86 学園祭一日目――碧い小鬼亭、開店
学園祭の朝は、雲ひとつない、高い空だった。
正門には、生徒会が三日がかりで編んだ、花と蔦のアーチが掛けられていた。校舎の窓という窓から、色とりどりの旗が垂れ下がって、秋の終わりの風に揺れている。中庭には屋台が並び、焼き栗と、蜂蜜と、揚げ菓子の匂いが、朝から漂っていた。
学園祭の二日間だけは、学園の門が、王都の民に開かれる。
開門の鐘が鳴ると同時に、正門から、人の波が、どっと流れ込んできた。
◇
一年の教室は、すっかり、喫茶店に化けていた。
机を四つずつ寄せて、白い布を掛けた卓が、八つ。窓際には、女子たちが徹夜で作った、碧い紙の花飾り。黒板には、ラインハルトの字で、でかでかと、『ようこそ 碧い小鬼亭へ』。その横に、誰が描いたのか、角の生えた、妙に丸っこい小鬼の絵。
……あれが、俺か。
教室の後ろ半分は、布の衝立で仕切って、厨房にしてあった。
厨房には、魔石の焜炉が三つ。パンを焼くための、小さな石窯が一つ。これは、ロリババアの森の小屋から、俺が夜中に担いできたものだ。誰にも、どうやって運んだのかは、訊かれなかった。訊かれても、答えるつもりはなかった。
「――料理長! 一番卓、胡桃パンと冷たい茶、三つずつ!」
「三番卓、無花果の焼き菓子、五つ!」
「六番卓、氷の果物盛り、二つ! あと、碧い小鬼って本当にいるんですか、って訊かれてます!」
「最後のは、知らないって言っとけ」
衝立の向こうから、注文が、次から次へと飛んでくる。
開店から、まだ、半刻も経っていなかった。なのに、教室の外の廊下には、もう、行列ができていた。王都の子どもたちが、碧い紙の角を頭につけて、きゃあきゃあ言いながら、並んでいる。
ラインハルトの読みは、悔しいことに、当たっていた。
俺は、石窯の前で、パン生地を丸めながら、小さく息をついた。
「……ハストさま」
隣の作業台で、セルカが、氷の器を作っていた。
両手の指先で、空中に、くるりと円を描く。それだけで、透き通った氷の鉢が、作業台の上に、ころんと生まれる。縁には、霜の花が、細かく咲いていた。その中に、薄く切った梨と、葡萄と、柘榴の粒を、一つずつ、丁寧に並べていく。
「……これで、二十個目」
「疲れてないか」
「……ぜんぜん」
セルカは、首を、ふるふると横に振った。
本当に、少しも疲れていない顔だった。息ひとつ、乱れていない。指先も、冷たくなってはいなかった。
……そういえば、あの聖火の夜から、セルカが魔術を使って疲れたところを、一度も見ていない。
あれだけ大きな時の魔術を使って、代償らしい代償も、何ひとつなかった。ロリババアは、あのとき、黙って、セルカの頭を撫でていただけだった。
俺は、それ以上は考えずに、パン生地を、石窯に放り込んだ。
衝立の奥の、流し場では、クルトが、黙々と、皿を洗っていた。
洗い終わった皿が、流し場の横に、塔のように積み上がっている。一枚の水滴も、残っていなかった。
「……クルト」
「……なんだ」
「お前、皿洗い、上手いな」
「……家で、やらされてたから」
クルトは、皿から目を離さずに、ぼそりと言った。それから、少しだけ、耳を赤くした。
「……客と、喋らなくていいし」
◇
衝立の向こうでは、フィアットが、給仕を仕切っていた。
紺の前掛けに、白い頭巾。学級委員らしく、きびきびと、卓と卓の間を行き来している。注文を受けて、皿を運んで、ついでに、つまみ食いをしようとしたラインハルトの手を、ぴしゃりと叩いていた。
「ラインハルト君、それは、お客様の分です」
「一個だけ! 味見だって!」
「味見なら、昨日、十二個しました」
レオンは、入口で、行列の整理をしていた。愛想は、まるでない。けれど、子どもが泣き出すと、黙ってしゃがみ込んで、紙の角を、頭につけ直してやっていた。
……いいクラスだな、と思った。
思ってから、少しだけ、照れくさくなった。
◇
昼前に、妙な客が来た。
「――おう。肉は、ねぇのか」
衝立の隙間から覗くと、窓際の二番卓に、旅の行商人らしい男が、どかりと座っていた。
日に焼けた顔に、無精髭。擦り切れた麦わら帽子に、埃っぽい外套。背中には、大きな行李を背負っている。どこからどう見ても、地方から王都に出てきた、くたびれた商人だった。
給仕に出ていたフィアットが、困ったように、首を傾げた。
「申し訳ありません。肉料理は、置いていなくて……」
「なんだ。喫茶店ってのは、肉を出さねぇのか。……じゃあ、一番うまいやつを、全部くれ」
俺は、衝立の陰で、こめかみを押さえた。
麦わら帽子の、つばの下。日に焼けた顔の輪郭が、ほんのわずかに、揺らいでいた。光の当たり方が、顔の右と左で、ほんの少しだけ違う。注意して見なければ、絶対にわからないくらいの、幻の継ぎ目。
それに、あの喋り方。
俺は、冷たい茶と、胡桃パンと、無花果の焼き菓子と、氷の果物盛りを、一つずつ盆に載せて、自分で、二番卓へ運んでいった。
「……何してんですか、こんなところで」
小声で言うと、行商人は、麦わら帽子の下で、にやりと笑った。
「娘の劇は、明日だろ。今日は、お前の飯を食いに来た」
陛下だった。
「……護衛は」
「眼鏡が、あっちこっちに、紛れ込ませてる。……気にすんな」
陛下は、胡桃パンを、ひとくちで半分かじった。それから、目を見開いた。
「……うめぇな、これ」
「どうも」
「森の蜂蜜か。……あのババアのところの」
陛下は、もうひとくちで、残りの半分を平らげた。冷たい茶を、喉を鳴らして飲み干した。氷の器の果物を、ひとつずつ、惜しむように口に運んだ。
それから、窓の外の、高い空を見上げた。
「……北は、もう、雪がちらついてるそうだ」
麦わら帽子の下の目が、ほんの一瞬だけ、遠くなった。
「初雪の夜まで、あと、ひと月ってとこか」
俺は、何も言わなかった。
陛下も、それ以上は、何も言わなかった。卓の上に、銀貨を三枚置いて、行李を背負い直して、立ち上がった。
「……釣りは、いらねぇ。クラスの打ち上げにでも使え」
「三枚は、多すぎです」
「料理長の腕に払ってんだよ」
陛下は、麦わら帽子のつばを、指先でちょいと押し上げて、教室を出ていった。
フィアットが、ぽかんとした顔で、その背中を見送っていた。
「……ハスト様、今の方、お知り合いですか?」
「……田舎の、親戚みたいなもんだ」
◇
昼過ぎには、もっと妙な客が来た。
「――全部じゃ」
窓際の一番卓に、小さな女の子が、ちょこんと座っていた。
裾の長い、黒の衣。足が、床に届いていない。卓の上に、両肘をついて、品書きを、ふんぞり返って眺めていた。
給仕に出ていたラインハルトが、しゃがみ込んで、目線を合わせた。
「お嬢ちゃん、迷子か? お母さんは?」
「迷子ではない。客じゃ」
「おお、偉いなぁ。ひとりで来たのか。……で、何にする?」
「全部じゃ、と言うておる」
ラインハルトは、困った顔で、衝立のほうを振り返った。
俺は、衝立の陰で、深く、深く、息を吐いた。
「……ラインハルト。その子の分は、全部、俺が出す」
「え、ハストの知り合い?」
「……田舎の、親戚みたいなもんだ」
本日、二度目だった。
ロリババアは、運ばれてきた胡桃パンを、両手で抱えるようにして、かじった。無花果の焼き菓子を、三つ、続けて平らげた。氷の果物盛りを、匙で、ひと粒ずつ、すくって食べた。
その横で、セルカが、いつの間にか、衝立の陰から出てきていた。
ロリババアの卓の横に、ちょこんと立って、氷の器を、もう一つ、差し出した。器の縁には、ほかのどの器よりも、細かく、きれいな霜の花が咲いていた。
「……サリナさまの、ぶん」
ロリババアは、その器を、しばらく見つめていた。
それから、セルカの頭に、小さな手を、ぽんと置いた。
「……うむ。よう、できておる」
セルカは、頭を撫でられながら、ほんの少しだけ、目を細めた。
ロリババアは、勘定のときに、卓の上に、小さな金貨を一枚置いていった。
見たこともない、古い金貨だった。表には、知らない王の横顔。裏には、今はもうない国の紋章。縁が、少しだけ、焼け焦げたように、黒ずんでいた。
フィアットが、それを拾い上げて、首を傾げた。
「……ハスト様、これ、どこのお金でしょう」
「……知らなくていい」
俺は、その金貨を、そっと、自分の懐にしまった。
◇
昼の混雑が、少しだけ落ち着いた頃。
「――おーほっほっほ! ここが、噂の碧い小鬼亭ですわね!」
廊下の向こうから、高らかな笑い声が近づいてきた。
扇子で口元を隠して、背中には、大弓。弓王エレナ・ヴァイスが、行列の先頭に、優雅に割り込もうとして、レオンに、無言で睨まれていた。
「……並べ」
「まあ。ワタクシを誰だと」
「並べ」
エレナは、一瞬だけ、目をぱちくりさせた。それから、なぜか、嬉しそうに頬を染めた。
「……よろしい。その公平さ、気に入りましたわ」
エレナは、行列の一番後ろへ、すたすたと歩いていった。
その後ろから、二人、ついてきていた。
ひとりは、腰に二丁のリボルバーを提げた女だった。背中の機関銃は、さすがに、正門の衛兵に預けさせられたらしい。ものすごく不機嫌な顔で、腕を組んでいる。銃王、クレハ。
もうひとりは、煤の染みた作業着の、大柄な男だった。まくり上げた袖から、丸太みたいな腕が覗いている。廊下の壁の、碧い紙の花飾りを、なぜか、熱心に観察していた。錬成帝、ラーク・ドルク。
三人は、行列に、きちんと並んだ。四半刻ほど待って、窓際の四番卓に、通された。
「アタシは、茶だけでいい。甘いのは、苦手なんだ」
クレハは、そう言って、冷たい茶を注文した。一口飲んで、それから、眉を上げた。
「……へぇ。悪くないね」
二杯目を、注文した。三杯目も、注文した。四杯目のときに、無花果の焼き菓子を、ひとつだけ、追加した。
「……甘いのは、苦手なんじゃなかったのか」
茶のお代わりを運んでいった俺が、小声で言うと、クレハは、焼き菓子をかじりながら、片目をつぶった。
「アンタの菓子は、甘すぎないからね」
エレナは、全部の献立を、ひと通り、注文していた。ひとつ食べるたびに、「まあ!」「これは!」「素晴らしいですわ!」と、高らかに声を上げていた。隣の卓の子どもたちが、それを見て、げらげら笑っていた。
ラークは、何も食べていなかった。
氷の果物盛りの、器だけを、じっと見つめていた。火傷の痕だらけの大きな手で、器をそっと持ち上げて、縁の霜の花に、顔を、くっつきそうなくらい近づけていた。
「……これ、溶けないんッスね」
ラークが、ぽつりと言った。
「どうやって、作ってるんッスか」
厨房の衝立の陰から、セルカが、少しだけ、顔を出した。
「……わたし」
「キミが?」
ラークは、氷の器と、セルカを、交互に見た。それから、器の縁を、指先で、そっと撫でた。
「……変だな」
「……へん?」
「魔力で作った氷ってのは、普通、作った人の魔力の流れが、器の中に、筋みたいに残るんッス。どこから来て、どこで止まったか。……でも、この器、筋の始まりが、見えない」
ラークは、首を傾げた。
「底が、ないんッスよ。井戸みたいに。……覗き込んでも、覗き込んでも、どこまでも続いてる」
セルカは、きょとんとした顔で、ラークを見ていた。
「……わかんない」
「おう。オレも、わかんねぇッス」
ラークは、あっさりと言って、氷の器の果物を、ようやく、ひとつ、口に入れた。
「……うめぇッスね、これ」
俺は、厨房の衝立の陰で、その会話を、黙って聞いていた。
底のない、井戸。
何かが、胸の奥に、小さく、引っかかった。
◇
昼下がりに、ペトラが来た。
「取材ですっ! 碧い小鬼亭の、料理長に!」
ペトラは、栗色の三つ編みを揺らして、厨房の衝立の隙間から、顔を突っ込んできた。耳の上には、削りかけの鉛筆。くたびれた革の手帳。
それから、ふわりと、焼きたてのパンと、インクの匂い。
セルカが、作業台の陰から、すっと顔を上げた。
ペトラを、じっと見た。小さく、鼻を動かした。
それから、俺のほうを見て、ほんのわずかに、頷いた。
……本物だ、ってことか。
「料理長、ひとことお願いします! 碧い小鬼亭の、こだわりは!」
「……ない」
「またまた! この胡桃パン、うちの店のより、おいしいんですけど! 悔しいんですけど!」
ペトラは、手帳に、すらすらと何か書きつけた。それから、ふと、鉛筆を止めた。
「……ねえ、ハスト君。昨日の、廊下の」
「…………」
「やっぱり、見間違い、だよね」
ペトラは、笑っていた。けれど、手帳を持つ指先が、ほんの少しだけ、白くなっていた。
俺は、パン生地を丸める手を、止めなかった。
「……明日も、取材に来るのか」
「え? う、うん。明日は、三年A組の劇の取材。槍聖様に、もう一回、演出論を聞かなきゃいけないし」
「なら、劇が終わるまで、講堂から出るな。……ひとりで、廊下を歩くな」
ペトラは、目を丸くした。
それから、少しだけ、黙った。
「……わかった」
ペトラは、手帳を胸に抱いて、小さく、頷いた。
◇
日が傾き始めた頃、セルカが、氷の器を、三年A組の控え室に届けに行った。
明日の劇で使う、茨の姫の塔の窓の、予備の氷だった。ミリエルに、頼まれていたらしい。
セルカが戻ってきたのは、それから、半刻も経ってからだった。
衝立の陰に、すっと入ってきて、俺の袖を、ぎゅっと、掴んだ。
指先が、冷たかった。
「……ハストさま」
淡い水色の目が、まっすぐに、俺を見上げていた。
「……いた」
「何が」
「……においが、ない人」
セルカの声は、静かだった。いつもと同じ、ぼんやりとした声。けれど、その奥で、何かが、凍りついていた。
「……中庭の、屋台のところで。……お爺さんだった。……追いかけたら、角を曲がって。……曲がった先に、女の子がいた。……においが、なかった」
セルカは、ひとつずつ、思い出すように、言葉を並べた。
「……また、追いかけた。……女の子は、人の波に入って。……出てきたときには、衛兵さんだった。……やっぱり、においが、なかった」
「…………」
「……顔も、服も、背の高さも、ぜんぶ、ちがうのに。……においが、ないところだけ、ずっと、おんなじ」
セルカは、俺の袖を、さらに強く、握った。
「……最後に、正門のところで、見失った。……見失う前に、一回だけ、こっちを、見た」
「どんな顔で」
セルカは、少しだけ、黙った。
それから、小さな声で、言った。
「……わらってた」
衝立の向こうで、ラインハルトが、閉店の鐘を、元気よく、鳴らしていた。
「――碧い小鬼亭、一日目、本日の営業は、終了でーす! 明日も、よろしくお願いしまーす!」
教室中から、拍手と、笑い声が湧き起こった。
俺は、その声を聞きながら、セルカの冷たい指先を、そっと、握り返した。
明日は、学園祭の、二日目。
三年A組の、劇の日だった。




