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102 離宮の鏡(フィアット)


岩棚の上で、私は、何度もハスト様のことを考えた。


考えないようにしようと思うほど、考えてしまった。


パートナーなのに、離れる。昨日、城壁の上で、自分で言った言葉が、まだ喉の奥に引っかかっていた。……言わなければよかった。言わなければ、ハスト様にあんな顔をさせずに済んだのに。


雪は、斜めに降っていた。北風が岩壁に沿って、下から吹き上げてきた。足元の岩棚は、九日前よりもずっと細く見えた。降り積もった雪の下に、どこまでが岩で、どこからが空なのか、わからなかった。


私の身体には、薄く映しが張ってあった。


背中の向こうの、黒い岩肌。足の下の白い雪。吹き上げてくる北風に舞う、細かな雪の粉。……今、ここにある本物の景色を、本物のまま。


一瞬でも遅れたら、嘘になる。


陛下に、何百回も言われた言葉。


少し前を、小さな黒猫が、跳ねるように駆けていった。ときどき、立ち止まって、金色の目で私を振り返った。私が追いつくと、また駆け出した。


背中には、布の包みを背負っていた。


陛下の外套と、上着と、靴。


「――向こうで、人の姿に戻ったときに、裸というわけにもいかないからね」


出発の前に、陛下はそう言って、私にこの包みを渡した。


「すまないね。王の着替えを背負わせる弟子など、聞いたことがないだろう」

「……光栄です」


そう答えたら、陛下は声を上げて笑った。


◇


岩棚を渡りきったのは、夜が、すっかり更けてからだった。


雪の斜面を、黒猫のあとについて駆け下りた。


谷の底の、針葉樹の森を抜けると、館が見えた。


北の離宮。


九日前に、尾根の上から見下ろしたあの館。崩れかけた東の翼。割れた窓。枯れた蔦。


けれど、今夜は違った。


南の庭に、灯りがともっていた。


小さな角灯がいくつも。楡の木の枝に吊るされて、雪の中で、橙色に揺れていた。


庭の真ん中の二つの墓。その周りだけ、雪がきれいに掃かれていた。墓石の前には雪割草。


それから、南側の、一階の角の部屋の窓辺に。


半分に割られた、蜂蜜の焼き菓子がひとつ。


まるで、お客を迎えるみたいに。


黒猫が、庭の入口で足を止めた。


小さな身体が、震えていた。


◇


墓の前に、ひとりの男が立っていた。


黒い外套。灰色の髪。腰に細身の剣。


九日前に森の縁で見た、あの人と同じ姿だった。


男が、ゆっくりとこちらを振り返った。


「――来たのか、兄上」


低い、かすれた声。


九日前と同じ声。


私は、映しを張ったまま息を止めた。


――違う。


男の目が、銀色だった。


それは同じだった。でも、九日前のあの人の目は、薄い氷のように濁っていた。白い靄が、瞳の奥にかかっていた。


今、目の前の男の目は。


澄んでいた。


月の光を、水の底に沈めたような、冷たく澄みきった銀。……学園祭の講堂で、最前列から振り返った、ペトラさんの偽物の左目と、同じ色。


黒猫の輪郭がほどけた。


雪の上に、陛下が膝をついていた。


私は、背中の包みを慌てて下ろして、陛下の肩に外套をかけた。陛下は、外套の襟を片手で引き寄せた。それから、ゆっくりと立ち上がった。


「――ふむ」


陛下は、墓の前の男をまっすぐに見た。


「声は、よく似せたね」


男の口元が、ほんのわずかに歪んだ。


「だが、あの子は私をそんな目では見ない」


陛下の声は静かだった。


「九日前、あの子は私の顔の少しだけ横を見ていた。……見えないのだよ、もうほとんど。君が、二十二年かけて削ったからね」


雪が降っていた。


楡の枝の角灯が、北風に揺れた。


男が笑った。


声を上げて笑った。


その声が、途中で変わった。


低い、かすれた男の声から。


穏やかな、しわがれた老婆の声に。


「――あらあら。坊ちゃまの兄上は、昔から勘がいいこと」


◇


男は――男の姿をしたそれは、剣を抜いた。


細身の剣。九日前のあの人と、同じ構え。正眼。


陛下が、指をぱちんと鳴らした。


庭じゅうに、光の蝶が舞い上がった。


何百。何千。雪の中を、淡い金色の蝶が渦を巻いて、男の姿を包み込んでいった。その蝶の渦の中から、陛下の姿が三つ、四つ、五つと分かれて、男を取り囲んだ。


陛下の幻術。旧幻術帝と呼ばれた、王の。


――それが、紙切れのように裂かれた。


男の剣が、蝶の渦を一閃した。


光の蝶が、一斉に霧のように消えた。五人の陛下のうち、四人がふっと消えた。


残った、本物の陛下の肩口を。


細身の剣の切っ先が、浅く裂いていた。


外套の肩に、赤い色がにじんだ。


「無駄よ」


男の姿をしたそれが、老婆の声で言った。


澄みきった銀の左目が、角灯の光の中で、冷たく光っていた。


「坊ちゃまの眼の欠片は、嘘を見るの。……あなたの幻はぜんぶ、嘘でできているでしょう? 二十二年前と、同じ」


陛下が、歯を食いしばって、もう一度指を鳴らそうとした。


その前に、男の姿がふっとぶれた。


影渡り。


アイシャ会長の、幻影体術。学園祭の講堂で、二度見られて盗まれた技。


次の瞬間、男の姿は陛下の背後に立っていた。


「わたしはね、二十二年、坊ちゃまの隣であなたの話を聞いてきたのよ」


老婆の声が、陛下の耳元で囁いた。


「猫になる兄上の話。光の蝶の話。離宮の庭に、雪を降らせてくれた話。……坊ちゃまは寝言でも、兄上、兄上って呼ぶのよ。かわいそうにねぇ」


細身の剣が、陛下の背中へ振り下ろされた。


◇


――私は、もう走り出していた。


考えるより先に。


陛下と、男の間に滑り込んだ。


両手を、前に突き出した。


手のひらから、蒼い光が溢れた。


光が、雪の上に薄く広がって、それから立ち上がった。私の身の丈ほどの、透き通った一枚の板。


「――『鏡映し』」


鏡が、男と私の間に立った。


男の剣が、鏡の手前で止まった。


止まった、のではなかった。


止めたのだ。男自身が。


鏡の中に、男が映っていた。


黒い外套。灰色の髪。細身の剣を、振り下ろしかけたその姿。……陛下の弟君の顔。


それから、澄みきった銀の左目。


男の目が、鏡の中の自分の目を見た。


真眼の欠片が、鏡の中の自分の意図を読んだ。


振り下ろそうとしている剣の向き。斬ろうとしている、その意志。……それが、鏡の中から、まっすぐに自分に向かって返ってきた。


男の剣先が、ほんのわずかに迷った。


そして、男は、鏡の中の自分の顔を見つめたまま、動かなくなった。


「……これは」


老婆の声が、かすれていた。


「……誰」


男の左手が、ゆっくりと持ち上がった。


自分の顔に触れた。


灰色の髪に。頬に。目元に。


まるで、鏡の中の顔が自分の顔だということが、わからないみたいに。


――顔を盗む者は、盗めば盗むほど、自分の顔を忘れる。


サリナ様が、学園長室でそう言っていたと、ハスト様が教えてくれた。


百の顔を盗んだ者は、鏡を見ても、もう何も映らぬ。


……だから、鏡が怖いんだ。


鏡の中に映っているのは、盗んだ顔。自分の顔じゃない。それなのに、鏡は嘘をつかない。今、ここにあるものをそのまま映す。


――お前は、誰だ、と。


鏡が問いかけている。


◇


鏡の陰から踏み出した。


剣を抜いた。


ラークさんが打ってくれた、白鋼の剣。セルカの氷の水で、焼き入れをした剣。


男の剣を持つ右腕を、斬った。


浅く。肘の少し上を、斜めに。


手応えがおかしかった。


肉を斬る手応えじゃなかった。乾いた、砂の袋を斬ったような。


男の、裂けた外套の袖から。


血は流れなかった。


白く細かな、砂のようなものが、さらさらと雪の上にこぼれ落ちた。


男が私を見た。


鏡から目を離して。澄みきった銀の左目で。


初めて私を見た。


「……あなた」


老婆の声が言った。


「……そこに、いたの」


――見えていなかったんだ。


鏡映しの陰で、私は映しを張ったままだった。本物の景色を、本物のまま写して。……嘘のないものは、嘘を見る眼には映らない。


九日前のあの人と、同じだった。


私は剣を構え直した。


「――陛下の、弟君の顔を」


自分の声が、思っていたよりも、ずっとまっすぐだった。


怖くなかったわけじゃない。剣を握る指先は、まだ震えていた。でも、陛下の弟君の顔が、あんなふうに笑うのを、これ以上見ていたくなかった。九日前、森の縁で毛皮の外套の襟を引き寄せた、あの寂しい人の顔が。


「これ以上、使わないでください」


◇


男の姿がぶれた。


影渡り。


私は、鏡を振り返らなかった。


鏡は、私の背中を映していた。私の背中のすぐ後ろに、男の影が現れるのを。


――今しか、映せない。だから、一拍、遅れる。


セルカの加速がない。


一拍先は見えない。


それでも。


鏡の中で、男の剣が、私の背中へ振り下ろされ始めた。その始まりの、ほんのひとかけらを。


見た。


身体を捻った。


細身の剣が、私の外套の背中を裂いて、雪に突き刺さった。


紺の外套が、肩から裂けていた。肌には、届いていなかった。


私は捻った勢いのまま、剣を横に払った。


男が影の中に消えた。


次に現れたのは、庭の端の、崩れかけた東の翼の屋根の上だった。


雪の積もった瓦の上に、男が立っていた。


右腕の裂け目から、白い砂が、まださらさらとこぼれ落ちていた。


男の顔が揺らいでいた。


灰色の髪がところどころ、白くほどけていた。頬の輪郭が、陛下の弟君の顔と、ふっくらとした老婆の顔の間を、行ったり来たりしていた。


鏡を見たからだ。


自分の顔を、見失いかけているんだ。


◇


「――鏡の子」


屋根の上で、老婆の声が言った。


「あなたの顔も、きれいねぇ」


澄みきった銀の左目が、私を見下ろしていた。


ねっとりと。値踏みするように。


「欲しくなったわ」


男の――それの左手の指先が、私に向けられた。


指先から、何かが伸びてきた。


目に見えない、細い細い糸。角灯の光を受けて、一瞬だけきらりと光った。


ペトラさんの記憶を、ひと晩かけて写し取った、写し身の糸。


糸が、私の額へ伸びてきた。


私は動かなかった。


糸の先が、私の額のほんの少し手前で止まった。


止まって。


迷うように揺れて。


それから、ふっとほどけて消えた。


「……写せない?」


老婆の声が、初めて戸惑っていた。


「……どうして。……あなたのその、映しの術。……どうして、写せないの」


私は、剣を構えたまま、屋根の上のそれを見上げた。


わかった気がした。


「映しは、今を見ている人にしか使えないんです」


自分の声が、雪の中に静かに響いた。


「今、ここにある本物を、本物のまま写す術だから。……あなたは、ずっと誰かの昨日の顔しか、持っていない」


屋根の上で、それが動かなくなった。


「誰かが、昨日まで生きていた顔。誰かが、昨日まで持っていた声。誰かが、昨日まで覚えていたこと。……あなたの中には、今の、あなたがどこにもいない」


私は、剣の切っ先を、屋根の上へまっすぐに向けた。


「だから、写せないんです。今を」


◇


長いこと、それは黙っていた。


雪が、屋根の上に降り積もっていった。


それから。


それは笑った。


にっこりと。


優しい優しい、皺だらけの笑顔で。


「――いいわ」


老婆の声が言った。


「坊ちゃまが、もうすぐ帰ってくるもの」


それの顔が、陛下の弟君の顔から、ふっくらとした老婆の顔へ、ゆっくりと戻っていった。灰色の髪が白く変わって、後ろで小さくまとめられて。黒い外套が、毛糸の肩掛けに。


マルタ、と呼ばれていた人の姿に。


「お夕飯は、山鳥の煮込みですからね。……坊ちゃまが帰ってきたら、みんなで、いただきましょうね」


それは、屋根の上でくるりと背中を向けた。


崩れかけた東の翼の、暗い窓の中へ、よちよちと歩いて、消えていった。


窓の奥から、かすかに鼻歌が聞こえた。


子守唄だった。


◇


私は剣を下ろした。


膝が、がくがくと震えていた。


今になって、身体が怖さを思い出したみたいだった。


映しを解いた。


雪の上に、自分の足跡が戻ってきた。


振り返ると、陛下が、楡の木の幹にもたれて肩口を押さえていた。外套の肩が、赤く染まっていた。


「陛下……!」


私は駆け寄った。背中の包みから、布を取り出して、陛下の肩口にきつく巻きつけた。手が震えて、うまく結べなかった。


陛下は、私の手の上に自分の手をそっと重ねた。


「――見事だったよ、フィアット君」


陛下の顔は青白かった。


それでも、口元は笑っていた。


「二十二年、私の幻は、あれに一度も届かなかった。……それを、君は最初の一太刀で斬ってみせた」

「……浅く、です。腕を、少しだけ」

「浅くでいい」


陛下は目を閉じた。


それから、ゆっくりとまた目を開けた。


「あれは今夜、初めて自分の顔を探したのだよ。……君の鏡の前で」


陛下の視線が、崩れかけた東の翼の、暗い窓を見ていた。


子守唄は、もう聞こえなかった。


◇


私は、庭の入口のほうを振り返った。


谷の向こう。尾根の向こう。岩壁の向こう。


湖の上。


白い橋の上で、今、ハスト様が、あの人と――本物の陛下の弟君と、向かい合っている。


その隣にセルカがいる。


「……セルカ」


小さく名前を呼んだ。


届くはずがなかった。


それでも、呼んだ。


「指、止めないでね」


楡の枝の角灯が、北風に揺れた。


雪は、まだ降り続けていた。


もうすぐ、坊ちゃまが帰ってくる。


あれは、そう言った。


――あの人が、ここへ来る。


私は、剣の柄を握り直した。


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