90 銀の封蝋
雪鳩が、王城に舞い降りたのは、学園祭が終わって、五日後の、明け方のことだった。
最初に気づいたのは、王城の北の塔の、夜番の衛兵だったらしい。
白み始めた空の、北の方角から、一羽の白い鳥が、まっすぐに飛んできた。鳥は、王城の上空を、三度、輪を描くように回って、それから、陛下の執務室の、閉ざされた窓の外の手すりに、ふわりと、降り立った。
足に、細く巻いた書状が、結びつけられていた。
鳥は、書状を届けると、そのまま、手すりの上で、動かなくなった。
衛兵が、窓を開けて、手を伸ばしたとき。
雪鳩は、さらさらと、崩れていった。
白い羽が、銀色の粉になって、明け方の風に、散っていった。手すりの上には、巻かれた書状だけが、ひとつ、残されていた。
◇
その日の昼、俺は、王城の執務室に呼ばれた。
部屋には、陛下と、エトワールと、ロリババアがいた。
それから、北から戻ってきていた、バルトロとリュシアン。シュベルトと、レイラ。クレハと、ラークと、エレナ。扉の脇に、アイシャ会長。肩の包帯は、もう、取れていた。
頂天者が、ほとんど、全員。
部屋の空気が、重かった。
陛下の執務机の上に、一通の書状が、置かれていた。
厚手の、灰色がかった紙。きっちりと、三つに折られて、その合わせ目に、封蝋が、ひとつ。
銀色の、封蝋だった。
蝋の表には、紋章の代わりに、ひとつの、目が、刻まれていた。
閉じた、目だった。
「……まだ、誰も、開けてねぇ」
陛下が、言った。
「眼鏡が、開けるな、って言いやがった」
「開けられなかった、と言うべきでしょうね」
エトワールが、眼鏡を押し上げた。
「今朝、衛兵が、封を切ろうとしました。……刃物が、封蝋に、触れなかった。蝋の上で、刃先が、滑った。ラークにも、見てもらいました」
部屋の隅で、ラークが、大きな背中を、丸めた。
「……あの封蝋、生きてるッス。尾羽の軸に詰まってた粉と、同じもんでできてる。……誰か、決まった奴が触らねぇと、開かねぇようになってる」
「決まった奴」
エトワールの視線が、陛下のほうへ、動いた。
陛下は、しばらく、書状を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと、手を伸ばした。
指先が、銀色の封蝋に、触れた。
封蝋に刻まれた、閉じた目が。
開いた。
蝋の中の目が、銀色に光って、陛下の顔を、じっと、見上げた。ほんの、ひと呼吸ぶんのあいだ。それから、目は、ゆっくりと、また閉じていった。
ぱきり、と、封蝋が、ひとりでに割れた。
陛下の指先が、かすかに、震えていた。
「……あいつの、眼だ」
陛下の声は、低かった。
「二十二年前、ルチアの亡骸の前で、俺を見た。……あの、眼だ」
◇
書状は、二枚あった。
一枚目を、陛下は、声に出して、読み上げた。
『偽りの王へ。
初雪の夜、北の白い橋を渡る。
欠片の兵、三千。銀の眼の騎士、百。
それを止めたければ、北の離宮へ来い。
母と、ルチアの眠る庭で、待つ。
幻で奪ったものを、幻で守れるものなら、守ってみせろ。
――ゼノン』
執務室が、静まり返った。
陛下は、書状を、机の上に置いた。
その指が、紙の端を、いつまでも、離さなかった。
「……三千」
エトワールが、繰り返した。
「バルトロ殿。峠の砦には、今、何人」
「ふむ。王国軍が、二百」
バルトロは、腕を組んだまま、答えた。膝の上には、相変わらず、小さな盆栽が、乗っていた。
「欠片の兵とやらは、北で、何度か、見た。……一人一人は、たいしたことはない。だが、斬っても、斬っても、立ち上がる。胸の欠片を砕かぬ限りはな」
「そして、銀の眼の騎士、百」
リュシアンが、珍しく、詩を吟じずに、言った。
「あれは、厄介だよ。……北で、一度だけ、刃を交えた。こちらの槍の軌道を、放つ前から、見ている。まるで、未来を、覗き見されているようだった」
エトワールは、何も言わずに、毎日王都新聞の裏に、ペンを走らせ始めた。
◇
「――それで」
陛下が、二枚目の書状を、手に取った。
「こっちは、俺宛てじゃねぇ」
陛下は、二枚目を、裏返した。
紙の裏に、一行だけ、宛名が書かれていた。
『碧の小鬼へ』
陛下が、黙って、書状を、俺のほうへ、差し出した。
部屋じゅうの視線が、俺に、集まった。
俺は、扉の脇の壁から、背中を離した。執務机の前まで歩いていって、書状を、受け取った。
厚手の、灰色がかった紙だった。冷たかった。雪の中に、ずっと、埋もれていたみたいに。
俺は、書状を、開いた。
『碧の小鬼へ。
お前の碧を、見た。
深く、昏い色だった。何かを、ひどく、失った者の色だ。
四年前の冬、サロバニアの辺境に、名もない村があった。
俺への忠誠を拒んだ村だ。見せしめに、兵を送った。
あの夜、俺は、ひとつの顔を、追っていた。俺の母を、ルチアを奪った、顔のない女の、最後のひとりを。
あの女は、あの村に、逃げ込んでいた。村の、誰かの顔を、盗んで。
雪の降る、村の外れで、俺は、ひとりの娘を、斬った。
あの女が、盗んだ顔だと、思った。俺の眼は、そう、言っていた。
……斬ったあとで、わからなくなった。
あれは、化け物だったのか。
それとも、ただの、村の娘だったのか。
俺の眼でも、わからなかった。
ルチアのときと、同じように。
碧の小鬼。
お前の碧は、あの夜の、雪の匂いがする。
お前は、あの村の、生き残りか。
ならば、お前は、知っているはずだ。
あの夜、俺が斬ったのが、何だったのか。
初雪の夜、白い橋の上で、待つ。
――ゼノン』
◇
俺は、書状を、持ったまま、立っていた。
部屋の音が、遠くなっていた。
誰かが、俺の名前を呼んだような気がした。わからなかった。
雪の降る、村の外れ。
ひとりの、娘。
あの夜、俺が見たのは、紋章をつけた兵たちの顔だった。そいつらの顔も、胸の紋章も、今でも全部、瞼の裏に、焼きついている。
けれど。
あの子を斬った刃の、持ち主の顔は。
雪の向こうで、見えなかった。ただ、吹雪の中に、銀色の光が、ひとつ。それだけが、ぼんやりと、残っていた。
……あれが。
あの子が、倒れていた。雪の上に。
あの子の手が、冷たかった。
その冷たさだけは、今でも、はっきりと、覚えている。
なのに。
あの子の、顔が。
――俺は、知らない。
あの夜、斬られたのが、何だったのか。
ゼノンが、俺に問うていることの答えを、俺は、持っていない。
あの子の顔を、思い出せないのだから。
胸の奥の、霧のかかった白い場所が、軋んだ。きしり、と。それから、ぎしり、と。何十枚も重ねた蓋の、一番上の一枚に、細い罅が、走ったような気がした。
「――ハスト様!」
肩を、掴まれていた。
フィアットだった。
いつの間に、執務室に来ていたのか。わからなかった。たぶん、俺が呼ばれたと聞いて、学園から、走ってきたんだろう。息が、上がっていた。
蒼い瞳が、すぐ目の前で、俺を見上げていた。
「ハスト様、手が」
言われて、気づいた。
書状を持った右手の指先から、碧い光が、こぼれ落ちていた。
ほんの少しだけ。けれど、止まらなかった。床の絨毯に落ちた碧の雫が、じゅう、と、小さな音を立てて、絨毯の毛先を、凍らせていた。
「……悪い」
俺は、書状から、手を離した。
フィアットが、それを、両手で、受け止めた。
碧の光が、指先から、ゆっくりと、引いていった。
◇
「――ハスト」
ロリババアの声がした。
暖炉の前の椅子で、ロリババアが、俺を、まっすぐに、見ていた。
いつもの、ふざけた顔じゃなかった。
「その書状に、何が書いてあったかは、聞かぬ」
ロリババアは、静かに言った。
「じゃが、ひとつだけ、言うておく。……答えを、急ぐな。答えが、手の中にないなら、ないまま、立っておれ。ないものを、無理に、掴もうとするな」
「…………」
「蓋は、お主が閉めたものじゃ。……開けるときも、お主が、決めよ」
俺は、ロリババアの顔を、見た。
ロリババアは、それきり、何も言わなかった。暖炉の火に、目を戻した。
その横顔は、何かを、知っている顔だった。
俺が、何を払ったのか。
あの夜、何が、あったのか。
……知っていて、言わない顔だった。
◇
執務室の壁には、一枚の、小さな絵が、掛けられていた。
宮廷画家が描いたという、二人の少年の絵。面倒くさそうな顔の、年上の少年と、その袖を、ぎゅっと握って離さない、小さな少年。
陛下は、その絵の前に、立っていた。
「……初雪の夜に、行く」
陛下が、言った。
背中を向けたままだった。
「北の離宮に。……あいつが、待ってるって言うなら、行ってやる」
「陛下」
エトワールが、ペンを止めた。
「それが、罠である可能性は、極めて高い。……貌盗みが、ゼノン殿下の傍にいるのなら、なおさら」
「わかってる」
陛下は、振り返らなかった。
「二十二年、待たせた。……兄貴が、迎えに行かなくて、誰が行く」
エトワールは、しばらく、陛下の背中を見つめていた。
それから、眼鏡を、押し上げた。
「――では、罠ごと、盤面に載せましょう」
毎日王都新聞の裏の、白い面に、エトワールのペンが、走り始めた。北の山脈。峠の砦。白い橋。北の離宮。いくつもの線と、丸と、矢印が、紙の上に、次々と、描き込まれていく。
「初雪の夜まで、あと、三週間と少し。……バルトロ殿、リュシアン殿には、北へ戻っていただく。峠の砦を、三千に対して、持たせてもらう。シュベルト殿、レイラ殿にも。クレハ、ラーク、エレナ嬢、君たちにも、北へ」
エトワールは、顔を上げた。
「そして、ハスト君」
俺を、見た。
「君は、白い橋だ。……ゼノン殿下は、君を、名指しした」
俺は、何も、言わなかった。
ただ、頷いた。
◇
執務室を出て、王城の長い廊下を歩いていると、後ろから、二つの足音が、追いついてきた。
ひとつは、床石がみしりと鳴るほど、重い足音。もうひとつは、踊るように、軽い足音。
「――やあ、君」
リュシアンだった。その隣で、バルトロが、盆栽を小脇に抱えて、のしのしと歩いていた。
「名前のない詩は、読んだ者が、勝手に名前をつける。……そう、言ったろう?」
リュシアンは、珍しく、笑っていなかった。
「北の王子は、君の碧を読んで、勝手に、名前をつけた。失った者の色、とね。……詩人として言わせてもらえば、ずいぶん、乱暴な読み方だ」
「……当たってるかもしれないだろ」
「当たっていようと、外れていようと、だよ」
リュシアンは、銀の髪を、指先でかき上げた。
「詩の名前は、最後に、書いた本人が、決めるものだ。……読んだ者じゃない」
バルトロが、足を止めた。
深い皺の奥の、小さな目が、俺を見下ろした。
「ふむ」
それから、岩のような手を、俺の頭の上に、ぽんと、置いた。
重かった。
「……拳を握るのは、答えを掴んでからでよい」
バルトロは、それだけ言って、また、のしのしと、廊下を歩いていった。リュシアンが、片目をつぶって、その後を追った。
俺は、頭の上に残った重さを、しばらく、感じていた。
◇
王城を出ると、外は、もう、夕暮れだった。
北から吹いてくる風が、冷たかった。
城門の前の石段に、フィアットが、立っていた。俺が出てくるのを、ずっと、待っていたらしい。
「……ハスト様」
「なんだ」
「私も、行きます」
フィアットは、まっすぐに、俺を見ていた。
「北へ。……初雪の夜に」
「だめだ」
「行きます」
「フィアット」
「ハスト様は、また、ひとりで、遠くへ行こうとしてます。……さっき、執務室で、書状を持ってたとき。ハスト様は、ここに、いなかった。どこか、すごく、遠いところに、いました」
フィアットの声が、少しだけ、震えていた。
「私、今のままじゃ、ついていけないって、わかってます。銀の眼の騎士も、欠片の兵も、私の剣じゃ、まだ、届かないかもしれない」
フィアットは、腰の剣の柄を、ぎゅっと、握った。
「だから、強くなります。……初雪の夜までに。ハスト様の隣に、立っていられるくらいに」
俺は、何も、言い返せなかった。
石段の下の、城門の柱の陰から、小さな影が、すっと出てきた。
セルカだった。
「……わたしも、いく」
淡い水色の目が、俺を、まっすぐに見上げていた。
「……ハストさまが、いくところ。……ぜんぶ」
「セルカ、お前は――」
「……においが、ないって、いう、におい」
セルカは、俺の外套の裾を、指先で、きゅっと、つまんだ。
「……おぼえてるの、わたしだけ。……あの人が、だれの顔をしてても。……わたしなら、わかる」
冷たい指先だった。
けれど、その声は、少しも、震えていなかった。
フィアットが、セルカを見た。セルカも、フィアットを見た。二人は、何も言わずに、ほんの少しだけ、頷き合った。
それから、フィアットは、ほんの少しだけ、笑った。
「パートナー、ですから」
北の空に、厚い雲が、垂れこめていた。
その雲の端から、白いものが、ひとひら、ふわりと、舞い落ちてきた。
フィアットの、蒼い髪の上に、落ちた。
すぐに、溶けて、消えた。
……まだ、初雪じゃない。
雪の匂いだけを残して、空は、また、静かになった。
あの夜の、続きが、近づいていた。




