83 岩の拳と、碧の底
バルトロは、ゆっくりと、一歩を踏み出した。
速くはなかった。
むしろ、遅かった。シュベルトの踏み込みのような、一瞬で間合いを詰める速さも、アイシャ会長の影渡りのような、消えるような速さもない。ただ、山が、ほんの少しだけ、こちらへ動いた。そういう一歩だった。
その一歩で、演習場の地面が、沈んだ。
足の裏から伝わってくる振動に、俺は、思わず、膝を緩めた。砂が、バルトロの足を中心に、波紋のように、さざめいていた。
二歩目。
三歩目。
バルトロは、構えていなかった。両腕は、だらりと下がったまま。拳も、握っていない。ただ、歩いてくる。
それなのに、近づいてくるたびに、空気が、重くなっていった。
――間合いが、わからない。
どこからが、あの男の拳の届く距離なのか。どこまで下がれば、安全なのか。何ひとつ、読めなかった。山の麓に立って、山の大きさを測ろうとしているような感覚だった。
五歩目で、バルトロが、止まった。
俺との距離は、まだ、四歩あった。
拳の届く距離ではない。どれだけ腕が長くても。
バルトロの右の拳が、ゆっくりと、握られた。
握られて、前に、突き出された。
ゆっくりと。まるで、目の前の空気を、そっと押すみたいに。
その瞬間、俺の身体が、後ろへ吹き飛んでいた。
◇
何が起きたのか、一瞬、わからなかった。
拳は、俺に、触れていなかった。四歩先で、ただ、空気を押しただけだった。それなのに、その空気が、壁になって、俺の胸を、正面から叩いていた。
演習場の砂の上を、背中で滑った。三歩分、四歩分。ようやく、止まった。
胸の真ん中が、じんじんと痺れていた。
拳圧だった。
拳そのものではなく、拳が押し出した空気の、塊。それが、四歩の距離を一瞬で飛んで、俺の胸を叩いたのだ。魔術でも、何でもない。ただ、四十年かけて鍛え上げた拳が、空気そのものを、殴った。
ベンチのほうで、レイラさんが、口元を押さえていた。
「……今の、魔術じゃ、ないんですか」
「魔術じゃないよ」
シュベルトが、紅茶のカップを膝の上に置いたまま、言った。
「あれが、格闘王の拳だ。……ただの、拳。それだけだよ」
俺は、砂の上で、身体を起こした。
身体強化の術式を、全身に、通した。足に。腕に。目に。
バルトロは、さっきと同じ場所に、立っていた。拳を、ゆっくりと、引き戻していた。
「ふむ」
バルトロの小さな目が、俺を見た。
「まだ、本気ではないな。九人目」
「……そっちもだろ」
「ふむ。では、少しずつ、上げていこう」
◇
二発目の拳圧が、来た。
今度は、見えた。
身体強化した目で、バルトロの拳が押し出した空気の塊が、ほんのわずかに、景色を歪ませながら飛んでくるのが、見えた。
右へ、跳んだ。
空気の塊が、俺のいた場所を通り過ぎて、演習場の端の、大きな岩に当たった。岩の表面が、拳の形に、深々と、えぐれた。
三発目。左へ。
四発目。上へ。
跳ぶたびに、俺のいた場所の地面が、拳の形にえぐれていった。演習場の砂の上に、拳の跡が、次々と刻まれていく。
五発目を、跳んで躱したとき。
バルトロが、目の前にいた。
四歩の距離を、いつ詰めたのか、わからなかった。拳圧に気を取られているうちに、山が、もう、俺の目の前まで、動いていた。
岩のような拳が、真正面から、来た。
今度は、空気ではなかった。本物の拳だった。
俺は、両手を、前に突き出した。
碧が、灯った。
手のひらから溢れた碧い光が、俺の前に、薄い盾の形をとった。覇権の、ほんのひとかけら。シュベルトやクレハと打ち合うときに使う、殺傷性のない、防ぐためだけの碧。
バルトロの拳が、碧の盾に、触れた。
盾が、砕けた。
真ん中から、蜘蛛の巣のように、ひびが走って、碧い光の欠片が、夜の空気の中に、散った。
拳の勢いは、盾を砕いて、ほんの少しだけ、殺されていた。それでも、俺の交差した腕に当たった拳は、俺の身体を、また、後ろへ、吹き飛ばした。
砂の上を、転がった。
「――ハスト様!」
演習場の入口の木の陰から、フィアットの声がした。
俺は、砂の上で、片膝をついて、止まった。
両腕が、痺れていた。
碧の盾が、拳ひとつで、砕かれた。
覇権の盾を、魔術でも何でもない、ただの拳が。
「……ふむ」
バルトロは、拳を、ゆっくりと開いた。
その指の関節から、細く、血が滲んでいた。
「硬い。……良い盾だ」
◇
俺は、立ち上がった。
右手を、横に払った。
碧が、走った。手のひらから溢れた碧い光が、一振りの剣の形をとった。
権。
ベンチのほうで、エトワールが、新聞を下ろしたのが見えた。アイシャ会長が、拳を胸の前で握りしめていた。
刃は、使わない。峰で打つ。そう決めて、権を、構えた。
バルトロが、また、一歩を踏み出した。
俺も、踏み込んだ。
権の峰が、バルトロの肩口へ、斜めに走った。
バルトロは、避けなかった。
左の手のひらを、権の前に、すっと差し出した。
権が、その手のひらに、当たった。
――止まった。
岩のような手のひらが、碧い剣の峰を、素手で、掴んでいた。四十年、拳を握り続けてきた手のひらの、分厚い胼胝が、権の碧い光を、真正面から受け止めていた。
俺は、権に力を込めた。びくともしなかった。
バルトロは、権を掴んだまま、動かなかった。
その小さな目が、権の、碧い光を、じっと見つめていた。
長いあいだ、見つめていた。
「……冷たい」
バルトロが、ぽつりと、呟いた。
「この剣は、冷たいな、九人目」
権を掴んだバルトロの手のひらから、薄い湯気のようなものが、立ち昇っていた。熱ではなかった。何か、別のもの。
「雪の、匂いがする。……それから、もっと、深いところに」
バルトロは、言葉を切った。
「――どうも、キミの権からは、どこか、苦しみを感じるよ」
声がしたのは、ベンチのほうからだった。
シュベルトだった。
紅茶のカップを膝の上に置いたまま、いつもの、のんびりした顔で、でも、目だけは、少しも笑わずに、俺の手の中の権を、見ていた。
「いつも、思ってたんだ。打ち合うたびに。……ハスト。キミの権は、強い。誰よりも。でも、その強さの底に、ずっと、何かが沈んでる。底の見えない、冷たい水みたいなものが」
シュベルトは、少しだけ、首を傾げた。
「それが何なのか、キミ自身も、知らないんじゃないかな」
俺は、何も答えられなかった。
権の碧い光が、手の中で、かすかに、揺れていた。
胸の奥の、白い場所が、きしりと、軋んでいた。
――演習場の入口の、木の陰で。
フィアットが、白鋼の剣を抱えたまま、息を止めていた。
◇
バルトロが、権から、手を離した。
一歩、下がった。
「ふむ。……最後の一手だ」
バルトロは、両足を、肩幅に開いた。腰を、ゆっくりと、落とした。右の拳を、腰の脇に、引いた。
初めて見る、構えだった。
演習場の空気が、変わった。重く、なったのではなかった。止まったのだ。風が止み、木の葉の揺れが止み、ベンチの上のティーポットから立ち昇る湯気さえ、止まったように見えた。
バルトロの全身の筋肉が、ゆっくりと、膨らんでいった。
傷だらけの背中が、岩山の稜線のように、盛り上がっていく。引かれた右の拳の周りの空気が、陽炎のように、歪んでいた。
四十年分の、拳。
あれを、まともに受けたら、碧の盾ごと、腕ごと、持っていかれる。
――逃げるか。
いや。
俺は、権を、手放した。
碧い剣が、手の中で、ほどけて、消えた。
ベンチの上で、アイシャ会長が、目を見開いたのが見えた。
俺は、両足を、肩幅に開いた。右の手のひらを、前に、そっと差し出した。
拳でも、盾でもない。ただの、開いた手のひら。
――この世の、すべての事象を、頭の中で、演算する。
ロリババアの茶の修行。クレハのゴム弾。何千回、何万回と繰り返した、力の流れを読む練習。
バルトロの拳が、来た。
山が、崩れてくるような拳だった。
拳が、俺の手のひらに、触れる。
その、ほんの一瞬前に。
拳の芯に込められた力の流れを、読んだ。四十年分の力が、どこから生まれて、どこを通って、どこへ向かおうとしているのか。全部。拳の先から、肘へ、肩へ、背中へ、腰へ、足の裏へ、大地へ。
その流れの、逆を、なぞった。
俺の手のひらから、ほんのわずかな碧が、拳の中へ、染み込んでいった。拳の流れに逆らうのではなく、流れに沿って。拳の芯を通り抜けて、バルトロの腕を通り抜けて、背中を通り抜けて、足の裏から、大地へ。
拳の力を、全部、大地へ、逃がした。
バルトロの拳が、俺の手のひらの上で、止まった。
ぴたりと。
羽根が、手のひらに、舞い降りたみたいに。
次の瞬間、バルトロの足元の地面が、轟音を立てて、陥没した。
拳の力が、全部、行き場を失って、大地に流れ込んだのだ。演習場の地面に、バルトロを中心に、大きな円が、ひび割れて、沈んでいた。円の外側にいた俺は、手のひらを差し出したまま、一歩も動いていなかった。
演習場が、しんと静まり返った。
◇
バルトロは、沈んだ地面の真ん中で、拳を、俺の手のひらに乗せたまま、しばらく、動かなかった。
それから。
岩のような顔が、ゆっくりと、崩れた。
笑っていた。
「――ふ、はは」
低い、腹の底から響くような笑い声だった。
「ふはははは!」
バルトロは、拳を引いて、天を仰いで、笑った。演習場の木々の葉が、その笑い声で、揺れた。
ベンチの上で、エトワールが、新聞を取り落としていた。
「……格闘王が、笑った」
アイシャ会長が、呆然と呟いた。
「三十年、誰も、見たことがないって……」
バルトロは、ひとしきり笑ったあと、俺に向き直って、両の拳を、胸の前で合わせた。
深く、一礼した。
「――見事」
それから、顔を上げて、俺の目を、じっと見た。
「悲しい拳だ、九人目。……だが、優しい」
「…………」
「四十年分の拳を、お主は、受け止めも、叩き返しもせず、大地へ還した。誰も、傷つけぬように。……儂の拳さえも、傷つけぬように」
バルトロは、沈んだ地面から、ゆっくりと、上がってきた。
それから、ベンチの後ろで立ち尽くしているアイシャ会長のほうを、振り返った。
「娘」
「は、はいっ!」
「お主の追う背中は、追うに値する。……儂が、保証しよう」
アイシャ会長の顔が、ぱっと、輝いた。
「ふむ。……だが」
バルトロは、続けた。
「その背中は、遠い。お主ひとりの拳では、届くまでに、何十年もかかるであろう。……じゃから、儂が、お主の二人目の師になろう」
「え」
「一人目の師の背中に届くための、踏み台としてな」
アイシャ会長は、しばらく、ぽかんと口を開けていた。
それから、満面の笑みで、拳を、空に突き上げた。
「――師匠が、二人になりましたっ!!」
ベンチの上で、シュベルトが、紅茶を吹き出した。
◇
騒ぎの中で、ふと、演習場の入口のほうを見た。
木の陰に、フィアットの姿は、なかった。
白鋼の剣を抱えた蒼い髪の少女は、いつの間にか、夜の森の小道を、ひとりで、帰っていったらしかった。
木の上で膝を抱えていたセルカが、その小道の先を、淡い水色の目で、じっと見つめていた。
◇
夜の森の小道を、フィアットは、ひとりで歩いていた。
白鋼の剣を、両腕で、胸に抱きしめていた。
月の光が、木々の葉の隙間から、まだらに落ちていた。足元の小道は、ところどころ、白く光っていた。
――どうも、キミの権からは、どこか、苦しみを感じるよ。
剣聖さまの声が、耳の奥で、何度も、繰り返されていた。
――雪の、匂いがする。
格闘王さまの声も。
フィアットは、立ち止まった。
胸の奥が、痛かった。どこかを怪我したわけでもないのに。誰かに、何かを言われたわけでもないのに。ハスト様の権の、碧い光を見ていたら、急に、胸の奥の、どこか深いところが、ぎゅっと、締めつけられた。
頬に、何かが、伝っていた。
指で触れると、濡れていた。
「……え」
涙だった。
フィアットは、自分の指先を、呆然と見つめた。
悲しいことなんて、何もなかった。ハスト様は、格闘王さまに勝った。アイシャ会長は、師匠が二人になったって、大喜びしていた。みんな、笑っていた。
なのに、涙が、止まらなかった。
「……なんで」
フィアットは、剣を抱きしめたまま、夜空を見上げた。
月が、白かった。
白い月を見ていたら、なぜか、雪の匂いがした気がした。冷たくて、静かで、どこか、懐かしい匂い。
――雪の匂いなんて。
どうして、私は、そんなものを、懐かしいと思うんだろう。
フィアットは、ぎゅっと目を閉じた。
それから、涙を、制服の袖で、乱暴に拭った。
「……変なの」
小さく呟いて、また、歩き出した。
月の光が、その蒼い髪を、白く、照らしていた。夜の森の小道は、どこまでも、静かだった。




