上げた。
「お前は、いつも人の顔をちゃんと見てる。教室でも、屋上でも。……俺が、寝たふりをしてるときでもな」
「……気づいてたんですか」
「気づかれてないと思ってたのか」
フィアットは、耳まで赤くなった。
それから、小さく笑った。
窓の外を、北風がごうと鳴って過ぎていった。




