105 二十二年目の抱擁(フィアット)
ハスト様が来た。
谷の上の森の縁から、雪を蹴って、駆け下りてきた。
その隣に、黒い外套の、灰色の髪の人。……陛下の弟君。本物の。
私は、映しを張ったまま、陛下の隣で息をひとつだけ吐いた。
息を吐いた一瞬だけ、映しが遅れた。降る雪のひとひらぶんだけ。
すぐに整えた。
ハスト様が、こちらを見た。
見えていないはずなのに。陛下の隣の、何もないはずの雪の上を。ほんの一瞬だけ、まっすぐに。
……気づいてくれた。
それだけで、震えていた膝が、少しだけしっかりした。
ハスト様は、いつもそうだ。見えないはずのものを、ちゃんと見つけてくれる。
でも、ハスト様の隣にセルカがいなかった。
いつも、ハスト様の外套の裾を、指先でつまんで、ぴったりと寄り添っている、あの小さな影が。
……どうして。
胸の奥で、嫌な予感が冷たく膨らんだ。あの子が、ハスト様の隣を離れるはずがない。離れるとしたら、それは。……考えるのを、やめた。考えたら、映しが遅れる。
◇
墓の前で、あれが笑っていた。
マルタと呼ばれていた人の、姿で。角灯をひとつ、手に提げて。毛糸の肩掛けに、雪をうっすらと積もらせて。
「おかえりなさい、坊ちゃま」
穏やかな、しわがれた声。
「お夕飯、できていますよ。……山鳥の煮込み。坊ちゃまの、好きな」
陛下の弟君は、雪の上に立ち尽くしていた。
濁った銀の目が、あれを見ていた。
正面から。
まっすぐに。
陛下が、楡の木の幹から背中を離した。肩口の布を、片手で押さえながら。
「――ゼノン」
かすれた声だった。
陛下の弟君は、振り返らなかった。
あれを見たまま。
濁った銀の目の奥で、何かが、ゆっくりとほどけていくのがわかった。
◇
「……白い」
陛下の弟君が言った。
「お前の中には、何もない」
あれは、にこにこと笑っていた。
「嘘の色も。本当の色も。……怒りも、悲しみも、欲も。何も。……人なら、誰でも持っている、魔力の流れのひと筋すら。……ただ、白い。雪のように。何も描かれていない、紙のように」
陛下の弟君の声が、震えていた。
「――マルタ。お前は、いつから」
「いつから?」
あれは、首をこてんと傾げた。
孫に話しかける、祖母のような仕草で。
「ずっとよ、坊ちゃま。……あの春から」
角灯の灯りが揺れた。
「本物のマルタはね、里帰りの帰り道の、峠の雪の中で、眠ってもらったの。……優しい人だったわ。坊ちゃまのことと、ルチアのことばかり話していた。坊ちゃまは、山鳥の煮込みが好きで、薬湯が苦手で、雷が鳴るとルチアの寝台に潜り込む、って」
あれは、愛おしそうに目を細めた。
「全部、写させてもらったわ。……だから、わたしは二十二年、マルタでいられたの」
陛下の弟君の肩が、震えた。
「――坊ちゃまが、わたしを、見ないでいてくれたから」
◇
「……どうして」
陛下の弟君の声は、ほとんど息だけだった。
「母上を、殺した。ルチアを、俺に殺させた。……それから二十二年、俺の傍にいて。俺の眼を、削って」
「どうして、って」
あれは、少しだけ困ったように眉を下げた。
「だって、坊ちゃまの眼はきれいなんだもの」
角灯を、雪の上にそっと置いた。
「わたしたちの一族はね、顔を盗むたびに、自分の顔を忘れていくの。百の顔を盗んだら、鏡を見ても何も映らない。……わたしは、もう千を超えたわ」
あれは、自分の頬に、皺だらけの手をそっと当てた。
「顔はね、昨日のものしか写せないの。盗んだ瞬間から、古くなっていく。……でも、力は違う。力は、明日まで持っていける。坊ちゃまの眼は、坊ちゃまのものじゃなくなっても、ちゃんと今を、見せてくれる」
それから、両腕をゆっくりと広げた。
「――おいで、坊ちゃま」
二十二年間、毎晩そうしてきたように。
「寒かったでしょう。……マルタが、あたためてあげる」
◇
陛下の弟君が一歩、踏み出した。
「――ゼノン!」
陛下が叫んだ。
「行くな!」
陛下の弟君は、止まらなかった。
二歩。三歩。
雪の上を、あれの広げた腕のほうへ。
「……確かめる」
陛下の弟君が言った。
振り返らずに。
「この眼で。……最後まで」
私は、剣の柄を握りしめた。
飛び出したかった。陛下の弟君と、あれの間に鏡を立てたかった。
でも、足が動かなかった。
陛下の弟君の背中が。
あまりにも、まっすぐだったから。
二十二年、見ないようにしてきたものを、今、自分の足で見に行こうとしている背中だったから。
止めたら、この人はきっと、もう二度と何も確かめられなくなる。そう思ったら、剣の柄を握る指に、力が入らなかった。
あれの腕が、陛下の弟君を包み込んだ。
ふっくらとした、皺だらけの手が、黒い外套の背中に、そっと回された。
「――おかえりなさい」
あれが言った。
「奥様のときと、同じ場所ね」
陛下の弟君の背中の真ん中から。
細い細い、銀色の刃が突き出していた。
◇
陛下の弟君の膝が、雪の上に落ちた。
あれの腕がほどけた。
陛下の弟君は、あれの足元に崩れ落ちた。背中の刃の抜けた傷口から、赤いものが、雪の上ににじんでいった。
「――ゼノン!!」
陛下が駆け出した。
私よりも先に。肩口の傷を押さえていた手を、離して。
あれは、陛下を見もしなかった。
崩れ落ちた陛下の弟君の顔を、覗き込んでいた。
濁った銀の目を。
「……やっと」
あれの声が、うっとりと震えていた。
銀色の刃を握っていたあれの指先から。細い細い銀の糸が、何本も、何本も、陛下の弟君の目元へ伸びていった。
糸が目元に触れた。
濁った銀の目から、最後に残っていた銀色が、すうっと糸に吸い上げられていった。
陛下の弟君の目が、白くなった。
濁りも、靄も、何もない。ただの白。
――見えなくなったんだ。
あれが顔を上げた。
両の目が、銀色に光っていた。
左目だけじゃなかった。両方。冷たく澄みきった銀。
「――やっとぜんぶ、もらえた」
◇
陛下が、あれと陛下の弟君の間に滑り込んだ。
陛下の弟君の身体を、両腕で抱きかかえた。
「ゼノン。……ゼノン」
陛下は、弟君の白くなった目を覗き込んでいた。肩口の傷から、また赤いものがにじみ出していた。それでも、陛下は、弟君を抱く腕を少しも緩めなかった。
「兄上が、来たぞ」
陛下の声が震えていた。
「……もう大丈夫だ」
二十二年前。
ルチアさんの亡骸の前で、猫から人の姿に戻ったとき。陛下は、そう言うつもりだったのだと、ハスト様が教えてくれた。
言えなかった言葉を、陛下は、二十二年かけて、ようやく弟君の耳元で言った。
その声を聞いていたら、胸の奥がぎゅっと痛くなった。二十二年分の『大丈夫だ』が、たったひと言に詰まっていた。
陛下の弟君の白い目が、ほんのわずかに動いた。
何も見えていないはずの目が。陛下の声のするほうを、探すように。
あれが、ゆっくりと陛下を見下ろした。
その顔が、変わっていった。
皺だらけのふっくらとした頬が、すうっと平らになった。目が、鼻が、口が、雪に埋もれるように、白く消えていった。白い髪がほどけて、ばらばらと肩から落ちた。
白い、のっぺりとした何もない顔。
その顔の、目のあるはずのところに。
銀色の光がふたつ。
「――次は」
口のないはずの顔から、声がした。
もう老婆の声でも、陛下の弟君の声でもなかった。誰の声でもない、ざらざらとした、砂を擦り合わせたような声。
白い顔が、ゆっくりと向きを変えた。
陛下でもなく。陛下の弟君でもなく。
ハスト様のほうへ。
「九人目の、白い穴」
あれの指先から、銀の糸がふわりと広がった。
十本。百本。
――千本。
「そこに、何があるのか。……わたしも、見たいわ」
◇
糸が嵐になった。
庭じゅうの空気が、銀色の糸に埋め尽くされた。角灯の光を受けて、無数の糸が、きらきら、きらきらと光っていた。降りしきる雪が、糸に触れて、細かく細かく切り刻まれていった。
糸の嵐の中心で、ハスト様が権を構えていた。
碧い剣が糸を薙いだ。
何十本もの糸が、断ち切られた。
断ち切られた糸のすぐ後ろから、また何十本もの糸が、伸びてきた。
ハスト様が、碧い盾を張った。
盾が完成するそのほんの一瞬前に、糸が、盾の縁の、まだ閉じきっていない隙間をすり抜けていった。
――読まれている。
陛下の弟君の眼を全部、手に入れたんだ。曇っても濁ってもいない、全部の真眼で。ハスト様が、権を振ろうとする意志も、盾を張ろうとする意志も、生まれた瞬間に見えている。
糸が、ハスト様の外套を裂いた。腕を裂いた。頬を裂いた。
細い、赤い線がいくつも走った。
そして。
糸の何本かが、ハスト様を通り越して。
その後ろの陛下と、陛下の弟君のほうへ。
◇
私は飛び出していた。
陛下と、陛下の弟君の前に。
両手を、前に突き出した。
「――『鏡映し』!」
鏡が立った。
一枚じゃ足りなかった。
二枚。三枚。
陛下と、陛下の弟君を囲むように。三枚の鏡を、雪の上に立てた。
糸が鏡に触れた。
鏡の中に、あれが映った。
白い、のっぺりとした何もない顔。
糸が、鏡の手前でほんの一瞬迷った。
――鏡が怖いんだ。
自分の顔が、映らない鏡が。何もない、ということを、嘘をつかずに映してしまう鏡が。
でも、迷ったのは、一瞬だけだった。
あれは、もう鏡を見なかった。
見ないまま、糸を叩きつけてきた。
鏡が軋んだ。
一枚目の鏡に、細い罅が走った。
映しは嘘をつけない。鏡に走った罅も、そのまま映ってしまう。割れかけていることを、隠すことすらできない。
鏡の中の、罅の向こうに映っているあれの白い顔が、ほんの少しだけ笑ったように見えた。口なんてないのに。
◇
剣を振るった。
ラークさんが打ってくれた、白鋼の剣。セルカの氷の水で、焼き入れをした剣。
鏡を回り込んで伸びてくる糸を、一本ずつ、断ち切った。
一本。三本。十本。
追いつかなかった。
鏡の映しを三枚。自分の身体の映しを、一枚。全部を、今と寸分違わず写し続けながら、剣を振るう。
頭の奥が、焼けるように熱かった。
鼻の奥から、温かいものがつうっと流れ落ちた。唇に鉄の味がした。
二枚目の鏡に、罅が走った。
「――フィアット君!」
背中で、陛下の声がした。
「もういい、離れたまえ! 君まで――」
「離れません!」
自分の声が、雪の中に響いた。
「割らないって」
剣を振るった。
糸を断ち切った。
「割らないって、約束したんです」
――鏡。割らないで、ね。
城壁の上で、セルカがそう言った。
あの子が私に何かを頼んだのは、初めてだった。
だから、割らない。
頭の奥が焼けても。鼻血が止まらなくても。膝が雪に沈みそうになっても。
三枚目の鏡に、罅が走った。
◇
糸の嵐の向こうで、ハスト様が膝をついていた。
外套が、ずたずたに裂けていた。腕から、頬から、肩から、血がにじんでいた。
権の碧い光が、暗くなっていた。
いや。
暗くなっているんじゃなかった。
深くなっていた。
濁った碧。深い深い、水の底のような色。……私の知らない、ハスト様の色。
ハスト様の周りの雪が、じゅう、と音を立てて溶けていった。
溶けた雪が、蒸気になって立ちのぼった。
「――ハスト様!」
私は叫んだ。
あの色はだめだ。
なぜか、わかった。わかってしまった。あの色の碧を全部出してしまったら、ハスト様は、どこか、すごく遠いところへ行ってしまう。この庭も、この谷も、陛下も、陛下の弟君も、あれも、全部一緒に焼き尽くして。
どうしてそう思うのか、わからなかった。
わからないまま叫んだ。
「だめです! その色は、だめ!」
ハスト様の碧が震えた。
それでも、止まらなかった。
糸の嵐が、ハスト様を包み込もうとしていた。私の三枚の鏡が、今にも砕けそうだった。陛下の腕の中で、陛下の弟君の白い目が、何も見ないまま、空を見上げていた。
――そのとき。
雪が止まった。
◇
降りしきっていた雪が、ひとひら残らず、宙に浮いたまま止まっていた。
糸の嵐が止まっていた。
角灯の炎が、揺れるのをやめて、橙色の形のまま固まっていた。
ハスト様の碧も。陛下の叫びかけた口元も。三枚の鏡に走った罅の、その先端も。
何もかもが、止まっていた。
――私以外は。
私は、映しを張り続けていた。今、ここにある本物の景色を、本物のまま。……止まった景色を、止まったまま。
だから、私だけが見えた。
止まった世界の、真ん中に。
糸の嵐のど真ん中の、宙に。
小さな人影が、ひとつ浮かんでいた。
銀色がかった淡い髪。両側の一房に、水色のリボン。片方の手袋をなくした、小さな右手。
淡い水色の目が、止まった世界の中で、ぼんやりと光っていた。
その人影が、私のほうを見た。
それから、小さな唇が動いた。
「……フィアット」
止まった世界の中で、その声だけが届いた。
「……時計」
私は、泣きそうになりながら笑った。
来てくれた。本当に、来てくれた。
「――なに? セルカ」




