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100 初雪の夜――答える鐘


雪は、音もなく降り続けていた。


日が沈むまでに、砦の城壁の上に、くるぶしまで積もった。見張りの塔の篝火が、降りしきる雪の幕の向こうで、ぼんやりと橙色に滲んでいた。盆栽の鉢のひとつひとつに、兵士たちが、小さな藁の笠を、かぶせて回っていた。


湖の黒い水面は、もうどこにも見えなかった。


岸のほうから、少しずつ白く凍りついていった。夕暮れには湖の半分が。日が沈む頃には、向こう岸まで。


ひと晩で張るはずのない、厚い氷だった。


「――陣が、動いています」


城壁の端で、レイラさんが湖を見下ろしていた。魔術師協会の外套のフードを深くかぶって、両手を湖のほうへかざしていた。


「湖の底の、古い陣。山の民が、氷が割れないように祈った陣。……それが、誰かに書き換えられて、氷を厚く厚くしています。重い鎧の兵が、何千人渡っても割れないくらいに」

「止められるか」


エトワールが訊くと、レイラさんは、少しだけ首を振った。


「止められます。でも、止めたら氷が一度に割れます。……今夜、あの上を渡る人たちが全員、湖の底に沈みます」


レイラさんは、湖の向こう岸を見た。


千五百の焚き火は、もうひとつも、燃えていなかった。


「あの人たちのほとんどは、胸に石を埋められただけの北の村の人たちです」


エトワールは、黙って頷いた。


「――なら、割らせない」


声がした。


城壁の、一番高い見張りの塔の陰から、小さな影が出てきた。


黒い衣。足元の雪に、足跡がほとんどつかなかった。


ロリババアだった。


「氷は、儂が見ておる。……今夜、あの湖の上で、誰ひとり溺れさせはせぬ」


ロリババアは、湖を見下ろした。


降りしきる雪の中で、その小さな横顔が、ほんの少しだけ遠かった。


「二百年前、儂は焼くことしかできなんだ。……今夜くらいは、守る側に立たせてもらう」


その声には、ふざけた響きがひとつもなかった。二百年前の広場に置いてきたものを、今夜ここで拾い直そうとしている。そんなふうに聞こえた。


エトワールは、しばらくロリババアの横顔を見ていた。


それから、眼鏡を押し上げて、城壁の上の全員をぐるりと見渡した。


「――では、最後の確認だ。鐘が鳴るまで、誰も動かない。鐘が鳴ったら、石を持つ者は倒れる。……倒れない者が、百。銀の眼の騎士だ。彼らは、必ずこの砦に来る」


エトワールの声は、いつもと同じ、穏やかな声だった。


「シュベルト、リュシアン、正面。バルトロ殿、城門。クレハ、塔。エレナ嬢、鐘楼の跡。アイシャ、影。レイラ、陣。……ラーク、鐘を鳴らしたら休んでいい」

「休めるわけねぇッスよ」

「そうだろうね」


エトワールは、少しだけ笑った。


◇


日が沈む少し前に、陛下とフィアットが出発した。


陛下は、城壁の上で黒猫に戻った。今度は、外套を脱ぐ前に俺の顔を見て、少しだけ照れたように笑った。


「――では、行ってくるよ、はっす〜」


それから、輪郭がほどけて縮んだ。


フィアットは、雪の上で、身体に薄く映しを張った。蒼い髪も、紺の外套も、腰の剣も、降りしきる雪の景色の中に溶けていった。


見えなくなる前に、フィアットは、一度だけ振り返った。


「ハスト様」

「なんだ」

「……行ってきます」


それだけ言って、見えない足音が雪を踏んで、遠ざかっていった。黒猫が、その少し前を、跳ねるように駆けていった。


湖の西の岩壁の、細い岩棚へ。その先の北の離宮へ。


俺の外套の裾を、セルカが、きゅっとつまんでいた。


「……フィアット、ちゃんと帰ってくる」

「ああ」

「……鏡、割らないって言った」

「言ってたな」


セルカは、それきり黙った。


手袋をはめた指先で、俺の外套の裾をつまんだまま、フィアットの消えた方角を、ずっと見ていた。


その横顔を見ていて、気づいた。セルカは、フィアットのことを心配しているのだ。……本人に言ったら、たぶん、全力で否定するだろうけれど。


◇


夜が来た。


雪は、まだ降り続けていた。月はなかった。湖の上の氷は、降り積もった雪で、白く平らになっていた。暗闇の中で、それだけが、ぼんやりと浮かび上がって見えた。


白い橋。


向こう岸の黒い森の縁が、動いた。


最初は、影が揺らいだだけに見えた。それから、影がひとつ、またひとつ、森の縁から氷の上へ踏み出してきた。


兵だった。


灯りをひとつも、持っていなかった。槍を肩に担いで、粗末な革鎧を着て。何十人。何百人。何千人。


声がなかった。


足音だけがした。雪を踏むさく、さく、という音が何千と重なって、低い地鳴りのように湖の上を這ってきた。


隊列は乱れなかった。誰ひとり、前の兵を追い越さなかった。誰ひとり遅れなかった。三千の足が、まったく同じ瞬間に雪を踏んでいた。


まるで、ひとつの大きな生き物の脚のように。


城壁の上の兵士たちが、息を呑んだ。槍を握る手が、震えていた。


「――まだだ」


エトワールが、静かに言った。


「まだ。……最後の一人が、氷の上に乗るまで」


隊列のずっと後ろのほうに。


銀色の光が、点々と灯っていた。


百。


兜の面頬の隙間から漏れる、銀の光。銀の眼の騎士たちは、欠片の兵の隊列の一番後ろを、ゆっくりと歩いていた。羊の群れを、後ろから追う牧羊犬のように。


そして。


隊列の一番前。


湖の、ちょうど真ん中のあたりに。


ひとりの男が、立っていた。


黒い外套。灰色の髪に、雪が積もっていた。


隊列は、男の少し後ろで止まった。三千の足が、まったく同じ瞬間に止まった。


男は、こちらを向いていた。


濁った銀の目が、降りしきる雪の向こうから、砦の城壁を。


――いや。


城壁の上の俺を。


見ていた。


◇


「――最後の一人が、乗った」


エトワールの声と、ほとんど同時だった。


砦の裏手の崖にへばりつく、古い礼拝堂の屋根の上で。


ラークが、鐘の前に立っていた。


礼拝堂の床下の炉で、ラークが、ほとんど寝ずに鋳直した鐘。あの若者の胸の石から、髪の毛一本ぶんだけ削り取った欠片を、青銅に溶かし込んだ鐘。


鐘は、塔には戻さなかった。重すぎて、九日では吊り直せなかったのだ。だから、礼拝堂の屋根の上に、即席の櫓を組んで、そこに吊るした。


櫓の下で、バルトロが、鐘を吊るした太い綱を片手で支えていた。


ラークは、鐘を撞くための丸太のような撞木を、両腕で抱えていた。火傷の痕だらけの腕に、血管が浮き上がっていた。


ラークが、湖を見下ろした。


氷の上の三千の兵を。


その一人一人の胸に埋められた、白い石を。


「……待たせたな」


ラークは、小さく言った。


「今、答えてやる」


撞木が振り抜かれた。


◇


鐘が鳴った。


一度だけ。


低い低い音だった。耳で聞くというより、骨で聞く音だった。腹の底にずん、と落ちてきて、それから身体の内側でゆっくりと広がっていった。


普通の鐘の音とは、違った。


泣いているような音だった。


いや。


泣いている誰かに、そっと手を差し伸べるような音だった。


――聞こえているぞ。


――もう泣かなくていいぞ。


音は、降りしきる雪の中を、湖の上へ広がっていった。


氷の上の、三千の兵の上へ。


最初に、一番前の列の兵が止まった。


もともと止まっていた。けれど、それとは違う止まり方だった。肩に担いでいた槍が、ずるりと肩から滑り落ちた。


兵の胸のあたりで。


革鎧の隙間から。


淡い光がこぼれた。


白い小さな光。蛍のような。雪の結晶のような。それが、兵の胸からひとつ、ふわりと浮かび上がった。


それから、ふたつ。みっつ。


十。百。


三千の兵の胸から、数えきれないほどの白い光が、浮かび上がっていった。


降りしきる雪の中を、逆さまに。


地面から空へ。


石の中に閉じ込められていた、何百人分もの声。ジセリアの聖火に吸い上げられて、石の中で、ずっと泣き続けていた、命の欠片。


それが、鐘の音に答えて、ほどけて、空へ昇っていった。


城壁の上の誰もが、空を見上げていた。


レイラさんが、口元を両手で押さえていた。エレナが、扇子を取り落としていた。


雪の中を、白い光が昇っていく。


雪が降りてくる。


光が昇っていく。


まるで、空と地面の間で、誰かと誰かがすれ違いながら、そっと挨拶を交わしているようだった。


◇


氷の上で、兵が倒れ始めた。


一人。また一人。


膝から崩れ落ちた。胸の石が、ぴしりと音を立ててひび割れた。石に巻きついていた銀色の糸が、ぷつり、ぷつりと切れていった。


倒れた兵の何人かが、雪の上で顔を上げた。


目に光が戻っていた。


焦点が合っていた。自分の手を見下ろして、隣で倒れている誰かを見て、それから、降りしきる雪の空を見上げていた。


誰かが泣き出した。


声を上げて。子どものように。


誰かが、誰かの名前を呼んだ。


誰かが、母さん、と言った。


三千の兵の上で、三千の声が、少しずつ戻ってきた。


氷が軋んだ。


三千の兵が、一度に膝をついた。氷の上の重さが、一か所に偏った。白い氷の面に、黒い亀裂が、蜘蛛の巣のように走った。


――その亀裂が、止まった。


見張りの塔の上で、ロリババアが、小さな手のひらを、湖のほうへかざしていた。


紅くはなかった。


ただ、静かな、透き通った光が、ロリババアの手のひらから、湖の上へ広がっていた。


亀裂の走った氷が、ゆっくりと元に戻っていった。黒い亀裂が、白く塞がっていった。割れかけた時間が、割れる前に、巻き戻されていくように。


「――言うたであろう」


ロリババアは、湖を見下ろしたまま言った。


「誰ひとり溺れさせはせぬ、と」


◇


けれど。


全員が、倒れたわけじゃなかった。


隊列の一番後ろ。


百の銀の光が。


鐘の音を浴びても、微動だにしていなかった。


銀の眼の騎士たちの胸には、石がなかった。あるのは、目に刺さった真眼の欠片だけ。……鐘の音は、石には答えられても、眼には答えられなかった。


百の銀の光が、一斉にこちらを向いた。


それから、倒れた三千の兵の間を縫って、こちらへ駆け出した。


速かった。


雪の上を、銀色の甲冑の騎士たちが、音もなく滑るように。氷の上を砦へ。


「――全員、配置へ」


エトワールが言った。


城壁の上で、頂天者たちが一斉に動いた。


シュベルトが、城壁の縁に片足をかけた。リュシアンが、槍をくるりと回した。クレハが、背中の機関銃を構えた。エレナが、落とした扇子を拾って弓を引いた。アイシャ会長が、影の中に溶けた。


礼拝堂の屋根から、バルトロがひと跳びで、城壁の上に降り立った。床石に罅が走った。


「ふむ。……百か」


それから、エトワールが俺のほうを振り返った。


「ハスト君」

「ああ」

「――君は、あちらだ」


エトワールの視線の先。


湖の真ん中。


倒れた三千の兵の、さらに前。


降りしきる雪の中に、ひとりの男が、まだ立っていた。


鐘が鳴っても。白い光が昇っても。三千の兵が倒れても。騎士たちが駆け出しても。


一歩も動かずに。


濁った銀の目で、ずっと俺だけを見ていた。


◇


城壁から、氷の上へ飛び降りた。


身体強化を足に通した。降り積もった雪が、膝まで舞い上がった。


すぐ隣に、セルカが降り立った。音もなく。手袋をはめた手を、胸の前で軽く握っていた。


「……ハストさま」


セルカが、前を見たまま言った。


「……汲むとき。……ちゃんと言う」

「ああ」

「……ハストさまが、だめって言ったら、やめる」

「ああ」

「……でも」


セルカは、手袋の上から、自分の右手の人差し指をそっと握った。


「……三呼吸より、長くもたせる。……毎晩、サリナさまと練習した。……いまは、七呼吸」


七呼吸。


八日前には、三呼吸だった。


俺は、セルカの頭に手を置きかけて、やめた。今撫でたら、たぶん、ここから先に進めなくなる。セルカも、俺も。


「……帰ったら、だ」

「……うん。……帰ったら、いっぱい」


セルカは、ほんの少しだけ口の端を持ち上げた。


駆け抜けていく銀の眼の騎士たちが、俺たちの両脇を、すれ違っていった。


騎士たちは、俺たちを見なかった。一瞥すらしなかった。真っ直ぐに砦へ。


……通されたのだ。


俺は雪の上を歩いた。


倒れた兵たちの間を。泣いている誰かの横を。母さん、と呟く若者の横を。


――砦の地下の牢にいた、あの若者と同じくらいの歳だった。


氷の上に座り込んで、ぼろぼろと泣いていた。胸の石は、粉々に砕けていた。


俺と目が合うと、若者は、ほんの少しだけ口を開いた。


何かを言おうとした。


言葉にならなかった。


俺は小さく頷いて、その横を通り過ぎた。


今ごろ、地下の牢のあいつも、同じように泣いているのかもしれない。鐘の音は、石の壁くらいなら、きっと越えていく。


背中のずっと向こうで。


砦の城壁の上から、銃声と、剣戟の音と、エレナの高らかな笑い声と、それから、バルトロの拳が空気を殴る低い音が、響き始めていた。


前を見た。


降りしきる雪の中に、男が立っていた。


十歩。


五歩。


三歩。


俺は足を止めた。


雪が、俺とゼノンの間に、音もなく降り積もっていった。


「――来たか」


ゼノンが言った。


「答えは、見つかったか。……碧の小鬼」


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