108 騎士になれなかった弟
ゼノンの銀色の目は、フィアットの顔から、動かなかった。
フィアットは、雪の上に座り込んだまま、きょとんとその目を見返していた。鼻の下に、まだ赤い跡を残して。乱れた蒼い髪に、雪を積もらせて。
「……あの」
フィアットが、小さく声を出した。
ゼノンは答えなかった。
ただ、見ていた。
澄みきった銀の目で。二年ぶりに、曇りも濁りもなく、すべてを見通す目で。
その目が、ほんのわずかに見開かれていった。
「……ゼノン?」
陛下が、腕の中の弟を覗き込んだ。
ゼノンの唇が、かすかに震えた。
それから、ゼノンは、ゆっくりと片手を持ち上げた。
血に濡れた、細い指先が、フィアットのほうへ伸ばされた。
届かなかった。
雪の上に座ったフィアットまで、三歩も離れていた。
指先が宙で止まった。
「――フィアット君」
陛下が言った。
声がかすれていた。
「……少しだけ、こちらへ来てくれないか」
◇
フィアットは、立ち上がった。
ふらつく足で、雪の上を三歩歩いた。
陛下の隣に膝をついた。
宙で止まっていたゼノンの指先が、ゆっくりと、フィアットの頬に触れた。
触れただけだった。
撫でもしなかった。掴みもしなかった。
ただ、そっと触れて。
確かめるように。
そこに、本当に温かい頬があることを。
「……あたたかい」
ゼノンが言った。
ひどく小さな声だった。
フィアットは、動かなかった。
何も言わなかった。ゼノンの指先が、自分の頬に触れているのを、じっと受け止めていた。
その蒼い瞳からひと筋、涙がこぼれ落ちた。
フィアット自身、なぜ泣いているのか、わからないような顔だった。
俺にも、わからなかった。ただ、その涙がゼノンの指先を伝って、雪の上にぽつりと落ちるのを見ていた。
◇
「――兄上」
ゼノンの銀色の目が、ゆっくりと、フィアットから陛下へ移った。
「ああ。……ここにいるよ」
陛下は、弟の身体を抱き直した。
背中の傷口から、まだ赤いものが、にじみ出していた。陛下の外套が、ゼノンの血で黒く濡れていた。
レイラさんがいれば。ミリエルがいれば。
……間に合わないことは、わかっていた。
わかっていて、それでも、誰かの名前を呼びたかった。治せる誰かの名前を。そうしていないと、目の前で消えていくものの重さに、膝が折れそうだった。
あれの刃は、二十二年前と同じ場所を、正確に刺し貫いていた。
「……兄上は、猫で来るのが遅い」
ゼノンが言った。
陛下の顔が、くしゃりと歪んだ。
「……すまない」
「二十二年前も。……今夜も」
「すまない」
「……だが、来た」
ゼノンの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
笑ったのだと思う。
九日前、森の縁で、俺はゼノンの口元が歪むのを見た。笑ったのか、別の何かだったのか、わからなかった。
今のは、わかった。
笑っていた。
◇
「……兄上」
「なんだい」
「――騎士に、なれなかった」
陛下の肩が震えた。
「ルドルフ兄上が、王様になったら。……僕が、アーク兄上を守る騎士になる。……そう、約束したのに」
ゼノンの銀色の目が、陛下の顔を見上げていた。
幼い子どものような、目だった。
「剣を持つと、すぐ転ぶ、と。……ルチアに、笑われた。……その通りだった。……俺は、ずっと転び続けた」
「……そんなことは、ない」
陛下の声が、ひび割れていた。
「お前は、なっていたよ。……ずっと。二十二年、ひとりであれを探し続けて。母上と、ルチアの仇をひとりで。……北の村々を、あれから守ろうとして」
「……やり方を、間違えた」
「ああ。間違えた。……私も、間違えた。二十二年、お前を迎えに行かなかった」
陛下は、弟の灰色の髪に、そっと額を押しつけた。
「……兄弟そろって、不器用なことだね」
ゼノンが、小さく息を吐いた。
それは、笑い声に少しだけ似ていた。
「……あの絵」
ゼノンが言った。
「宮廷画家に、描かせた。……兄上が、逃げようとして」
「お前が、袖を離さなかった」
「……まだあるのか」
「あるとも。私の執務室の、壁に。……二十二年、ずっと掛けてある」
ゼノンの指先が、陛下の外套の袖を、そっとつまんだ。
力は、ほとんど残っていなかった。
それでも、つまんだまま離さなかった。
あの絵の中の、小さな少年と、同じように。
「……今度は、兄上も逃げなかったな」
「ああ。……もう逃げないよ」
陛下の頬を、ひと筋、何かが伝っていった。雪が溶けたのか、そうでないのか。俺は、確かめなかった。
◇
ゼノンの銀色の目が、またゆっくりと動いた。
陛下から。
俺のほうへ。
俺の顔の少しだけ横じゃなかった。
まっすぐに。俺の目を。
「……九人目」
「ああ」
俺は、ゼノンの傍に膝をついた。
「……お前の、あの白い穴」
ゼノンの視線が、俺の胸のあたりに落ちた。
「……今の、この眼でも。……やはり、底は見えない」
「…………」
「だが」
ゼノンは、そこで言葉を切った。
銀色の目が、俺の胸から。
ゆっくりと、また動いて。
俺のすぐ隣に膝をついている、フィアットの顔の上に。
戻った。
ゼノンの目が、もう一度大きく見開かれた。
それから、俺を見た。
それから、またフィアットを。
俺とフィアットを。
交互に。
何かを確かめるように。
◇
ゼノンの唇が動いた。
「――あの夜」
かすれた声だった。
雪が降っていた。北風が、谷の上をひゅうと吹き抜けていった。
「――殺したはずの、娘が……」
そこまでだった。
ゼノンの唇は、その先の形を作りかけたまま、止まった。
銀色の目が、フィアットの顔を映したまま。
――その銀色が、目からこぼれた。
涙のように。
澄みきった銀色の光が、ゼノンの両の目から、ひと筋ずつ溢れ出した。頬を伝って。顎を伝って。持ち上げたままの腕を伝って。
フィアットの頬に触れている、その指先へ。
光は、指先から、フィアットの頬へすうっと流れ込んでいった。
フィアットが、息を呑んだ。
逃げなかった。
頬に触れた冷たい指先を、払いのけもしなかった。目を見開いたまま、流れ込んでくる銀色の光を、じっと受け止めていた。
光が、フィアットの頬を伝って上へ。目元へ。
フィアットの、蒼い瞳の中へ。
最後のひと筋まで。
ゼノンの目から、銀色がすっかり消えた。
残ったのは、ただの灰色がかった、穏やかな瞳だった。真眼でも、濁った銀でもない。……たぶん、この人が、生まれたときに持っていた色。
その瞳が、ゆっくりと閉じた。
陛下の腕の中で、弟の身体から、力が抜けていった。
フィアットの頬に触れていた指先が、するりと滑り落ちた。
雪の上に落ちた。
◇
誰も動かなかった。
ゼノンの顔は、ひどく穏やかだった。
眉間に刻まれていた深い皺が、ほどけていた。九日前、森の縁で見たときの、雪をかぶったような灰色の髪も、今はただの、少し疲れた男の髪にしか見えなかった。三十を少し過ぎた、年相応の顔。
――二十二年ぶりに、眠れたのかもしれない。
セルカが、フィアットの隣で、小さく鼻を動かした。
「……苦いにおい、しなくなった」
ぽつりと言った。
「……ずっと薬湯の苦いにおい、してた。……あの人から。……いまは、雪のにおいだけ」
雪だけが降っていた。
楡の枝の角灯の炎が、北風に揺れていた。
陛下は、弟を抱いたまま動かなかった。灰色の髪に、額を押しつけたまま。肩が、小さく震えていた。
声は出していなかった。
二十二年前、ルチアの亡骸の前で、弟に化け物と呼ばれたときも。この人は、きっと声を出さなかったのだと思う。
俺は膝をついたまま、ゼノンの顔を見ていた。
四年前、俺の村を焼かせた男。その死に顔を、どんな顔で見ればいいのか、わからなかった。憎しみは、まだ胸のどこかにあった。けれど、それをぶつける先は、もう、この穏やかな顔のどこにもなかった。
最後の言葉が、耳の奥で繰り返していた。
――あの夜、殺したはずの娘が。
あの夜。
ゼノンにとって、「あの夜」はふたつある。
二十二年前の、北の離宮の夜。来るな、偽物、と突き飛ばして、階段の下に死なせてしまった娘。……ルチア。
それから、四年前の、雪の村外れの夜。泣いて逃げようとしたほうを、斬った娘。
胸の奥の、霧のかかった白い場所が、軋んだ。
きしり、と。
ぎしり、と。
何十枚も重ねた蓋の、一番上の一枚の罅が、また少しだけ広がった。
――ハスト。
雪の中で、誰かが俺を呼んだ。
声は、またそれだけで消えた。
「……ルチアと、見間違えたのだろうね」
陛下が、弟の髪に額を押しつけたまま言った。
くぐもった声だった。
「ルチアは、ちょうど、フィアット君くらいの歳で死んだ。……あの子の目には、最後に、ルチアが見えたのだろう。……生きて、温かいルチアが」
陛下は、そう言った。
そう、思いたかったのかもしれない。
俺は、何も言わなかった。
言えなかった。
◇
フィアットは、自分の頬に、そっと手を当てていた。
さっきまで、ゼノンの指先が触れていた場所に。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳が。
蒼くなかった。
銀色だった。
澄みきった、冷たい、月の光を水の底に沈めたような銀。……さっきまで、ゼノンの目に宿っていた色。
フィアットは、瞬きをした。
一度。二度。
銀色の瞳が、庭を見回した。降りしきる雪を。角灯の炎を。楡の木を。二つの墓を。
陛下を。
「……陛下の、まわりに」
フィアットの声が、震えていた。
「色が、見えます。……深い紺色。夜みたいな。……すごく悲しい色」
陛下が、ゆっくりと顔を上げた。
フィアットの銀色の瞳を、見た。
陛下の目が、大きく見開かれた。
「……ああ」
陛下は、腕の中の弟を見下ろして、それからもう一度フィアットを見た。
「――あの子の眼が、君を選んだのだね」
――偽りに、最愛を奪われし者の怒りに、真眼。
書記の頁の文字が、頭の中に浮かんだ。
あの人の『能力』は、四つに裂けて、四つの怒りに宿った。宿った者が死ねば、『能力』は、次の器を探すのだろうか。
それなら。
フィアットの、どこに。偽りに最愛を奪われた怒りなんて、あるんだろう。
わからなかった。
フィアットの銀色の瞳が、今度は、俺のほうを向いた。
俺を。
それから、俺の胸のあたりを。
フィアットの唇が、ほんの少しだけ開いた。
何かを言いかけて。
それから、閉じた。
「……ハスト様の碧」
ようやく、フィアットはそれだけ言った。
「こんな色、してたんですね」
銀色の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
――何を見たのか。
俺は訊かなかった。
訊けなかった。
フィアットは、何度も瞬きをして、それから両手で、自分の目をそっと覆った。手を離すと、瞳はまたいつもの蒼に戻っていた。
それでも、涙は止まらなかった。
「……ごめんなさい」
フィアットが、小さな声で言った。
「止まらなくて。……ごめんなさい」
誰も、何も言わなかった。
フィアットは、涙を拭おうとして、拭えずに、そのまま雪の上で肩を震わせていた。
セルカが、フィアットの隣にそっと座った。
何も言わずに。
フィアットの冷たくなった手を、取った。
セルカの桃色の指先で。温かい手で。
フィアットは、驚いたようにセルカを見た。
セルカは前を向いたまま、ぽつりと言った。
「……あったかい、でしょ」
「……うん」
「……均衡、できたから」
フィアットは泣きながら、少しだけ笑った。
それから、セルカの手をぎゅっと握り返した。
◇
俺は立ち上がった。
楡の木の下で、二つの墓が雪をかぶっていた。
ゼノンの母と。ルチアと。
その隣に、まだ雪の積もっていない場所が、少しだけ残っていた。
誰かが、ずっと空けておいたかのように。
俺は、外套の胸元に手を当てた。
セルカの手袋は、もう返した。
そこには何もなかった。
何もないのに、ひどく重かった。
手袋一枚ぶんの重さじゃなかった。この夜に置いていかれた、いくつもの命の重さだった。
――あの夜、俺が斬ったのが何だったのか。
ゼノンは、それを俺に訊いた。
俺は答えられなかった。
そして、ゼノンは、その答えをどこかで見つけたような顔をして逝った。
それが何だったのか、俺にはわからない。
わからないまま、雪が降り続けていた。
北の離宮の庭に。
二つの墓と、まだ空いている場所に。
兄の腕の中の、弟の上に。
――初雪の夜が、明けようとしていた。
東の尾根の向こうが、ほんの少しだけ白み始めていた。
陛下が、ようやく弟の髪から額を離した。
腕の中の顔を、長いこと見下ろしていた。
それから、弟の灰色の髪についた雪を、指先で、ひとつずつ丁寧に払い落とした。子どもの髪を梳くように。
「……おかえり、ゼノン」
陛下は言った。
ささやくような声だった。
「遅くなって、すまなかった。……兄上が、迎えに来たよ」
東の尾根から、白い朝の光が、谷の底へゆっくりと差し込んできた。
雪に覆われた庭が、淡い金色に染まっていった。
楡の木の下の、二つの墓と、まだ空いている場所が。兄の腕の中の弟の、穏やかな顔が。
その光の中で、雪は、まだ静かに降り続けていた。




