82 ふむ、と格闘王は言った
翌日の昼休み、王立学園の第二訓練場は、ちょっとした騒ぎになっていた。
訓練場を囲む石の観覧席に、生徒たちが、鈴なりになっていた。一年も、二年も、三年も。昼飯のパンを片手に、身を乗り出して、訓練場の真ん中を見つめている。
その真ん中に、アイシャ会長が、ひとりで立っていた。
いつもの、昼休みの自主稽古だった。三年間無敗の、全学年序列一位。生徒会長。その稽古を見物しに来る生徒は、いつもなら、せいぜい十人かそこらだ。
今日は、百人を超えていた。
理由は、訓練場の隅に、あった。
石の観覧席の一番端に、岩のような男が、胡坐をかいて座っていた。
禿頭が、昼の日差しを受けて、つるりと光っていた。身の丈は、座っていてさえ、隣の生徒の頭より、ずっと高い。膝の上には、小さな松の盆栽。
「……格闘王だ」
「格闘王バルトロだよ、本物の……!」
「北の遠征から、戻ってきたって、新聞に……!」
囁き声が、観覧席じゅうに、さざ波のように広がっていた。
俺は、本校舎の屋上の手すりにもたれて、それを見下ろしていた。
隣では、セルカが、膝を抱えて、氷の花の前に座っていた。フィアットは、白鋼の剣を膝に乗せたまま、手すりから身を乗り出していた。
「……バルトロ様、本当に来ちゃいましたね」
「来ちゃったな」
「アイシャ会長、気づいてるんでしょうか」
「気づいてるだろ。あの人、ああ見えて、人の視線にはすごく敏感だから」
訓練場の真ん中で、アイシャ会長が、構えた。
◇
アイシャ会長の稽古は、いつ見ても、不思議な稽古だった。
相手は、いない。ただ、訓練場の真ん中に立って、拳を、振るう。
それだけなのに、見ている者の目には、何も映らない。
アイシャ会長の姿が、ふっと、ぶれる。次の瞬間には、三歩右に立っている。また、ぶれる。今度は、五歩後ろ。拳を振るっているはずなのに、その拳が、どこを通って、どこへ行ったのか、誰にも見えない。ただ、訓練場の砂が、何もないところで、ぱっ、ぱっと、小さく弾けていく。
幻影体術。
一段目、影踏み。踏み込みの瞬間に、残像を残す。
二段目、影渡り。移動の軌跡そのものを、幻で塗り潰す。
三段目、影打ち。拳の軌道を幻で覆い、打たれた者にさえ、どこから打たれたのか、わからせない。
観覧席の生徒たちは、口を半開きにして、それを見ていた。半分以上は、何が起きているのかすら、わかっていないはずだ。
観覧席の端で、バルトロだけが、身じろぎひとつせずに、訓練場の真ん中を見つめていた。
その小さな目が、アイシャ会長の消えた場所ではなく、現れる場所を、一歩先に、追っていた。
――見えてる。
アイシャ会長の幻影体術を、あの男は、素の目で、見ている。
訓練場の真ん中で、アイシャ会長の動きが、止まった。
汗ひとつ、かいていなかった。拳を、ぷらぷらと振りながら、観覧席の端を、まっすぐに振り返った。
「――さっきから、全部、見えてますよね」
観覧席が、しんと静まり返った。
バルトロは、盆栽を、そっと観覧席の石の上に置いた。
それから、ゆっくりと、立ち上がった。
立ち上がると、観覧席の生徒たちが、一斉に、のけぞった。座っていたときでさえ大きかった男が、立ち上がると、本当に、山のようだった。
バルトロは、観覧席の段を、一段ずつ、降りていった。一段降りるたびに、石の段が、かすかに軋んだ。
訓練場の砂の上に降り立って、アイシャ会長の前まで、歩いていった。
アイシャ会長の頭が、バルトロの胸の高さにも、届いていなかった。
「ふむ」
バルトロは、アイシャ会長を見下ろした。
「良い拳だ」
「ありがとうございます」
「誰にも、見えぬ拳。……だが、その拳を振るうお主の目は、ずっと、誰かを探しておるな」
アイシャ会長の肩が、ほんのわずかに、強張った。
バルトロは、しばらく、黙っていた。
それから、言った。
「娘。儂の、弟子になれ」
観覧席が、どよめいた。
格闘王は、弟子を取らない。それは、王都の子どもでも知っている話だった。三十年間、何百人という武芸者が弟子入りを志願して、全員、門前払いされた。拳ひとつで山肌を割る男が、唯一、教えを授けた者は、ひとりもいない。
その格闘王が。
「――お断りします」
アイシャ会長は、即答した。
観覧席の、どよめきが、ぴたりと止まった。
◇
屋上で、フィアットが、手すりから、ずり落ちそうになっていた。
「こ、断った……!? 格闘王様の、弟子入りを……!?」
「……あの人なら、断るだろうな」
俺は、手すりにもたれたまま、言った。
訓練場の真ん中で、バルトロは、身じろぎひとつしなかった。
「ふむ。……理由は」
「私の拳は、届かせたい背中に、届かせるためにあります」
アイシャ会長は、拳を、胸の前で、ぎゅっと握った。
「三年間、誰にも見えない拳を振るってきました。誰も、私の拳がどこから来て、どこへ行くのか、見てくれなかった。……でも、ひとりだけ。私の拳を、正面から見て、受け止めもせず、叩き返しもせず、ただ、静かに遮った人がいた」
アイシャ会長は、顔を上げた。
「その人の背中に、まだ、届いていないんです。……だから、他の誰かの背中を追いかけている暇は、ありません」
バルトロは、長いあいだ、アイシャ会長を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと、顔を上げた。
訓練場の観覧席を越えて。校舎の壁を越えて。
本校舎の屋上の、手すりの、俺のほうを、まっすぐに見た。
――目が、合った。
「……ふむ」
バルトロの声は、屋上まで、届くはずのない声だった。
なのに、はっきりと、聞こえた。
「ならば、その背中が、追うに値するものか、確かめさせてもらおう」
◇
次の瞬間、屋上が、揺れた。
比喩ではなかった。本当に、揺れたのだ。屋上の床石が、足の裏で、ずしんと沈んだ。手すりの根元の氷の花が、かすかに震えた。
俺の目の前に、岩のような男が、立っていた。
訓練場から、校舎の壁を、ひと跳びで、駆け上がってきたのだ。屋上の縁の床石が、着地の衝撃で、蜘蛛の巣のように、ひび割れていた。
フィアットが、剣を胸に抱えたまま、固まっていた。
セルカは、膝を抱えたまま、淡い水色の目で、じっとバルトロを見上げていた。屋上の空気が、ほんの少しだけ、冷えていた。
「――お主が、師匠殿か」
バルトロが、俺を見下ろした。
俺は、手すりにもたれたまま、全力で、寝ぼけた顔を作った。
「……人違いです」
「ふむ。昨日、王城の廊下で、聞こえぬふりをして歩いていった背中と、同じ背中だが」
「……人違いです」
「お主の拳からは、雪の匂いがする。……昨日も、言うたな」
俺は、黙った。
バルトロは、俺の目を、じっと見ていた。深い皺の奥の、小さな目。その目の奥には、怒りも、侮りも、なかった。ただ、山の上から谷底を見下ろすような、静かな色だけがあった。
「今夜。博識王の演習場で、待っておる」
「……断る」
「ふむ」
バルトロは、少しも、表情を変えなかった。
「では、明日の朝礼で、全校生徒の前で、改めて、頼むとしよう。……格闘王が、一年の、万年最下位の少年に、手合わせを乞う。さぞかし、噂になるであろうな」
「…………」
俺は、天を仰いだ。
春の空は、今日も、青かった。こういう日に限って、雲ひとつない。
「……わかった。行く」
「ふむ」
バルトロは、満足げに頷いた。
それから、屋上の縁の、ひび割れた床石を見下ろして、ほんの少しだけ、申し訳なさそうな顔をした。
「……これは、博識王に、弁償せねばならんな」
◇
午後の教室は、当然のように、その話で持ちきりだった。
「――格闘王が! 訓練場から! 屋上まで! ひと跳びで!」
ラインハルトが、教壇の前で、両腕を振り回していた。
「見たか、レオン!? あれは、ただの跳躍じゃない! 何かを確かめに行ったんだ! 屋上に、何かがある! あるいは、誰かが、いる!」
「屋上にいるのは、だいたい、いつも、ハストだろ」
レオンが、頬杖をついたまま、言った。
教室中の視線が、一斉に、窓際の一番後ろの席に集まった。
俺は、机に突っ伏していた。
「……ハスト?」
「……寝てた」
「格闘王が、目の前に跳んできたのに!?」
「……寝てた」
「嘘だろ!?」
「格闘王は、たぶん、景色を見に来たんだろ。屋上、眺めいいから」
俺は、突っ伏したまま、ひらひらと手を振った。
隣の席で、フィアットが、口元を押さえて、肩を震わせていた。笑いをこらえているらしい。セルカは、教室の真ん中の席で、何事もなかったように、窓の外を眺めていた。
教室の扉が、勢いよく開いた。
「――今の話、詳しく!!」
ペトラだった。
栗色の三つ編みを揺らして、革の手帳を胸に抱えて、教室に飛び込んできた。耳の上の鉛筆は、今日も、削りかけのままだった。
「格闘王バルトロ様が、屋上に跳んだって、本当ですか!? 目撃者は!?」
ラインハルトが、待ってましたとばかりに、手を挙げた。
「はいっ! 俺です! 観覧席の、前から三列目で見てました!」
「詳しくっ!」
二人が、教壇の前で、またしても、異様な熱量で盛り上がり始めた。
ペトラは、猛烈な勢いで鉛筆を走らせながら、ふと、顔を上げた。
焦げ茶色の目が、教室の一番後ろの、突っ伏した俺の背中を、ちらりと捉えた。
「……屋上にいたの、ハスト君?」
「……寝てた」
ペトラの鉛筆が、手帳の上で、小さく丸を描いた。
俺は、突っ伏したまま、右手を、そっと、机の下に隠した。
◇
その夜。
学園の裏の森にある、エトワールが管理する演習場には、なぜか、観客が集まっていた。
「――いやぁ、楽しみだね。格闘王と、ハストの手合わせなんて」
演習場の端の、石のベンチに、シュベルトが、紅茶のカップを片手に、のんびりと腰掛けていた。その隣には、レイラさんが、ティーポットと焼き菓子の籠を抱えて、ちょこんと座っている。
「シュベルトさん、今日で、お茶会三百八十二日目ですね」
「レイラさん、今日は自分から数えてくれたね」
「……っ、い、今のは、なしです!」
レイラさんが、真っ赤になって、そっぽを向いた。
ベンチの反対側には、エトワールが、毎日王都新聞を広げて座っていた。その後ろに、アイシャ会長が、そわそわと落ち着かない様子で立っていた。
「……エトワール様。これ、私のせいですよね」
「そうだね」
「……すみません」
「いいや。いい機会だ」
エトワールは、新聞の陰で、眼鏡を押し上げた。
「格闘王は、三十年、誰の拳も認めなかった男だ。その男が、ハストの拳を見て、何を言うのか。……興味がある」
演習場の入口の木の陰には、フィアットが、白鋼の剣を抱えて、そっと立っていた。昼休みのあと、アイシャ会長に、夜の稽古に誘われたらしい。……誘われたというより、たぶん、見物の口実をもらったのだろう。
さらに、その上の、木の枝の上に。
セルカが、膝を抱えて、ちょこんと座っていた。
月が、高く昇っていた。演習場の砂が、月の光を受けて、白く、ぼんやりと光っていた。
俺は、演習場の真ん中で、ため息をついた。
「……おい、エトワール」
「何だい」
「止めろよ、これ」
「無理だね」
エトワールは、新聞から目を上げずに、言った。
「格闘王が一度、乞うと決めた手合わせを止められる人間は、この国に、二人しかいない。ひとりは、陛下。……もうひとりは、君だ。君が、勝つことでね」
「……負けたら」
「負けたら、明日の朝礼が、楽しみだね」
俺は、もう一度、ため息をついた。
「……なんで、こんなに、人がいるんだ」
「ふむ」
演習場の反対側から、低い声がした。
バルトロだった。
昼間と同じ、くたびれた灰色の武道着。膝の上に抱えていた盆栽は、演習場の端の石の上に、そっと置かれていた。
バルトロは、演習場の真ん中まで歩いてくると、俺の十歩手前で、足を止めた。
それから、武道着の上衣を、ゆっくりと、脱いだ。
月の光が、その上半身を、照らし出した。
傷だらけだった。
肩にも、胸にも、背中にも。刀傷。槍の突き傷。獣の爪痕。火傷の痕。古いものも、新しいものも。数えきれないほどの傷が、岩のような筋肉の上に、地図のように、刻まれていた。
ベンチの上で、レイラさんが、小さく息を呑んだ。シュベルトは、紅茶のカップを、ゆっくりと膝の上に下ろした。あの傷の数だけ、あの男は、誰かの前に立ってきたのだ。北の荒野で。名もない村の前で。
バルトロは、両の拳を、胸の前で、軽く合わせた。
深く、一礼した。
「――格闘王、バルトロ・ヴァイン」
低い声が、夜の演習場に、静かに響いた。
「九人目の頂天者殿に、一手、乞う。……参る」




