↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
103/142

103 百の銀眼(アイシャ)


影の中から見る戦場は、いつも少しだけ遠い。


砦の城門の内側の影。篝火の届かない、石壁の隅の暗がり。


私は、そこに溶けていた。


幻影体術。影から影へ渡る、私だけの技。三年間、誰にも見えない拳を振るってきた、私の居場所。


城門の向こうから、銀色の光が近づいてきていた。


百。


降りしきる雪の中を、氷の上を、銀色の甲冑の騎士たちが、音もなく滑るように駆けてくる。兜の面頬の隙間から、冷たい銀の光を、ひとつずつ漏らしながら。


湖の上では、三千の兵が倒れていた。


鐘が鳴ったあと、あの人たちの胸から、白い光が空へ昇っていった。雪とすれ違うように。……あれを見て、泣かなかった人は、たぶん、この砦にひとりもいなかった。私も、影の中で少しだけ泣いた。


湖の真ん中には、師匠がいる。


城壁から氷の上へ飛び降りていく背中を、私は、影の中から見送った。小さなセルカちゃんが、その隣に、ぴったりと寄り添っていた。


師匠は、一度も振り返らなかった。


いつもそうだ。あの人は、誰かを守りに行くとき、絶対に振り返らない。屋上で、私の拳を正面から、静かに遮ってくれたあの日から、ずっとその背中を追いかけている。


でも、今は泣いている場合じゃない。


「――アイシャ」


耳元の水晶から、エトワール様の声がした。


「影から、出なくていい。……ただ、見ていてくれ。騎士たちが誰を狙って、どこから来るのか。全部、私に教えてくれ」

「はいっ」


返事をしながら、私は拳を握りしめていた。


見ているだけ。……それが私の役目だということは、わかっている。影の中から、誰にも見えない場所から、全部を見届けること。三年間、ずっとそうしてきた。それなのに、握った拳がほどけなかった。


◇


最初に騎士たちを迎えたのは、光の雨だった。


見張りの塔の、鐘のなくなった鐘楼の上で。


「おーほっほっほ! 皆々さま、今宵もごきげんよう!」


エレナ様が、扇子を投げ捨てて弓を引いた。


狙わずに、夜空へ光の矢を放った。何十本も。何百本も。


光の矢が、雪の空に弧を描いて昇っていった。


昇りきって、止まって。


雨のように降ってきた。


――一週間前の夜、物置で、九人の騎士の眼を一本残らず射抜いた雨。


けれど。


今夜の騎士たちは、知っていた。


光の雨が降り始めた瞬間、百の騎士が、一斉に、左腕の籠手を顔の前に掲げた。兜の面頬の隙間を、腕で覆った。


光の矢が籠手に当たって、ばらばらと弾けた。


「……まあ」


鐘楼の上で、エレナ様が、扇子を拾い上げて口元を隠した。


「覚えていらっしゃるのね。……賢い殿方は、嫌いではありませんわ」


騎士たちは、腕で顔を覆ったまま走り続けた。


眼を塞いだまま。真眼の欠片を、閉じたまま。


――それでも、走れるんだ。


眼を塞いでも、隣の騎士の眼が見ている。百の欠片は、銀の糸で繋がっている。一人が見たものは、百人が見ている。……ラークさんが、そう言っていた。


◇


「――では、二手目」


水晶の向こうで、エトワール様が言った。


「レイラ」


城壁の内側の石畳の上で、レイラさんが、両手を地面についていた。


石畳の上に、銀色の陣が、ぼうっと浮かび上がった。


陣は、城壁の上を這い上がって、城壁の外の雪の上へ広がっていった。砦の正面の雪原が一面、淡い銀色の網目に覆われた。


「――返します」


レイラさんが言った。


鐘楼の上で、エレナ様がまた弓を引いた。


光の矢が、夜空へ昇っていった。


昇りきって、止まって。


降ってきた。


騎士たちが、また籠手を顔の前に掲げた。


光の矢は、籠手に当たるそのほんの手前で。


レイラさんの陣に、触れた。


触れた瞬間、跳ね返った。


真下から。


雪の上の、銀色の網目から。降ってきた矢が、そのまま地面で跳ねて、下から上へ。


騎士たちの籠手で覆った顔の、真下へ。


兜の喉元の隙間へ。


――狙っていない矢を、狙っていない陣が、跳ね返す。


どこにも、誰の意図もない。


騎士たちの銀の眼が、下から跳ね上がってくる光の矢を、見た。


見て、それから動けなかった。


十。二十。


騎士たちが、雪の上に膝をついた。兜の喉元の隙間を、光の矢に縫い止められて。


「……読めないものには、読めないものを、重ねればいい」


水晶の向こうで、エトワール様が静かに言った。


◇


それでも、まだ七十以上が残っていた。


城門に、騎士たちが殺到した。


城門は開いていた。


わざと、開けてあったのだ。


開いた城門の真ん中に。


バルトロ師匠が、立っていた。


足元の雪の上に、盆栽をそっと置いていた。小さな松の盆栽。藁の笠をかぶせて。


「ふむ」


師匠は拳を握った。


一番前の騎士が、師匠の拳を見た。


拳が放たれる、そのずっと前に。騎士は、横に跳んでいた。


その跳んだ先の空気が、殴られた。


四歩先の空気を、ただの拳で殴る。


騎士は拳を躱した。けれど、拳が押し出した空気の塊までは、躱せなかった。城門の石壁に、叩きつけられた。


二人目。三人目。


師匠は、城門の真ん中から一歩も動かなかった。ただ、拳を引いて放つ。引いて放つ。


騎士たちは、師匠の拳を全部読んだ。全部、躱した。


それでも、全部、吹き飛ばされた。


「――読めても」


師匠の低い声が、雪の中に響いた。


「避けきれぬものは、ある」


◇


城門を避けた騎士たちが、城壁をよじ登り始めた。


城壁の上で、シュベルト様とリュシアン様が、背中合わせに立っていた。


「――やぁ、リュシアン。今夜は、どっちが多く倒すか賭けるかい?」

「下品だね、シュベルト。数ではなく美しさで競うべきだよ」


城壁の縁に、銀色の籠手がかかった。


リュシアン様の槍が、閃いた。


騎士は、穂先が動く前に身を捻っていた。穂先が空を突いた。


一週間前の夜と、同じだった。リュシアン様の槍は、放つ前から読まれる。


リュシアン様は、槍を引いた。


それから、目を閉じた。


「――雪よ、降れ。白き野に、銀の眼の騎士は来たる」


詩を吟じ始めた。


城壁の上で。降りしきる雪の中で。朗々と。


「――その眼は、我が槍の行く先を知る」


槍が動いた。


「――されど、詩の行く先を知る者はなし」


穂先が、騎士の兜の喉元の隙間を突いていた。


騎士は躱さなかった。躱せなかった。


リュシアン様は、目を閉じたまま、次の句を吟じた。


「――詩人の槍は、韻を踏む。韻は、意志にあらず」


槍がまた動いた。二人目の騎士の籠手の継ぎ目を、正確に突いた。


――詩の韻に、槍を任せているんだ。


どこを突くかを、自分で決めていない。決めているのは、詩の韻律。言葉の響き。次の句の最初の音が、槍の行き先を決めている。


意志じゃなく。


詩が。


「……リュシアン様、すごい」


影の中で、思わず呟いていた。


隣で、シュベルト様が肩をすくめた。


「まったく。あれをやられると、僕の立つ瀬がないんだよね」


シュベルト様は、剣を鞘から抜かなかった。


城壁を越えてきた騎士が、三人、同時にシュベルト様に斬りかかった。


シュベルト様は、目を閉じていなかった。


ただ、いつもと同じ、穏やかな、少しだけ眠そうな顔で騎士たちを見ていた。


鞘のままの剣が動いた。


三人の騎士が、同時に城壁の上に崩れ落ちた。


私には、剣が動いたのが見えなかった。


騎士たちにも、見えていなかったと思う。


「――剣聖の剣はね」


シュベルト様が、鞘の剣を肩に担いだ。


「斬ろうと思う前に、もう斬り終わってるんだ。……十歳のときから、毎日何万回も振ってたら、そうなっちゃった。意志が追いつかないんだから、眼で読まれようがないよね」


リュシアン様が、槍を回しながら、ふんと鼻を鳴らした。


「自慢かい」

「事実だよ」


◇


戦いは、少しずつこちらに傾いていった。


クレハ様の機関銃が、見張りの塔の上から、雪原に弾をばら撒いていた。狙っていなかった。雪原を、端から端までただ撫でるように。騎士たちは、弾の行き先を読もうとして、読めずに、雪の中を転げ回っていた。


「狙わない弾ってのも、悪くないね」


水晶の向こうで、クレハ様の声が笑っていた。


「アタシの性に合わないけどさ」


ラークさんは、鐘の櫓の下で、火傷だらけの手に錬成の光を灯していた。倒れた騎士の兜を、ひとつずつ外して、眼に刺さった銀の欠片を、外していった。外すたびに、騎士たちは、ぼんやりと目を瞬いて、それから子どものように泣き出した。大の大人が、雪の上で、声を上げて。……その泣き声を聞きながら、ラークさんは黙って、次の兜に手を伸ばしていた。


残りは、三十を切っていた。


――そのとき。


私の、すぐ後ろの影が揺れた。


◇


振り返る前にわかった。


城門の内側の、篝火の届かない石壁の隅の暗がり。私が溶けているこの影。


その影の出口に。


細い細い、刃物の糸が張られていた。


学園祭の後夜祭の夜。時計塔の中ほどの窓枠で。私の影渡りの出口に張られていたのと、同じ糸。


――私の影渡りの出口は、盗まれている。


あの、顔のない女に。二度見られて。


そして、盗まれたものは。


銀の糸で、百の欠片に繋がっている。


影の中に、銀色の光がひとつ灯った。


騎士だった。


私の影の中に、私と同じように溶け込んで。私のすぐ後ろに。


騎士の剣が、私の背中へ振り下ろされた。


影から出ようとした。


出口に、糸が張られていた。


出られない。


――読まれていた。


私の技を盗まれて。私の居場所を知られて。


影は、私の居場所だった。誰にも見つからない、私だけの場所。そこが今は、檻になっていた。


剣が私の背中に届く。


◇


「――娘」


低い声がした。


影の外から。


城門の真ん中から。


バルトロ師匠の声だった。


「影から、出るな。……影の中で、打て」


剣が振り下ろされる。


「読まれても、避けられぬ拳を打て」


――読まれても。


私は、影の中で振り返った。


騎士の剣が、私の頭上にあった。騎士の銀の眼が、私の拳の行き先を見ていた。


私が、どこを打とうとしているのか。全部、見えている。


なら。


見せてやれ。


全部。


私は拳を握った。


隠さなかった。偽らなかった。三年間、誰にも見えない場所から振るってきた拳を、初めて、まっすぐに正面から相手に見せた。


――ここを打つ。


――あなたの、胸の真ん中を。


――全力で。


騎士の銀の眼が、私の拳の行き先を読んだ。


読んで、身を捻ろうとした。


捻るより先に。


私の拳が、騎士の胸の真ん中に届いていた。


影の中で。逃げ場のない、狭い暗がりの中で。読まれても、捻る隙間すらないくらいの近さで。


――速く。ただ、速く。


格闘王師匠に十日間、毎朝叩き込まれた。考えるな。隠すな。ただ、打て。相手が読み終わる前に、拳が届いていればいい。


銀色の甲冑が、胸の真ん中からひしゃげた。


騎士の身体が、影の外へ吹き飛んだ。


影の出口に張られていた糸が、騎士の身体ごと、ぶちぶちと千切れた。


◇


私は、影の中から転がり出た。


石畳の上に膝をついた。肩で息をしていた。拳が、じんじんと痺れていた。


城門の真ん中で、バルトロ師匠が私を見ていた。


深い皺の奥の、小さな目が。


ほんの少しだけ細くなった。


「……ふむ」


師匠は、それだけ言って、また城門の外を向いた。


それだけだった。


それだけで、十分だった。


私は、石畳の上で拳を握ったまま、少しだけ泣いた。


影の中でしか振るえなかった拳。誰にも見せずに、ひとりで磨いてきた拳。……初めて、真正面から見せた。見せて、それでも届いた。


◇


最後の騎士が倒れたのは、それから、四半刻もしないうちだった。


雪原に、百の騎士が倒れていた。三千の兵が倒れていた。誰も死んでいなかった。ラークさんとレイラさんが、倒れた人たちの間を、走り回っていた。


城壁の上で、エトワール様が、眼鏡を押し上げていた。


「――砦は、守った」


水晶の向こうの声が、少しだけ震えていた。


「全員、よくやってくれた」


城壁の上で、リュシアン様が、ようやく目を開けた。雪の積もった銀の髪を、指先でかき上げて、湖のほうを見た。シュベルト様が、鞘の剣を肩に担いだまま、その隣に並んだ。


「……さて。あとは、九人目と陛下の番だね」


シュベルト様が、いつもより、少しだけ低い声で言った。


私は、城壁の階段を駆け上がった。


城壁の上から、湖を見下ろした。


降りしきる雪の向こうに。


白い橋の真ん中に。


ふたつの人影と、小さな人影がひとつ。


それが見えた。


それから。


ふたつの人影のうち、背の高いほうが。


黒い外套の、灰色の髪の、あの人が。


くるりと背中を向けて。


湖の向こう岸へ。北の離宮のある、谷の方角へ。


雪の中を走り出した。


もうひとつの人影――師匠が、そのあとを追って走り出した。


小さな人影が、その場にひとり残された。


「……セルカちゃん?」


私は、城壁の縁をぎゅっと握った。


あの子がひとりで立っているのを見るのは、初めてだった。いつも、師匠の外套の裾を、どこかしらつまんでいる子なのに。


小さな人影は、動かなかった。


雪の上に立ったまま。


まるで、何かを待っているみたいに。


あるいは。


何かを、深く深く汲み上げようとしているみたいに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。