87 学園祭二日目――茨の塔と、銀の眼
二日目の講堂は、開演の半刻前から、満員だった。
三年A組の劇、『初代剣聖シャロンと茨の姫』。主役は、第一王女レイアーヌ。茨の姫は、ジセリアから来た聖女ミリエル。茨の魔王は、元全学年序列一位の生徒会長、アイシャ。演出は、槍聖リュシアン・ヴェルディ。
学園の外にまで、その評判は、届いていたらしい。客席には、生徒だけじゃなく、王都の民や、貴族の家族連れや、どう見ても非番の騎士団員までが、ぎっしりと詰めかけていた。座りきれない客が、壁際に、何重にも立っていた。
俺は、客席の真ん中より少し後ろの、通路側の席に座っていた。
碧い小鬼亭は、昼まで、ラインハルトとレオンに任せてきた。パンは、明け方のうちに、二日分を焼いておいた。氷の器も、セルカが、朝のうちに五十個、作り置きしてくれていた。
「料理長、劇を観に行かないと、王女殿下に、店ごと斬られるぞ」
……と、ラインハルトに背中を押されたのだ。冗談のつもりだったんだろうが、たぶん、冗談になっていない。
隣の席には、フィアットが座っていた。今日は、紺の前掛けも、白い頭巾も外して、制服姿だった。膝の上で、両手を、そわそわと組み替えている。
「……緊張してるのか。お前が出るわけでもないのに」
「だって、レイアーヌ様の、初舞台ですよ。……私まで、どきどきしてきます」
反対側の席には、セルカが、ちょこんと座っていた。
膝の上に、小さな布の包みを抱えている。中身は、茨の塔の窓の、予備の氷だ。舞台の灯りの熱で、万が一、窓の氷に罅が入ったら、すぐに張り替えられるように。ミリエルに、そう頼まれたらしい。
「……ミリエル、緊張してない。……さっき、楽屋で、パン、三個、食べてた」
「聖女は、肝が据わってるな」
二列前の、通路を挟んだ向こう側の席には、麦わら帽子の行商人が、腕を組んで座っていた。昨日と、同じ格好だった。娘の初舞台を、最前列で観たかったんだろうが、さすがに、それは目立ちすぎると、エトワールに止められたらしい。
その少し後ろには、ロリババアが、なぜか、焼き栗の袋を抱えて座っていた。
そして、最前列の、舞台の真正面の席に。
栗色の三つ編みが、揺れていた。
ペトラだった。
昨日の約束どおり、劇が終わるまで、講堂から出ないつもりなんだろう。膝の上に、革の手帳を広げて、鉛筆を構えて、開演を、今か今かと待っている。
……昨日、俺が言ったことを、ちゃんと守ってるらしい。
俺は、少しだけ、肩の力を抜いた。
◇
開演の鐘が、鳴った。
講堂の灯りが、ひとつずつ、落とされていった。客席のざわめきが、波が引くように、静まっていく。
舞台の幕が、ゆっくりと、上がった。
最初の場面は、茨の魔王の城だった。
舞台の奥に、大きな塔の書き割りが立っている。塔の壁には、本物の茨の蔓が、何重にも絡みつけてあった。そして、塔の一番高いところに、セルカの氷の窓。舞台の灯りを受けて、透き通った窓が、星のように、きらきらと輝いていた。
客席から、ほう、と、溜め息が漏れた。
窓の向こうに、白い衣装の、ミリエルがいた。
薄い面紗の下で、窓の外の、遠い空を見つめている。囚われの姫。けれど、その横顔は、少しも、悲しそうではなかった。どこか、遠い誰かを、信じて待っているような顔だった。
……リュシアンの言った、「世界のすべてを諦めた目」とは、ずいぶん違う。
でも、たぶん、こっちのほうがいい。
ミリエルが、窓の向こうで、口を開いた。
「――剣士さま。わたくしは、ここにおります」
澄んだ声だった。講堂の一番後ろの壁まで、まっすぐに、届いていく声。ジセリアの大聖堂で、何千人もの信徒の前に立ってきた声だ。
「たとえ、茨が、わたくしの声を、千年、塞いでも。わたくしは、ここで、あなたを、待っております」
客席の、どこかで、誰かが、鼻をすすった。
◇
劇は、進んでいった。
シャロンの旅立ち。茨の森の、迷い道。森の奥で出会う、言葉を話す老いた狼。……老いた狼の役は、なぜか、リュシアン自身だった。狼の毛皮を頭からかぶって、舞台の上で、朗々と、詩を吟じていた。台本には、二行しかなかったはずの台詞が、どう聞いても、二十行に増えていた。
レイアーヌは、狼の長い詩を、一度も笑わずに、最後まで聞いていた。
それから、木剣を、すっと構えた。
「――その詩、たしかに、受け取ったわ。狼よ」
客席が、どっと沸いた。
そして、いよいよ、茨の魔王の城の、最後の場面になった。
舞台の中央に、シャロンが、進み出る。
その前に、黒い衣装の、茨の魔王が、立ちはだかる。
台詞は、なかった。リュシアンの演出どおりだった。
アイシャ会長が、にこっと、笑った。
その姿が、ふっと、ぶれた。
次の瞬間、茨の魔王は、シャロンの背後に、立っていた。
客席から、悲鳴が上がった。
レイアーヌは、振り返らなかった。木剣を、背後へ、起こりなく、突き出した。アイシャ会長が、その切っ先を、紙一重で、躱した。躱しざまに、拳を、レイアーヌの脇腹へ。レイアーヌが、木剣の柄で、その拳を、受け流した。
木剣と、拳と、影。
稽古のときよりも、ずっと、ずっと、速かった。
客席の誰もが、息をするのを、忘れていた。麦わら帽子の行商人が、腕を組んだまま、身を乗り出していた。ロリババアが、焼き栗を口に運びかけた手を、止めていた。
最後の一合で、レイアーヌの木剣が、アイシャ会長の喉元の、指一本手前で、止まった。
アイシャ会長が、両手を、ゆっくりと、上げた。
講堂が、一瞬、しんと静まり返った。
それから、割れんばかりの、拍手が、湧き起こった。
◇
――その、拍手の中で。
みしり、と、何かが、軋んだ。
舞台の奥の、塔の書き割りだった。
塔を支えていた、太い柱の根元。そこに巻きつけてあった、本物の茨の蔓が、まるで生きているように、ぎちぎちと、柱を、締め上げていた。
茨の蔓が、柱に、食い込んでいく。
柱が、ゆっくりと、傾き始めた。
拍手が、少しずつ、止んでいった。客席の何人かが、異変に気づいて、腰を浮かせた。
塔の一番高いところに、ミリエルがいた。
氷の窓の、向こう側。足場は、細い板一枚だった。
塔が、倒れる。
真下には、礼をするために舞台の前へ出てきていた、レイアーヌと、アイシャ会長。その後ろに、狼の毛皮をかぶったままの、リュシアン。
アイシャ会長が、影渡りの構えを取った。けれど、ミリエルの場所までは、遠すぎた。リュシアンが、毛皮を払いのけて、舞台の袖に立てかけてあった、本物の槍に、手を伸ばした。間に合わない。
俺の右手が、膝の上で、動いていた。
指先から、ほんのわずかに、碧い光が、こぼれた。
誰にも、見えないくらいの。拍手の残響と、舞台の灯りと、客席の悲鳴の中に、紛れ込むくらいの。小さな、小さな、碧。
塔の柱の、傾いた根元に。
碧い光が、ひと筋、楔のように、差し込まれた。
柱が、止まった。
傾いたまま、ぴたりと、止まった。茨の蔓が、ぎちりと、悔しそうに、軋んだ。
その一瞬で、十分だった。
リュシアンの槍が、閃いた。
塔に絡みついた茨の蔓を、根元から、ひと薙ぎで、断ち切った。蔓が、ばらばらと、舞台の上に、落ちていった。
同時に、アイシャ会長が、影を渡った。塔の中ほどの足場に現れて、そこから、もう一度、跳んで、ミリエルの細い身体を、抱きとめた。そのまま、宙で、くるりと回って、舞台の上に、軽やかに着地した。
塔は、傾いたまま、動かなかった。
講堂が、静まり返っていた。
リュシアンが、断ち切った茨の蔓の上に、すっと、槍を立てた。
それから、客席に向かって、両腕を、大きく広げた。
「――ご覧あれ! これぞ、茨の魔王の、最後の呪い! されど、剣士の剣と、魔王の拳と、老いた狼の槍が、ひとつになれば、千年の茨とて、恐るるに足らず!」
一拍、遅れて。
客席から、さっきよりも、もっと大きな、割れんばかりの拍手が、湧き起こった。
演出だと、思ったらしい。
リュシアンが、舞台の上から、ほんの一瞬だけ、俺のほうを見た。片目を、つぶってみせた。
二列前で、麦わら帽子の行商人が、腕を組んだまま、深く、息を吐いていた。帽子のつばの下で、口元が、ほんの少しだけ、緩んでいた。娘が無事だったことへの安堵と、それから、余計な真似をしやがって、という顔だった。
その少し後ろで、ロリババアが、焼き栗の殻を、ぱきりと割った。
「……ふん。小さすぎて、かえって目立つわ。馬鹿弟子が」
誰にも聞こえないくらいの声だった。けれど、俺の耳には、はっきりと届いた。
舞台の上では、ミリエルが、アイシャ会長の腕の中から降ろされて、レイアーヌと、手を取り合っていた。三人が、客席に向かって、深々と、頭を下げた。拍手が、いつまでも、鳴りやまなかった。
◇
俺は、右手を、膝の上で、握りしめた。
碧の光は、もう、消えていた。誰も、気づいていない。拍手と、歓声と、舞台の灯りの中で、あんな小さな光に、気づける奴なんか、いるはずが――
最前列の、舞台の真正面の席。
ペトラが、振り返っていた。
舞台を、見ていなかった。
客席の、真ん中より少し後ろの、通路側の席を。俺を、まっすぐに、見ていた。
その左目が。
ほんの一瞬だけ、銀色に、光った。
舞台の灯りの、反射じゃなかった。瞳の奥から、にじみ出すような、冷たい、銀。月の光を、水の底に沈めたような色。
俺の背筋を、冷たいものが、駆け上がった。
ペトラは、すぐに、前を向いた。手帳に、鉛筆を、走らせ始めた。いつもと同じ、好奇心でいっぱいの、記者の顔だった。
見間違い、だったのか。
いや。
「……ハスト様?」
隣で、フィアットが、俺の顔を覗き込んでいた。
「どうか、したんですか。顔色が……」
「……なんでもない」
反対側の席で、セルカが、膝の上の包みを、ぎゅっと、抱きしめていた。淡い水色の目が、最前列を、じっと見つめていた。
小さく、鼻が動いた。
それから、首を、ふるふると、横に振った。
「……とおい。……人が、多すぎて。……わかんない」
◇
劇が終わって、客が、講堂から、ぞろぞろと出ていった。
俺は、講堂の出口の脇で、壁にもたれて、待っていた。
最後のほうに、ペトラが出てきた。
栗色の三つ編み。耳の上の、削りかけの鉛筆。くたびれた革の手帳。いつもと、何ひとつ、変わらない。
「――ハスト君! 観た!? すごかったよね! 最後の、塔のところ! 槍聖様の演出、天才じゃない!? あんなの、どうやって仕掛けたんだろ!」
ペトラは、目を輝かせて、俺の前まで、駆けてきた。
「……ああ。すごかったな」
「でしょ! これ、絶対、一面いける! 『槍聖の大胆演出、茨の塔、崩落寸前で止まる!』……ねえ、ハスト君は、どう思った? あの塔が止まったところ。なんで止まったと思う?」
ペトラは、手帳を構えて、鉛筆の先を、俺に向けた。
俺は、壁にもたれたまま、ペトラを見た。
それから、わざと、右手を、外套のポケットから出した。
右手の親指を、人差し指の横に、ぴたりと、押しつけた。
「さあな。……俺は、劇の途中で、寝てたから」
親指を、人差し指の横に、こすりつけた。ゆっくりと。三回。
初めて会った日の屋上で、ペトラは、この癖を、一目で見抜いた。それからは、俺が嘘をつくたびに、にやりと笑って、俺の右手を、ちらりと見た。稽古の日の、夕暮れの廊下でだって、そうだった。一度も、見逃さなかった。
ペトラは、にっこりと、笑った。
「そっかぁ。もったいない! 最後のところ、すっごくよかったのに!」
鉛筆が、手帳の上を、さらさらと走った。
ペトラの目は、一度も、俺の右手を、見なかった。
「じゃあ、私、槍聖様の楽屋に行ってくるね! 演出論の、続き! また後でね、ハスト君!」
ペトラは、栗色の三つ編みを揺らして、講堂の奥の、楽屋のほうへ、駆けていった。
俺は、その背中を、見送った。
右手の親指は、まだ、人差し指の横に、押しつけたままだった。
……違う。
あれは、ペトラじゃない。
講堂の高い窓から、午後の日差しが、斜めに差し込んでいた。客のいなくなった客席に、光の筋が、長く、伸びていた。
その光の中を、セルカが、音もなく、俺の隣へ歩いてきた。
「……ハストさま」
「わかってる」
「……さっきの、人。……近くで、かいだ」
セルカは、楽屋のほうを、じっと見つめていた。
「……においが、なかった」
俺は、壁から、背中を離した。
本物のペトラは、どこにいる。
いつから、入れ替わっていた。
昨日の、碧い小鬼亭の厨房で、セルカが確かめたペトラは、本物だった。パンと、インクの匂いがした。……なら、入れ替わったのは、昨日の夕方から、今朝までの、どこか。
劇が終わるまで、講堂から出るな。ひとりで、廊下を歩くな。
俺は、本物のペトラに、そう言った。
それを聞いていたのは、本物のペトラだけだった、はずだ。
なのに、偽物は、その約束を、知っていた。最前列に座って、劇が終わるまで、講堂から一歩も出なかった。俺が、安心するように。俺が、気を抜くように。
……全部、聞かれていた。
講堂の外では、学園祭の二日目の喧騒が、何事もなかったかのように、続いていた。
中庭の屋台から、焼き栗の匂いが、風に乗って、漂ってきた。
日が沈めば、後夜祭だった。




