113 開幕の鐘と、果たし状の山
年が明けて、学園が始まった。
北の砦から帰ってきて、ひと月が経っていた。頬の傷はすっかり消えて、外套の繕い跡も、ペトラの母さんが目立たないように縫い直してくれた。王都の雪は、降っては溶け、溶けてはまた降った。
あ、どうも。三学期になっても相変わらず、学年最下位のハストです。
全学年を通した序列でいうと、三百位。王立学園の生徒は一学年百人、三学年で三百人なので、つまり一番下だ。ぴったりの数字というのは、なんとなく気持ちがいい。
……と、思っていたのだが。
「――えー、静粛に」
始業の日の朝。全校生徒が詰め込まれた講堂の壇上で、エトワールが、拡声の魔道具を片手に咳払いをした。眼鏡のレンズが、天窓から差し込む冬の光をきらりと跳ね返した。
あの眼鏡が光るとき、だいたい、ろくなことが起きない。
「三学期は短い。卒業式まで、残りふた月と少しだ。そこで、例年どおり――」
エトワールは、わざとらしく一拍置いた。
「学年末序列戦を、開催する」
講堂がどよめいた。
前の列の二年生が、拳を突き上げた。後ろの列の三年生が、頭を抱えた。隣の席で、ラインハルトが、椅子から半分立ち上がって叫んだ。
「きたあああああ!!」
「座れ」
レオンが、ラインハルトの襟首を掴んで引き戻した。
学年末序列戦。
秋の順位戦が、学園の序列を一から決め直す公式戦だとしたら、こちらは、その序列を年度の終わりにもう一度揺さぶる、いわば延長戦だ。そして、評判がすこぶる悪い。いや、正確に言うと一部の生徒には、すこぶる評判がいい。
エトワールが、壇上の黒板に規則を書き始めた。
一、本日より三週間を「決闘期間」とする。期間中、全生徒はいつでも、どこでも、誰にでも決闘を申し込むことができる。休み時間、放課後、野外訓練の授業中も含む。
二、決闘を申し込まれた者は一日一回に限り、断ることができない。
三、序列が下の者が上の者に勝った場合、両者の序列を入れ替える。上の者が勝った場合は、何も起こらない。
四、決闘には、教師または生徒会役員の立会人を一名置くこと。
五、決闘期間の終了後、最終の一週間で全校トーナメントを行う。勝敗による序列の入れ替えは、決闘期間と同様とする。
「それから、六」
エトワールは、チョークで、黒板をこつこつと叩いた。
「校舎を壊した者は、序列を十下げる。去年は、西棟の渡り廊下が一本なくなったからね。……今年は、ひとつも壊さないように」
講堂の後ろのほうで、何人かが目を逸らした。
拍手と、歓声と、悲鳴が講堂の天井にぶつかって反響した。休み時間でも、授業中でも、廊下ですれ違っただけでも勝てば上に行ける。三週間、学園の全部が試合場になる。
これを、ジャンキーと言わずして何と言うのか。
三年の先輩たちは、去年の決闘期間を「三週間の戦争」と呼んでいるらしい。廊下の角を曲がるたびに果たし状が飛んでくる。食堂では、スープを取りに立った瞬間に挑まれて、冷めていくスープの前で三連敗した二年生がいたという。その先輩は、今でも、食堂ではパンしか取らないそうだ。
◇
俺は、講堂の一番後ろの壁際で、頭の中の規則をもう一度なぞっていた。
三。下の者が上の者に勝てば、入れ替え。
俺は三百位だ。ということは、俺より上の二百九十九人の誰かが俺に決闘を挑んで、うっかり俺に負けたら。
俺の序列が上がる。
二。挑まれたら、一日一回は断れない。
つまり、挑まれたら受けて立って、そして負けなければならない。毎日。誰が相手でも。たとえ相手が、詠唱の途中で舌を噛むような奴でも。
背中を、冷たい汗が伝っていった。
勝つのは、簡単だ。
この学園の生徒に、覇権を使わずに勝つことなら、たぶん寝ていてもできる。問題はその逆だった。相手が勝ったと思い込めるように、観客が八百長だと思わないように、立会人の教師が首を傾げないように。そして、相手の誇りを、ひとかけらも傷つけないように。
負けるのだ。完璧に。
――言っておくが、俺は負けず嫌いだ。
ロリババアの家で育った七つの頃から、ずっとそうだった。チェスで負けた夜は、眠れなかった。茶の淹れ方で一滴こぼしただけで、三日間、ひとりで湯を沸かし続けた。
だから、負けるなら完璧に負けたい。
中途半端な負けは、負けより悔しい。不自然な転び方をして、誰かに「あいつ、わざと負けたんじゃないか」と思われるくらいなら、最初から勝ったほうがまだましだ。……いや、勝つわけにはいかないのだが。
要するに、これは俺にとっての序列戦なのだ。三百位を、三週間守り抜く。一度も勝たずに。一度も怪しまれずに。
頭の中で、三週間ぶんの負け方を数え始めた。自然な転び方が十二通り。剣を取り落とす角度が八通り。魔術の不発は……これは、いつものやつで間に合う。
「……ハストさま」
隣で、くいくいと制服の袖を引っぱられた。
セルカだった。
講堂の一番後ろの俺の隣が、いつの間にかこいつの定位置になっていた。
「……わたしは、何位?」
そうだった。
セルカは、秋の順位戦が終わったあとに、編入してきた。順位戦に出ていないので、序列がない。
答えは、壇上から降ってきた。
「――ああ、それから。今年度の編入生については、序列の最後尾に付け足すことになっている」
エトワールが、名簿をめくりながら言った。
「セルカ・アーネット嬢。三百一位」
講堂中の視線が、一番後ろの壁際に、一斉に集まった。
セルカは、少しだけきょとんとした顔をしていた。
それから、俺の顔を見上げた。
「……ハストさまの、すぐ下」
「そうだな」
「……ハストさまの、すぐ、下」
二回言った。
それから、ほんの少しだけ口の端を持ち上げた。
……嬉しいらしい。
俺はふと思いついた。
「なぁ、セルカ。お前、俺に決闘を申し込め」
「……なんで」
「お前が勝てば、入れ替えだ。俺が三百一位になる。完璧な最下位だ。一回負けとけば三週間、誰も――」
「やだ」
即答だった。
「……ハストさまより、上、やだ」
セルカは、ぷいとそっぽを向いた。
それから、念を押すように、もう一度俺の袖をつまんだ。
「……わたしは、ここがいい」
◇
教室に戻ると、フィアットの机がなくなっていた。
いや、正確に言うと机はあった。ただ、その上が白い封筒の山で、すっかり埋まっていた。
封筒、封筒、封筒。封蝋つき、紐つき、折り鶴の形に折ってあるやつ。机の上から溢れ出して、椅子の上にまで積み上がっていた。一番上の一通には、殴り書きの字で「果たし状」と書いてあった。
「……なにこれ」
フィアットが、机の前で立ち尽くしていた。
「果たし状だな」
「……何通、あるんですか」
ラインハルトが、待ってましたとばかりに、封筒を指で数え始めた。
「えーと、いち、に……四十七通! すげぇ! フィアットちゃん、人気者じゃん!!」
「そういう人気は、いらないです……」
フィアットは、がっくりと肩を落とした。
無理もない。
秋の順位戦で、フィアットは、一年生でありながら、全学年三百人の頂点に立った。三年間無敗だったアイシャ会長を、決勝で下して。
全学年序列一位。
つまり、この学園でもっとも狙われる椅子だ。誰が勝っても、一位と入れ替わる。一年の新入りに一位の座を持っていかれたことが、面白くない上級生は、たぶん、山ほどいる。
「――あらあら。モテるわねぇ、フィアットちゃん」
教室の入口から、聞き慣れた声がした。
アイシャ会長だった。
生徒会の腕章をつけて、廊下から、ひょっこりと顔を覗かせていた。その後ろで、レイアーヌが、腕を組んで果たし状の山を眺めていた。
「先輩……」
「安心して。私は、そこには入れてないから」
アイシャ会長は、にっこりと笑った。
「私は、ちゃんとトーナメントの本番で、正面から行くわ。……卒業する前にもう一回だけ、ね」
フィアットの背筋が、ぴんと伸びた。
レイアーヌが、ふんと鼻を鳴らした。
「私も、卒業前の最後の序列戦よ。……一位の椅子、温めておいてちょうだい。私が座るから」
「えっ、えっ」
「冗談よ。半分くらいは」
三年生のふたりは、それだけ言って、廊下の向こうへ颯爽と去っていった。
教室中が、しんとしていた。
その静けさの中で、クルトが無言で立ち上がった。
フィアットの机の前まで歩いていって、懐から一通の封筒を取り出し、果たし状の山の一番上に、そっと載せた。
「……クルト、お前もか」
「……記念に」
それだけ言って、クルトは、また無言で自分の席に戻っていった。四十八通目だった。
それから、一斉にざわめき始めた。
「生徒会長と王女様から、宣戦布告……!」
「一年の教室で……!」
「すげぇ、本物の序列戦だ……!!」
ラインハルトが、なぜか一番興奮していた。
「料理長! これ、絶対、覇王も動くぜ!! 序列戦の裏で、覇王が暗躍する!! 俺にはわかる!!」
「そうか」
「お前、ちょっとは興味持てよ!!」
覇王は今、三百位を守ることで頭がいっぱいです。
◇
昼休み。
屋上は寒かった。
冬の空は、高く澄んでいた。王都の屋根の向こうに、北の山並みが、白く霞んで見えた。
俺は、いつもの給水塔の陰に座って、パンをかじっていた。隣にセルカ。反対側に、フィアット。三人でひとつの毛布を膝にかけているのは、北の砦からの癖だ。
フィアットは、果たし状の束を、膝の上に乗せていた。
一通ずつ、丁寧に封を切って目を通していた。一通も、読み飛ばさなかった。
そういう奴だ。
四十八通の中には、たぶん、ろくでもない手紙も混じっている。一年のくせに、とか。まぐれのくせに、とか。それでも、フィアットは差出人の名前まで、きちんと読んでいた。読んで、小さく頷いて次の封を切る。……あいつにとっては、果たし状も、誰かが自分に宛てて書いた手紙なのだ。
「……全部、受けるつもりか」
「一日一回は、断れませんから」
フィアットは、手紙から目を上げずに言った。
「それに、一位の座を私が勝手に降りるのは、アイシャ先輩に失礼です。……先輩は三年間、この椅子に座ってたんです。ずっと。誰に挑まれても、逃げずに」
フィアットの指が、封筒の端をきゅっとつまんだ。
「私も、逃げたくないんです」
「そうか」
俺は、パンの最後のひと口を口に放り込んだ。
それから、なんとなくフィアットの横顔を見た。
フィアットは、手紙を読んでいるようで、読んでいなかった。
目を細めていた。
いや、閉じかけていた。瞼を半分だけ下ろして、手紙の文字を、その隙間から見ている。冬の日差しが、まぶしいせいかと思った。
違った。
フィアットは、ときどきこうなる。北の砦から帰ってきて、ひと月。真眼は、まだときどき勝手に開きかける。銀色が、瞳の奥からにじみ出しかける。
そのたびにこうやって、瞼で蓋をするのだ。
人前で、銀色の眼を見せるわけにはいかなかった。王家の真眼は、有名すぎる。北の離宮のゼノン殿下の噂は、王都の誰もが知っている。一年の女子生徒の眼が、ある日突然銀色に光り始めたら、それはもう、序列戦どころの騒ぎじゃない。
「……フィアット」
セルカが、フィアットの袖をちょんとつまんだ。
「……眼、またひらきかけてる」
「……うん。わかってる」
フィアットは、手紙を膝に置いて、深くひとつ息を吸った。
陛下に教わったとおりに。一回。二回。
瞼の裏で、何かが静まっていくのが、横から見ていてもわかった。
それから、フィアットは目を開けた。
蒼い瞳だった。
「――大丈夫です」
フィアットは笑った。
いつもの笑顔だった。
けれど、膝の上の果たし状を握る指先が、ほんの少しだけ白くなっていた。
四十八通。三週間。
それを全部、眼を閉じたまま受けるつもりなのだ。この、真面目すぎる一位は。
俺は何もしてやれない。三百位の最下位が、一位の決闘に口を出したら、それこそ目立つ。せめて、隣で見ていることくらいしか。……それが、思っていたよりもずっと歯がゆかった。
屋上の扉が、ばたんと乱暴に開いた。
「――フィアット・セルジーネ!! いるか!!」
二年生だった。名前は知らないが、制服の胸の序列章に、「四十二」と刻まれていた。肩に、身の丈ほどの戦斧を担いでいる。その後ろに、立会人の腕章をつけた生徒会役員が、申し訳なさそうな顔でついてきていた。
「一位の座、いただきに来た!! 今日の一回目、俺と勝負だ!!」
フィアットは、果たし状の束を丁寧に揃えて、俺の膝の上に置いた。
それから、立ち上がった。
剣の柄に手を添えて。
「――はい。お受けします」
俺の膝の上で、四十八通の果たし状が、ずしりと重かった。
学年末序列戦が、始まった。




