104 春を見るために
ゼノンは、長いこと動かなかった。
凍りついた剣を握ったまま。濁った銀の目を、見開いたまま。
雪だけが、ゼノンの灰色の髪に、肩に、静かに積もっていった。
「……なにを、言っている」
やがて、ゼノンの唇が動いた。
かすれた声だった。
「マルタは、マルタだ。……においなど、あろうとなかろうと」
「…………」
「あの夜、母上を失った。ルチアを失った。……マルタだけが、戻ってきた。半年かけて雪の山を越えて、俺を探しに来た。痩せこけて、凍えて、それでも、坊ちゃま、と笑って」
ゼノンの剣を握る手が、震えていた。
凍りついた手首の霜が、その震えで、ぱらぱらとこぼれ落ちた。
「それから二十二年。……マルタだけは、俺の傍にいた。眼が曇り始めたときも。北の村々が、俺を化け物と呼んだときも。……マルタだけは」
「……学園祭の夜に、王都に顔のない女が来た」
俺は言った。
ゼノンの濁った銀の目が、ほんのわずかに動いた。
「新聞記者の娘の顔を盗んで、ひと晩、記憶ごと写し取った。左目が、銀色に光ってた。……あんたの眼の、欠片だ。そいつが俺の碧を見て、雪鳩を北へ飛ばした。羽の軸に、あんたの眼を削った粉を詰めて」
「…………」
「時計塔の屋根の上で、そいつはセルカの顔を盗んだ。ふたりのセルカが、俺の前に並んだ。……偽物のほうは、笑ってた。セルカが、絶対にしない顔で」
ゼノンの唇が、ほんのわずかに震えた。
「――あんたは、マルタをその眼で見たことがあるか」
俺は言った。
ゼノンが口を閉じた。
「あの夜から、一度でも。……真眼で」
雪が降っていた。
ゼノンは答えなかった。
答えられなかったのだと、思う。
九日前、森の縁で。ゼノンは、自分の背中に外套をかけた老婆を、一度も振り返らなかった。名を呼んだときも。下がっていろと言ったときも。
「……見たら」
ゼノンの声が、ひどく小さくなった。
「見たら、マルタまでいなくなる気がした」
王子の声じゃなかった。雪の夜に、ひとりで留守番をさせられた子どもの声だった。
◇
ゼノンの濁った銀の目が、揺れていた。
氷の上の、どこか遠いところを見ていた。
「……毎晩、薬湯を運んできた」
ぽつりと、ゼノンが言った。
「眼に良いと。……熱くて、苦くて。マルタが淹れたものしか、俺は口にしなかった。毒を盛られるのが、怖かったからな。誰も信じられなかった。マルタ以外は」
ゼノンは、自分の目元に、凍えた指先を当てた。
「……二年前から、眼が曇り始めた」
その声が、ひび割れていた。
「銀の眼の騎士たちに、俺の眼の光が、宿るようになった。……俺は、自分で分け与えたのだと思っていた。自分でも気づかぬうちに。俺の怒りが、俺の眼を削って配っているのだと」
「…………」
「マルタは、言った。坊ちゃまの眼は、坊ちゃまの心が見たくないものを見なくてすむように、少しずつ閉じていくのですよ、と。……だから、薬湯を。少しでも痛みが和らぐように、と」
ゼノンの指先が、目元から、ゆっくりと滑り落ちた。
「――あの夜。村外れの雪の中で、笑っていた娘」
ゼノンの声が止まった。
それから、もう一度動いた。
「……マルタもあの夜、あの村の近くにいた」
俺の背中を、冷たいものが駆け上がった。
「俺の野営に、薬湯を届けに来ていた。……俺が、あの娘を斬ったすぐあとに。雪の中から、マルタが駆けてきた。坊ちゃま、坊ちゃま、と。……血まみれの俺を、抱きしめて」
ゼノンは、凍りついた剣を見下ろした。
「――笑っていた」
◇
ゼノンの手の中で、凍りついた剣が砕けた。
霜も、刀身も。ゼノンが、握りしめた拳の中でばらばらに。白い破片が、雪の上に散った。
ゼノンが顔を上げた。
濁った銀の目が、湖の向こうを見ていた。
北の離宮のある、谷の方角を。
「……兄上が、離宮にいる」
その声が低かった。
「マルタと。……あれと、ふたりで」
ゼノンが駆け出した。
速かった。
雪を蹴って、氷の上を。倒れた兵たちの間を、すり抜けて。湖の向こう岸へ。北の森へ。
俺の脇を、すれ違いざまに。
「――ついて来い、九人目」
声だけが残った。
「あの夜の答えが、あそこにある」
◇
俺は、駆け出しかけて足を止めた。
振り返った。
セルカが、雪の上に立っていた。
手袋を外した右手を、胸の前で、ぎゅっと握っていた。足元の雪が、白く凍りついていた。
「――セルカ。行くぞ」
俺は手を伸ばした。
セルカの小さな身体なら、抱えて走れる。身体強化を全身に通せば、ゼノンの足にも、追いつける。
セルカは、俺の手を取らなかった。
首を、ふるふると横に振った。
「……さきに、いって」
「何言ってんだ」
「……ハストさまの、足に。……わたしを、抱えてたら、ハストさまが、遅くなる」
セルカは、まっすぐに俺を見上げていた。
「……あの王子さまの足は、速い。……ハストさまが、ひとりで走って、ぎりぎり。……わたしを抱えてたら、間に合わない」
「間に合わなくても、置いてけるか」
「……置いていくんじゃ、ない」
セルカは一歩、俺に近づいた。
それから、胸の前で握っていた右手を、そっと開いた。
人差し指の先が、白かった。
「……わたし、跳ぶ」
◇
雪が、俺とセルカの間に降っていた。
「――跳ぶ、だと」
「……サリナさまに、教わった。……世界を止めて。止めた世界の中で、わたしの時間だけを速めて。……速めすぎて、擦り切れないように、均衡で釣り合わせる」
セルカは、俺の目を見ていた。
「……そしたら、どれだけ遠くても。……世界にとっては、一瞬も経たないうちに届く」
「七呼吸しか、もたないって言ったろ」
「……七呼吸じゃ、足りない」
セルカは、正直に言った。
嘘をつけない子だ。できないことを、できるとは言わない。だからこそ、その次の言葉が怖かった。
「……だから、深く汲む。……いちばん、深いところまで。……そこで、均衡を完成させる」
一番深いところまで汲んだら、心臓の時間が、止まる。
アルスの言葉が、頭の中で響いた。
止まった心臓は、死なねぇ。……生きてもいねぇ。ただ、止まってる。
「――だめだ」
自分の声が、かすれていた。
分館の台所で、俺は言った。深く汲むな。絶対に、だ。お前まで、そっち側に行くな。
セルカは、少しも目を逸らさなかった。
「……ハストさまに、言った。……汲むとき、ちゃんと言うって」
「……ああ」
「……だから、言う」
セルカは、小さく息を吸った。
「……ハストさま。……深く汲む。……いい?」
◇
答えられなかった。
喉の奥で、言葉がふたつ、ぶつかり合っていた。だめだ、と。行け、と。どちらを口にしても、きっと俺は、あとで自分を許せない。
だめだと言えば、セルカはやめる。
そういう約束をした。分館の台所で。俺がだめだと言ったら、やめろ、と。セルカは、それを一度も破らなかった。破らずに、毎晩ロリババアと練習した。三呼吸を、七呼吸に伸ばした。
――お前が俺のために何かを払うのは、なしだ。
俺は、そう言った。
でも。
セルカの顔を見た。
淡い水色の目。降りしきる雪の中で、ぼんやりと光っている目。
あの日の分館の台所で、自分の指が止まっても、それはいいことだと言ったときの目とは、違った。
自分を差し出す目じゃなかった。
どこかへ、行こうとしている目だった。
――ハストさまと、春を見たい。
塔の上で、セルカは、ロリババアにそう言ったらしい。あとでロリババアが、こっそり教えてくれた。
あいつはな、止まりたかったんじゃ。お主と、ずっと今のままでおりたかった。……じゃが、あの晩、初めて、先へ行きたいと願うた。
止まるために汲むんじゃない。
進むために汲むんだ。
「……セルカ」
「……なに」
「戻ってこい」
セルカの目が、ほんの少しだけ見開かれた。
「必ず戻ってこい。……指も、手も、心臓も。全部、今のまま持って」
「…………」
「春、見るんだろ」
セルカは、しばらく黙っていた。
それから、こくりと頷いた。
「……うん」
小さな声だった。
セルカは、手に持っていた、ミリエルの縫った手袋の片方を、俺の手のひらにそっと押しつけた。右手の分。指先の一番冷たいほうの。
「……もってて」
「セルカ」
「……あとでかえしてもらいに、いく。……ハストさまの、ところまで」
手袋は冷たかった。
それでも、ほんの少しだけ、セルカの手の形が残っていた。
俺は、それを外套の胸の内側にしまった。
心臓のすぐ上だった。冷たい布の感触が、外套越しに胸を押した。
セルカは、それを見て、ほんの少しだけ口の端を持ち上げた。
「……ハストさまの、ところへ。……跳ぶ」
◇
俺は走り出した。
身体強化を全身に。足の裏に風の術式を。雪を蹴って、氷の上を。ゼノンの背中が消えた、北の森の方角へ。
倒れた兵たちの間を、すり抜けた。泣いている若者の横を、駆け抜けた。
湖の向こう岸が、近づいてきた。
――いつもなら。
誰かを守りに行くとき、俺は振り返らない。
振り返ったら、足が止まるから。止まったら、間に合わないから。四年前のあの雪の夜から、ずっとそうしてきた。
でも。
向こう岸の森の縁で、俺は一度だけ振り返った。
湖の真ん中に、小さな人影がひとつ立っていた。
その足元から、白いものが広がっていた。
霜だった。
雪の上を、氷の上を、音もなく。小さな人影を中心に、白い円が、ゆっくりと広がっていった。倒れた兵たちの手前で、ぴたりと止まって。それから、円の内側の、降りしきる雪が。
止まった。
宙に浮いたまま。
ひとひら、ひとひら、セルカの周りの雪だけが降るのをやめて、空中に縫い止められていた。
小さな人影が、両手を胸の前で、そっと重ねていた。
――汲み始めたのだ。
一番、深いところまで。
俺は前を向いた。
森の中へ駆け込んだ。
もう振り返らなかった。
振り返らなくても、わかっていた。
あいつは来る。
あいつは、俺との約束を一度も破ったことがない。……だから、今度も。
◇
北の森は暗かった。
針葉樹の梢に、雪が重く積もっていた。枝の間から、ときどき、どさりと雪の塊が落ちてきた。
ゼノンの足跡が、雪の上に、まっすぐに続いていた。
迷いのない足跡だった。二十二年間、何百回も、何千回も、この道を歩いてきた者の足跡。
その足跡を追った。
離宮には、陛下とフィアットがいる。
陛下は、弟の顔をした何かを、その手で斬らずにいられるだろうか。フィアットは、あの鏡を、割らずにいられるだろうか。……あれは、ふたりをあの庭で、どんなふうに待っていたのだろう。
考えても、仕方がなかった。
走るしか、なかった。
身体強化の限界まで、速く。肺が、冷たい空気で焼けるように痛んだ。
前方の木々の間に。
黒い外套の背中が、見えた。
ゼノンは走りながら、一度も振り返らなかった。
けれど、俺が追いついてきたことは、わかっていたらしい。
「――九人目」
走りながら、ゼノンが言った。
「あの夜。あの娘を斬ったのは、俺だ」
「…………」
「それは、変わらない。……誰に騙されていようと。誰の手の中で、踊らされていようと。剣を振り下ろしたのは、俺の手だ」
ゼノンの声は、ひどく平らだった。
「だから、俺は、あの娘に詫びることすらできない」
その横顔に、言い訳の色はひとつもなかった。騙されていたことさえ、この男は、自分を許す理由にしていない。
木々の間を、雪の中を、ふたりで駆け抜けた。
「――だが」
ゼノンの声が、ほんの少しだけ揺れた。
「あの夜、あの娘を斬らせたものが何だったのか。……それだけは、この眼で見なければならない」
森が途切れた。
谷の底に、灯りが見えた。
角灯の橙色の灯り。楡の木の枝に、いくつも吊るされて。雪の中で揺れていた。
北の離宮の、南の庭。
庭の端の、楡の木の幹に、陛下がもたれていた。
外套の肩口に、布がきつく巻かれていた。布が、赤くにじんでいた。陛下は、谷に駆け下りてきた俺たちを見て、ゆっくりと顔を上げた。
その陛下のすぐ隣の、雪の上の空気が、ほんのわずかに揺らいでいた。
何もないように見えた。降りしきる雪と、楡の幹と、角灯の光だけ。……でも、そこだけ、雪の降り方が、ほんの少しだけ周りより遅れて、また追いついた。
一瞬だけ、息を呑んだ誰かがそこにいた。
フィアットだ。
映しを張ったまま、陛下の隣で剣を構えている。
二人とも生きていた。
俺は、ほんの少しだけ息を吐いた。
肺の奥に溜まっていた冷たい空気が、ようやく外へ出ていった。
二つの墓の前に。
小柄な、ふっくらとした老婆が、角灯をひとつ手に提げて立っていた。
こちらを見ていた。
にっこりと笑っていた。
「――おかえりなさい、坊ちゃま」
穏やかな、しわがれた声が、雪の谷に優しく響いた。
「お夕飯、できていますよ」
俺の隣で、ゼノンが足を止めた。
雪の上に、立ち尽くしていた。濁った銀の目が、角灯の明かりの中の、皺だらけの笑顔を見ていた。
二十二年ぶりに、正面から。




