110 三つ目の墓
朝になっても、雪はやまなかった。
細かな、静かな雪だった。夜のうちに降り積もった雪の上に、さらさらと音もなく、重なっていった。
楡の木の根元で、セルカが眠っていた。
フィアットの肩に、頭を預けて。膝を抱えて、小さく丸まって。片方だけの手袋をはめた右手が、フィアットの外套の袖を、指先でちょこんとつまんでいた。
フィアットも、目を閉じていた。セルカの頭に、自分の頬を寄せて。ふたりとも、ゆうべ、限界まで汲んで、映して、戦ったのだ。
ふたりの肩に、雪がうっすらと積もっていた。
俺は、自分の外套を脱いで、ふたりの上にそっとかけた。
外套の重さで、セルカの睫毛がふるりと震えた。
それから、ゆっくりと瞼が持ち上がった。
淡い水色の目が、半分だけ開いて、ぼんやりと俺を見上げた。
「……ハストさま」
「起こしたか」
「……ううん」
セルカは、まだ半分、眠っているような顔をしていた。
それから、小さな声で言った。
「……あとで、って言った」
俺は少しだけ笑った。
セルカの頭に、手を置いた。
ぽん、と撫でた。
温かかった。髪の一本一本まで。もう霜は、降りていなかった。
五十八回目だった。
セルカは、撫でられながら目を細めた。それから、またゆっくりと瞼を閉じた。フィアットの肩に、頭を預け直して。小さな寝息が、また聞こえ始めた。
フィアットは、目を閉じたまま、口元だけで、ほんの少し笑っていた。……たぶん、起きていた。
離宮の庭の、楡の木の下で。
陛下が、雪を掘っていた。
剣を使わなかった。魔術も使わなかった。外套を脱いで、肩の傷に巻いた布が赤く滲むのも構わずに、両手で。
母と、ルチアの二つの墓の隣。
誰かが、ずっと空けておいた場所。
「……陛下。私が」
俺が言いかけると、陛下は首を横に振った。
「いいのだよ、はっす〜」
陛下は、雪を掻き分けながら言った。
「これくらいは、兄がしてやらなければね」
雪の下の土は、凍っていた。陛下の指先が、すぐに赤くなった。それでも、陛下は手を止めなかった。
王の手だった。羽根ペンと、書状と、幻の蝶しか知らない手。その手が、爪の間に黒い土を詰めて、血を滲ませながら、弟の眠る場所を掘っていた。
俺は、黙って陛下の隣に膝をついた。
剣も、魔術も使わずに。
両手で、凍った土を掘り始めた。
陛下は、一度だけ俺を見た。それから、何も言わずにまた土を掘った。
◇
やがて、フィアットとセルカも隣に来て、膝をついた。
四人で掘った。
誰も喋らなかった。
土を掘る音と、雪の降る音だけが、谷の底に静かに響いていた。
「……この庭にね、雪を降らせてやったことがある」
陛下が、ぽつりと言った。
手を止めずに。
「幻術の雪だ。夏の、暑い日にね。……ゼノンとルチアが、雪を見たことがないと言うから。ここは北なのに、ふたりとも、冬は寒いからと、部屋から出してもらえなかったのだよ」
陛下の指先が、凍った土を掻いた。
「ふたりとも口を開けて、空を見上げて、雪を食べようとしていた。幻術の雪だから、食べても味なんかしないのにね。……それでも、冷たい、冷たいと言ってはしゃいでいた。窓辺で、マルタが……本物のマルタが、腹を抱えて笑っていた」
陛下は、そこで少しだけ黙った。
「……今日の雪は、本物だ。あの子に、見せてやりたかった」
「――この場所は」
ずいぶん経ってから、陛下がぽつりと言った。
「あれが、空けておいたのだろうね」
手を止めずに。
「母上の墓の隣。ルチアの墓の隣。……毎朝、雪を掃きながら。二十二年」
陛下の声は、ひどく静かだった。
「坊ちゃまの、場所を」
誰も答えなかった。
俺は、凍った土に指を食い込ませた。
――あれは、何を思って、ここを空けていたんだろう。
いつか、自分の手で殺す相手の墓の場所を。毎朝、毎朝、雪を掃いて。
わからなかった。
わからないまま掘った。
凍った土は、掘っても掘っても固かった。指先の感覚が、少しずつなくなっていった。それでも、誰も、手を止めようとは言わなかった。
◇
ゼノンを、墓に横たえた。
陛下が、自分の外套で弟の身体を包んだ。顔だけを出したまま。
灰色の髪に、雪がひとひら落ちた。
陛下は、それを指先でそっと払った。
それから、しばらく弟の顔を見下ろしていた。
「……母上。ルチア」
陛下が言った。
隣の、二つの墓に向かって。
「ゼノンを、連れて帰ってきたよ。……遅くなって、すまなかった」
陛下は、弟の額にそっと手を置いた。
「あとは頼む。……この子は、雷が鳴ると、ルチアの寝台に潜り込むのでね。今度は、追い出さないでやってくれ」
フィアットが、隣で小さく鼻をすすった。
セルカは何も言わずに、フィアットの外套の袖をつまんでいた。いつもは俺の袖をつまむ、あの指先で。
陛下は、最初のひと掴みの土を、弟の胸の上にそっと落とした。
◇
墓を埋め終えると、陛下は、庭の隅から平たい石をひとつ運んできた。
雪を払って、墓の頭のところに据えた。
腰の短剣で、石の表に字を刻んだ。
ゆっくりと。一画、一画。
――ゼノン・フォン・フラハイト。
その下に、もう一行。
――兄を守る、騎士。
陛下は、短剣を鞘に戻して、石の前にしばらく立っていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「……転ばずに、ちゃんと守ってくれたよ」
石に向かって言った。
「お前のおかげで、私は今、生きている。……あれの刃は、本当は、私の背中に届くはずだったのだからね」
陛下は、石の表の、刻んだばかりの字を、指先でそっとなぞった。
「あれは二十二年、私が来るのを待っていた。猫になる兄上が、弟の顔をした何かを斬るのを。……お前は、それを知らずに、あれの腕の中に自分から歩いていった。この眼で確かめる、と言って」
陛下の指先が、石の上で止まった。
「結果として、あれの刃を、お前が受けた。……私の代わりに。騎士がするように」
◇
庭の南側の、一階の角の部屋の窓の下に。
白い砂が、小さな山になって残っていた。
雪が、その上にうっすらと積もっていた。砂の中に、毛糸の肩掛けと、古びた前掛けが、半分埋もれていた。
フィアットが、その前にしゃがみ込んでいた。
じっと砂を見ていた。
「……陛下」
フィアットが、振り返らずに言った。
「この人も。……埋めて、あげてもいいですか」
陛下は、しばらく黙っていた。
母を殺した。ルチアを弟に殺させた。弟の眼を、二十二年かけて削り取った。そして、ゆうべ、その弟を背中から刺した。
その砂の山を、陛下は長いこと見つめていた。
それから、言った。
「……君の鏡は、あれに名前を返したのだったね」
「……はい」
「リラ、だったか」
「はい」
陛下は目を閉じた。
それから、ゆっくりとまた目を開けた。
「――母上の隣は、だめだ。ルチアの隣も。……あの子の隣も」
陛下の声は静かだった。
「だが、その窓の下ならいいだろう。……猫が、焼き菓子をもらいに来た窓の下だ」
フィアットが、振り返った。
陛下は、ほんの少しだけ笑っていた。
泣き出しそうな顔で。
「あれが、毎朝焼き菓子を半分に割って、置いていた窓だ。……あれにとっても、きっとどこかで、居心地のいい場所だったのだろう」
◇
フィアットとセルカが、窓の下の雪を掘った。
俺も手伝った。
小さな穴だった。白い砂は、両手ですくえるくらいしかなかった。千を超える顔を盗んで、二十二年、ひとりの乳母のふりをし続けた者の全部が、それだけだった。
両手ですくうと、驚くほど軽かった。……人ひとりの重さじゃなかった。
砂と一緒に、前掛けのポケットから転がり出た、紙の包みも入れた。
半分に割られた、蜂蜜の焼き菓子。
土をかぶせた。
フィアットが、庭の隅から、拳ほどの、小さな丸い石を拾ってきた。
自分の剣の切っ先で、石の表に字を刻んだ。
――リラ。
それだけだった。
セルカが、その石の前にしゃがみ込んで、指先でそっと石に触れた。
桃色の、温かい指先で。
石の表に、薄い霜が花の形に咲いた。
溶けない霜の花。
「……さむく、ないように」
セルカが言った。
「……さむいところ、ずっと、いたから」
俺は、小さな石の前にしばらく立っていた。
――誰にも、盗めないものなのね。いいなぁ。
崩れかけた唇で、あれはそう言った。俺の胸の白い穴を見て。
千を超える顔を盗んで、それでも、自分のものは何ひとつ持っていなかった。最後に、自分の顔と名前を、フィアットの鏡の中に見つけて、それだけを抱えて、砂になった。
俺の胸の中の白い穴。
何を払ったのかも、思い出せない場所。
それを、あれは羨ましがった。
……何が入っているのかも、わからないのに。
俺は、自分の胸のあたりをそっと押さえた。外套は、朝からまだふたりに貸したままだった。薄いシャツ越しに、手のひらの下で、心臓がゆっくりと打っていた。
盗めないものが、ここにある。……それが何なのか、俺自身にも、まだわからないけれど。
◇
フィアットが、立ち上がろうとして、ふらりとよろめいた。
俺が腕を掴むと、フィアットは、片手で目元を押さえていた。
「……大丈夫か」
「……はい。……すみません。……ちょっと見えすぎて」
フィアットの指の隙間から、銀色の光が、漏れていた。
真眼。
ゆうべ、ゼノンの目から、フィアットの目へ流れ込んだ光。
「……雪の一粒一粒に、色が、あるんです。……木にも、石にも。……陛下にも、ハスト様にも、セルカにも。……ずっと全部、見えてて。……止められなくて」
フィアットの声が、少しだけ震えていた。
陛下が、フィアットの前に膝をついた。
「――見ないことも、覚えたまえ」
陛下は言った。
「幻術師の私が言うのも、おかしな話だがね。……あの子は、全部を見ようとして、全部に疲れてしまった。見たくないものまで、見えてしまう眼だった。……だから、最後に一番見たかったものから、目を逸らしたのだ」
フィアットの指の隙間の、銀色の光が、揺れた。
「君の眼は、君のものだ。……見たいときに、見たいものだけを見ればいい。閉じたいときは、閉じればいい」
フィアットは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと深呼吸をした。
一回。二回。
指の隙間から漏れていた銀色の光が、少しずつ弱くなっていった。
フィアットは、目元から手を離した。
瞳は蒼に戻っていた。
「……閉じられ、ました」
「うむ。上出来だ」
セルカが、フィアットの手をきゅっと握った。
「……フィアット。……つかれたら、わたしが、時計になる」
フィアットは、泣き笑いのような顔で、セルカの手を握り返した。
「……ありがと、セルカ」
それから、フィアットは、少しだけセルカの顔をじっと見た。
「……ねえ、セルカ。さっき、見えちゃったんだけど」
「……なに」
「セルカの色。……水色。すごくきれいな、水色」
「……ふうん」
「でも、ハスト様のほうを見てるときだけ、端っこがちょっとだけ桃色に――」
セルカの手が、フィアットの口を、ぺしりと塞いだ。
「……見ないこと、覚えて」
フィアットの肩が、セルカの手の下で、小刻みに震えていた。笑っているのだった。
陛下が、肩の傷を押さえたまま、喉の奥で小さく笑った。
ゆうべから、陛下が笑うのを、初めて聞いた気がした。
◇
昼過ぎに、離宮を発った。
陛下は、もう黒猫にはならなかった。
肩の傷を押さえながら、人の姿のまま、雪の斜面を、自分の足で登っていった。
尾根の上で、陛下は一度だけ振り返った。
谷の底の、北の離宮。
崩れかけた東の翼。割れた窓。枯れた蔦。
南の庭の、楡の木の下に、三つの墓。
それから、窓の下の小さな石。
雪が、それらすべての上に、静かに降り続けていた。
「……春になったら」
陛下が言った。
「また、来よう。……雪割草を、持って」
誰も、何も言わなかった。
ただ、四人でしばらく谷を見下ろしていた。
誰も、すぐには歩き出せなかった。ここに置いていくものが、多すぎた。
それから、陛下は谷に背を向けた。
「――帰ろうか、はっす〜。博識王が、きっと胃を痛めて待っている」
いつもの、少しだけふざけた声だった。
けれど、陛下の目はまだ赤かった。
尾根を越えて、岩棚へ向かう雪の斜面を、四人で下りていった。
俺は、一番後ろを歩いていた。
前を歩くフィアットの背中を、見ていた。
――あの夜、殺したはずの娘が。
ゼノンの最後の言葉が、まだ耳の奥に、残っていた。
陛下は、ルチアと見間違えたのだと言った。ルチアは、ちょうどフィアットくらいの歳で死んだから、と。
きっとそうなのだろう。
そう、思おうとした。
胸の奥の、霧のかかった白い場所が、そのたびに、小さく軋んだ。
前を歩くフィアットが、ふと振り返った。
蒼い瞳が俺を見た。真眼は閉じていた。
「ハスト様?」
「……なんでもない」
フィアットは、少しだけ首を傾げて、それからまた前を向いた。
雪が、その蒼い髪の上に、静かに降り積もっていった。




