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107 真実の鏡


雪が降っていた。


庭いっぱいに張り巡らされていた銀色の糸は、もうほとんど残っていなかった。断ち切られた糸が、雪の上に、細い銀の線になって散らばっていた。


残った糸は、全部、楡の木の手前の一点に集まっていた。


駆け出しかけた一瞬の、フィアットの姿。セルカが、停止で縫い止めた、一瞬前のフィアット。


その残し映しに、何百本もの糸が、絡みついたまま止まっていた。


糸の根元に、あれがいた。


白い、のっぺりとした何もない顔。肩から、白い髪がばらばらとほどけ落ちて。毛糸の肩掛けが半分、雪に埋もれて。銀色の光を宿した、ふたつの目だけが、白い顔の中で、怯えたように揺れていた。


指先から伸びた糸が、止まった時間に、引きずり込まれていた。あれは、自分の指先を見下ろしたまま、動けなかった。


俺は、権を構えたまま、あれを見ていた。


斬れた。


今なら斬れた。


ゼノンを刺した。陛下の肩を裂いた。ペトラの頭の中を、ひと晩かけて覗き込んだ。セルカの顔を盗んだ。……二十二年、ゼノンの眼を削り続けた。


あの夜。


雪の中で、ゼノンを見て笑っていた。


権の柄を握る俺の手に、力がこもった。


「――ハスト様」


フィアットの声がした。


俺は振り返った。


フィアットは、セルカと手首を繋いだまま、俺を見ていた。


「少しだけ待ってください」


◇


フィアットが、あれの正面に立った。


剣を、雪の上に突き立てた。


両手を前にかざした。


手のひらから、蒼い光が溢れた。


光は、雪の上に薄く広がって、それからゆっくりと立ち上がった。


鏡だった。


けれど、今までのどの鏡よりも大きかった。フィアットの背丈の、倍ほどもあった。透き通った、一枚の大きな鏡。角灯の光を受けて、鏡の面が静かに光っていた。


罅は、ひとつもなかった。


鏡の中に、あれが映っていた。


白い、のっぺりとした何もない顔。


あれは、鏡を見て身をよじった。


止まった糸に指先を縫い止められたまま、それでも、顔を、鏡から背けようとした。


「……いや」


ざらざらとした、砂を擦り合わせたような声が、震えていた。


「……見せないで」


セルカが、フィアットの手首を握ったまま、もう片方の手を、鏡の縁に添えた。


止める。流し直す。速める。釣り合わせる。……ロリババアが教えた四つの理の、どれでもない使い方だった。


鏡の中の時間を、逆さまに流す。


セルカは今、この場で、それを自分で見つけたのだ。


指先が桃色だった。


「……フィアット」

「うん」

「……いく」


セルカの指先から、淡い光が、鏡の縁に流れ込んだ。


◇


鏡の中の時間が。


戻り始めた。


最初は、ほんの少しだけだった。


鏡の中で、降っていた雪が空へ昇っていった。角灯の炎が、逆さまに揺れた。鏡の中の、あれのほどけ落ちた白い髪が、ふわりと肩へ戻っていった。


鏡の中のあれの顔に、皺が戻った。ふっくらとした、優しい老婆の顔。


マルタの顔。


それが、すぐにほどけて。


灰色の髪の、痩せた男の顔になった。澄みきった銀の目。……ゼノンの顔。さっき、陛下とフィアットを、この庭で待っていた顔。


それもほどけて。


また、マルタの顔に。


鏡の中の時間が、どんどん速く戻っていった。


マルタの顔。マルタの顔。マルタの顔。……二十二年分のマルタの顔が、鏡の中を、逆さまに流れていった。少しずつ若くなっていった。皺が薄くなっていった。


その間に、ときどき別の顔が混じった。


栗色の三つ編みの、そばかすの散った娘。……ペトラ。


銀色がかった淡い髪に、水色のリボンの、小さな女の子。……セルカ。


近衛騎士の甲冑の男。王城の名も知らぬ侍女。北の村の、粗末な外套の農夫。


それから。


雪の中の、ひとりの娘。


――俺の、息が止まった。


鏡の中で、ほんの一瞬だけ。


雪の降る、村外れの景色の中で、あれがひとりの娘の顔をしていた。


顔は見えなかった。


鏡の中の時間が、速すぎた。ひとひらの雪が落ちるよりも短い、一瞬の、さらに半分。輪郭すら追えなかった。


ただ、その娘の顔をしたあれが、笑っていたことだけがわかった。


――胸の奥の白い場所が、軋んだ。


きしり、と。


ぎしり、と。


それから、またマルタの顔に戻っていった。


見えなかった。……見えなかったのに、手のひらに汗が滲んでいた。冷たい雪の匂いが、一瞬だけ、胸の奥の白い場所から立ちのぼった気がした。


◇


鏡の中の時間は、止まらなかった。


マルタの顔が、四十代のふっくらとした女の顔になった。それがほどけて。


寝間着姿の、美しい若い女の顔になった。


陛下が、ゼノンを抱きかかえたまま息を呑んだ。


「……母上」


陛下の腕の中で、ゼノンがかすれた声で呟いた。


白い目は、何も見えていないはずだった。


それでも、ゼノンの顔は、まっすぐに鏡のほうを向いていた。


――二十二年前の、あの夜。北の離宮の寝室で。


鏡の中のゼノンの母親の顔は、穏やかに笑っていた。


「……違う」


ゼノンが、かすれた声で言った。


「母上は、あんなふうには笑わなかった。……もっと困ったように。眉を、少しだけ下げて。……兄上が猫で来た日に、窓辺の焼き菓子を見て、そういうふうに笑う人だった」


陛下の腕が、ゼノンを強く抱きしめた。


「……ああ。そうだったね」


陛下の声が震えていた。


「あの人は、いつも困ったように笑っていた」


それもほどけた。


それから、もっと速く。


何百もの顔が、鏡の中を流れていった。男。女。老人。子ども。貴族。兵士。商人。乞食。……あれが、盗んできたすべての顔。あれが、殺してきたすべての人。


千を超える顔が。


逆さまに。


――あれは、もう身をよじっていなかった。


止まった糸に指先を縫い止められたまま、鏡の中を、見ていた。


銀色のふたつの目で。


流れていく顔を。自分が盗んできた顔を。一枚、一枚。


その白い顔の、口のないはずのところが、わずかに震えていた。


◇


そして。


鏡の中の時間が、ふっとゆるやかになった。


千を超える顔が流れ尽きた、その最後に。


鏡の中に、ひとりの小さな女の子が映っていた。


七つか、八つくらいの。


痩せた、小さな身体。くしゃくしゃの黒い髪。鼻の上に、小さな古い傷跡。継ぎ接ぎだらけの、灰色の服。


薄暗い石の部屋の隅で。膝を抱えて座っていた。


泣いていた。


声を殺して。肩を震わせて。


女の子の前に、黒い衣の、年老いた女が、立っていた。顔のない、白い顔の女だった。


鏡の中の、その年老いた白い顔の女が、女の子に、何かを言っていた。


声は聞こえなかった。


でも、唇の動きでわかった。


――顔を盗みなさい。


――自分の顔なんて、早く忘れてしまいなさい。


――そのほうが楽よ。


女の子は、泣きながら首を横に振っていた。


何度も。何度も。


千の顔を盗む前。たったひとつの自分の顔を、守ろうとしていた子ども。……あれにも、そんな夜があったのだ。


「……あ」


雪の上で、あれが声を漏らした。


ざらざらとした、砂の声じゃなかった。


ほんの少しだけ。小さな、かすれた子どものような声だった。


「……あ……あれ……」


あれの白い顔に、さざ波が立った。


目のあるはずのところが、ゆっくりとくぼんで。鼻のあるはずのところが、ゆっくりと盛り上がって。口のあるはずのところが、ゆっくりと裂けて。


顔が。


できていった。


盗んだ顔じゃなかった。


鏡の中の女の子の顔に、少しだけ似た顔。


鼻の上に、小さな古い傷跡。


◇


「――あなたの、顔です」


フィアットが言った。


静かな声だった。


「あなたが、ずっと前に、なくしてしまったあなたの」


あれのできかけの顔が、フィアットを見た。


それから、鏡の中の泣いている女の子を見た。


「……わたし」


かすれた、子どものような声が言った。


「……わたし、こんな顔、だった」


あれの指先から伸びていた糸が。


一本、また一本と、ほどけていった。


止まった時間に縫い止められていた糸が、止まった時間ごと、さらさらと白い砂になって、崩れていった。


あれは、自由になった指先を、ゆっくりと持ち上げた。


自分の顔に触れた。


鼻の上の小さな傷跡に。


「……リラ」


あれが言った。


「……わたしの、なまえ。……リラ」


雪が降っていた。


その雪の中で、あれは――リラは、自分の顔に触れたまま泣いていた。


声を殺して。肩を震わせて。


鏡の中の女の子と、同じように。


◇


リラの身体が、崩れ始めた。


足元から。


ふっくらとした老婆の身体が、白い砂になって、さらさらと雪の上にこぼれていった。


盗んだ顔で生きてきた。誰かの顔でしか、生きられなくなっていた。……自分の顔を思い出した今、もう誰の顔にも、なれない。


「――待て」


俺は言っていた。


権を下ろして。


「あの夜。……雪の村の外れで。あんたは、誰の顔をしてた」


リラの崩れかけた顔が、俺を見た。


銀色の目は、もう銀色じゃなかった。


ふつうの、茶色い小さな目だった。


「……わからない」


リラは言った。


「……ごめんなさい。……わたし、もう思い出せない。……盗んだ顔は、ぜんぶ、鏡の中に流れていっちゃった」


リラの身体が、腰まで崩れていた。


「……でも」


リラの目が、俺の胸のあたりを見た。


あの場所を。


「……あなたのその、白い穴。……さっき、見たかったの。……どうしても、見えなかった」


崩れかけた唇が、ほんの少しだけ笑った。


盗んだ笑顔じゃなかった。


ぎこちない、下手くそな、子どもの笑い方だった。


「……誰にも、盗めないものなのね。……いいなぁ」


◇


リラの身体が、胸まで崩れていた。


崩れていく白い砂の中から、銀色の細かな粉が、ふわりと浮かび上がった。


真眼の欠片。


二十二年かけて、ゼノンの眼から、削り取ってきた銀の粉。


それが、雪の中をゆっくりと漂っていった。


陛下の腕の中の、ゼノンのほうへ。


ゼノンの白い目の中へ。


すうっと吸い込まれていった。


リラが、最後にゼノンのほうを見た。


崩れかけた唇が動いた。


「……坊ちゃま」


かすれた、小さな声だった。


マルタの声じゃなかった。


リラの声だった。


「……ごめんなさい」


それから、リラは、雪の上に白い砂になって崩れ落ちた。


砂の中に、毛糸の肩掛けと、古びた前掛けだけが残された。


前掛けの大きなポケットから、小さな紙の包みが、ころりと転がり出た。


包みの中から、半分に割られた、蜂蜜の焼き菓子がのぞいていた。


陛下が、ゼノンを抱きかかえたまま、その焼き菓子を、長いこと見つめていた。


「……あれも」


陛下の声は、ひどく静かだった。


「あれも、誰かの子どもだったのだね」


陛下はそう言って、腕の中の弟を、少しだけ強く抱き寄せた。母と、ルチアと、弟の眼を奪った相手のために。この人は、それでもほんの少しだけ、悲しんでいた。


誰も答えなかった。


俺は権を消した。


碧い光が、手のひらの中にほどけて、戻っていった。


権を握っていた指が、まだ強張っていた。一本ずつ、ゆっくりとほどいた。


――斬らなかった。


斬れたのに。斬るつもりで、権を構えていたのに。


フィアットが、待ってください、と言わなければ、俺はあのまま斬っていた。あの夜の答えを、何ひとつ聞かないまま。


そして、あれは最後まで、誰かの昨日の顔のまま、消えていたのだろう。


自分の名前も、思い出さないまま。


◇


フィアットの鏡が、静かに消えた。


セルカが、フィアットの手首をそっと離した。


ふたりとも、雪の上に座り込んだ。


フィアットは、肩で息をしていた。鼻の下の赤い跡を、袖でもう一度拭った。セルカは、自分の右手の桃色の指先を、じっと見つめていた。


「……セルカ」

「……なに」

「……ありがと」

「……フィアットこそ」


ふたりは、顔を見合わせて、それから少しだけ笑った。


降りしきる雪の中で、その小さな笑い声だけが、ひどく温かく聞こえた。


俺は、その隣に膝をついた。


外套の胸の内側から、片方だけの手袋を、取り出した。


セルカの右手に、はめてやった。


セルカは、手袋をはめた自分の右手を、ぼんやりと見下ろした。


それから、俺を見上げた。


「……かえしてもらった」

「ああ」

「……ハストさま。……あとで」

「わかってる」


それ以上は、言わせなかった。


言わせたら、たぶん、ここで全部崩れてしまう気がした。


◇


楡の木の下から、声がした。


「――はっす〜」


陛下だった。


雪の上に膝をついて、ゼノンを抱きかかえていた。


その腕の中で。


ゼノンの目が、開いていた。


白くなかった。


濁ってもいなかった。


澄んだ銀色だった。


二年前に曇り始めてから、一度も取り戻せなかった、本当の真眼の色。


雪の中で、その銀色はひどく澄んで見えた。濁りも、靄も、もうどこにもなかった。


その銀色の目が、ゆっくりと動いていた。


陛下の顔を。


降りしきる雪を。


角灯の橙色の光を。


それから。


雪の上に座り込んだ、ふたりの少女のほうを。


フィアットの顔を。


ゼノンの銀色の目が。


フィアットの顔の上で、ぴたりと止まった。


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