80 新米記者ペトラと、名前のない英雄
ペトラ・リンクスが学園にやって来たのは、出し物会議の三日後だった。
「――はいっ! 毎日王都新聞、社会部! ペトラ・リンクスです! 未来の主筆です! よろしくお願いしますっ!」
朝の一年の教室に、元気すぎる声が響き渡った。
教壇の横に、ひとりの若い女性が立っていた。年は、十九か二十くらい。栗色の髪を、耳の下で二つの三つ編みにしている。鼻の上に、薄いそばかす。くたびれた革の手帳を胸に抱えて、耳の上には、削りかけの鉛筆が一本、挟まっていた。
「学園長先生のご厚意で、学園祭までの間、取材させていただくことになりました! 皆さんの出し物、皆さんの意気込み、それから――」
ペトラは、目をきらりと光らせた。
「皆さんが知っている、碧い小鬼の噂! なんでも、お聞かせくださいっ!」
教室が、一瞬で、沸いた。
「碧い小鬼の噂なら、俺に任せてくれ!!」
真っ先に立ち上がったのは、もちろん、ラインハルトだった。
俺は、窓際の一番後ろの席で、机に突っ伏したまま、こめかみを押さえた。
◇
ペトラの取材は、一日がかりだった。
休み時間のたびに、教室から教室へ、廊下から廊下へ。革の手帳に、猛烈な勢いで鉛筆を走らせながら、誰彼かまわず話しかけていく。
ラインハルトとは、すぐに意気投合した。
「――つまり! 四年前の聖火祭で、紅い悪魔と碧い小鬼は、二人一組だったと!」
「そうなんですよ! 俺の情報網によれば、紅い悪魔はでっかくて、碧い小鬼はちっさい!」
「ちっさい……! なるほど、身長差……! 書き留めます!」
廊下の向こうで、二人が、異様な熱量で盛り上がっていた。
俺は、教室の窓から、それを眺めながら、心の中で、ラインハルトの口を縫い付けたいと思った。
二時間目の休み時間には、フィアットが捕まっていた。
「――セルジーネさんは、こないだの親善試合で、ジセリアの首席候補生に勝ったんですよね! 剣の柄頭を狙えって助言は、誰から!?」
「が、学園長先生から、です……!」
「なぜ柄頭なのか、理由はお聞きになりました!?」
「き、聞いてません……!」
「ふむふむ……! 学園長は、何かを知っていた……!」
フィアットが、廊下の隅で、必死に目を泳がせていた。
昼前には、三年の廊下にまで、足を延ばしていたらしい。
あとで聞いた話だと、レイアーヌは、王女らしく、にっこりと微笑んで、「学園祭の劇を、ぜひ観に来てくださいね」とだけ言って、見事にかわしたそうだ。アイシャ会長は、「碧い小鬼? 知らない。でも、私の師匠は、すごく強いよ!」と、満面の笑みで答えて、ペトラの鉛筆を、三本、へし折らせたらしい。
ミリエルは、困ったように笑いながら、「私は、ジセリアの、ただの留学生ですから」と、何度も繰り返したそうだ。
それでも、ペトラは、引き下がらなかったらしい。
「じゃあ、聖女さま――じゃなかった、ミリエルさん。ひとつだけ。あの夜、ジセリアの教皇さまが亡くなったのは、本当に、聖遺物の暴走だったんですか?」
ミリエルは、しばらく、黙っていたそうだ。
それから、胸の前で、両手を、そっと組んで、言った。
「……誰かの命で贖う奇跡は、もう、どこにもありません。それだけは、本当です」
ペトラは、その言葉を、一字一句、手帳に書き留めて、深々と頭を下げたそうだ。
「ありがとうございます。……それ、すごく、いい言葉です」
◇
昼休み。
屋上の手すりの根元に寝転がって、空を見上げていると、屋上の扉が、勢いよく開いた。
「――あっ! ここにも、生徒さん発見!」
……来やがった。
俺は、目を閉じた。
寝たふりだ。俺は空気だ。俺は屋上の床石だ。
足音が、近づいてきた。俺の頭のすぐ横で、止まった。それから、隣に、誰かが、すとんと腰を下ろす気配がした。
「……あれ。寝てる」
ペトラの声だった。
「ふむふむ。屋上で昼寝。これは、平和でいいですねぇ。……隣の子は、起きてる?」
「……起きてる」
セルカの声がした。氷の花の前で、膝を抱えているはずだ。
「わぁ、きれいなお花! これ、氷? え、溶けないの?」
「……溶けない」
「すごい! どうやって作ったの?」
「……ひみつ」
「えー、残念」
ペトラは、ちっとも残念そうではない声で言った。それから、鉛筆が、手帳の上を走る音がした。
「溶けない氷の花、か。……そういえば、こないだの聖火の夜、迷いの森の入口で、季節外れの霜が降りてたって証言が、二件あったんだよねぇ」
俺の背中に、冷や汗が、一筋、伝った。
「……知らない」
セルカの声は、平坦だった。少しも、揺れていなかった。
「そっか。そうだよね。ごめんね、変なこと訊いて」
ペトラは、明るく笑った。
それから、俺のほうを向いた気配がした。
「――ねぇ、君」
俺は、寝たふりを続けた。
「起きてるでしょ」
続けた。
「さっきから、まつ毛が、ぴくぴくしてる」
…………。
俺は、片目だけ、薄く開けた。
ペトラが、俺の顔を、覗き込んでいた。そばかすの散った頬。耳の上の、削りかけの鉛筆。好奇心で、まん丸に見開かれた、焦げ茶色の目。
「やっぱり起きてた」
「……寝てる」
「起きてるってば」
ペトラは、くすくすと笑った。それから、手帳を膝の上に広げた。
「君、一年生だよね。名前は?」
「……ハスト」
「ハスト君。……あ、聞いたことある。万年最下位の、寝てばっかりの子でしょ。碧い小鬼亭の、料理長」
なんで、そこまで知ってるんだ。
「ねぇ、ハスト君。聖火の夜、どこにいた?」
「寝てた」
「家で?」
「家で」
「ふむふむ。……その前の、ジセリアの使節団が来てた頃は?」
「寝てた」
「四年前の、聖火祭の頃は?」
「……寝てた」
ペトラは、鉛筆を止めた。
それから、少しだけ、首を傾げて、俺の顔を、じっと見た。
「ハスト君ってさ」
「なんだ」
「嘘つくとき、右手の親指を、人差し指の横に、こすりつける癖、あるね」
俺は、自分の右手を、見下ろした。
親指が、人差し指の横に、ぴたりとくっついていた。
「……ないだろ、そんな癖」
「あるよ。今も、ほら」
ペトラは、悪戯っぽく、にっと笑った。
それから、手帳を、ぱたんと閉じた。
「ま、いいや。今日は、ここまで。……でも、また来るからね。私、しつこいのが取り柄だから」
◇
ペトラは、すぐには、立ち去らなかった。
屋上の手すりにもたれて、王都の街並みを見下ろしていた。昼の日差しが、栗色の三つ編みを、明るく照らしていた。
「……私ね」
ペトラが、ぽつりと言った。さっきまでの、元気すぎる声とは、少しだけ違う声だった。
「下町の、パン屋の娘なんだ。朝の四時に起きて、父さんと一緒に、生地をこねて。それから、新聞社に走るの」
「……そうか」
「下町ってさ。誰かが、誰かを、こっそり助けてることが、いっぱいあるんだよ。夜中に、孤児院の前に、黙って麦の袋を置いていく人とか。熱を出した子の家に、名前も言わずに薬を届けていく人とか。……でも、そういう人のことは、どの新聞にも、載らない」
ペトラは、王都の空を見上げた。
「載るのは、偉い人の話ばっかり。貴族の舞踏会とか、商人組合の会合とか。……私は、それが、悔しいの」
ペトラは、振り返った。
焦げ茶色の目が、まっすぐに、俺を見ていた。
「もし、本当に、誰にも知られずに、この王都を守ってる人がいるなら。……私は、その人のことを、ちゃんと書きたい。英雄は、名前を残すべきだと思うから」
俺は、しばらく、何も言わなかった。
それから、寝転がったまま、空を見上げて、言った。
「名前を、残したくない奴も、いるだろ」
ペトラが、目を瞬いた。
「……え?」
「誰かを助けたいだけで、名前なんか、どうでもいい奴。……名前が残ったら、困る奴だって、いるかもしれない」
ペトラは、しばらく、黙って、俺を見ていた。
それから、ふっと、笑った。
「――それでも、私は、書くよ」
ペトラは、手帳を、胸に抱きしめた。
「名前を残したくない英雄がいるなら、名前を伏せて、その人がしたことだけを、書く。……誰かが、確かに、そこにいたってことだけは、残したいの」
ペトラは、屋上の扉に向かって、歩き出した。
扉の前で、振り返って、ひらひらと手を振った。
「じゃあね、ハスト君。碧い小鬼亭、楽しみにしてる!」
扉が、閉まった。
◇
屋上に、静けさが戻ってきた。
「……ハストさま」
セルカが、膝を抱えたまま、言った。
「……あの人。……いい人」
「ああ」
「……でも、危ない」
「ああ」
俺は、空を見上げたまま、右手の親指を、人差し指から、そっと離した。
――英雄は、名前を残すべきだと思うから。
四年前、春の街道で、アルスと交わした約束が、頭に浮かんだ。あいつが表側で、俺が裏側で。表側は名前を残して、裏側は残さない。そういう約束だった。
裏側の俺のことを、書きたいと言う人間が、現れるとは、思っていなかった。
……悪い気分じゃないのが、少しだけ、困った。
◇
午後の授業のあいだも、ペトラは、学園の中を駆け回っていた。
五時間目の休み時間には、教室の隅のクルトが、捕まっていた。
「――クルト君! 碧い小鬼亭では、何を担当するんですか!」
「……皿洗い」
「どうして皿洗いを!」
「……客と、喋らなくていいから」
「なるほど! 職人気質! 書き留めます!」
クルトは、銀髪の頭を抱えて、机に突っ伏した。突っ伏したまま、耳まで真っ赤になっていた。
ラインハルトが、その背中を、ばんばん叩いて笑っていた。
教室の後ろで、レオンが、ぼそりと呟いた。
「……あの記者、嵐みたいだな」
誰も、否定しなかった。
◇
放課後、俺は、まっすぐ森へは帰らずに、下町へ寄り道をした。
碧い小鬼亭の献立のために、小麦粉の店を見て回るつもりだった。……というのは、半分だけ本当だった。
下町の、細い路地の奥。古い石造りの建物の一階に、小さなパン屋があった。看板には、色の褪せた字で、『リンクス製パン』と書かれていた。
扉を開けると、焼きたてのパンの匂いが、鼻をくすぐった。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうで、白い前掛けをした、大柄な男が顔を上げた。腕は粉だらけで、顔には、娘と同じ、薄いそばかすがあった。
俺は、棚に並んだパンの中から、黒パンをひとつ選んで、銅貨を払った。
その場で、ひと口、かじった。
固い皮の中に、ほんのりと酸味のある、もっちりした生地。噛むほどに、麦の甘みが出てくる。手を抜いていない、真面目なパンの味だった。
「……うまい」
「そりゃあ、どうも」
男は、照れくさそうに、粉だらけの手で頭を掻いた。
「朝の四時から、娘と二人で、こねてるからね。……もっとも、最近は、その娘が、新聞社の仕事で忙しくて、手伝いが半分になっちまったが」
男は、カウンターの上の、古い新聞の切り抜きを、ちらりと見た。西区の商人組合長の、横領の記事だった。
「危ないことに、首を突っ込まなきゃいいんだがねぇ。……あの子は、昔っから、こうと決めたら、てこでも動かないから」
俺は、黒パンの残りを、外套のポケットにしまった。
「……そうですね」
それだけ言って、店を出た。路地の上の細い空が、少しずつ、夕暮れの色に変わり始めていた。
◇
その日の夕方。
ペトラ・リンクスは、学園の正門を出て、下町へ続く坂道を、鼻歌を歌いながら、下っていった。
夕日が、栗色の三つ編みを、橙色に染めていた。
坂道を下りながら、ペトラは、革の手帳を開いて、今日書き留めたものを、一頁ずつ、めくっていった。
ラインハルト君、情報量は多いが裏付けなし。でも熱意は百点。セルジーネさん、柄頭の助言は学園長から、理由は知らない。目が泳ぐ。かわいい。アイシャ会長、師匠がいる。師匠って誰。鉛筆三本、弁償してもらうべきか。ミリエルさん、「誰かの命で贖う奇跡は、もう、どこにもない」。……いい言葉。
それから、最後の頁。
ハスト君。万年最下位。碧い小鬼亭の料理長。屋上で、いつも寝ている。
聖火の夜、寝てた。使節団の頃、寝てた。四年前、寝てた。
――右手の親指。三回とも。
ペトラは、その一行に、鉛筆で、小さな丸をつけた。
それから、ふふ、と小さく笑って、手帳を閉じた。
「……しつこいのが、取り柄だからね」
坂道の脇の、古い石塀の陰で。
誰かが、その後ろ姿を、じっと見ていた。
瞬きも、せずに。息を、しているのかどうかさえ、わからないくらい、静かに。
坂の下の角を、ペトラが曲がって、見えなくなるまで。
それから、その誰かは、石塀の陰で、ゆっくりと、自分の頬に、指を這わせた。
指が這ったあとの頬に、薄く、そばかすが、浮かび上がっていた。




