106 跳躍(セルカ)
ハストさまの背中が、森の中に消えた。
一度だけ振り返ってくれた。
いつもは、振り返らない人なのに。
……それだけで、もう十分だった。
あの人が振り返らないのは、足が止まってしまうから。それを知っていて、それでも振り返ってくれた。わたしのために、一度だけ、止まってくれた。
わたしは、湖の真ん中にひとりで立っていた。
右手の手袋は、ハストさまに預けた。返してもらいに行く。ハストさまの、ところまで。
だから、跳ぶ。
わたしは、両手を、胸の前でそっと重ねた。
目を閉じた。
◇
井戸の縁に立った。
わたしの中の、ずっとずっと奥のほう。底の見えない、暗くて冷たい井戸。
聖火の夜から、わたしはここから汲んできた。止まった時間の中で使った魔力は、使われなかったことになる。だから、どれだけ汲んでも減らない。井戸の底に、井戸を掘るような矛盾。
いつもは、縁の近くから少しだけ。
今夜は。
一番、深いところまで。
わたしは、井戸の中へ手を伸ばした。
冷たかった。
指先から、冷たさが這い上がってきた。人差し指。中指。手のひら。手首。……止まった側に、置いていかれていく。わたしの身体の時間が、ひとつずつ止まっていく。
周りの雪が止まった。
わたしの周りだけ。ひとひら、ひとひら、宙に浮いたまま。
足元から、霜が広がっていった。
――まだ。
もっと深く。
◇
一呼吸。
汲みながら速める。置いていかれた分を、同じだけ、同じ瞬間に取り戻す。
心臓の音を聞きながら。
指先は、温かいままだった。
二呼吸。三呼吸。
ちゃんと釣り合っていた。
四呼吸。五呼吸。
井戸が、深くなっていった。汲む量が増えていった。速めなきゃいけない量も、増えていった。
六呼吸。七呼吸。
――ここまで。
毎晩、サリナさまと練習して、ここまでは来られた。
八呼吸目で、ずれた。
汲む速さに、速める速さが追いつかなかった。
指先が、すうっと冷えた。手首が冷えた。肘が。肩が。
冷たさが、胸のほうへ這い上がってきた。
心臓の音が。
ゆっくりになった。
◇
――とまる。
心臓の音が、遠くなっていった。
一回打って、次を打つまでの間が、少しずつ長くなっていった。
その長い間の中で、わたしの身体のあちこちが、止まった側に、持っていかれていった。
怖くはなかった。
前のわたしなら。
ハストさまを守れるなら、止まってもいいって、思っていた。指が止まっても、手が止まっても。心臓が止まっても。
――お前まで、そっち側に行くな。
ハストさまの声がした。
――戻ってこい。春、見るんだろ。
心臓の音が、またひとつ遠くなった。
基準にしていた、わたしの心臓が。
止まりかけていた。
止まりかけた時計で、均衡は測れない。
……どうしよう。
時計が止まったら。
怖い、と思った。初めて。……止まることが、じゃない。止まったら、もう、ハストさまのところへ行けない。春を、見られない。それが怖かった。
◇
――私も、セルカの心臓の音に合わせる。
声がした。
兵舎の小部屋で。鼻に布を当てたまま、寝台の上で身体を起こして。わたしの手首を、そっと握った手。
――ふたりで、同じ時計を使えばいい。
フィアットの手。
一週間、毎日わたしの手首を握っていた手。わたしの脈に、自分の映しを合わせ続けていた手。
だから、わたしも。
いつの間にか、覚えていた。
フィアットの脈。
わたしの手首を握る、フィアットの指先から、ずっと伝わってきていた。少しだけ速くて、少しだけせっかちで。でも、まっすぐな音。
それから。
もうひとつ。
森の家の、居間のソファで。ハストさまが、眠ってしまった夜。毛布を掛けて、そっと胸のあたりに、耳を寄せたことがある。……ないしょ。
ゆっくりで。重たくて。でも、温かい音。
学園の屋上で、寝たふりをしているハストさまの隣に座るとき。分館の台所で、頭を撫でてくれるとき。ずっと、すぐそばで聞いていた音。
――時計は、ひとつじゃない。
わたしの心臓が止まりかけても。
わたしの中には、ふたりの音がある。
◇
わたしは、止まりかけた自分の心臓のすぐ隣に。
ふたりの音を並べた。
フィアットの、少しだけ速い音。
ハストさまの、ゆっくりで温かい音。
その真ん中に、わたしの音を置いた。
三つの音が重なった。
――とまらない。
ひとつが遅れても、ふたつが引っ張ってくれる。ひとつが速すぎても、ふたつが引き止めてくれる。
汲んだ。
一番、深いところから。
同じ瞬間に速めた。
三つの音の、真ん中の速さで。
指先が温かくなった。手首が。肘が。肩が。
胸が。
心臓が、また打った。
さっきよりも、少しだけ力強く。
井戸の底から汲み上げた冷たさと、わたしが速めた温かさが、わたしの身体の中で、ぴたりと釣り合っていた。
どこも、止まっていなかった。
どこも、置いていかれていなかった。
八呼吸。九呼吸。十呼吸。
二十。五十。
――もう数えなくていい。
わたしは目を開けた。
右手の人差し指の先が、桃色だった。
温かかった。
◇
それから、世界を止めた。
湖の上の何もかもを。
降りしきる雪が、ひとひら残らず、宙に浮いたまま止まった。倒れた兵たちの泣き声が、途中で止まった。母さん、と呟いた若者の唇が、母、の形のまま止まった。
砦の城壁の上で、アイシャ会長が、城壁の縁を握ったまま止まっていた。こちらを見ていた。
見張りの塔の上で、サリナさまが、湖に手をかざしたまま止まっていた。
――サリナさまだけ、ほんの少しだけ、口元が笑っていた気がした。
止まった世界の中で、わたしは、わたしの時間を速めた。
どこまでも。
均衡を保ったまま。
一歩、踏み出した。
宙に浮いた雪の間を、すり抜けた。
二歩。三歩。
湖を渡った。向こう岸の森へ。止まった木々の間を。梢から落ちかけて、宙で止まった雪の塊の下を。
ハストさまの足跡が、雪の上に続いていた。それから、もうひとつ、王子さまの迷いのない足跡。
その上を辿った。
止まった世界の中では、どれだけ歩いても、世界にとっては一瞬も経たない。
――届くための魔術。
サリナさまが、二百年前に、間に合わなかったあとで覚えた魔術。
わたしは、間に合う前に覚えた。
◇
森が途切れた。
谷の底に、館が見えた。
角灯の光が、橙色の形のまま止まっていた。
その庭いっぱいに。
銀色の糸が、止まっていた。
何千本も。何万本も。角灯の光を受けて、宙に縫い止められて。降る雪を細かく刻んだまま、刻まれた雪と一緒に、止まっていた。
糸の嵐のど真ん中で。
ハストさまが、膝をついていた。
外套が、ずたずたに裂けていた。腕にも、頬にも、赤い線がいくつも。
それから、ハストさまの権の色が。
深い深い碧だった。
濁った水の底のような。
ハストさまの周りの雪が、溶けて、蒸気になったまま止まっていた。
――あの色。
わたしの知らない色だった。
でも、わかった。あの色を全部出してしまったら、ハストさまは、遠くへ行ってしまう。
庭の楡の木の近くで。
罅の入った、三枚の透き通った鏡が立っていた。
鏡の内側に、陛下が、王子さまを抱きかかえて膝をついていた。
鏡の外側に。
剣を構えて立っている、蒼い髪の女の子。
鼻から唇へ、赤いものがひと筋流れていた。
止まった世界の中で、わたしは、その子の時間だけ止めなかった。
その子だけは。
わたしの時計だから。
◇
糸の嵐の真ん中の、宙に、わたしは浮かんでいた。
フィアットが、わたしを見た。
止まった世界の中で、フィアットの蒼い目が、大きく見開かれていた。
「……フィアット」
わたしは言った。
「……時計」
フィアットが、泣きそうな顔で笑った。
「――なに? セルカ」
それから、フィアットは、剣を左手に持ち替えて、空いた右手をわたしのほうへ伸ばした。
わたしは、宙からふわりと降りた。
フィアットの隣に。
フィアットの手が、わたしの右手首を握った。
いつもの、少しだけ速くて、少しだけせっかちな、まっすぐな脈。
「……セルカ。手、あったかい」
「……うん。……均衡、できた」
「……そっか」
フィアットは、それだけ言った。
それだけで、わかってくれた。
七日間、毎日わたしの手首を握っていた手だから。わたしがどこまで汲んで、どうやって戻ってきたのか。言わなくても、ちゃんと伝わっている。
「……鏡、割らなかったね」
「割らないって、言ったでしょ」
フィアットは、鼻の血を袖でぐいと拭った。
それから、三枚の鏡に、もう一度手をかざした。
罅の入った鏡の中に、止まった糸の嵐が、映っていた。
わたしは、鏡の縁に左手を添えた。
鏡の中の時間だけを。
一拍分、速めた。
◇
わたしは、世界を流し直した。
再生。
雪がまた降り始めた。角灯の炎が、また揺れ始めた。糸の嵐が、また動き始めた。
ハストさまの碧が、また深く燃え上がりかけて。
――その背中に、わたしは届いていた。
フィアットの手首を握られたまま、もう片方の手で。
ハストさまの、ずたずたに裂けた外套の背中に、そっと触れた。
「……ハストさま」
ハストさまの背中が、びくりと震えた。
「……その色、だめ」
ハストさまが、振り返った。
深い碧に燃えていた目が、わたしを見た。
それから、わたしの右手を。手袋をしていない、桃色の指先を。
ハストさまの目が、大きく見開かれた。
「――セルカ」
「……てぶくろ」
わたしは言った。
「……かえしてもらいに、きた」
ハストさまの権の色が。
深い、水の底のような碧から。
少しずつ、少しずつ。
いつもの、碧に戻っていった。
◇
「――右、三本。上、十本!」
フィアットが叫んだ。
鏡の中に、一拍先の糸が映っていた。まだ動いていない糸が、一拍後にどこを通るのか。
ハストさまが、権を振るった。
フィアットの声のとおりに。右へ。上へ。
一拍先に、糸が来る場所へ。
糸が、まだそこに来る前に。権の刃が、そこで待っていた。
糸が断ち切られた。
白い顔のあれが、身じろぎした。
――ハストさまの意志が、読めないんだ。
ハストさまは、自分で、どこを斬るか決めていない。決めているのは、フィアットの声。フィアットの声を決めているのは、フィアットの鏡。フィアットの鏡は、映し。……あれの眼には、映らない。
読めるのは、ハストさまの腕の動きだけ。
腕が動いた時には、もう遅い。
「左、五本! 足元、二十!」
権が薙いだ。
糸が、雪の上にばらばらと落ちていった。
千本の糸が五百に。三百に。百に。
あれの白い顔が、ぐるりとこちらを向いた。
わたしたちを。
フィアットを。
「――その子の、顔」
ざらざらとした、砂を擦り合わせたような声が、言った。
「ちょうだい」
◇
残りの糸が全部、フィアットへ伸びてきた。
写し身の糸。ペトラの記憶を、ひと晩かけて写し取ったあの糸。
フィアットが、わたしの手首を離した。
「――セルカ!」
「……うん」
フィアットが駆けた。
雪の上を、楡の木のほうへ。駆けながら、自分の身体に薄く映しを張った。
その、駆け出した一瞬の姿を。
わたしは止めた。
停止。
雪の上に、フィアットが残った。
駆け出したばかりの蒼い髪がなびいた、その一瞬の、フィアット。
一瞬前の、本当のフィアット。
本物のフィアットは、もうそこにはいない。
あれの糸が、残ったフィアットに絡みついた。
額に。頬に。蒼い髪に。何十本も、何百本も。
――写し取ろうとして。
糸が止まった。
残ったフィアットの一瞬は、止まった時間の中にある。そこに触れた糸も、一緒に止まった時間の中に、引きずり込まれた。
糸の先から、糸の根元まで。
あれの指先まで。
あれの白い顔が、ぴたりと動かなくなった。
「……とまった……?」
ざらざらとした声が、初めて怯えていた。
わたしは、あれを見た。
「……それ、フィアットの、さっき」
あれは、自分の指先から伸びる、止まった糸を見ていた。
「……もうそこには、いない。……あなたがつかんだのは、ぜんぶ、昨日のフィアット」
◇
楡の木の陰から、フィアットが出てきた。
映しを解いた。
雪の上に、蒼い髪の、本物のフィアットが立っていた。
剣を構えて。鼻の下に、まだ少しだけ赤い跡を残して。
あれと、まっすぐに向かい合っていた。
「――セルカ」
フィアットが、わたしを呼んだ。
「もうひとつ、お願いしてもいい?」
「……なに」
フィアットは、あれの白い、何もない顔を見つめていた。
怖がっていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
「あの人に、鏡を見せてあげたいの」
フィアットは言った。
「……今の顔じゃなくて。……あの人が、忘れてしまった顔を」
わたしは、フィアットの横顔を見た。
それから、自分の温かい右手を見た。
止める。流し直す。速める。釣り合わせる。
……もうひとつ。
サリナさまに、教わっていない使い方。
でも、わかった。
できる。
「……いいよ」
わたしは、フィアットの手首をもう一度握った。
「……フィアットの鏡の中の、時間。……戻せば、いい」




