84 試食会と、パートナーの約束
ひび割れた古い床石は、きれいに取り除かれていた。新しい床石の表面には、小さく、丁寧な字で、こう彫り込まれていた。
『修繕 格闘王バルトロ・ヴァイン ――ふむ』
「……律儀な人だな」
最後の「ふむ」まで彫り込んであるのが、いかにも、あの人らしかった。
俺は、寝転がったまま、その床石を、指先でなぞった。
隣で、セルカが、膝を抱えて、氷の花を眺めていた。
いつもと、同じ朝だった。春の風が、手すりの根元の氷の花を、そっと撫でて通り過ぎていった。遠くの訓練場からは、朝練の掛け声が、かすかに聞こえていた。
ただ、ひとつだけ、違っていた。
フィアットが、いなかった。
いつもなら、俺より先に屋上に来て、日向で、白鋼の剣の手入れをしているはずだった。今朝は、その場所が、空っぽだった。
「……セルカ」
「……なに」
「フィアット、知らないか」
セルカは、氷の花から、目を離さなかった。
しばらく、黙っていた。
それから、ぽつりと、言った。
「……昨日の夜。……泣いてた」
俺は、身体を起こした。
「泣いてた?」
「……森の、小道で。……ひとりで」
セルカの声は、平坦だった。でも、その膝を抱えた指先が、ほんの少しだけ、冷たくなっていた。屋上の床石に、うっすらと、霜が浮かんでいた。
「……理由は、わからない。……でも、泣いてた」
◇
フィアットは、一時間目が始まる直前に、教室に滑り込んできた。
いつもどおりの顔だった。蒼い髪を、今日も、耳の後ろで編み込んでいる。目の縁が、ほんの少しだけ、赤い気がした。でも、気のせいだと言われれば、そう思えるくらいの赤さだった。
「おはようございます、ハスト君」
「……おはよう」
フィアットは、にこりと笑って、隣の席に座った。
いつもどおりだった。
いつもどおりすぎて、かえって、気になった。
「――おい、見ろよ、これ!」
ラインハルトが、毎日王都新聞を、教室の真ん中で広げていた。
社会面の隅の、例の囲み記事。
『碧い小鬼を追え! 第二回――格闘王、王立学園の屋上に跳ぶ。北から帰った岩の拳が、確かめに来たものは何か 文・ペトラ・リンクス』
「格闘王が! 学園の! 屋上に! 新聞に載った!」
「お前が昨日、あの記者に全部喋ったからだろ」
レオンが、頬杖をついたまま、言った。
「記事の最後、読んでみろよ」
ラインハルトが、紙面の一番下を、読み上げた。
「えーと……『なお、屋上には、当時、一年生の男子生徒が一名、昼寝をしていた模様。本人は、何も見ていないと話している』……って、これ、ハストのことじゃん!」
教室中の視線が、俺に集まった。
俺は、机に突っ伏した。
隣で、フィアットが、ほんの少しだけ、笑った気がした。いつもの、くすくすという笑い声よりも、ずっと小さな声で。
◇
その日の放課後、一年の教室は、碧い小鬼亭の、第一回試食会の会場になっていた。
机を寄せ集めて作った長いテーブルの上に、俺が昨夜焼いてきた菓子と、森の茶葉で淹れた冷たい茶が、ずらりと並んでいた。
薄焼きの胡桃パンに、森の蜂蜜を垂らしたもの。干し無花果を練り込んだ、しっとりした焼き菓子。木の実を砕いて、蜂蜜で固めた、小さな棒状の菓子。
それから、テーブルの真ん中に、セルカの作った、溶けない氷の器。透き通った氷の椀の中に、切った果物が、宝石みたいに盛られていた。
「――いただきますっ!」
ラインハルトの号令で、クラス全員が、一斉に手を伸ばした。
一瞬の、沈黙。
それから。
「……うまっ」
「何これ、うまっ!」
「胡桃のやつ、やばい!」
「無花果のほう、しっとりしてて……え、これ本当に最下位が焼いたの!?」
教室が、爆発したみたいに、騒がしくなった。
ラインハルトが、胡桃パンを両手に持って、涙目になっていた。
「ハスト……! お前……! お前ってやつは……! なんで今まで隠してたんだ……!」
「隠してねぇよ。訊かれなかっただけだ」
レオンは、無言で、無花果の焼き菓子を、三つ目に手を伸ばしていた。
「……レオン。お前、それ三つ目だぞ」
「…………味見だ」
「味見で三つは食わねぇよ」
教室の隅で、クルトが、セルカの氷の器を、両手で持ち上げて、じっと見つめていた。
「……溶けない」
「……溶けない」
セルカが、隣で、こくりと頷いた。
「……すごい」
「……すごい、でしょ」
セルカの耳の先が、ほんのり赤かった。
人見知り同士の、ほとんど単語だけの会話だった。でも、二人とも、なんとなく、楽しそうだった。
◇
教室の扉が、勢いよく開いた。
「――いい匂いがすると思ったら!!」
ペトラだった。
栗色の三つ編みを揺らして、鼻をひくひくさせながら、テーブルの前まで、一直線に歩いてきた。
「試食会ですか!? 取材させてくださいっ! あと、一個だけ、食べさせてくださいっ!」
「取材より、食うほうが先だろ、それ」
レオンが、ぼそりと突っ込んだ。
ペトラは、胡桃パンをひとつ摘まんで、ひと口、かじった。
かじったまま、動かなくなった。
焦げ茶色の目が、まん丸に見開かれていた。
「……ハスト君」
「なんだ」
「この胡桃パン、生地の水、何使ってる?」
「……井戸水」
「違う。井戸水だけじゃない。……これ、何か、少しだけ、混ぜてるでしょ。麦の甘みの出方が、普通の水と違う」
俺は、少しだけ、驚いた。
「……森の、湧き水を、一割だけ」
「やっぱり!」
ペトラは、目を輝かせて、手帳に、猛烈な勢いで書き込み始めた。
「パン屋の娘を、なめちゃいけないよ。……うちの父さんが、聞いたら、泣いて喜ぶ。今度、作り方、教えて!」
「取材はどうした」
「これも取材!」
ペトラは、胡桃パンの残りを、大事そうに口に放り込んだ。それから、ふと、テーブルの向こうに目をやった。
「……あれ。セルジーネさん、食べないの?」
テーブルの端で、フィアットが、冷たい茶のカップを両手で持ったまま、ぼんやりしていた。
声をかけられて、はっと、顔を上げた。
「あっ、た、食べます! 食べてます!」
フィアットは、慌てて、目の前の焼き菓子を摘まんで、口に入れた。
噛んで、飲み込んで、それから、少しだけ、黙った。
「……おいしい、です」
小さな声だった。
その声が、ほんの少しだけ、震えていた気がした。
◇
試食会が半分ほど進んだころ、教室の扉が、もう一度、開いた。
今度は、遠慮がちに、少しだけ。
「――ごめんなさい。いい匂いがしたものだから」
レイアーヌだった。その後ろに、ミリエルと、アイシャ会長が、ひょこひょこと顔を覗かせていた。
教室が、一瞬で、凍りついた。
第一王女。ジセリアの聖女。全学年序列一位の生徒会長。三年の、それも学園で一番目立つ三人が、一年の教室の入口に、並んで立っていた。
ラインハルトが、胡桃パンを口にくわえたまま、直立不動になった。
「で、でで、殿下……!?」
「学園では、殿下はやめてって、言ってるでしょう?」
レイアーヌは、くすりと笑って、テーブルの上を、興味深そうに覗き込んだ。
「三年A組の劇の稽古の帰りなの。……これ、ハストが焼いたの?」
「……試食だ。一個だけな」
「一個だけね」
レイアーヌは、無花果の焼き菓子を、ひとつ摘まんで、口に入れた。
噛んで、目を見開いて、それから、黙って、もうひとつに手を伸ばした。
「一個だけって言っただろ」
「……今のは、味見よ」
「レオンと同じこと言ってんじゃねぇよ」
ミリエルは、氷の器を見て、両手を胸の前で組んでいた。
「わぁ……! セルカさんの、氷の器……! きれいです……!」
セルカは、少しだけ、胸を張った。
アイシャ会長は、テーブルの端に、油紙の包みを、どんと置いた。
「差し入れです! 格闘王師匠から、北の蜂蜜菓子!」
「……師匠って、もう呼んでるのか」
「はいっ! 一人目の師匠と、二人目の師匠です!」
教室の窓の外に、ふと、大きな影が差した。
全員が、窓のほうを見た。
二階の窓の外に、岩のような禿頭が、ちょこんと覗いていた。
教室の中を、じっと見ていた。
「……ふむ」
窓の外から、低い声がした。
「中に入ると、扉が、壊れるのでな」
教室中が、悲鳴と笑い声に包まれた。
◇
試食会が終わって、クラスの連中が帰ったあと。
俺は、教室の後片付けをしていた。クルトが皿を洗って、セルカが氷の器を片付けて、それから、ふたりとも、先に帰っていった。
教室には、俺と、フィアットだけが残っていた。
フィアットは、窓際の席に座って、夕焼けを見ていた。
俺は、最後の皿を拭き終えて、布巾を置いた。
「……昨日の夜」
俺が言うと、フィアットの肩が、ぴくりと跳ねた。
「森の小道で、泣いてたって、セルカが言ってた」
フィアットは、窓の外を見たまま、しばらく、黙っていた。
それから、小さく、息をついた。
「……セルカさん、見てたんですね」
「ああ」
「恥ずかしいです」
フィアットは、ようやく、振り返った。
困ったように、笑っていた。
「理由は、わからないんです。本当に。……剣聖さまが、ハスト様の権のことを、苦しみを感じるって言って。格闘王さまが、冷たいって言って。……それを聞いてたら、急に、胸の奥が、痛くなって。気がついたら、泣いてて」
フィアットは、自分の胸に、そっと手を当てた。
「変ですよね。ハスト様の苦しみなのに、どうして、私が泣くんだろうって」
俺は、何も言えなかった。
フィアットは、少しだけ、首を傾げて、俺を見た。
「――ハスト様の、苦しみって、何ですか」
蒼い瞳が、まっすぐだった。
俺は、窓の外の夕焼けを見た。
それから、正直に、言った。
「わからない」
フィアットの目が、少しだけ、見開かれた。
「何かを、失くしたんだと思う。四年前の、冬に。……大事な何かを。でも、それが何だったのか、思い出せない。思い出そうとすると、そこだけ、霧がかかったみたいに、白くなる」
俺は、自分の右手を、見下ろした。
「剣聖が言ってた、底に沈んでる冷たい水ってのは、たぶん、それなんだろうな。……俺自身にも、底が見えない」
教室が、しんと静まり返った。
夕焼けの光が、机の上に、長く伸びていた。
フィアットは、しばらく、俺の手を見ていた。
それから、椅子から立ち上がって、俺の前まで、歩いてきた。
俺の右手を、両手で、そっと、包んだ。
温かい手だった。剣の柄を、毎日、何百回も握っている手。胼胝のできた、少しだけ硬い、でも、温かい手。
「――だったら」
フィアットは、言った。
「その冷たい水ごと、私が、隣で、支えます」
蒼い瞳が、すぐ近くで、俺を見上げていた。
「ハスト様が、底を見られないなら、見られるようになるまで。見られないままでも、ずっと。……私は、ハスト様の、パートナーですから」
俺は、しばらく、何も言えなかった。
それから、包まれた右手の指を、ほんの少しだけ、握り返した。
「……ありがとな」
フィアットは、ふわりと、笑った。
昨日の夜の涙の跡は、もう、どこにも残っていなかった。
◇
教室の扉の外の廊下で。
小さな影が、壁にもたれて、膝を抱えて座っていた。
先に帰ったはずのセルカだった。
淡い水色の目で、閉じた扉を、じっと見つめていた。
湖の底みたいな目の、その底で、何かが、冷たく、ゆっくりと、渦を巻いていた。
でも、それは、いつもの、冷たい渦ではなかった。
もっと、別の何か。
セルカは、膝に顔を埋めて、小さく、小さく、呟いた。
「……フィアットも、ハストさまの、大事なもの。……だから、泣いてたら、いや」
廊下の窓の外で、夕暮れの鐘が、ひとつ、鳴った。
◇
その夜、森の家の食卓には、試食会の残りの菓子が並んでいた。
ロリババアが、胡桃パンの端を、小さくかじった。
「……ほう」
「どうだ」
「森の湧き水を、混ぜたな」
「……なんで、わかるんだよ」
「儂の森の水じゃ。わからいでか」
ロリババアは、もう一口かじって、それから、ちらりと、俺の顔を見た。
「……ハスト。何か、あったか」
「何も」
「お主、嘘をつくとき、右手の親指を、人差し指の横に、こすりつける癖があるのう」
俺は、自分の右手を見下ろした。
……またか。
ロリババアは、くっくっと、喉を鳴らして笑った。それから、何も訊かずに、胡桃パンを食べ続けた。
俺は、テーブルの下で、右手を、そっと握った。
さっき、フィアットに包まれていた手だった。
まだ、ほんの少しだけ、温かかった。
――その冷たい水ごと、私が、隣で、支えます。
胸の奥の、白い場所。いつもは、冷たいだけの場所。
その場所が、今夜は、ほんの少しだけ、冷たくなかった。




