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111 雪のあとの砦


湖を渡り終えた頃には、雪はやんでいた。


雲の切れ間から、白い冬の日差しが、湖の上にまっすぐに落ちていた。降り積もった雪が、きらきらと眩しく光っていた。


白い橋の上には、もう誰もいなかった。


三千の兵も、百の騎士も、夜のうちに砦の中へ運び込まれていた。氷の上に残っていたのは、無数の足跡と、ところどころに散らばった、砕けた白い石のかけらと、切れた銀の糸だけだった。


砦の城門が見えてきた。


城門の真ん中に、バルトロが立っていた。


足元に、藁の笠をかぶった、小さな松の盆栽を置いて。


ゆうべ、騎士たちが殺到したときと、まったく同じ場所に、まったく同じ姿勢で。


……一晩中、そこに立っていたのかもしれない。


バルトロは、俺たちの姿を見ると、ゆっくりと腕をほどいた。


深い皺の奥の、小さな目が、俺たちを、順番に見た。


陛下を。フィアットを。セルカを。俺を。


四人。


それから、陛下の肩の、赤く滲んだ布を。


最後に、陛下の腕の中に、何も抱えていないことを。


「……ふむ」


バルトロは、それだけ言った。


それから、足元の盆栽を拾い上げて、黙って城門の脇に道を空けた。


陛下が、その前を通り過ぎるとき、バルトロは、ほんの少しだけ頭を下げた。岩のような大きな身体を、深く折り曲げて。


弔いの礼だった。


言葉は、ひとつもなかった。それでも、その大きな背中は、ゆうべ湖の向こうで何があったのかを、全部わかっていると言っていた。


陛下は、足を止めずに小さく頷いた。


◇


城門をくぐると、中庭が人で埋め尽くされていた。


鐘の音で正気に戻った、北の村の若者たち。銀の欠片を外された、騎士たち。毛布にくるまって、焚き火を囲んで、温かい山羊の乳をすすっていた。


泣いている者がいた。笑っている者がいた。ただ、ぼんやりと空を見上げている者もいた。


その間を、レイラさんが走り回っていた。魔術師協会の外套の袖をまくり上げて、凍傷になりかけた手足に、ひとりずつ、温かい光をかざしていた。


「――親父ィィ!!」


中庭の奥から、聞き慣れた大声が飛んできた。


ラークだった。


鐘の櫓の下から、大きな身体で、人波をかき分けて駆けてきた。火傷の痕だらけの両腕が、煤で真っ黒だった。目の下の隈が、昨日よりもさらに濃くなっていた。


それでも、顔は笑っていた。


「無事だったッスか! 陛下も、嬢ちゃんたちも! ……よかった、よかったッス……!」


ラークは、俺の前で急に足を止めた。


それから、後ろを振り返った。


ラークの大きな背中の陰に、ひとりの若者が、立っていた。


毛布を肩にかけて。痩せこけた頬に、まだ涙の跡を残して。


砦の地下の牢にいた、あの若者だった。


「……親父。こいつ」


ラークが、若者の背中を、大きな手でそっと押した。


「名前、聞いたッス」


若者が、俺の前に一歩出た。


それから、深く深く頭を下げた。


「――ヤン、です」


かすれた声だった。


「北のローゼ村の、ヤン。……母さんが、村で待ってます」


若者は顔を上げた。


焦点の合った、まっすぐな目だった。


「……鐘の音が、聞こえたとき。……誰かに、名前を、呼ばれた気がしたんです。……ずっとずっと遠くで、誰かが、泣いてて。その泣いてる人たちが、俺の胸から、出ていくとき。……ありがとう、って」


ヤンは、もう一度頭を下げた。


「ありがとう、ございました」


ラークが、その隣で鼻をずずっとすすった。


「……オレの鐘ッスからね」

「わかってる」

「オレが、鳴らしたんスからね」

「わかってるって」


ラークは、煤だらけの腕で、ごしごしと目元を拭った。


◇


城壁の上には、頂天者たちがいた。


シュベルトは、城壁の縁に腰掛けて、湖を見ていた。リュシアンは、その隣で、雪の積もった手すりに、指先で何かを書きつけていた。クレハは、見張りの塔にもたれて、ようやく煙草に火をつけていた。エレナは、扇子で口元を隠して、朝日に目を細めていた。


アイシャ会長が、城壁の階段を、転がるように駆け下りてきた。


「――師匠っ!!」


それから、俺の隣のセルカに気づいた。


「セルカちゃんっ!!」


アイシャ会長は、セルカに飛びついた。


セルカは、抵抗する間もなく、アイシャ会長の腕の中にすっぽりと収まった。


「よかった、よかった……! ゆうべ、城壁の上から、氷の上に、ひとりで立ってるの、見えて……! それから、雪が、止まって……! 気がついたら、いなくなってて……!」

「……くるしい」

「あっ、ごめんっ!」


アイシャ会長は、慌てて腕を緩めた。


それから、セルカの右手に気づいた。


手袋をはめた小さな手。……その手袋の中の指先が、温かいことに。


アイシャ会長は、目を丸くした。


「……あったかい」

「……うん」


セルカは、少しだけ胸を張った。


「……均衡、できた」


◇


リュシアンが、城壁の手すりに書きつけていたのは、詩だった。


指先で、雪の上に。


俺たちが城壁の上に上がると、リュシアンは、珍しく黙って、その詩を俺に見せた。


短い詩だった。


――銀の眼の騎士は、転んでばかりいた。


――剣を持つたび、転んでばかりいた。


――それでも、最後に兄の前に立った。


――転ばずに、立っていた。


雪の上の文字は、日差しを受けて、少しずつ溶け始めていた。


「……あの夜、ゼノン殿下の死に際を、見ていたわけではないけれどね」


リュシアンは、詩から目を逸らさずに言った。


「陛下の顔を見れば、わかる。……詩人というのは、そういう職業なんだ」

「…………」

「名前のない詩は、読んだ者が勝手に名前をつける。……でも、この詩には、ちゃんと名前をつけておこう」


リュシアンは、詩の最後に、指先でひとつ書き足した。


――騎士ゼノンに。


それから、雪の上の詩が全部溶けて消えるまで、黙ってそれを見ていた。


◇


見張りの塔の陰で、クレハが、煙草の煙を細く空へ吐き出していた。


「――ったく。一晩中、狙わない弾ばっかり撒いてたら、肩が凝ってしょうがないよ」

「あら。ワタクシは、毎晩そうですわよ?」


エレナが、扇子の陰でくすくすと笑った。


「狙わないというのも、慣れれば、なかなか気持ちのよいものですわ。……当たる場所は、矢のほうが、ちゃんと知っていますもの」


クレハは、煙草をくわえたまま、エレナを横目で見た。


「……アンタのそれ、才能なのか、性格なのか、どっちなんだい」

「両方ですわ」


エレナは、高らかに笑った。


「おーほっほっほ!」


朝の冷たい空気に、その笑い声が、遠くまで響いていった。中庭で毛布にくるまっていた北の若者たちが何人か、つられたように顔を上げて、小さく笑った。


◇


シュベルトが、城壁の縁から、俺のほうを振り返った。


いつもの、穏やかで少しだけ眠そうな顔だった。


それから、俺の右手のあたりをじっと見た。


「……ハスト君」

「なんだ」

「キミの権からは、どうもどこか苦しみを感じるって、前に言ったよね」

「……ああ」


シュベルトは、少しだけ首を傾げた。


「今日は、少しだけ違うね。……苦しいのは、変わらない。でも、ほんの少しだけ軽い」


俺は、何も答えなかった。


シュベルトも、それ以上は何も言わなかった。


ただ、湖のほうに目を戻して、いつものように小さく笑った。


◇


見張りの塔の、鐘のない鐘楼の上に、ロリババアが、いた。


毛布にくるまって、梁の上に、ちょこんと腰掛けていた。


ゆうべ、一晩中、湖の氷を見ていたのだ。三千人が渡っても、三千人が倒れても、誰ひとり溺れさせなかった。


俺たちが鐘楼に上がると、ロリババアは、梁の上からぴょんと飛び降りた。


それから、セルカの前に立った。


セルカの右手を取った。


手袋をそっと外した。


桃色の、温かい指先を、小さな両手で包み込んだ。


長いこと、そうしていた。


「……ようやった」


ロリババアの声が、少しだけかすれていた。


「間に合う前に、覚えたな」


セルカは、こくりと頷いた。


それから、少しだけ黙って。


小さな声で言った。


「……サリナさま。……わたし、もうひとつ、見つけた」

「ほう」

「……戻す、の。……鏡の中の、時間を。……逆さまに」


ロリババアの目が、ほんのわずかに見開かれた。


それから、ゆっくりと細められた。


「――そうか」


ロリババアは、セルカの頭に、ぽんと手を置いた。


「儂が二百年かかっても、見つけられなんだものを。……たった一晩で、見つけおったか」


◇


ロリババアは、それから、フィアットのほうを見た。


フィアットは、鐘楼の入口で立ち止まっていた。


目を閉じていた。


真眼を閉じるために。


ロリババアは、フィアットの前まで歩いていった。


「……娘。目を、開けてみよ」


フィアットは、少しだけためらった。


それから、ゆっくりと目を開けた。


蒼い瞳。


その奥に、ほんのわずかに、銀色の光が揺れていた。


ロリババアは、その瞳を、長いこと黙って見上げていた。


いつもの、ふざけた顔じゃなかった。


断罪の日の話をしたときの顔とも、違った。


何かを、ひどく大事そうに、確かめている顔だった。


「……眼が、お主を選んだか」

「……はい。……あの人が、最後に、私に触れて」

「うむ」


ロリババアは、小さく頷いた。


「『能力』は器を選ぶ。……宿る者が死ねば、次の器を探す。同じ怒りを、同じ哀しみを、胸の奥に抱えた者を」

「……私に、そんなもの、ないと思うんですけど」


フィアットは、困ったように笑った。


ロリババアは、答えなかった。


答えずに、フィアットの手をそっと取った。


「――今は、わからずともよい」


ロリババアは言った。


「いずれ、わかる。……そのときまで、その眼は大事にせよ。見たくないものは、見ずともよい。見たいものだけを、見よ」


それから、ほんの少しだけ俺のほうを見た。


ほんの一瞬だけ。


すぐに目を逸らした。


「……あの小僧の眼は、ずっと見たくないものばかりを、見せられてきた。……お主の眼は、そうならぬとよいな」


フィアットの瞳の奥で、銀色が、ほんの少しだけ揺れた。


ロリババアの小さな手を、見下ろして。それから、ロリババアの顔を見た。


唇が、少しだけ開いた。


何かを言いかけて。


それから、閉じた。


……北の離宮で、俺を見たときと、同じだった。


「……なんじゃ」

「……いえ」


フィアットは、首を横に振った。


「サリナ様の色。……すごく、きれいだなって」


ロリババアは、ふん、と鼻を鳴らした。


「年寄りを、からかうでない」


そう言いながら、ロリババアは、フィアットの手をしばらく離さなかった。


フィアットは、ロリババアの小さな手を、握り返した。


「はい。……ありがとうございます、サリナ様」


◇


その夜、砦の大広間で、エトワールは、毎日王都新聞の裏に、長いことペンを走らせていた。


陛下が、その向かいに座っていた。肩の傷には、レイラさんが、ちゃんとした包帯を巻き直していた。


「――ゼノン殿下の件は、どう記録しますか」


エトワールが、ペンを止めずに訊いた。


陛下は、少しだけ黙った。


それから、言った。


「北の村々を顔のない化け物から守るために、二十二年、ひとりで戦った。……最後は、その化け物から、兄王を庇って討たれた」


エトワールのペンが、止まった。


「それで、よろしいので」

「嘘は、ひとつもついていないよ」


陛下は、窓の外の、雪の湖を見た。


「全部、本当のことだ。……あの子のやり方が、間違っていたことも含めてね。間違っていたことは、私が覚えておく。……記録には、騎士として残してやってくれ」


エトワールは、しばらく陛下の顔を見ていた。


それから、眼鏡を指先で押し上げた。


「――承知しました」


エトワールのペンが、また新聞の裏を走り始めた。


ゆっくりと。一字、一字。


騎士ゼノン、と。


◇


大広間を出ると、城壁の上に、ふたつの影が並んで座っていた。


フィアットと、セルカ。


毛布を一枚、ふたりで肩にかけて。湖の向こうの、北の空を見上げていた。雲が晴れて、星がたくさん出ていた。


俺が階段を上がっていくと、セルカが振り返った。


それから、毛布の端を黙って持ち上げた。


……入れ、ということらしい。


俺は、ふたりの間に腰を下ろした。


三人で一枚の毛布は、少しだけ狭かった。


「……ハスト様」


フィアットが、星を見上げたまま言った。


「この眼で、星を見ると。……星にも、色があるんです。ひとつひとつ、少しずつ違う色」

「そうか」

「……きれいです」


フィアットの瞳が、ほんの少しだけ、銀色に揺れていた。


見たいものだけを見る。


ロリババアに言われたとおりに。


反対側で、セルカが、俺の肩にこてんと頭を預けた。


「……ハストさま」

「なんだ」

「……春まで、あと、どれくらい」

「三月くらいだな」

「……ながい」

「すぐだ」


セルカは、少しだけ口を尖らせた。


それから、俺の外套の袖を、温かい指先できゅっとつまんだ。


三人で、しばらく黙って星を見ていた。


湖の上を、冷たい風が吹き抜けていった。


一枚の毛布の中は、温かかった。


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