101 白い橋の上で
「――見つからなかった」
俺は言った。
降りしきる雪の中で、自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「あんたが斬ったのが、何だったのか。……俺には、答えられない」
ゼノンの濁った銀の目が、ほんのわずかに細くなった。
「あの村の生き残りではないのか」
「生き残りだ」
「ならば、なぜ」
「あの子の顔を、覚えてないからだ」
湖の上を、北風がひと筋吹き抜けていった。
雪が斜めに流れた。
「大事な子だった。……この世界で一番、大事にしてた子だった。それだけは、覚えてる。あの夜、雪が降ってたことも。あの子の手が、冷たかったことも」
俺は、自分の右手を見下ろした。
「でも、顔が思い出せない。名前も。……思い出そうとすると、そこだけ、白く抜け落ちてる」
口に出すと、それは思っていたよりずっと惨めな告白だった。四年間、あの夜の仇を探してきた。その仇の前に立って、守れなかった子の顔ひとつ、差し出せない。
ゼノンは、何も言わなかった。
ただ、俺の胸のあたりをじっと見ていた。
あの場所を。
俺の中の白い穴を。
「……そうか」
ゼノンが、やがて言った。
「それが、あの穴か」
◇
ゼノンの右手が、腰の剣の柄に触れた。
今度は、触れただけでは終わらなかった。
細身の剣が、鞘からゆっくりと抜き放たれた。降りしきる雪の中で、刀身が鈍い銀色に光った。
「答えられぬのなら」
ゼノンは、剣をゆっくりと正眼に構えた。
「――その穴を、こじ開けて中を見る」
俺の背中で、セルカが、小さく息を吸ったのがわかった。
セルカの足元の雪が、白く固く凍り始めていた。降り積もったばかりの柔らかい雪が、見る間に、薄い氷の膜に覆われていった。
剣を抜いた男が、俺の前にいる。
それだけで、セルカの中の何かが、静かに牙を剥き始めていた。
俺は、右手を前に出した。
手のひらから、碧い光が溢れた。
光は、俺の手の中で細く長く伸びていった。
権。
覇権の碧で編んだ、一振りの剣。
「……下がってろ、セルカ」
「…………」
「汲むときは、言え」
「……うん」
セルカの足音が、雪の上を三歩、後ろへ下がった。
◇
最初に動いたのは、俺だった。
雪を蹴った。身体強化を、足から腰へ、腰から肩へ。三歩の間合いを、一息で詰めた。
権を横に薙いだ。
峰で。
殺すつもりはなかった。……少なくとも今は。訊きたいことが、まだ山ほどあった。
ゼノンは躱さなかった。
権の峰が届く、その、ほんの一瞬前に。
細身の剣の切っ先が、権の、刃と峰の境目にそっと触れていた。
触れた。それだけだった。
権の軌道が、指一本ぶん上へ逸れた。逸れた権が、ゼノンの灰色の髪をかすめて空を薙いだ。
「――殺す気が、ない剣だな」
ゼノンが言った。
その声が、すぐ耳元で聞こえた。
ゼノンは、もう俺の懐の中にいた。
細身の剣の柄頭が、俺の鳩尾に叩き込まれた。
息が詰まった。
雪の上を三歩、後ろへ滑った。
◇
背中のずっと遠くで。
砦の城壁の上を、光の雨が降っていた。エレナの狙わない矢だ。雪の幕の向こうで、銀色の光が、ひとつ、またひとつ、砕けて消えていくのが見えた。クレハの機関銃の乾いた連射音が、湖の上を渡ってきた。
みんなが戦っている。
俺は前を見た。
◇
二度目。三度目。
権を振るった。
上から。下から。斜めから。突き。払い。返し。
全部、届かなかった。
ゼノンは、ほとんど動かなかった。俺が権を振るう、その意志が生まれた瞬間に、もう権の行き先を見ていた。そこに、細身の剣の切っ先を、そっと置いておくだけだった。
権の軌道が、そのたびに指一本ぶん逸らされた。
銀の眼の騎士たちと、同じだった。
いや。
比べものに、ならなかった。
騎士たちの眼は、ゼノンの眼の削られた欠片だ。その欠片ですら、リュシアンの槍の軌道を、放つ前から読んだ。……これは、その元の眼だった。曇っていても。濁っていても。
「――殺したいのに、殺す気がない」
ゼノンが、剣を構えたまま言った。
「お前の剣は、おかしな剣だ。……俺の村を焼かせた男を、斬りたい。その意志は、ある。はっきりと見える。剣の芯で、燃えている」
ゼノンの濁った銀の目が、俺の権を、じっと見ていた。
「だが、その意志が、剣先に届く前に、どこかで止まる。……何かが、止めている」
「…………」
「お前のその、白い穴だ」
俺の胸の奥が、きしりと軋んだ。
「斬ろうとするたびに、剣の意志が、あの穴の縁で凍りつく。……あの穴の中に、何がある」
俺は答えなかった。
代わりに、権を左手に持ち替えた。
右手の指先で、短く術式を組んだ。碧じゃない。ギルドにいた頃から使い慣れた、ただの魔術。足元の雪を、風で巻き上げる。視界を白く塞ぐ。
雪煙の中から、権を突き出した。
――読まれていた。
雪煙が舞い上がるより、先に。ゼノンはもう半歩、横にずれていた。権の切っ先が、誰もいない雪煙を突き抜けた。
「目を塞いでも、無駄だ」
雪煙の向こうから、ゼノンの声がした。
「俺が見ているのは、景色ではない。お前の意志だ。……術式を組もうとする意志。権を突き出そうとする意志。それが、どこへ向かっているのか」
狙わずに振ればいい。
エレナの矢のように。何も考えずに。どこにも向けずに。
……できるわけが、なかった。
俺の剣は、いつだって何かに向かっている。守りたい何かに。斬りたい何かに。
狙わない剣なんて、俺は、一度も振ったことがない。
ロリババアの家の裏庭で、初めて木剣を握った日から、ずっとそうだった。振るたびに、胸のどこかで、誰かの背中を思い描いていた。……その背中が誰のものだったのかさえ、もう思い出せないのに。
◇
碧が揺らいだ。
権の刀身の碧い光が、ほんのわずかに暗くなった。濁った碧。深い深い、水の底のような色。
「――うるせぇ」
自分の声が低かった。
「あんたに、何がわかる」
ゼノンは、剣を構えたまま俺を見ていた。
「わかる、とは言わない」
濁った銀の目が、ほんのわずかに伏せられた。
「……あの夜、あの村を焼けと命じたのは、俺だ」
俺の指が、権の柄に食い込んだ。
「顔のない女が、あの村に逃げ込んだ。村の誰かの顔を盗んで、村人の中に紛れた。……だから、焼いた。家を焼けば、人は外に出てくる。外に出てきた者を、ひとりずつ、この眼で見れば、いつか見つかると思った」
ゼノンの声は、ひどく静かだった。
「忠誠を拒んだ村への、見せしめ。……そう、伝えさせた。本当の理由を言えば、誰も信じないからな。顔を盗む化け物がひとり、村に紛れ込んだなどと」
権を構え直した。
今度は峰じゃなかった。
刃をゼノンに向けた。
ゼノンの濁った銀の目が、ほんの少しだけ見開かれた。
雪を蹴った。
身体強化を全身に。覇権の碧を、権の刀身にありったけ流し込んだ。
――あの夜。
――雪の夜。
――村が燃えていた。
――紋章をつけた兵たちが、笑っていた。
――あの子が、倒れていた。
――その前に、銀の光がひとつ。
権が、ゼノンの胸元へ走った。
速かった。今夜、一番、速かった。
ゼノンの細身の剣が、権の前に差し出された。
触れた。
逸らせなかった。
細身の剣が、権に押し込まれて、ゼノンの胸元へたわんだ。ゼノンの足が、雪の上を一歩後ろへ滑った。二歩。
ゼノンの灰色の髪の先が、碧い光に焦げた。
――そこで、権が止まった。
ゼノンの胸元の、指一本手前で。
止めたのは、ゼノンの剣じゃなかった。
俺だった。
権の刃が、ゼノンの胸元で小さく震えていた。俺の右手が震えていた。
斬れた。
今なら斬れた。
それなのに。
……斬ったら、二度と聞けなくなる。
あの夜、あの子に何があったのか。
俺の手からこぼれ落ちたものを、この男だけが、まだ持っている。そう思った瞬間、刃を押し込む力が、腕のどこにも残っていなかった。
◇
ゼノンは、権の刃の指一本先で、俺を見ていた。
濁った銀の目に、ほんの少しだけ、驚きが浮かんでいた。
それから、ゼノンはゆっくりと言った。
「……俺は、覚えている」
「…………」
「あの娘の顔を」
権を握る俺の手から、力が抜けかけた。
「この眼が、曇り始めて二年になる。……母上の顔も、ルチアの顔も、少しずつぼやけていった。思い出そうとしても、霧の向こうにしか、見えなくなった」
ゼノンの声は、静かだった。
「だが、あの娘の顔だけは消えない。……雪の中で、俺の剣があの娘を斬った、あの瞬間の顔だけは。眼を閉じても。眠っても。ずっとここに、焼きついている」
ゼノンは、そこで少しだけ言葉を切った。
雪が、ゼノンの灰色の髪に、肩に、静かに積もっていった。
「――あの夜、村外れの雪の中に、同じ顔の娘がふたり立っていた」
俺の息が止まった。
「ひとりは、俺を見て笑っていた。もうひとりは、泣きながら逃げようとしていた。……俺の眼には、どちらも本物に見えた。嘘の色が、どちらにも見えなかった」
ゼノンの剣を持つ手が、ほんのわずかに震えていた。
「だから、選んだ。……化け物が泣くものか、と。泣いて逃げるのは、偽物の芝居だ、と」
「…………」
「泣いていたほうを、斬った」
湖の上を、北風が吹き抜けていった。
「斬ったあとで、笑っていたほうが、雪の中に溶けるように消えた」
ゼノンは、自分の濁った銀の目に、指先をそっと当てた。
「――お前は、忘れた。俺は、忘れられない」
ゼノンの口元が、ほんのわずかに歪んだ。
笑ったのか、それとも別の何かだったのか。
「どちらが、罰なのだろうな」
俺の胸の奥で、何かが軋んだ。
きしり、と。
ぎしり、と。
何十枚も重ねた蓋の、一番上の一枚に走っていた罅が、ほんの少しだけ広がった気がした。
――ハスト。
誰かが、俺の名前を呼んだ気がした。
雪の中で。冷たい手で。
声は、それだけで消えた。
◇
ゼノンの剣が動いた。
権の刃を、下から跳ね上げた。
俺の手から、権が浮いた。
がら空きになった俺の胸元へ、細身の剣の切っ先が、まっすぐに伸びてきた。
胸の真ん中。
あの白い穴の真上。
「――その穴の中を、見せてもらう」
速かった。
躱せなかった。
切っ先が、外套に触れた。
――その切っ先が、止まった。
外套の布一枚手前で。
細身の剣の刀身が、根元から切っ先まで、真っ白に凍りついていた。
刀身だけじゃなかった。ゼノンの剣を握る右手の、手首まで。白い霜が、音もなく這い上がっていた。
「……だめ」
声がした。
俺のすぐ後ろで。
セルカが立っていた。
手袋を外した右手を、ゼノンの剣に、まっすぐに向けていた。淡い水色の目が、降りしきる雪の中で、ぼんやりと光っていた。
「……ハストさま。……汲んだ。……浅く」
「ああ」
「……だめって、言われる前に汲んだ。……ごめんなさい」
「……いい」
俺は、雪の上に落ちた権を拾い上げなかった。
拾い上げる前に、セルカが一歩前に出たからだ。
◇
セルカは、凍りついた剣を握ったままのゼノンの前に、立った。
小さな身体だった。ゼノンの胸のあたりまでしか、背がなかった。
それでも、少しも怯んでいなかった。
濁った銀の目が、セルカを見下ろした。
「……子ども、か」
「……子どもじゃ、ない」
セルカは、ゼノンをまっすぐに見上げた。
「……ハストさまのものに、なにを、向けた」
声は静かだった。
いつもの、ぼんやりとした静かな声。
けれど、その奥で何かが凍りついていた。
怒っているのだ、と思った。声を荒らげもせず、眉ひとつ動かさずに。セルカがこんなふうに怒るのを、俺は、数えるほどしか見たことがない。
ゼノンの手首の霜が、ぴしりと音を立てて、肘まで這い上がった。
「……でも、今はそれより」
セルカは、霜をそこで止めた。
「……あなたに、言うことある」
ゼノンが、眉をひそめた。
セルカは、小さく息を吸った。
それから、言った。
「……あなたの、おばあさん」
ゼノンの濁った銀の目が、ほんのわずかに揺れた。
「……毛皮の外套、かけてた人。……坊ちゃま、って呼んでた人」
セルカの声は、少しも震えていなかった。
「……あの人。……においが、ない」
湖の上を、北風が吹き抜けていった。
雪が斜めに流れた。
ゼノンは動かなかった。
凍りついた剣を握ったまま。濁った銀の目を、見開いたまま。
まるで、その一瞬だけ、セルカに時間を止められたかのように。
俺は、ゼノンの顔を見ていた。
――笑っていたほうが、消えた。
さっき、ゼノンが言った言葉が、耳の奥で繰り返していた。
学園の後夜祭の、時計塔の上。ふたりのセルカ。温かい指で、俺の袖に触れて、セルカが絶対にしない顔で笑ったほう。
森の縁で、ゼノンの背中に外套をかけて、にこにこと笑っていた、においのない老婆。
あの夜の雪の中で、ゼノンを見て笑っていた、もうひとりの娘。
あの夜の娘の笑顔を、俺は見ていない。吹雪の向こうに、銀の光をひとつ見ただけだ。……それでも、わかった。
たぶん全部、同じ笑顔だったのだ。
ゼノンの濁った銀の目の奥で、二十二年分の何かが、音を立てずに、軋み始めていた。




