85 剣劇の稽古と、廊下の向こうの自分
学園祭まで、あと十日。
放課後の講堂からは、毎日、剣の打ち合う音と、誰かの朗々とした声が、響いてくるようになっていた。
三年A組の、劇の稽古だった。
演目は、『初代剣聖シャロンと茨の姫』。建国以前の、伝説の剣士の物語だ。茨の魔王に囚われた姫を、ひとりの女剣士が、たった一振りの剣で救い出す。王都の子どもなら、誰でも寝物語に聞かされて育つ、古い話だった。
主役のシャロンは、レイアーヌ。
茨の姫と、姫を癒す聖女の二役は、ミリエル。
茨の魔王は、アイシャ会長。
そして、演出は。
「――違う! 違うんだよ、殿下!」
講堂の舞台の下で、銀髪の男が、両腕を大きく広げていた。
「シャロンは、ここで、ただ剣を振り下ろすんじゃない! 茨の魔王の前で、一瞬、迷うんだ! 姫を救いたい心と、魔王もまた、かつては誰かに愛された者だったという哀しみの間で! その迷いが、剣の切っ先に、ほんのわずかな震えとなって宿る! 観客は、その震えに、涙するんだ!」
槍聖、リュシアン・ヴェルディだった。
北から帰って、三日後。暇を持て余していたところを、レイアーヌが、劇の剣術指導を頼みに行ったらしい。剣術指導のはずが、気がついたら、演出も、台本の直しも、衣装の意見まで、全部、引き受けていた。
「……リュシアン様、私、剣を振るときに迷ったことなんて、一度もないのだけれど」
舞台の上で、王家の剣ならぬ、稽古用の木剣を構えたレイアーヌが、困ったように眉を下げた。
「だからこそ、だよ、殿下! 迷わない剣士が、一度だけ迷う! それこそが、劇だ! 詩だ!」
「……詩なの?」
「人生は、すべて、詩だよ」
リュシアンは、片手を胸に当てて、天井を仰いだ。
舞台の袖で、黒い衣装を羽織ったアイシャ会長が、肩を震わせて笑っていた。
◇
俺は、講堂の一番後ろの席に座って、それを眺めていた。
膝の上には、籐の籠。中には、碧い小鬼亭の献立の、新作の試作品が入っている。三年A組の差し入れにしてくれと、フィアットに押しつけられたのだ。……というのは建前で、本当は、レイアーヌに「たまには稽古を見に来なさい」と、半ば命令されたからだった。
隣には、セルカが、ちょこんと座っていた。
「……ハストさま」
「なんだ」
「……あの銀色の人、ずっと、しゃべってる」
「槍聖だからな」
「……槍聖って、しゃべる人のこと?」
「違う」
舞台の上では、稽古が、再開されていた。
シャロンが、茨の魔王の城へ乗り込む場面だった。レイアーヌが、舞台の中央へ、木剣を構えて進み出る。その前に、黒い衣装のアイシャ会長が、両腕を広げて、立ちはだかった。
「――よくぞ、来た、剣士よ。だが、この茨の城から、姫を連れ出すことは、叶わぬ」
アイシャ会長の台詞は、ものすごく、棒読みだった。
「……会長、もう少し、怖そうに」
リュシアンが、こめかみを押さえた。
「怖そうに……?」
アイシャ会長は、少しだけ考えて、それから、にこっと笑った。
その姿が、ふっと、ぶれた。
次の瞬間、アイシャ会長は、レイアーヌの背後に立っていた。幻影体術の、影渡り。舞台の上から、消えて、現れた。
講堂の、稽古を見ていた三年生たちが、悲鳴を上げた。
レイアーヌは、振り返りもせずに、木剣を、背後へ突き出した。起こりのない、突き。
アイシャ会長の額の、指一本手前で、木剣の切っ先が、止まった。
講堂が、しんと静まり返った。
それから、割れんばかりの拍手が、湧き起こった。
「――それだ!!」
リュシアンが、舞台の下で、跳び上がった。
「それだよ、会長! 殿下! 今のを、本番でやってくれ! 台詞なんか、要らない! 剣と拳だけで、語ってくれ!」
「……台詞、覚えなくていいんですか?」
「いいとも! 君たちの剣と拳が、何よりの詩だ!」
アイシャ会長が、心の底から、ほっとした顔をした。
◇
茨の姫の場面では、ミリエルが、舞台の真ん中に立っていた。
白い衣装。薄い面紗。茨の魔王の城の、一番高い塔に囚われた姫。
舞台の上には、茨の城の塔を模した、大きな書き割りが立てられていた。……その書き割りの、塔の窓のところに、何か、きらきらと光るものが、はめ込まれていた。
氷だった。
溶けない、透き通った氷が、塔の窓の形に、薄く、張られていた。舞台の灯りを受けて、その氷が、まるで、本物の硝子の窓のように、輝いていた。
「……セルカ」
「……なに」
「あれ、お前か」
セルカは、膝を抱えたまま、こくりと、頷いた。
「……ミリエルに、頼まれた。……塔の窓、きれいにしたいって」
いつの間に、そんな話をしていたのか。
舞台の上で、ミリエルが、氷の窓の向こうから、客席のほうを見た。講堂の一番後ろの、俺とセルカに気づいて、面紗の下で、ふわりと笑った。
それから、小さく、手を振った。
セルカは、少しだけ、迷うように、目を泳がせた。
それから、膝の上から、ほんの少しだけ、手を持ち上げて、ひらひらと、振り返した。
……いつの間にか、仲良くなってるな。
屋上で、ミリエルがセルカの冷たい指先を治してから、まだ、ひと月も経っていない。あのとき、セルカは、ミリエルのことを、「へんな人」と言った。今は、塔の窓に、溶けない氷を張ってやっている。
セルカは、俺の視線に気づいたのか、ぷいと、そっぽを向いた。
耳の先が、ほんの少しだけ、赤かった。
「……べつに。……ミリエル、ハストさまの、恩人だから」
「俺の恩人じゃないだろ。俺が助けたほうだ」
「……ハストさまに、パン、くれた」
「……それは、そうだな」
四年前、地下牢の鉄格子の隙間から、温かいパンを差し入れてくれた手。
セルカは、俺の袖を、指先で、ほんの少しだけ、つまんだ。
「……だから、恩人」
◇
休憩の合図がかかると、リュシアンが、客席の通路を、まっすぐにこちらへ歩いてきた。
銀の髪を、指先で優雅にかき上げて、俺の前で、足を止めた。
「やあ。九人目の君」
「……その呼び方は、やめてくれ。ここは学園だ」
「おっと、これは失敬」
リュシアンは、少しも失敬だと思っていない顔で、笑った。それから、俺の膝の上の籠を、ひょいと覗き込んだ。
「差し入れかい? ……ほう。焼き菓子の上に、碧い砂糖細工。小鬼の形だ。これは、詩的だね」
「……クラスの出し物の、試作品だ。三年A組に渡してくれって、頼まれた」
「では、遠慮なく」
リュシアンは、碧い小鬼の焼き菓子を一つつまんで、口に放り込んだ。目を閉じて、ゆっくりと噛んで、それから、目を開けた。
「……うん。いい味だ。甘いのに、どこか、寂しい」
「寂しい?」
「褒め言葉だよ」
リュシアンは、指についた砂糖を、ハンカチで丁寧に拭った。
「北で、バルトロの爺さんと二人きりで三か月も過ごすとね、人の作ったものの味が、よくわかるようになる。あの爺さん、ふむ、しか言わないから」
「……想像がつく」
「だろう? だから、僕が、二人分しゃべった」
それは、たぶん、三人分くらいしゃべっていたんだろう。
リュシアンは、舞台のほうを振り返った。レイアーヌが、木剣を片手に、台本に何か書き込んでいる。アイシャ会長が、黒い衣装の裾を踏んで、転びかけている。ミリエルが、氷の窓の前で、それを見て、笑っている。
「君は、劇には、出ないのかい」
「出ない。厨房担当だ」
「惜しいなあ。名前のない英雄の役なんて、君にぴったりなのに」
俺は、リュシアンを、横目で見た。
リュシアンは、相変わらず、楽しそうに笑っていた。
「詩人というのはね、九人目の――おっと、失敬。……君。名前のない詩が、一番、厄介なんだ。読んだ者が、勝手に、名前をつけてしまうから」
「……どういう意味だ」
「さあ。詩の意味を、詩人に訊くものじゃないよ」
リュシアンは、片目をつぶってみせると、焼き菓子をもう一つつまんで、舞台のほうへ戻っていった。
「――さあ、諸君! 休憩は終わりだ! 次は、茨の姫の場面から! 聖女殿、今度は、もっと儚げに! 窓の氷の向こうから、世界のすべてを諦めた目で!」
「……諦めた目、ですか? 私、あんまり、諦めたことがなくて」
「それも、詩だ!」
セルカが、俺の袖を、くいと引いた。
「……あの人、やっぱり、しゃべる人」
「……そうだな」
◇
稽古が一段落したところで、講堂の扉が、勢いよく開いた。
「――三年A組の劇の稽古、取材させてくださいっ!」
ペトラだった。
栗色の三つ編みを揺らして、革の手帳を胸に抱えて、講堂の通路を、小走りに駆けてきた。
リュシアンが、舞台の下で、くるりと振り返った。
「おや。これは、可憐な記者殿。……槍聖リュシアン・ヴェルディだ。この劇の演出を務めている。取材なら、喜んで受けよう。僕の演出論を、三時間ほど」
「さ、三時間……!?」
ペトラは、一瞬だけ、怯んだ。それから、すぐに、目を輝かせた。
「お、お願いしますっ! 槍聖様が演出なんて、それだけで記事になりますっ!」
リュシアンは、満足げに頷いた。
舞台の上で、レイアーヌとアイシャ会長とミリエルが、顔を見合わせて、そっと、舞台の袖へ逃げていった。
◇
結局、ペトラは、リュシアンの演出論を、二時間半、聞かされたらしい。
講堂を出てきたときには、日が、すっかり傾いていた。
俺は、講堂の外の廊下の、窓辺にもたれて、待っていた。
別に、誰かに頼まれたわけじゃない。ただ、王城でバルトロの話を聞いてから、どうにも、落ち着かなかった。顔のない女。自分とそっくりな誰かが、村の中を歩いている。……そんな話を聞かされたあとで、学園に毎日出入りしている外の人間を、ひとりで夕暮れの廊下に放り出す気には、なれなかった。
「……お、お疲れ、さまでした……」
ペトラは、ふらふらと、廊下に出てきた。革の手帳は、ぎっしりと文字で埋まっていた。
「……大丈夫か」
「だ、大丈夫……。槍聖様の演出論、すごかった……。半分以上、詩だったけど……」
ペトラは、窓辺の俺に気づいて、目を丸くした。
「あれ、ハスト君。待っててくれたの?」
「……差し入れの籠を、返しに来ただけだ」
「ふーん」
ペトラは、にやりと笑った。それから、俺の右手を、ちらりと見た。
俺は、右手を、外套のポケットに突っ込んだ。
ペトラは、くすくす笑いながら、廊下を歩き出した。俺も、少し離れて、その後ろを歩いた。
夕暮れの廊下には、もう、ほとんど人がいなかった。窓から差し込む橙色の光が、床に、長く伸びていた。
廊下の、ずっと先の、突き当たりの角を。
誰かが、曲がっていった。
ほんの一瞬だった。栗色の髪の、後ろ姿。耳の下で、二つに編んだ、三つ編み。くたびれた革の手帳を、胸に抱えて。
ペトラの足が、止まった。
「……え」
ペトラの声が、震えていた。
「……今の」
「どうした」
「……今の、私だった」
ペトラは、廊下の突き当たりを、じっと見つめていた。
「私と、同じ髪で。同じ三つ編みで。同じ手帳、持ってて。……私が、角を、曲がっていった」
俺は、ペトラの横を、すり抜けて、走った。
身体強化を、足に通した。廊下の突き当たりまで、ひと息で。角を、曲がった。
誰も、いなかった。
長い廊下が、まっすぐに続いているだけだった。教室の扉は、全部、閉まっていた。窓も、全部、閉まっていた。隠れる場所も、逃げる時間も、なかったはずだった。
なのに、誰も、いなかった。
◇
ペトラが、息を切らせて、追いついてきた。
「……ハスト君。いた?」
「いや」
「……そっか。……そう、だよね」
ペトラは、笑おうとした。笑おうとして、うまく、笑えていなかった。
「疲れてるのかな、私。槍聖様の演出論、二時間半も聞いてたから。……きっと、見間違い」
「…………」
「うん。見間違い。そうに決まってる」
ペトラは、自分に言い聞かせるように、何度も頷いた。それから、手帳を胸に抱きしめて、いつもの元気な声を、無理やり、絞り出した。
「じゃ、じゃあね、ハスト君! また、明日!」
ペトラは、反対方向へ、小走りに駆けていった。
俺は、その背中が、階段の下に消えるまで、見送った。
それから、誰もいない廊下の突き当たりを、もう一度、振り返った。
「――ハストさま」
いつの間にか、隣に、セルカが立っていた。
淡い水色の目が、廊下の先を、じっと見つめていた。
「……さっき、ここに、においが、二つあった」
「二つ?」
「……ペトラのにおい。……パンと、インクの、におい。……それと」
セルカの声が、ほんの少しだけ、低くなった。
「……もうひとつ。……ペトラと、同じ形をしてるのに。……においが、なかった」
廊下の窓の外で、夕暮れの鐘が、ひとつ、鳴った。
「……においが、ない人なんて。……いない」
セルカは、俺の袖を、ぎゅっと、握った。
冷たい指先だった。
俺は、その手を振りほどかずに、廊下の突き当たりを見つめた。
顔のない女。自分とそっくりな誰かを、次の日に見る。バルトロが、北の砦で聞いてきた話。
……北の話じゃ、なかったのか。
ポケットの中で、右手の親指が、勝手に、人差し指の横をこすっていた。
……誰に、嘘をつこうとしてるんだ、俺は。
たぶん、自分にだ。気のせいだ、大丈夫だ、と。俺は、親指を人差し指から引き剥がして、拳を、強く握りしめた。
学園祭まで、あと十日。
窓の外の空は、もう、冬の色をしていた。




