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88 後夜祭――白い鳥と、ふたりのセルカ

「――触れるな」


学園長室で、エトワールは、窓の外を見たまま、言った。


夕暮れだった。窓の外の中庭では、後夜祭の準備が始まっていた。生徒会の腕章をつけた生徒たちが、篝火の薪を組み、屋台の灯りを吊るし、花火の筒を、時計塔の下へ運んでいる。


「今、あの偽物を捕まえれば、本物のペトラ嬢が、どこにいるか、わからなくなる」


エトワールは、眼鏡を外して、目頭を、指で押さえた。


「入れ替わったのが、昨日の夕方から今朝までの間だとすれば、本物は、まだ、どこかで生きている可能性が高い。……殺すつもりなら、とっくに殺して、死体ごと、別の顔を盗んでいる。わざわざ、生かしておく理由がある」

「理由?」

「顔を盗む術には、元の顔の持ち主が、生きている必要があるのかもしれない。あるいは、もしものときの、人質か。……いずれにせよ、居場所がわかるまでは、泳がせる」


エトワールは、眼鏡を掛け直した。それから、長椅子の後ろに控えていた、アイシャ会長のほうを振り返った。


「アイシャ。影から、離れずに見ていてくれ。気づかれても構わない。ただし、手は出すな」

「はいっ」


アイシャ会長は、劇の黒い衣装のまま、こくりと頷いた。次の瞬間には、その姿は、もう、学園長室のどこにもなかった。


「クレハには、時計塔の上に陣取ってもらう。後夜祭の間、学園の敷地すべてが、照準器の中に入る。……エレナ嬢には、花火の打ち上げ役を、頼んである」

「……弓王に、花火を?」

「彼女の矢は、狙わなければ、必ず、何かの真ん中に当たる」


エトワールは、窓の外の、暮れかけた空を見上げた。


「偽物は、今夜、必ず、何かを、北へ送る。……君の碧を、見たのだから」


俺は、何も言わなかった。


右手を、外套のポケットの中で、握りしめた。


あの塔は、放っておけば、ミリエルごと、倒れていた。茨の蔓が、ひとりでに柱を締め上げるなんて、あるはずがない。……最初から、俺に、碧を使わせるための、仕掛けだった。


わかっていても、俺は、使った。


使わなければ、よかったとは、思わない。


「……ハスト君」


エトワールが、静かに、言った。


「君が、塔を止めなければ、ミリエル嬢は、死んでいた。……それだけは、忘れないでくれ」


◇


日が沈んで、後夜祭が、始まった。


中庭の真ん中で、大きな篝火が、ごうごうと燃えていた。その周りを、生徒たちが、手を取り合って、輪になって踊っている。楽隊の笛と太鼓が、夜空に向かって、陽気な調べを、響かせていた。


碧い小鬼亭は、二日間の営業を、無事に終えていた。売上は、学年で一番だったらしい。ラインハルトが、篝火の前で、両腕を振り上げて、雄叫びを上げていた。レオンが、その頭を、後ろから、はたいていた。クルトは、輪の外で、焼き栗の袋を抱えて、黙って、それを眺めていた。


俺は、篝火から少し離れた、中庭の端の、楡の木の下に立っていた。


隣には、フィアットがいた。


「……ハスト様」

「なんだ」

「さっきから、ずっと、怖い顔をしてます」


フィアットは、篝火の灯りに照らされた横顔で、俺を見上げていた。


「劇のあとから、ずっと。……何か、あったんですね」


俺は、少しだけ、迷った。


それから、言った。


「ペトラが、偽物と入れ替わってる」


フィアットの蒼い瞳が、大きく、見開かれた。


「本物が、どこにいるか、まだ、わからない。……偽物は、今夜、何かを、北へ送るつもりだ。俺の、碧を、見たから」

「……北、って」

「銀の眼の、王子のところだ」


フィアットは、しばらく、黙っていた。


篝火の向こうで、輪になって踊る生徒たちの笑い声が、遠く、聞こえていた。


それから、フィアットは、腰の剣の柄に、そっと、手を置いた。


「――私に、できることは」

「本物のペトラを、探してくれ。学園の中の、どこかにいるかもしれない。……ひとりでは、動くな。レイアーヌと、ミリエルと、一緒に」

「はい」


フィアットは、迷わずに、頷いた。


それから、ほんの少しだけ、俺の袖を、指先で、つまんだ。


「……ハスト様も。ひとりで、遠くへ、行かないでくださいね」

「…………」

「パートナー、ですから」


フィアットは、袖を離して、篝火の向こうへ、駆けていった。


◇


偽物のペトラは、篝火の輪の、すぐ外にいた。


栗色の三つ編み。革の手帳。踊る生徒たちに、手帳を向けて、楽しそうに、何かを書きつけている。どこからどう見ても、後夜祭を取材している、新米記者だった。


その少し後ろの、篝火の影の中に、アイシャ会長の気配が、溶け込んでいた。


時計塔の上には、クレハの気配。


俺は、楡の木の下から、動かずに、偽物を見ていた。


セルカは、俺の隣にいた。


いつの間にか、そこにいた。俺の外套の裾を、指先で、ほんの少しだけ、つまんでいた。淡い水色の目は、まばたきひとつせずに、偽物の背中を、見つめていた。


「……ハストさま」

「動くなよ」

「……うん」


セルカの返事は、静かだった。


けれど、外套の裾を握る指先が、冷たかった。いつもよりも、ずっと、冷たかった。セルカの足元の芝生に、霜が、うっすらと、降り始めていた。


「……あの人。……ハストさまを、見た」


セルカが、ぽつりと言った。


「……あの、銀色の目で。……ハストさまの、碧を、見た。……見て、わらった」

「わかってる」

「……ハストさまの、碧は。……ハストさまが、隠してるもの、なのに」


芝生の霜が、少しずつ、広がっていった。


「セルカ」


俺は、セルカの頭に、手を置いた。


冷たかった。髪の一本一本に、細かな霜が、降りていた。


「……今は、待て。ペトラが、どこにいるか、わかるまで」


セルカは、しばらく、俺の手の下で、じっとしていた。


それから、小さく、頷いた。


芝生の霜の広がりが、止まった。


◇


最初の花火が、上がった。


時計塔の真上で、大きな、白い光の花が、夜空いっぱいに、咲いた。


中庭じゅうから、歓声が上がった。踊っていた生徒たちが、足を止めて、空を見上げた。


二発目。三発目。


時計塔の屋根の上で、エレナが、弓を引いていた。つがえられた光の矢を、狙いもせずに、夜空へ放つ。矢が、高く昇って、昇りきったところで、弾けて、光の花になる。赤、黄、碧――いや、青。白。何十本もの矢が、次から次へと、夜空に、花を咲かせていった。


中庭じゅうの人間が、空を、見上げていた。


偽物も、空を、見上げていた。


――いや。


偽物は、もう、篝火の輪の外にいなかった。


ほんの一瞬だった。三発目の花火が、夜空で弾けた、その光の中で。全員が、空を見上げた、その一瞬で。


篝火の影の中で、アイシャ会長の気配が、鋭く、動いた。影を渡って、追っている。


方角は、時計塔だった。


「……ハストさま」

「行くぞ」


◇


時計塔の、外壁の、石の継ぎ目を蹴って、駆け上がった。


身体強化を、足に通す。三階。五階。花火の光が、塔の壁を、白く、赤く、照らしては、消えていく。


塔の中ほどの窓枠に、アイシャ会長が、膝をついていた。


右の肩口を、押さえていた。押さえた指の隙間から、血が、ひと筋、流れていた。


「――師匠、上です! 影を渡った先に、置かれてました! 細い、細い、刃物の糸が、影の出口に!」


アイシャ会長は、歯を食いしばって、塔の上を、指差した。


「……私の、影渡りの出口を、知ってました。……一度も、見せたことなんか、ないのに」


昨日の、劇の稽古。今日の、劇の本番。


アイシャ会長は、二度、舞台の上で、影を渡った。


最前列で、それを、見ていた奴がいた。


「動くな。止血しろ」

「師匠、でも――」

「動くな」


俺は、塔の壁を、さらに、駆け上がった。


◇


時計塔の屋根の上には、白い鳥が、一羽、いた。


月の光を浴びて、真っ白に光る、小さな鳥。その足に、細く巻いた紙が、結びつけられていた。


鳥の隣に、偽物が、立っていた。


栗色の三つ編みが、夜風に揺れていた。けれど、その顔は、もう、ペトラの顔ではなかった。


白かった。


目も、鼻も、口も、なかった。卵の殻のように、白く、のっぺりとした顔。花火の光が、その白い顔を、赤く、黄色く、照らしては、消えていった。


顔のない女。


屋根の反対側では、エレナが、弓を下ろして、扇子で口元を隠していた。時計塔の鐘楼の陰から、クレハのリボルバーの銃口が、まっすぐに、その白い顔を、狙っていた。


「――ペトラは、どこだ」


俺が言うと、白い顔が、こちらを向いた。


口がないのに、声がした。


「――あら、九人目」


ペトラの声だった。明るくて、好奇心でいっぱいの、新米記者の声。


「劇の途中で、寝てたんじゃなかったの?」


白い顔の、口のあるはずのところが、ほんの少しだけ、笑うように、歪んだ。


「親指。三回。……ちゃんと、見てたわよ。あの子の頭の中にある、あなたの癖は、ぜんぶ、知ってるもの。……わざと、見逃してあげたの」


偽物は、白い鳥を、両手で、そっと、すくい上げた。


「だって、あなたが、私に気づいて、安心してくれないと。……今夜、ここまで、来てくれないでしょう?」


白い鳥が、偽物の手の中から、飛び立った。


北へ。


クレハの銃口が、火を噴いた。


同時に、エレナが、扇子を投げ捨てて、弓を引いた。狙わずに、夜空へ、光の矢を、放った。


銃弾が、鳥の、ほんの指一本横を、かすめていった。偽物の白い指先が、いつの間にか、銃弾の軌道の上に、細い刃物の糸を、張っていた。弾が、糸に触れて、ほんのわずかに、逸れた。


光の矢は、夜空の高みで、止まって、それから、降ってきた。


一本が、白い鳥の、尾羽の、ちょうど真ん中を、貫いた。


尾羽が、一枚、ひらりと、夜空に舞った。


鳥は、落ちなかった。尾羽を一枚失ったまま、北の空へ、まっすぐに、小さくなっていった。


◇


偽物が、屋根の縁へ、跳んだ。


その前に、氷の壁が、せり上がった。


屋根の縁から縁まで、塔の上をぐるりと囲むように、透き通った、分厚い氷の壁。花火の光を受けて、氷の壁が、虹色に、輝いた。


屋根の、鐘楼の、反対側に。


セルカが、立っていた。


俺のあとを追って、塔を駆け上がってきたんだろう。息ひとつ、乱れていなかった。両手を、だらりと下げて、淡い水色の目で、白い顔を、まっすぐに、見ていた。


「……おまえ」


セルカの声は、静かだった。


「……ハストさまの、碧を、見たね」


屋根の上に、霜が、降り始めていた。セルカの足元から、白い霜が、音もなく、屋根の瓦を、覆っていった。


「……ハストさまが、隠してるものを。……ハストさまの、いちばん、奥にあるものを。……おまえは、見た。……見て、わらった」


霜が、偽物の足元まで、届いた。偽物の靴が、屋根の瓦に、凍りついた。


「……その目。……もう、見えなく、してあげる」


白い顔が、ゆっくりと、セルカのほうを、向いた。


それから。


白い顔の表面が、さざ波のように、揺れた。


目が、生まれた。淡い、水色の目。鼻が、生まれた。小さな、口が、生まれた。銀色がかった淡い髪が、栗色の三つ編みを、塗りつぶすように、伸びて、肩の上で、切り揃えられた。両側の一房に、水色のリボン。


セルカの、顔だった。


セルカが、セルカを、見ていた。


本物のセルカの、霜が、止まった。


ほんの、一瞬だった。


自分の顔を、正面から見て、ほんの一瞬だけ、セルカの身体が、固まった。


その一瞬で、偽物は、凍りついた靴を、脱ぎ捨てていた。氷の壁の、一番薄いところへ、刃物の糸を、走らせていた。氷の壁に、細い罅が、走った。


「――ハストさま!」


声がした。


セルカの声だった。


けれど、それを言ったのは、どちらのセルカなのか。花火の轟音の中で、一瞬、わからなかった。


「――ハストさま、そっちが、にせもの!」

「……ちがう。……わたしが、ほんもの」


ふたりのセルカが、屋根の上で、向かい合っていた。


同じ顔。同じ髪。同じリボン。同じ声。


花火が、夜空で弾けて、ふたりの顔を、同じ色に、照らした。


俺は、ふたりの間で、一瞬だけ、足を止めた。


止めてしまった。


右のセルカが、俺に向かって、手を伸ばした。左のセルカは、動かなかった。両手をだらりと下げたまま、ただ、俺の顔を、じっと、見ていた。


右のセルカの指先が、俺の外套の袖に、触れた。


温かかった。


俺は、その手を、振り払った。


「――セルカの指は、こんなに温かくない」


右のセルカが、笑った。


セルカの顔で、セルカが、絶対にしない顔で。


次の瞬間、右のセルカは、氷の壁の罅へ、跳んでいた。氷の壁が、内側から、砕けた。破片が、花火の光を受けて、きらきらと、夜空に散った。


偽物は、時計塔の屋根から、身を投げた。


花火の煙の中へ。後夜祭の、何千人もの人波の中へ。


落ちていく途中で、セルカの顔が、ほどけていった。白くなって、それから、また、別の誰かの顔になって、煙の向こうに、消えた。


俺は、屋根の縁まで、駆け寄った。


眼下では、篝火が燃え、楽隊が鳴り、何千人もの人間が、花火を見上げていた。笑って、手を叩いて、輪になって、踊っていた。


あの中の、誰が、偽物なのか。


わからなかった。


碧を、使えば。


あの中の全員を、碧で、縛れば。


右手の指先が、震えていた。


「……ハストさま」


背中に、冷たい指先が、触れた。


振り返ると、セルカが、俺の外套の背中を、ぎゅっと、握っていた。


淡い水色の目が、俺を見上げていた。


「……ごめんなさい」


セルカの声が、震えていた。


「……わたしの、顔、だったから。……ほんの、ちょっとだけ。……動けなかった」


俺は、セルカの頭に、手を置いた。


冷たかった。


いつもの、セルカの、冷たさだった。


「……お前のせいじゃない」


夜空で、最後の花火が、大きく、白く、咲いた。


その光の向こうの、北の空に、白い鳥の影は、もう、どこにも見えなかった。


屋根の瓦の上に、一枚だけ、白い尾羽が、落ちていた。


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