81 北から帰った、岩と詩人
王都の北門の衛兵たちは、その朝のことを、しばらく忘れられなかったらしい。
朝霧の立ち込める街道の向こうから、まず、山が歩いてきた。
最初は、誰もが、そう思った。霧の中に、ぼんやりと浮かび上がった、巨大な影。人の背丈の、倍はある。その影が、一歩、また一歩と、ゆっくり、北門へ近づいてくる。地面が、かすかに揺れていた。
霧が晴れて、それが人だとわかったとき、衛兵たちは、別の意味で、言葉を失った。
岩のような男だった。
身の丈は、並の男の頭ひとつ半ほど高い。肩幅は、北門の通用口の幅とほとんど同じ。頭には、髪の毛が一本もなく、朝日を受けて、つるりと光っていた。日に焼けた顔は、皺が深く刻まれていて、五十は過ぎているように見えた。
背中には、人ひとりが丸ごと入りそうな大きさの荷袋を背負っていた。
その荷袋の、一番上に。
小さな、松の盆栽が、ちょこんと載っていた。
「……と、止まれ! 何者だ!」
若い衛兵が、震える声で、槍を突き出した。
岩のような男は、足を止めた。
槍の穂先を、ちらりと見下ろした。それから、懐から、一枚の銀の札を取り出して、衛兵の目の前に、そっと差し出した。
王家の紋章と、八つの星。頂天者の、証だった。
「ふむ」
男は、それだけ言った。
衛兵の槍が、からんと、石畳に落ちた。隣にいた年嵩の衛兵が、慌てて、若い衛兵の頭を押さえつけて、一緒に頭を下げた。
そのとき、男の後ろの霧の中から、もうひとつの影が、現れた。
白い馬に乗った、細身の男だった。長い銀髪を、首の後ろで、絹の紐で結わえている。白い外套に、銀の刺繍。背中には、身の丈ほどもある、細く長い槍。
男は、北門の前で馬を止めると、朝日を仰いで、両腕を大きく広げた。
「――おお、王都よ! 懐かしき石畳よ! 北の荒野で、凍える夜を幾つ越えたことか! 霜に咲く花も、吹雪に舞う鷹も、ついぞ、君の美しさには及ばなかった!」
衛兵たちは、ぽかんと口を開けていた。
銀髪の男は、馬の上から、衛兵たちに向かって、優雅に一礼した。
「やぁ、ご苦労。槍聖リュシアン・ヴェルディ、ただいま帰還したよ。……そっちの岩は、格闘王のバルトロ。見ればわかるだろうけどね」
「ふむ」
岩のような男が、また、それだけ言った。
◇
その日の昼、王城の、国王の執務室には、久しぶりに、頂天者が全員、揃っていた。
八人。
剣聖シュベルト。賢者レイラ。博識王エトワール。銃王クレハ。錬成帝ラーク。弓王エレナ。
そして、北方の遠征から戻ったばかりの、格闘王バルトロと、槍聖リュシアン。
それから、九人目の俺と、陛下と、エトワールの後ろに控えたアイシャ会長。
「――いやぁ、レイラ嬢! 相変わらず、麗しい!」
リュシアンが、部屋に入るなり、レイラさんの前に片膝をついて、その手を取ろうとした。
「北の荒野で、君の笑顔を思い出さない夜はなかったよ。凍てつく星空の下で、僕は、君のために、詩を三十編、書いた」
「あ、あはは……お、おかえりなさい、リュシアンさん……」
レイラさんが、引きつった笑顔で、そっと手を引っ込めた。
その隣で、シュベルトが、腕を組んで、壁にもたれていた。
「やぁ、リュシアン。まだ、そんな長い棒を振り回してるのかい」
「やぁ、シュベルト。君こそ、まだ、そんな短い鉄の板を振り回してるのかい」
二人は、にこやかに、微笑み合った。目は、少しも笑っていなかった。
「……あの二人、昔からああなんです」
エトワールの後ろで、アイシャ会長が、小声で俺に教えてくれた。
「剣と槍、どっちが強いかで、もう十年以上、決着がついてないんだって」
「決着つけりゃいいだろ」
「つけようとすると、毎回、陛下の執務室が半壊するから、禁止されてるんだって」
陛下が、書類の山の向こうで、心底うんざりした顔をしていた。
部屋の反対側では、バルトロが、窓辺の床に、どっかりと胡坐をかいていた。椅子には、座らなかった。たぶん、王城の椅子では、壊れてしまうのだろう。膝の上には、例の松の盆栽を、大事そうに抱えていた。
「……バルトロさん、それ、持ってきたんスか」
ラークが、目を丸くした。
「ふむ。北の岩山で、拾った」
バルトロは、盆栽の枝を、太い指先で、そっと撫でた。岩を割るという拳の持ち主とは思えないくらい、優しい手つきだった。
「百年、風に耐えた松だ。……良い枝ぶりだろう」
「は、はぁ……」
それから、バルトロは、荷袋の中から、油紙の包みを取り出して、陛下の執務机の上に、どんと置いた。
「土産だ。北の、蜂蜜菓子」
「おお! さすがバルトロ! わかってる!」
陛下が、ジャージの袖をまくって、包みに飛びついた。
エレナが、椅子の上で、扇子を閉じた。
「まぁ、バルトロさま! ワタクシにも、お一つくださいまし!」
「ふむ。数は、ある」
「さすがですわ! では、博識王さまの紅茶にも、蜂蜜を――」
「入れなくていい」
エトワールが、即座に、自分のカップを手で覆った。
「――バルトロのおっさん!」
クレハが、機関銃を壁に立てかけて、バルトロの前に、どかりとしゃがみ込んだ。
「久しぶりだねぇ! 北でなまってないか、確かめてやるよ!」
クレハは、窓辺の小卓を引き寄せて、その上に、右肘をついた。
腕相撲だった。
バルトロは、盆栽を、そっと床に置いた。それから、クレハの手を、岩のような手で、握った。
「ふむ」
「いくよ!」
小卓が、軋んだ。
二人の腕は、ぴくりとも動かなかった。クレハの顔が、みるみる赤くなっていく。バルトロの顔は、少しも変わらない。ただ、小卓の脚が、みしみしと、悲鳴を上げていた。
「――壊すな!! それ、先代から受け継いだ小卓なんだぞ!!」
陛下が、蜂蜜菓子を握りしめたまま、叫んだ。
小卓の脚に、ひびが入った、その瞬間。
二人は、同時に、手を離した。
「……ふむ。腕を上げたな、銃王」
「おっさんこそ、相変わらず、化け物だねぇ」
クレハは、真っ赤になった右手を、ぶんぶんと振りながら、にかっと笑った。
「……クレハさん、銃王なのに握力が格闘王並みって、本当だったんだ」
アイシャ会長が、俺の隣で、感心したように呟いた。
「並みどころか、引き分けてたぞ」
俺は、ひびの入った小卓を見ながら、言った。陛下が、その小卓の前で、膝をついて、うなだれていた。
◇
蜂蜜菓子が、一通り、みんなの手に行き渡ったころ。
リュシアンが、窓辺に歩み寄って、北の空を見上げた。
さっきまでの、芝居がかった笑みは、どこかへ消えていた。
「――さて、陛下。北の話を、しようか」
部屋の空気が、変わった。
陛下が、蜂蜜菓子を、机の上に置いた。
「聞かせてくれ」
「北の山脈の、さらに奥。地図にも載っていない谷に、古い砦がある。百年前の、北方戦役の頃に捨てられた砦だ。……その砦に、灯りが点いている」
リュシアンは、窓の外を見たまま、言った。
「一月前、斥候の真似事をしに、ひとりで潜り込んでみた。……砦の中に、兵がいた。三百か、もう少し多いか。北の貴族の私兵の生き残りと、食い詰めた傭兵と、それから」
リュシアンは、言葉を切った。
「それから、人ではないものが、混じっていた」
「人ではない?」
エトワールが、眼鏡を押し上げた。
「見た目は、人だよ。鎧を着て、槍を持って、隊列を組んで歩いている。……でも、胸の真ん中に、白い石が埋め込まれていた。ちょうど、こんなふうに」
リュシアンは、自分の胸の真ん中を、指で、とんと叩いた。
「僕の槍で、一体、突いてみた。肩を貫いたのに、血が出なかった。顔色ひとつ変えずに、槍を掴んで、押し返してきた。……胸の石を突いたら、ようやく、崩れた。崩れたあとには、灰しか、残らなかった」
部屋が、しんと静まり返った。
ラークが、蜂蜜菓子を握りしめたまま、低く唸った。
「……神の欠片ッスよ、それ。聖騎士の剣の柄頭のと、同じやつだ」
「ガブリエルの、残り物か」
シュベルトが、壁から背中を離した。
「ガブリエルは、四年かけて、大陸中から欠片を集めてた。新しい心臓を作るために。……でも、全部が、心臓に使われたわけじゃない」
エトワールが、新聞の裏に、ペンを走らせた。
「残りの欠片の行方が、ずっと、わからなかった。ヴィンセント枢機卿の帳簿にも、半分ほど、行き先の書かれていない出荷があった。……北へ、流れていたのか」
◇
「――それと、もうひとつ」
リュシアンは、窓辺から振り返った。
「砦の周りの村を、いくつか回った。……村人たちが、ひどく怯えていた。夜になると、砦から、ひとりの男が降りてくるそうだ」
陛下の肩が、ぴくりと動いた。
「銀色の目をした、痩せた男。村の広場に、村人を全員集めて、ひとりずつ、その目で、じっと覗き込む。……それで、何人かが、その場で、連れていかれる」
「……連れていかれて、どうなる」
俺は、思わず、口を開いていた。
リュシアンは、俺のほうを見た。それから、少しだけ、目を伏せた。
「戻ってこない。……村人たちは、あの男のことを、こう呼んでいた。銀の眼の、王子さま、と」
陛下が、目を閉じた。
長いあいだ、閉じていた。
それから、ゆっくりと、目を開けた。
「……あいつは、何を、探してる」
「それは、わからない。でも、村の老人がひとり、こう言っていた」
リュシアンは、静かに言った。
「――あの王子さまは、偽物を探しておられる。人の皮をかぶった、偽物を。……もう、二十年も、ずっと」
偽物。
人の皮をかぶった。
貌盗み。
部屋の中の何人かが、同時に、同じことを考えたのがわかった。陛下の顔から、血の気が引いていた。エトワールのペンが、新聞の裏で、止まっていた。
「村の連中は、もうひとつ、噂していた」
リュシアンは、続けた。
「砦の近くで、顔のない女を見た、と。夜の雪道に、ひとりで立っていて、振り返ると、顔のところだけが、白く、のっぺりとしている。……見た者は、その次の日、自分とそっくりな誰かが、村の中を歩いているのを見るそうだ」
レイラさんが、口元を押さえた。
エレナが、扇子を、ゆっくりと閉じた。
「……北の、怪談としては、よくできた話だと思ったんだけどね」
リュシアンは、自嘲気味に笑った。
「今の顔ぶれを見る限り、どうやら、ただの怪談じゃないらしい」
◇
「――バルトロ」
陛下が、窓辺の床で胡坐をかいている岩のような男を見た。
「北の峠は」
「ふむ。押さえてある」
バルトロは、盆栽を膝に乗せたまま、言った。
「峠の砦に、王国軍を二百、置いてきた。……今のところ、銀の眼の兵は、峠を越えてこない。越えようとも、していない。まるで、何かを、待っているように」
「待っている」
エトワールが、繰り返した。
「ふむ。……雪をな」
バルトロは、窓の外の、まだ青い空を見上げた。
「北の山脈は、冬になると、峠が雪で閉ざされる。だが、雪が積もりきる前の、最初の雪の夜だけは、峠の氷が、薄く張る。重い鎧を着た兵でも、渡れるくらいに。……山の民は、それを、白い橋と呼ぶ」
最初の雪の夜。
俺の胸の奥で、何かが、きしりと、軋んだ。
雪の夜。
あの子の手が、冷たかった夜。
「……初雪の夜に、来る、ってことか」
俺が言うと、バルトロは、俺のほうに、ゆっくりと顔を向けた。
深い皺の奥の、小さな目が、俺を、じっと見た。
「ふむ。……お主が、九人目か」
「…………」
「噂は、北にも、届いておる。碧い小鬼、とな。……銀の眼の王子も、その噂を、ひどく気にしておったそうだ」
バルトロの目が、ほんのわずかに、細くなった。
「お主の拳からは、雪の匂いがする」
◇
会議が終わって、執務室を出たあと。
王城の廊下で、バルトロが、アイシャ会長の前で、足を止めた。
アイシャ会長は、エトワールの後ろについて歩いていて、ちょうど、窓の外を眺めていたところだった。
「――娘」
バルトロの声は、低く、静かだった。
アイシャ会長が、振り返った。自分の頭の、さらに倍ほどの高さにある、岩のような顔を、きょとんと見上げた。
「その拳。……誰に、習った」
アイシャ会長は、自分の拳を、見下ろした。
それから、にこっと、笑った。
「独学です!」
「ふむ」
「でも」
アイシャ会長は、廊下の先を歩いている、俺の背中を、まっすぐに指差した。
「私の師匠は、ハスト様です!」
廊下の空気が、凍りついた。
俺は、聞こえないふりをして、歩き続けた。廊下の窓に映った自分の顔が、ひどく引きつっていた。
背中に、岩のような視線が、突き刺さっていた。
「……ふむ」
バルトロの声が、廊下に、低く響いた。
「では、その師匠殿に、一度、ご挨拶をせねばなるまいな」




