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89 奈落の箱と、写し身の名

本物のペトラが見つかったのは、後夜祭の、最後の花火が消えてから、四半刻後のことだった。


見つけたのは、フィアットだった。


講堂の、舞台の下。奈落と呼ばれる、大道具をしまっておくための、天井の低い地下の物置。茨の塔の書き割りの、予備の板や、使わなかった衣装の箱や、古い背景画の巻物が、埃をかぶって、所狭しと積み上げられている場所だった。


「――茨の蔓が、ひとりでに柱を締め上げたのなら、誰かが、舞台の下から、仕掛けたはずだと思ったんです」


あとで、フィアットは、そう言った。


「舞台の床板の継ぎ目に、細い、細い糸が、通してありました。下から引けば、茨の蔓が、柱に食い込むように。……その糸を、辿っていったら」


奈落の、一番奥。


衣装をしまうための、大きな木箱の中に、ペトラがいた。


◇


俺が奈落に降りたとき、木箱の蓋は、もう、開けられていた。


レイアーヌが、王家の剣の鞘で、木箱の留め金を、叩き壊したらしい。木箱の周りには、ひしゃげた留め金と、蓋の破片が、散らばっていた。


ペトラは、木箱の底で、膝を抱えるように、身体を丸めていた。


手首と足首を、細い糸で、縛られていた。糸は、肌に、食い込んではいなかった。ちょうど、身動きが取れないくらいの強さで、丁寧に、何重にも、巻かれていた。


目は、閉じていた。


胸が、ゆっくりと、上下していた。


生きていた。


木箱の横で、ミリエルが、膝をついていた。両手を、ペトラの額に、そっとかざしていた。手のひらから、淡い、温かな光が、こぼれていた。


「……眠らされているだけです。でも、普通の眠りじゃない。……頭の中を、誰かに、ずっと、覗かれ続けていたみたい」


ミリエルは、眉を寄せた。


「ひと晩じゅう、ずっと。……記憶の頁を、一枚ずつ、めくられて。書き写されて」


フィアットが、ペトラの手首の糸を、短剣で、一本ずつ、慎重に、断ち切っていた。


レイアーヌは、木箱の横に立って、王家の剣の柄に手を置いたまま、奈落の暗がりを、じっと睨んでいた。劇の衣装の、シャロンの白い外套を、まだ、羽織ったままだった。


「……私たちが、上で劇をしている間、ずっと、この子は、ここにいたのね」


レイアーヌの声は、低かった。


「私たちの足の下で。……昨日の夜から」


◇


ミリエルの光が、ペトラの額に、染み込んでいった。


ペトラの睫毛が、ぴくりと、震えた。


それから、ゆっくりと、瞼が、持ち上がった。


焦げ茶色の目が、ぼんやりと、奈落の天井を見上げた。焦点が、合っていなかった。しばらく、天井の梁を、ただ、見つめていた。


それから、その目が、ゆっくりと、こちらへ動いた。


ミリエル。フィアット。レイアーヌ。


そして、俺。


「……ハスト、君……?」


かすれた声だった。


「……ここ、どこ……? 私、……劇の、取材に……」


ペトラは、身体を起こそうとして、ふらりと、よろめいた。フィアットが、その背中を、支えた。


「……あれ。……劇、は……?」

「もう、終わった」

「……終わった……?」


ペトラは、ぼんやりと、繰り返した。それから、急に、何かを思い出したように、目を見開いた。


「――鏡」


ペトラの指先が、震え始めた。


「昨日の、夕方。……学園から、帰る途中で。……下町の、うちの店の、裏の路地で。……お店の、裏口の、硝子に、私が、映ってた」


ペトラは、自分の両手を、見下ろした。


「でも、その私は、笑ってたの。……私は、笑ってなかったのに。……硝子の中の私が、にっこり笑って、こっちに、手を伸ばしてきて。……硝子から、出てきて。……私の、おでこに、触って」


ペトラの声が、途切れた。


「……そこから、何も、覚えてない」


ミリエルが、ペトラの手を、両手で、そっと包んだ。


「……大丈夫です。もう、大丈夫ですから」


ペトラは、ミリエルの手を、握り返した。それから、俺のほうを、見上げた。


焦げ茶色の目に、涙が、溜まっていた。


「……ハスト君。……あいつ、私の頭の中、全部、見たよね」

「…………」

「わかるの。……頭の中が、すかすかする。……私が、今まで見てきたもの。聞いてきたこと。手帳に書いたことも、書かなかったことも。……全部、誰かに、書き写された感じがする」


ペトラは、唇を、噛んだ。


「……ハスト君の、親指の癖も。……屋上で、話したことも。……名前のない英雄の、話も。……全部」


ペトラの頬を、涙が、ひと筋、伝い落ちた。


「……ごめん。……私、記者なのに。……一番、守らなきゃいけないものを、守れなかった」


俺は、ペトラの前に、しゃがみ込んだ。


「……お前は、何も悪くない」

「でも――」

「お前は、硝子の中から出てきた化け物に、おでこを触られただけだ。……それで謝る奴がいたら、そいつは、ただの馬鹿だ」


ペトラは、目を瞬いた。


それから、泣き笑いのような顔で、鼻をすすった。


「……ハスト君、それ、慰めてるつもり?」

「つもりだ」

「……下手くそ」


ペトラは、涙を、袖で、ごしごしと拭った。


フィアットが、その肩に、自分の上着を、そっと掛けた。奈落は、ひどく、冷えていた。


「お家の方には、学園から、使いを出してあります。……リンクス製パンの、おじさまと、おばさまに。ペトラさんは、学園祭の取材で、今夜は学園に泊まります、って」

「……フィアットちゃん」

「本当のことは、ペトラさんが、元気になってから、ご自分で」


ペトラは、上着の襟を、ぎゅっと握りしめて、こくりと、頷いた。


俺の右手の親指は、人差し指から、離れたままだった。


◇


夜更けの学園長室には、灯りが、ひとつだけ、ともっていた。


長椅子に、エトワール。窓辺に、麦わら帽子を脱いだ陛下。陛下の足元の床には、行商人の行李が、無造作に転がっていた。


暖炉の前の椅子には、ロリババアが、焼き栗の袋を膝に乗せて、座っていた。


扉の脇には、肩に包帯を巻いたアイシャ会長。その隣に、壁にもたれて、腕を組んだクレハ。


そして、学園長室の真ん中の、来客用の卓の上に、ラークが、大きな背中を丸めて、かがみ込んでいた。


卓の上には、白い尾羽が、一枚、置かれていた。


時計塔の屋根の上に、落ちていたものだ。エレナの光の矢が、射抜いた羽。


ラークは、火傷の痕だらけの、分厚い手のひらを、尾羽の上に、そっとかざしていた。目を閉じて、じっと、何かを、聞いているような顔だった。


「……北の、山の、匂いがするッス」


ラークが、目を閉じたまま、言った。


「雪と、松と、それから、古い石の匂い。……人の住んでない、古い建物の、石の匂い」


ラークは、目を開けた。それから、尾羽の、根元の軸を、指先で、ほんの少しだけ、つまんだ。


「それと、ここ。……羽の軸の中に、銀色の粉が、ほんのちょっとだけ、詰まってるッス。……すげぇ細かい。目に見えねぇくらい」


ラークの声が、低くなった。


「この粉、生きてるッス。……あの、ジセリアの白い石と、同じだ。誰かの、命の、欠片みてぇな」


学園長室が、静まり返った。


陛下が、窓辺から、ゆっくりと、卓のほうへ歩いてきた。


尾羽を、見下ろした。


その顔から、血の気が、引いていった。


「……雪鳩だ」


陛下の声は、かすれていた。


「北の山にしか、棲まねぇ鳥だ。……北の離宮の庭で、あいつの母親が、飼ってた。……ゼノンと、ルチアが、毎朝、餌をやってた」


陛下は、尾羽に、手を伸ばしかけて、止めた。


「……離宮が、まだ、あるのか。……あの、雪の中に」


◇


エトワールが、長椅子から、立ち上がった。


「整理しよう」


眼鏡を、指先で押し上げた。


「一。偽物は、他人の姿を、声を、癖まで、丸ごと写し取った。それだけじゃない。ペトラ嬢の頭の中の記憶を、ひと晩かけて、書き写した。だから、ハスト君とペトラ嬢の約束を、知っていた。親指の癖も、知っていた。……生きた人間の記憶を写すために、本物を、殺さずに、生かしておいた」


エトワールの視線が、陛下のほうへ、動いた。


「陛下。二十二年前、北の離宮を襲った刺客たちが使っていた術を、なんと呼びましたか」


陛下は、尾羽を見下ろしたまま、答えた。


「……写し身」

「二。偽物は、アイシャの影渡りの出口を、知っていた。劇の稽古と本番で、二度、見ただけで。……一度見た術を、写し取る。姿や声だけでなく、技さえも」


アイシャ会長が、包帯を巻いた肩を、ぎゅっと、押さえた。


「三。偽物は、真眼の欠片を、持っていた。左目に、銀の光。ハスト君の碧を、見透かした。そして、雪鳩を、北へ飛ばした。羽の軸に、命の欠片の粉を詰めて」


エトワールは、言葉を切った。


「――結論。二十二年前、ルドルフ殿下が死んだ夜に、一族ごと消えたはずの貌盗みは、少なくとも一人、生きている。そして、今、真眼の欠片を携えて、北と、繋がっている」


陛下は、何も、言わなかった。


窓の外の、暗い夜空を、見上げていた。


北の空だった。


◇


「……一つ、わからねぇことがある」


陛下が、やがて、ぽつりと言った。


「ゼノンは、貌盗みを、誰よりも、憎んでる。……母親を、ルチアを、あいつから奪ったのは、貌盗みだ。あいつが、真眼を開いたのも、化ける奴を、見抜くためだ。……そのゼノンが、なんで、貌盗みと、繋がってる」

「繋がっているのが、ゼノン殿下本人とは、限りません」


エトワールが、静かに言った。


「真眼は、化けた者を見抜く。……ならば、貌盗みが、ゼノン殿下の傍にいて、なお、見抜かれずにいるのだとしたら」


エトワールは、眼鏡の奥の目を、細めた。


「ゼノン殿下が、真眼で、決して見ようとしない相手。……疑うことを、最初から、放棄している相手。あらゆる人間を疑う方が、たった一人だけ、疑わない誰か。……その誰かの顔を、盗んでいるのだとしたら」


陛下の拳が、窓枠の上で、白くなった。


「……そんな奴が、いるのか。……あいつに」

「わかりません。まだ」


エトワールは、首を振った。


「ですが、もし、いるのなら。……銀の眼の王子は、あの夜から、ずっと、自分の母を殺した者の手の中で、踊らされていることになる」


暖炉の前で、ロリババアが、焼き栗の殻を、ぱきりと割った。


「――化けるものを、憎む者ほど、化けたものに、気づかぬ」


ロリババアは、割った栗を、口に放り込んだ。


「信じたいものの顔を、見せられたら、な」


ロリババアは、それきり、黙るかと思った。


けれど、しばらくして、暖炉の火を見つめたまま、もう一度、口を開いた。


「……二百年前にも、似た術の噂は、聞いたことがある。他人の顔を写し、声を写し、癖を写す。北の山向こうの国の宮廷で、影の仕事をしておった一族じゃと」


学園長室の全員が、ロリババアのほうを見た。


「あやつらには、ひとつ、決まりごとがあった。……顔を盗む者は、盗めば盗むほど、自分の顔を、忘れていく。百の顔を盗んだ者は、鏡を見ても、もう、何も映らぬ。白い、のっぺりとした、卵の殻のような顔しか」


ロリババアは、焼き栗の殻を、指先で、ころころと転がした。


「自分の顔を忘れた者はな。……最後には、誰かの顔でしか、生きられぬようになる。誰かになりきっておる間だけ、自分が、ここにおると思える。……哀れな術じゃ」


時計塔の屋根の上の、白い顔を、思い出した。


目も、鼻も、口もない、のっぺりとした顔。あれは、仮面じゃなかった。


あれが、あいつの、素顔だったのだ。


◇


俺は、ずっと、扉の脇の壁にもたれて、黙っていた。


右手を、外套のポケットの中で、握りしめていた。


雪の夜。俺の村。第三皇子への忠誠を拒んだ村への、見せしめ。


あの夜、村に来たのは、ゼノンの兵だった。


……そう、思っていた。


けれど、もし。あの夜も、どこかに、顔のない女がいたのだとしたら。


胸の奥の、霧のかかった白い場所が、きしりと、軋んだ。


あの子の手の冷たさだけが、はっきりと、蘇った。


顔は、やっぱり、思い出せなかった。


「――ハスト君」


エトワールが、俺のほうを、見ていた。


「偽物は、君の碧を、見た。雪鳩は、それを、北へ運んでいった。……おそらく、ゼノン殿下のところへ」

「……ああ」

「次に、北から何かが届くとすれば。……それは、君宛てだろう」


窓の外で、風が、鳴った。


冷たい風だった。冬の、匂いがした。


扉の脇で、クレハが、腕を組んだまま、低く、舌打ちした。


「……面倒な冬に、なりそうだね」


誰も、何も、言い返さなかった。


◇


学園長室を出ると、廊下の窓辺に、セルカが、膝を抱えて、座っていた。


ずっと、そこで待っていたらしい。淡い水色の目が、俺の顔を見上げた。


「……ハストさま」

「……ペトラは、無事だ。ミリエルが、ついてる」

「……うん」


セルカは、膝を抱えたまま、頷いた。


それから、小さな声で、言った。


「……わたし。……あの人の、においを、おぼえた」

「においは、なかったんだろ」

「……うん。……だから、おぼえた」


セルカは、膝に、顔を埋めた。


「……においが、ないって、いう、におい。……次に、会ったら。……もう、まちがえない」


セルカの足元の、廊下の床石に、うっすらと、霜が、降りていた。


俺は、セルカの隣に、腰を下ろした。


冷たい床石だった。


窓の外の、北の空に、星が、ひとつも、見えなかった。


雲が、厚く、垂れこめていた。


雪の、雲だった。


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