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109 白墨の名前(フィアット)


銀色の光が、目の中に流れ込んできた。


冷たかった。


雪よりもずっと。冬の朝の井戸の水を、そのまま瞳に注がれたみたいだった。


痛くはなかった。ただ、冷たくて澄んでいて、どこまでも深かった。


頬に触れているゼノン殿下の指先が、少しずつ遠くなっていった。


陛下の外套の、黒い染みも。楡の枝の角灯の橙色も。隣に膝をついている、ハスト様の気配も。


全部、白くぼやけて。


――そして、雪が止んだ。


◇


目を開けると、私は草の上に座っていた。


夕方だった。


空は淡い橙色で、西のほうだけが、ほんの少し桃色に染まっていた。風が温かかった。土と、若い草の匂いがした。


春の匂いだった。


北の離宮の雪の庭じゃなかった。


どこかの、町外れの空き地だった。踏み固められた地面に、短い草がまばらに生えている。四方を、低い石垣と古い家々の裏壁が囲んでいた。家々の窓は、どれも閉まっていた。人の声は、どこからも聞こえなかった。


空き地の真ん中に、木の板が一枚、立てかけてあった。


人の背丈ほどの、黒く塗った板。黒板だった。その前に、粗末な長椅子が何列も並んでいた。座っている人は、誰もいなかった。


黒板には、白墨で一行だけ文字が書かれていた。


『魔の法律は、己の隣に』


見たことのない言葉だった。


でも、どこかで聞いたことがある気がした。ずっと昔に。誰かの低い声で。


黒板の前の地面に、ひとりの男の人が、座り込んでいた。


くたびれた、灰色の衣を着ていた。袖口がほつれていた。膝の上に乗せた両手の指先が、インクで黒く汚れていた。その指先を、ぼんやりと眺めていた。


男の人は、私に気づくと顔を上げた。


それから、少しだけ困ったように笑った。


「――やあ。いらっしゃい」


◇


空き地の奥の、石垣の切れ目のほうへ、小さな背中が、駆けていくのが見えた。


灰色の髪の、男の子だった。


八つか、九つくらい。仕立てのいい上着を着ていた。走るのが、あまり上手じゃなかった。石垣の手前で、何もないところでつまずいて、べしゃりと転んだ。


すぐに起き上がった。


膝の土も払わずに、また走り出した。


石垣の切れ目の向こうは、白く光っていた。光の中に、誰かが立っていた。女の人と女の子。女の子のほうが、男の子に向かって、両手を大きく振っていた。


男の子は、一度だけこちらを振り返った。


私を見た。


銀色じゃない、灰色の穏やかな目だった。


男の子は、ぺこりと頭を下げた。それから、光の中へ駆けていった。


石垣の切れ目には、もう誰もいなかった。


「……あの子は、帰ったよ」


男の人が言った。


「ずっと迷子だったからね。……やっと、帰り道が見えたみたいだ」


私は、胸の前で両手を握りしめていた。


何も言えなかった。


◇


「座って」


男の人は、一番前の長椅子を指さした。


私は、言われたとおりに腰を下ろした。長椅子は、少しだけがたついた。


「ここは……どこ、ですか」

「僕の、教室だよ」


男の人は、黒板のほうを振り返った。


「正確には、教室の写しかな。……本物は、二百年前に焼けてしまったから」


二百年前。


私は息を止めた。


「あの子の眼を受け取った君は、ここに来た。……眼をもらった人は、みんな、一度だけここに来るんだ。あの子も、来たよ。二十二年前に。泣きもしないで、ずっと黒板をにらんでいた」


男の人は、さっき男の子が消えていった、石垣の切れ目を見た。


「紅い子も、来た。本を抱えた、口の悪い子も。……碧い炎の子も」

「ハスト様も……?」

「うん」


男の人は、それ以上言わなかった。


私は、膝の上で手を握り直した。


「あの……あなたは」

「うん」

「お名前を、伺ってもいいですか」


男の人は、少しだけ黙った。


それから、インクで汚れた指先を、もう一度見下ろした。


「――言っても、いいんだけどね」

「……?」

「君は、それを向こうに持って帰れないんだ」


男の人は、困ったように笑った。


「ここで話したことは、目が覚めたら、全部消えてしまう。……世界との、契約でね。紅い子も、本の子も、碧い子も、みんな、ここで僕と話して、みんな忘れて帰っていった。それでいいんだ。……覚えていても、重たいだけだから」

「それでも」


私は言った。


自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。


「それでも、知りたいです。……忘れてしまうとしても。ここにいる間だけでも」


男の人は、目を少しだけ丸くした。


それから、ふっと笑った。


さっきまでの困ったような笑い方とは、少しだけ違った。


「――アルフ」


男の人は言った。


「それが、僕の名前だよ」


アルフ。


口の中で、そっと繰り返した。


古い言葉の響きだった。短くてやわらかくて、少しだけ寂しい音。


「アルフ、様」

「様は、いらないよ。……神さまって呼ばれるのも、あんまり、好きじゃなかったんだ」

「……アルフ、さん」


アルフさんは、嬉しそうに目を細めた。


「さん、か。……久しぶりに、呼ばれたな」


二百年前に焼けた教室。神さまと呼ばれた人。


歴史の授業で一番最初に習う、名前のない神さま。シャロンが最後まで信じ抜いた、創成神。


私は、ようやく自分が誰と話しているのかを、わかり始めていた。


インクで汚れた指をした、この人が。


◇


「せっかくだから、授業をしようか」


アルフさんは、立ち上がった。


黒板の縁に置いてあった、短い白墨を拾い上げた。


『魔の法律は、己の隣に』の下に、大きな丸をひとつ描いた。


「これが世界。……世界にはね、決まりごとがある。火は上へ燃える。水は下へ流れる。魔力は、誰の身体にも流れている」


丸の中に、細い線を何本も引いた。


「でも、この世界の決まりごとは、もともと少しだけおかしかったんだ。……ずれた行が、いくつか混じっていた」


アルフさんは、線の一本に、白墨でばつ印をつけた。


「たとえば、これ。――魔力は、誰の身体にも流れている。なのに、それを外へ出して形にできるのは、世界と契約を交わした血筋の者だけ。……そういう一行が、紛れ込んでいた」

「……血統、魔法」


歴史の授業で、一番最初のほうに習う言葉だった。昔は、魔術は貴い血にだけ宿る神の祝福で、血統魔法と呼ばれていた、と。……教本には、それだけしか書かれていなかった。いつ、どうしてそれが変わったのかは、どこにも。


「そう。そう呼ばれていた」


アルフさんは頷いた。


「大昔、たまたま世界と契約を結べた人たちがいた。その血を引く者だけが、魔力を形にできた。それが、貴族の始まりだ。……そして、そのずれに、最初に気づいたのが教会だった」


白墨が、丸の外に小さな家を描いた。屋根の上に、光の神の聖印。


「教会は、契約の結び方を独り占めにした。洗礼の儀で、聖印を刻まれた家の子だけが、契約を継げる。……貴族は教会にお金を払って、契約を守ってもらう。教会は、貴族の使う魔法を神の奇跡と呼んだ。民が、見よう見まねで魔力を動かそうとすると、それを罪と呼んだ」


私は、黒板の上の小さな家を見つめていた。


屋根の上の、光の神の聖印。白墨で描かれただけの小さな印なのに、ひどく冷たく見えた。


「でも、本当は血なんて関係なかったんだ」


アルフさんは、ばつ印をつけた線の横に、新しい線を一本引いた。


「僕にはね、ひとつだけ変わった『能力』があった。……『program』っていうんだ。世界の決まりごとを、書き換える力」

「書き、換える……」

「うん。だから、書き換えた。――魔力の門は、契約を持つ血筋の隣じゃなく、理屈を知るすべての人の隣に開く。……そういうふうに」


アルフさんは、黒板の一行目を、白墨の先でとん、と叩いた。


『魔の法律は、己の隣に』

「それから、この空き地で理屈を教えた。字の読めない人にも、わかるように。……君たちが唱える呪文が、どこの国の言葉でもないのは、そのせいだよ。あれは、僕が書き足した行の名前なんだ」


私は、黒板を見上げていた。


靴屋の徒弟も。洗濯女も。字の読めない農夫も。今では、みんな魔術が使える。学園の生徒たちも。ハスト様も。


それが、当たり前だと思っていた。


最初から、そうだったのだと。


「……それで」


声がかすれた。


「それで、あなたは断罪されたんですか」

「そうだね」


アルフさんは、白墨を黒板の縁に置いた。


「一行、書き換えただけならまだよかったのかもしれない。……でも、僕はこの黒板に....全部、書いてしまったんだ。血統魔法の根っこは、血じゃない。教会が売り買いしていた、契約だって。……貴族の魔法が神の祝福じゃないなら、貴族は、ただの人になる。教会の奇跡が奇跡じゃないなら、教会は、ただの商人になる。……みんなが同じになると、困る人たちが、たくさんいたんだ」


アルフさんは、少しだけ困ったように笑った。


「それで、偽りの神、ってことになった」


私は、何も言えなかった。


膝の上の手が、震えていた。


◇


「教会はね、断罪の日に、世界と最後の契約を結んだんだ」


アルフさんは、黒板の前にまた座り込んだ。


「僕の名前を、誰の記憶にも残さないこと。本からも、石碑からも、人の頭の中からも。……だから、君がここで聞いたことも、向こうでは消えてしまう」

「……サリナ様も、ですか」


アルフさんの肩が、ほんの少しだけ揺れた。


「うん」

「サリナ様も、あなたのお名前を」

「覚えていないよ」


アルフさんは、空き地の隅の、何もない地面を見ていた。


誰かが、いつもそこに立っていたみたいに。


「あの子は二百年、名前のない人を想い続けている。……あの人、ってね。それしか、呼べないんだ」


胸の奥が、きゅっと縮んだ。


サリナ様が、あの人、と言うときの声を思い出した。ハスト様のお屋敷の台所で。砦の鐘楼で。いつも、少しだけ声が低くなる。


あれは、名前を忘れてしまった人の声だったのだ。


「……ひどい」


私は言った。


「ひどい、です。そんなの」

「そうだね」


アルフさんは頷いた。


怒っていなかった。


ただ、少しだけ寂しそうだった。


◇


アルフさんは、それから私の顔をじっと見た。


長いこと見ていた。


私の目の奥の、もっと奥を。……さっきまで、ゼノン殿下の目に宿っていた銀色の、その向こうを。


「……君は」


アルフさんが、言いかけた。


それから、口を閉じた。


しばらくして、もう一度開いた。


「君なら、持って帰れるかもしれない」

「……え?」

「ここでのこと。僕の名前。……もしかしたら、ね」

「どうして、ですか」

「それは、僕の口から言うことじゃないよ」


アルフさんは、首を横に振った。


「いつか、君が自分で見つける。……その眼でね」


私は、自分の目元にそっと手を当てた。


「……アルフさん。どうして私、なんですか」

「うん?」

「ゼノン殿下の眼は、どうして私を」

「眼はね、同じものを抱えた器を探すんだ」


アルフさんは、静かに言った。


「偽りに、いちばん大切なものを奪われた人の。……その、怒りを」

「私には……そんな怒り、ないと思うんです」


アルフさんは、すぐには答えなかった。


少しだけ悲しそうな顔をした。


「……そうだね。今の君には、ないのかもしれない」


それだけだった。


◇


「ひとつだけ、先生らしいことを言っておこうか」


アルフさんは、膝の上で、インクで汚れた指を組んだ。


「その眼は、見すぎる。人の嘘も、隠しごとも、本人が気づいていない哀しみも、全部見えてしまう。……でもね。見えたものを、全部口にしなくていいんだ」

「……全部、言わなくていい」

「うん。言うべき人に、言うべきときに。……それだけで、いい」


アルフさんは、石垣の切れ目のほうを、ちらりと見た。


「碧い子のことも、そうだ。……あの子が、自分で話せるようになるまで、待ってあげてほしい」


私は頷いた。


何を待つのか、まだわからなかったけれど。


頷いた。


「それと。……これは、先生としてじゃなく、僕のわがままなんだけど」


アルフさんは、少しだけ照れたように、頬をかいた。指先のインクが、頬に黒い筋をつけた。


「もし、君が本当にここでのことを持って帰れたら。……いつか、紅い子が、自分の怒りを手放せる日が来たら。そのときでいい。あの子に、伝えてほしいことがあるんだ」

「……はい」

「ありがとう、って」


アルフさんは言った。


「最後に、ごめんね、なんて言ってしまったから。……本当は、ありがとう、って言いたかったんだ。最後まで、叫んでくれて。怒ってくれて。……ありがとう、って」


私は、両手で口元を押さえた。


涙が、勝手にこぼれ落ちてきた。


「……はい」


声が震えた。


「はい。……必ず」


◇


「そろそろ時間だね」


アルフさんが、立ち上がった。


空き地の空が、少しずつ白くなり始めていた。西の桃色が、溶けるように薄れていく。石垣も、長椅子も、家々の裏壁も、輪郭がぼやけていく。


「向こうでは、まだひと呼吸も経っていないよ。……安心して、戻るといい」


アルフさんは、白墨をもう一度拾い上げた。


黒板の、『魔の法律は、己の隣に』のすぐ下に。


ゆっくりと、一字ずつ書いた。


『アルフ』

「消える前に、よく見ておいて」


白い文字が、黒い板の上でほのかに光っていた。


私は見た。


まばたきもしないで。銀色の眼の、一番奥に、焼きつけるように。


アルフさんは、満足そうに頷いた。


それから、インクで汚れた指で、私の額をちょんとつついた。


「――いってらっしゃい」


◇


雪が降っていた。


北風が、谷の上を吹き抜けていった。


頬に触れていたゼノン殿下の指先が、するりと滑り落ちた。雪の上に落ちた。


陛下の腕の中で、ゼノン殿下の身体から、力が抜けていった。


本当に、ひと呼吸も経っていなかった。


私は、自分の頬にそっと手を当てた。


それから、ゆっくりと顔を上げた。


世界に、色がついていた。


降りしきる雪の、一粒一粒に。角灯の炎に。楡の木に。二つの墓に。……陛下のまわりには、深い深い、夜みたいな紺色。


「……陛下の、まわりに。色が、見えます」


私がそう言うと、陛下はゆっくりと顔を上げた。私の目を見て、大きく目を見開いた。


「――あの子の眼が、君を選んだのだね」


私はハスト様を見た。


碧だった。


澄んだ碧。春の湖の、一番深いところみたいな。……それから、胸の真ん中の、ぽっかりと白い、何も見えない場所。


唇が開きかけた。


――見えたものを、全部口にしなくていいんだ。


閉じた。


「……ハスト様の碧。こんな色、してたんですね」


それだけ言った。


涙がまたこぼれた。止められなかった。


ハスト様は、何も訊かなかった。


両手で目を覆った。深く息を吸った。手を離すと、世界の色がすうっと引いていった。


「……ごめんなさい」


私は、小さな声で言った。


「止まらなくて。……ごめんなさい」


誰も、何も言わなかった。


セルカが隣に座った。冷たくなった私の手を、温かい手で取った。


「……あったかい、でしょ」

「……うん」

「……均衡、できたから」


私は泣きながら、少しだけ笑った。


セルカの手を、ぎゅっと握り返した。


それから、目を閉じて。


心の中で、一度だけ。


誰にも聞こえないように、その名前を呼んだ。


――アルフさん。


消えていなかった。


まぶたの裏の、真っ暗な場所に、白墨の三文字が、ほのかに光っていた。


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