103 百の銀眼(アイシャ)
影の中から見る戦場は、いつも少しだけ遠い。
砦の城門の内側の影。篝火の届かない、石壁の隅の暗がり。
私は、そこに溶けていた。
幻影体術。影から影へ渡る、私だけの技。三年間、誰にも見えない拳を振るってきた、私の居場所。
城門の向こうから、銀色の光が近づいてきていた。
百。
降りしきる雪の中を、氷の上を、銀色の甲冑の騎士たちが、音もなく滑るように駆けてくる。兜の面頬の隙間から、冷たい銀の光を、ひとつずつ漏らしながら。
湖の上では、三千の兵が倒れていた。
鐘が鳴ったあと、あの人たちの胸から、白い光が空へ昇っていった。雪とすれ違うように。……あれを見て、泣かなかった人は、たぶん、この砦にひとりもいなかった。私も、影の中で少しだけ泣いた。
湖の真ん中には、師匠がいる。
城壁から氷の上へ飛び降りていく背中を、私は、影の中から見送った。小さなセルカちゃんが、その隣に、ぴったりと寄り添っていた。
師匠は、一度も振り返らなかった。
いつもそうだ。あの人は、誰かを守りに行くとき、絶対に振り返らない。屋上で、私の拳を正面から、静かに遮ってくれたあの日から、ずっとその背中を追いかけている。
でも、今は泣いている場合じゃない。
「――アイシャ」
耳元の水晶から、エトワール様の声がした。
「影から、出なくていい。……ただ、見ていてくれ。騎士たちが誰を狙って、どこから来るのか。全部、私に教えてくれ」
「はいっ」
返事をしながら、私は拳を握りしめていた。
見ているだけ。……それが私の役目だということは、わかっている。影の中から、誰にも見えない場所から、全部を見届けること。三年間、ずっとそうしてきた。それなのに、握った拳がほどけなかった。
◇
最初に騎士たちを迎えたのは、光の雨だった。
見張りの塔の、鐘のなくなった鐘楼の上で。
「おーほっほっほ! 皆々さま、今宵もごきげんよう!」
エレナ様が、扇子を投げ捨てて弓を引いた。
狙わずに、夜空へ光の矢を放った。何十本も。何百本も。
光の矢が、雪の空に弧を描いて昇っていった。
昇りきって、止まって。
雨のように降ってきた。
――一週間前の夜、物置で、九人の騎士の眼を一本残らず射抜いた雨。
けれど。
今夜の騎士たちは、知っていた。
光の雨が降り始めた瞬間、百の騎士が、一斉に、左腕の籠手を顔の前に掲げた。兜の面頬の隙間を、腕で覆った。
光の矢が籠手に当たって、ばらばらと弾けた。
「……まあ」
鐘楼の上で、エレナ様が、扇子を拾い上げて口元を隠した。
「覚えていらっしゃるのね。……賢い殿方は、嫌いではありませんわ」
騎士たちは、腕で顔を覆ったまま走り続けた。
眼を塞いだまま。真眼の欠片を、閉じたまま。
――それでも、走れるんだ。
眼を塞いでも、隣の騎士の眼が見ている。百の欠片は、銀の糸で繋がっている。一人が見たものは、百人が見ている。……ラークさんが、そう言っていた。
◇
「――では、二手目」
水晶の向こうで、エトワール様が言った。
「レイラ」
城壁の内側の石畳の上で、レイラさんが、両手を地面についていた。
石畳の上に、銀色の陣が、ぼうっと浮かび上がった。
陣は、城壁の上を這い上がって、城壁の外の雪の上へ広がっていった。砦の正面の雪原が一面、淡い銀色の網目に覆われた。
「――返します」
レイラさんが言った。
鐘楼の上で、エレナ様がまた弓を引いた。
光の矢が、夜空へ昇っていった。
昇りきって、止まって。
降ってきた。
騎士たちが、また籠手を顔の前に掲げた。
光の矢は、籠手に当たるそのほんの手前で。
レイラさんの陣に、触れた。
触れた瞬間、跳ね返った。
真下から。
雪の上の、銀色の網目から。降ってきた矢が、そのまま地面で跳ねて、下から上へ。
騎士たちの籠手で覆った顔の、真下へ。
兜の喉元の隙間へ。
――狙っていない矢を、狙っていない陣が、跳ね返す。
どこにも、誰の意図もない。
騎士たちの銀の眼が、下から跳ね上がってくる光の矢を、見た。
見て、それから動けなかった。
十。二十。
騎士たちが、雪の上に膝をついた。兜の喉元の隙間を、光の矢に縫い止められて。
「……読めないものには、読めないものを、重ねればいい」
水晶の向こうで、エトワール様が静かに言った。
◇
それでも、まだ七十以上が残っていた。
城門に、騎士たちが殺到した。
城門は開いていた。
わざと、開けてあったのだ。
開いた城門の真ん中に。
バルトロ師匠が、立っていた。
足元の雪の上に、盆栽をそっと置いていた。小さな松の盆栽。藁の笠をかぶせて。
「ふむ」
師匠は拳を握った。
一番前の騎士が、師匠の拳を見た。
拳が放たれる、そのずっと前に。騎士は、横に跳んでいた。
その跳んだ先の空気が、殴られた。
四歩先の空気を、ただの拳で殴る。
騎士は拳を躱した。けれど、拳が押し出した空気の塊までは、躱せなかった。城門の石壁に、叩きつけられた。
二人目。三人目。
師匠は、城門の真ん中から一歩も動かなかった。ただ、拳を引いて放つ。引いて放つ。
騎士たちは、師匠の拳を全部読んだ。全部、躱した。
それでも、全部、吹き飛ばされた。
「――読めても」
師匠の低い声が、雪の中に響いた。
「避けきれぬものは、ある」
◇
城門を避けた騎士たちが、城壁をよじ登り始めた。
城壁の上で、シュベルト様とリュシアン様が、背中合わせに立っていた。
「――やぁ、リュシアン。今夜は、どっちが多く倒すか賭けるかい?」
「下品だね、シュベルト。数ではなく美しさで競うべきだよ」
城壁の縁に、銀色の籠手がかかった。
リュシアン様の槍が、閃いた。
騎士は、穂先が動く前に身を捻っていた。穂先が空を突いた。
一週間前の夜と、同じだった。リュシアン様の槍は、放つ前から読まれる。
リュシアン様は、槍を引いた。
それから、目を閉じた。
「――雪よ、降れ。白き野に、銀の眼の騎士は来たる」
詩を吟じ始めた。
城壁の上で。降りしきる雪の中で。朗々と。
「――その眼は、我が槍の行く先を知る」
槍が動いた。
「――されど、詩の行く先を知る者はなし」
穂先が、騎士の兜の喉元の隙間を突いていた。
騎士は躱さなかった。躱せなかった。
リュシアン様は、目を閉じたまま、次の句を吟じた。
「――詩人の槍は、韻を踏む。韻は、意志にあらず」
槍がまた動いた。二人目の騎士の籠手の継ぎ目を、正確に突いた。
――詩の韻に、槍を任せているんだ。
どこを突くかを、自分で決めていない。決めているのは、詩の韻律。言葉の響き。次の句の最初の音が、槍の行き先を決めている。
意志じゃなく。
詩が。
「……リュシアン様、すごい」
影の中で、思わず呟いていた。
隣で、シュベルト様が肩をすくめた。
「まったく。あれをやられると、僕の立つ瀬がないんだよね」
シュベルト様は、剣を鞘から抜かなかった。
城壁を越えてきた騎士が、三人、同時にシュベルト様に斬りかかった。
シュベルト様は、目を閉じていなかった。
ただ、いつもと同じ、穏やかな、少しだけ眠そうな顔で騎士たちを見ていた。
鞘のままの剣が動いた。
三人の騎士が、同時に城壁の上に崩れ落ちた。
私には、剣が動いたのが見えなかった。
騎士たちにも、見えていなかったと思う。
「――剣聖の剣はね」
シュベルト様が、鞘の剣を肩に担いだ。
「斬ろうと思う前に、もう斬り終わってるんだ。……十歳のときから、毎日何万回も振ってたら、そうなっちゃった。意志が追いつかないんだから、眼で読まれようがないよね」
リュシアン様が、槍を回しながら、ふんと鼻を鳴らした。
「自慢かい」
「事実だよ」
◇
戦いは、少しずつこちらに傾いていった。
クレハ様の機関銃が、見張りの塔の上から、雪原に弾をばら撒いていた。狙っていなかった。雪原を、端から端までただ撫でるように。騎士たちは、弾の行き先を読もうとして、読めずに、雪の中を転げ回っていた。
「狙わない弾ってのも、悪くないね」
水晶の向こうで、クレハ様の声が笑っていた。
「アタシの性に合わないけどさ」
ラークさんは、鐘の櫓の下で、火傷だらけの手に錬成の光を灯していた。倒れた騎士の兜を、ひとつずつ外して、眼に刺さった銀の欠片を、外していった。外すたびに、騎士たちは、ぼんやりと目を瞬いて、それから子どものように泣き出した。大の大人が、雪の上で、声を上げて。……その泣き声を聞きながら、ラークさんは黙って、次の兜に手を伸ばしていた。
残りは、三十を切っていた。
――そのとき。
私の、すぐ後ろの影が揺れた。
◇
振り返る前にわかった。
城門の内側の、篝火の届かない石壁の隅の暗がり。私が溶けているこの影。
その影の出口に。
細い細い、刃物の糸が張られていた。
学園祭の後夜祭の夜。時計塔の中ほどの窓枠で。私の影渡りの出口に張られていたのと、同じ糸。
――私の影渡りの出口は、盗まれている。
あの、顔のない女に。二度見られて。
そして、盗まれたものは。
銀の糸で、百の欠片に繋がっている。
影の中に、銀色の光がひとつ灯った。
騎士だった。
私の影の中に、私と同じように溶け込んで。私のすぐ後ろに。
騎士の剣が、私の背中へ振り下ろされた。
影から出ようとした。
出口に、糸が張られていた。
出られない。
――読まれていた。
私の技を盗まれて。私の居場所を知られて。
影は、私の居場所だった。誰にも見つからない、私だけの場所。そこが今は、檻になっていた。
剣が私の背中に届く。
◇
「――娘」
低い声がした。
影の外から。
城門の真ん中から。
バルトロ師匠の声だった。
「影から、出るな。……影の中で、打て」
剣が振り下ろされる。
「読まれても、避けられぬ拳を打て」
――読まれても。
私は、影の中で振り返った。
騎士の剣が、私の頭上にあった。騎士の銀の眼が、私の拳の行き先を見ていた。
私が、どこを打とうとしているのか。全部、見えている。
なら。
見せてやれ。
全部。
私は拳を握った。
隠さなかった。偽らなかった。三年間、誰にも見えない場所から振るってきた拳を、初めて、まっすぐに正面から相手に見せた。
――ここを打つ。
――あなたの、胸の真ん中を。
――全力で。
騎士の銀の眼が、私の拳の行き先を読んだ。
読んで、身を捻ろうとした。
捻るより先に。
私の拳が、騎士の胸の真ん中に届いていた。
影の中で。逃げ場のない、狭い暗がりの中で。読まれても、捻る隙間すらないくらいの近さで。
――速く。ただ、速く。
格闘王師匠に十日間、毎朝叩き込まれた。考えるな。隠すな。ただ、打て。相手が読み終わる前に、拳が届いていればいい。
銀色の甲冑が、胸の真ん中からひしゃげた。
騎士の身体が、影の外へ吹き飛んだ。
影の出口に張られていた糸が、騎士の身体ごと、ぶちぶちと千切れた。
◇
私は、影の中から転がり出た。
石畳の上に膝をついた。肩で息をしていた。拳が、じんじんと痺れていた。
城門の真ん中で、バルトロ師匠が私を見ていた。
深い皺の奥の、小さな目が。
ほんの少しだけ細くなった。
「……ふむ」
師匠は、それだけ言って、また城門の外を向いた。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
私は、石畳の上で拳を握ったまま、少しだけ泣いた。
影の中でしか振るえなかった拳。誰にも見せずに、ひとりで磨いてきた拳。……初めて、真正面から見せた。見せて、それでも届いた。
◇
最後の騎士が倒れたのは、それから、四半刻もしないうちだった。
雪原に、百の騎士が倒れていた。三千の兵が倒れていた。誰も死んでいなかった。ラークさんとレイラさんが、倒れた人たちの間を、走り回っていた。
城壁の上で、エトワール様が、眼鏡を押し上げていた。
「――砦は、守った」
水晶の向こうの声が、少しだけ震えていた。
「全員、よくやってくれた」
城壁の上で、リュシアン様が、ようやく目を開けた。雪の積もった銀の髪を、指先でかき上げて、湖のほうを見た。シュベルト様が、鞘の剣を肩に担いだまま、その隣に並んだ。
「……さて。あとは、九人目と陛下の番だね」
シュベルト様が、いつもより、少しだけ低い声で言った。
私は、城壁の階段を駆け上がった。
城壁の上から、湖を見下ろした。
降りしきる雪の向こうに。
白い橋の真ん中に。
ふたつの人影と、小さな人影がひとつ。
それが見えた。
それから。
ふたつの人影のうち、背の高いほうが。
黒い外套の、灰色の髪の、あの人が。
くるりと背中を向けて。
湖の向こう岸へ。北の離宮のある、谷の方角へ。
雪の中を走り出した。
もうひとつの人影――師匠が、そのあとを追って走り出した。
小さな人影が、その場にひとり残された。
「……セルカちゃん?」
私は、城壁の縁をぎゅっと握った。
あの子がひとりで立っているのを見るのは、初めてだった。いつも、師匠の外套の裾を、どこかしらつまんでいる子なのに。
小さな人影は、動かなかった。
雪の上に立ったまま。
まるで、何かを待っているみたいに。
あるいは。
何かを、深く深く汲み上げようとしているみたいに。




