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112 春を待つ王都


王都にも、雪が降っていた。


北の峠ほどの雪じゃなかった。屋根の上と、石畳の端に、うっすらと積もる程度の柔らかい雪。それでも、王都の子どもたちは、通りに飛び出して、小さな雪だるまを、いくつもいくつも作っていた。


四日ぶりの王都だった。


正門をくぐる前に、陛下は、馬車の中で麦わら帽子をかぶり直した。無精髭は、北の砦ですっかり伸びていた。肩の包帯の上から、古びた行商人の外套を羽織った。


「――さて。風邪で寝込んでいた王が、旅の行商人の格好で帰ってきたとなると、博識王に、また小言を言われるね」

「もう言われてます」


三台目の馬車から、エトワールの声が飛んできた。


陛下は、帽子のつばの下で、くっくっと楽しそうに笑った。


北の砦を発ってから、陛下は、少しずつ、いつもの陛下に戻っていった。冗談を言って、エトワールの紅茶に勝手に砂糖を入れて、ロリババアに叱られて。


けれど、馬車の窓から、北の空を見上げているときだけは。


ときどき、黙り込んでいた。


窓枠に頬杖をついて、麦わら帽子のつばの下から、遠い尾根の向こうを見ていた。その横顔に、俺は声をかけなかった。……かけられる言葉を、俺は持っていなかった。


◇


王城の裏門の前に、白い外套の少女が、立っていた。


レイアーヌだった。


雪の中に傘も差さずに。王家の剣を腰に提げて、背筋をまっすぐに伸ばして。


裏門の衛兵が、その後ろで、困ったように立ち尽くしていた。


馬車が止まると、レイアーヌは、まっすぐにこちらへ歩いてきた。


陛下が、馬車から降りた。


麦わら帽子の、行商人の姿で。


レイアーヌは、陛下の前で足を止めた。


麦わら帽子のつばの下の、無精髭の伸びた顔を見上げた。それから、行商人の外套の肩の、不自然な膨らみを。……包帯の膨らみを。


レイアーヌの唇が、きゅっと引き結ばれた。


「――お帰りなさいませ、お父様」


声が、少しだけ震えていた。


「ただいま、レイアーヌ」


陛下は、麦わら帽子を脱いだ。


それから、娘の頭の上に積もった雪を、指先でそっと払った。


「……叔父様は」


レイアーヌが言った。


陛下の手が、娘の髪の上で止まった。


それから、陛下はゆっくりと首を横に振った。


レイアーヌは、何も言わなかった。


ただ、陛下の外套の胸元に、額をそっと押しつけた。


陛下の手が、娘の背中に回された。


「……お父様」


外套の胸元に、くぐもった声が言った。


「叔父様のこと。……ちゃんと聞かせてください。最初から、全部」

「長い話に、なるよ」

「全部、聞きます」

「……そうか」


陛下は、娘を抱いたまま、雪の降る空を見上げた。


「では、私の執務室で。……あそこの壁に一枚、絵が掛けてあってね。その話から、しようか」


レイアーヌは、陛下の外套から顔を上げた。


それから、陛下の肩越しに、馬車の傍に立っていた俺を見た。


目の縁が赤かった。


「……ハスト」

「ああ」

「お父様を、連れて帰ってきてくれて。……ありがとう」

「連れて帰ってきたのは、俺じゃない。……陛下が、自分の足で帰ってきたんだ」


レイアーヌは、少しだけ目を瞬いた。


それから、ふん、と顔を背けた。


「……そういうところ、本当に可愛げがないわね」


それでも、その口元は、ほんの少しだけ笑っていた。


◇


王城の裏門で、陛下とエトワールと別れた。


学園へ向かう馬車に、フィアットと、セルカと、ロリババアと、俺。


学園の正門の前には、栗色の三つ編みが、揺れていた。


その少し後ろの、楡の木の陰から、見慣れた顔がふたつ、こちらを覗いていた。


「――料理長ぉぉ!! 肉ぅぅ!! 約束の肉ぅぅ!!」


ラインハルトだった。


その隣で、レオンが腕を組んで、ものすごく不機嫌そうな顔をしていた。それでも、俺の顔を見た瞬間、ほんの少しだけ、肩の力が抜けたのがわかった。


「……北の親戚の家は、ずいぶん、物騒なところだったみたいだな」


レオンは、俺の頬の傷をちらりと見て言った。


「……まぁな」

「帰ってきたなら、いい」


レオンは、それだけ言って、ラインハルトの襟首を掴んで、校舎のほうへ引きずっていった。


「肉ぅぅ……!!」


ラインハルトの声が、遠ざかっていった。


「――ハスト君っ!!」


ペトラだった。


胸に、大きな紙袋を抱えていた。袋の口から、焼きたてのパンの匂いが、湯気と一緒に立ちのぼっていた。


「おかえり! ……おかえり、なさい」


ペトラは、俺の前で足を止めた。


それから、俺の顔をじっと見た。


頬の細い赤い傷跡を。外套の繕った跡を。


ペトラは、何も訊かなかった。


手帳も出さなかった。


ただ、紙袋をぐいと俺の胸に押しつけた。


「……おかえり」

「……ただいま」

「パンの感想」

「胡桃のが、一番うまかった」


ペトラは、目をぱちくりさせた。


それから、にっと笑った。


「でしょ! あれ、私がこねたんだからね!」


ペトラはそう言って、くるりと背中を向けた。


正門の前の石畳を、小走りに駆けていった。


途中で、一度だけ振り返って、手帳を大きく振った。


「――手帳の、一番最後の頁! まだ白いままだからね!」


その白い頁に、いつか何を書かせてやれるのか。……俺には、まだわからなかった。それでも、あいつが待っていてくれることが、少しだけ嬉しかった。


◇


学園の分館の、台所の柱に。


ナイフで刻んだ、小さな横線が、四本に増えていた。


一番上の線の横に、アルスの汚い字で、「四週目」。


「――おかえり」


アルスが、台所の長卓に頬杖をついていた。


くたびれた灰色の外套。伸び放題の髪。北へ発つ前と、何ひとつ変わっていなかった。


「生きて帰ってきたか、相棒」

「なんとかな」


アルスは、俺の頬の傷と、外套の繕い跡をじろりと眺めた。それから、ふんと鼻を鳴らした。


「なんとか、って顔じゃねぇな。……まぁいい。生きてりゃ上等だ」

「……チビは」


俺が答える前に、台所の扉が勢いよく開いた。


「――セルカおねえちゃんっ!」


アベルだった。


白い髪の小さな男の子。北へ発つ前よりも、ほんの少しだけ、背が伸びていた。


アベルは、セルカにまっすぐ駆け寄った。


それから、いつものように、セルカの手に、自分の手をぺたりと乗せようとして。


ぴたりと止まった。


「……あれ?」


アベルは、セルカの手を両手で包み込んだ。


それから、首を傾げた。


「……つめたく、ない」


セルカは、アベルの前にしゃがみ込んだ。


手袋を外した。


桃色の、温かい指先を、アベルの頬に、そっと当てた。


「……ほら。……あったかい」


アベルの大きな目が、まん丸に見開かれた。


「……セルカおねえちゃんの、ゆび。……うごいてる」

「……うん」

「……ぼくと、おんなじ」


アベルは、柱の四本の線のほうを振り返った。


それから、セルカの顔を見上げた。


「……セルカおねえちゃんも、のびる?」

「……のびる、かも」


セルカは、ほんの少しだけ笑った。


「……ハストさまと、春、見るから」


長卓の端で、アルスが頬杖をついたまま、俺を横目で見た。


それから、ふん、と鼻を鳴らした。


「……やるじゃねぇか、チビ」


それから、アルスの視線が、台所の入口に立っていたフィアットのほうへ、動いた。


フィアットは、分館まで、セルカを送ってきてくれていた。


アルスの目が、ほんのわずかに細くなった。


右手が、ゆっくりと顎に当てられた。


探しているのだ。


フィアットの蒼い瞳の奥で、ほんのわずかに揺れている、銀色の光の、正体を。


顎に当てた手が、止まった。


アルスは、しばらく黙っていた。


それから、顎から手を離して。


フィアットじゃなく、俺のほうを、ほんの一瞬だけ見た。


すぐに目を逸らした。


「……そうか」


アルスは、それだけ言った。


「眼が、選んだか」


フィアットが、きょとんとした顔で首を傾げた。


アルスは、それ以上何も言わなかった。長卓の上の、冷めた茶をひと口すすって、窓の外の雪の庭を見ていた。


――知っていて、言わない顔だった。


ロリババアと、同じ顔だった。


知っている大人たちが、揃って口を閉ざしている。それが何を意味するのか、考えないようにした。……今日だけは。


◇


分館の門の前で、フィアットと別れた。


セルジーネ家の迎えの馬車が、雪の中で、待っていた。


フィアットは、馬車に乗る前に振り返った。


「ハスト様。……また、明日。学園で」

「ああ」

「明日は、ちゃんと教室にいてくださいね。屋上じゃなくて」

「……善処する」


フィアットは、くすくすと笑った。


それから、俺の隣のセルカを見た。


「セルカ」

「……なに」

「また、時計、貸してね。……稽古のとき」


セルカは、少しだけそっぽを向いた。


それから、小さな声で言った。


「……いつでも」


フィアットの顔が、ぱっと明るくなった。


それから、馬車に乗り込んで、窓から大きく手を振った。


馬車が、雪の中をゆっくりと遠ざかっていった。


セルカは、その馬車が、角を曲がって見えなくなるまで、手袋をはめた手を、胸の前でほんの少しだけ、ひらひらと振っていた。


◇


その夜、俺はロリババアの森の家に帰った。


四日ぶりの、森の家だった。


暖炉に火を入れて、湯を沸かして、茶を淹れた。ロリババアの森で育てた茶葉の、熱い茶。


セルカは、離れの自分の部屋で、とっくに眠っていた。四日間の馬車の旅の間も、ほとんど眠っていなかったのだ。……均衡を、身体に馴染ませるためにと言って。


居間の窓辺の椅子に、ロリババアが、ちょこんと座っていた。


湯呑みを、両手で抱えて。窓の外の、雪の森を見ていた。


「――のう、ハスト」


ロリババアが、窓の外を見たまま言った。


「蓋に、罅が、入ったな」


俺は、湯呑みを口元で止めた。


「……わかるのか」

「わかるとも」


ロリババアは、湯呑みの茶をずずっとすすった。


「お主が、儂のところへ来て十年じゃ。……お主の顔色くらい、見ればわかる」


俺は、湯呑みを卓の上に置いた。


胸の奥の、霧のかかった白い場所。


何十枚も重ねた蓋の、一番上の一枚。


北の離宮で、白い橋の上で。ゼノンの言葉を聞くたびに。フィアットの顔を見るたびに。罅が、少しずつ広がっていった。


――ハスト。


雪の中で、誰かが俺を呼んだ声。


「……なぁ、ロリババア」

「なんじゃ」

「あんたは、知ってるんだろ。……俺が、何を払ったのか」


ロリババアは、答えなかった。


窓の外の、雪の森を見ていた。


「――前にも、言うたな」


やがて、ロリババアは言った。


「蓋は、お主が閉めたものじゃ。……開けるときも、お主が決めよ」

「…………」

「罅が入ったのなら、それは、お主の中の何かが、そろそろ開けたがっておるということじゃ。……じゃが、急ぐな。急いで開ければ、また割れる」


ロリババアは、湯呑みを窓辺に置いた。


それから、ようやく俺のほうを振り返った。


「春まで、待て」

「……春?」

「セルカが、そう言うておったろう。……春を、見る、と」


ロリババアは、にやりと笑った。


いつもの、ふざけた顔だった。


「お主も、まずは春を見よ。……あの娘たちと、一緒にな。蓋のことは、それからでも遅くはない」


◇


湯呑みを片付けて、居間の灯りを落とした。


窓の外では、雪が静かに降り続けていた。


俺は窓辺に立って、雪の森を見ていた。


今ごろ、王城の執務室では、陛下が、レイアーヌに長い話をしているのだろう。


壁に掛けられた、小さな絵の前で。面倒くさそうな顔の年上の少年と、その袖を、ぎゅっと握って離さない、小さな少年の話を。猫になって塀を越えた兄と、光の蝶と、離宮の庭に降らせた幻の雪の話を。


それから、二十二年後の本物の雪の夜の話を。


聞き終えたとき、あの王女は、どんな顔をするのだろう。泣くのか、怒るのか。……たぶん、両方だ。そして最後には、父親の袖を、ぎゅっと握るのだろう。あの絵の中の、小さな少年のように。


北の離宮の、楡の木の下では、三つの墓と、窓の下の小さな石が、雪に埋もれていく。春になったら、陛下は、雪割草を持って、またあの谷へ行く。


そのときは、たぶん猫の姿じゃなく。


――あの夜、殺したはずの娘が。


ゼノンの最後の言葉は、まだ耳の奥に、残っていた。


陛下は、ルチアと見間違えたのだと言った。


フィアットは、理由を言わずに泣いていた。


ゼノンの眼は、フィアットを選んだ。


――偽りに、最愛を奪われし者の怒りに。


わからなかった。


何ひとつ、わからなかった。


わからないまま、俺は窓の外の雪を見ていた。


離れの部屋の窓に、灯りはついていなかった。セルカは、ぐっすり眠っているのだろう。温かい指先で、毛布の端を握りしめて。もう、その指先に霜は降りていないはずだった。


王都の、セルジーネ家の屋敷の、二階の窓辺には。


今ごろ、フィアットが、窓辺に置いたセルカの溶けない氷を、眺めているのかもしれない。真眼を閉じて。蒼い瞳で。


春まで、あと三月。


ロリババアは、そう言った。


――まずは、春を見よ。


俺は、窓を少しだけ開けた。


冷たい夜の空気が、居間に流れ込んできた。


雪の匂いがした。


それから、ほんの少しだけ。


ずっと遠くの、まだ見えない土の匂いが、した気がした。


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