114 一位の椅子は、眼を閉じて座る
立会人の生徒会役員さんが、屋上では狭すぎると言って、決闘の場所を中庭に移した。
屋上の階段を下りながら、私は、自分の手のひらを見た。少しだけ汗ばんでいた。四十八通のうちの、最初の一通。最初の一回。……ここで負けたら、アイシャ先輩に合わせる顔がない。
中庭に下りると、もう人が集まっていた。
昼休みの序列戦は、学園でいちばんの見世物だ。回廊の手すりにも、二階の窓にも、パンを片手にした生徒たちが鈴なりになっていた。誰かが、一位が戦うぞ、と叫んだのが廊下を伝って広まったらしい。
「二年、ゴドウィン・バーンズ! 序列四十二位!」
戦斧を担いだ先輩が、中庭の真ん中で名乗りを上げた。
大きな人だった。肩幅が、私の倍はありそうだった。冬なのに袖をまくり上げていて、腕に浮いた血管が太い縄みたいだった。
「一年、フィアット・セルジーネ。序列一位です」
私も名乗って、頭を下げた。
それから、剣を抜いた。
ラークさんが打ってくれた、白鋼の剣。セルカの氷の水で焼き入れをした剣。冬の日差しを受けて、刀身が淡く光った。
――そして、目を閉じた。
回廊のほうが、ざわっと揺れた。
「……目、閉じたぞ」
「舐めてんのか、一年」
「いや、あれ順位戦のときも……」
違う。舐めているわけじゃない。
閉じないと、見えすぎるのだ。
◇
北の離宮で、ゼノン殿下の眼が、私の中に流れ込んできてからひと月。
私の眼は、まだ私の言うことを半分しか聞いてくれない。
人の前に立つと、勝手に開きかける。とくに、相手が何かを強く思っているとき。斬ろうとか勝とうとか、負けたくないとか。その思いの色が、瞳の奥をこじ開けて、こちらに流れ込んでこようとする。
開けば瞳が銀色に光る。
それだけは、人に見せるわけにはいかなかった。
だから、閉じる。
閉じても、真眼は止まらない。瞼の裏が、ぼんやりと明るくなって、そこに色が映る。ちょうど、薄い布越しに灯りを見るみたいに。輪郭はにじんで、細かいものは見えない。でも、色だけはわかる。
見えすぎない。
それが、ちょうどよかった。
瞼の裏の暗がりに、ゴドウィン先輩が、橙色の塊になって立っていた。燃えるみたいな、まっすぐな橙。一年に一位を取られて、悔しくて、でも、それを正々堂々と取り返しに来た人の色だった。
いい色だと思った。
◇
「――始めッ!」
立会人の声と同時に、橙色がぐっと濃くなった。
「――鋼よ、重く。――我が腕に、山の重さを宿せ。――『ヘヴィ・アーム』!」
詠唱だった。
二節。力強い、きちんとした詠唱。先輩の身体の芯から、魔力が腕へ、腕から戦斧へと流れ込んでいくのが、瞼越しにもわかった。身体強化と、武器への重量付与。この学園の二年生が、何百回も練習して身につける、正統派の組み合わせ。
回廊から、おお、と声が上がった。
詠唱が終わるまで、三つ数えるくらいかかった。
学園ではそれが普通だ。正確な詠唱で、正確に術式を組み上げる。急いで詠唱を崩せば、術式は歪む。歪んだ術式は、三回に一回は不発になる。……ハスト様がいつも、授業でわざとやってみせるみたいに。
だから、三つ数える間、私は待った。
待って見ていた。
先輩の腕に流れ込んでいく魔力の、その流れ方を。
――呪文は、どこの国の言葉でもない。
あの空き地で、アルフさんはそう言った。
――あれは、僕が書き足した行の名前なんだ。
あれからひと月。目を閉じて人の魔術を見るたびに、私には、少しずつわかるようになっていた。
詠唱は名前だ。名前を呼ぶと、世界のどこかに書かれた「行」が、呼ばれた人のところへ来る。その行の通りに、魔力が流れる。
学園で教わる詠唱は、その名前にたどり着くまでの、長い道案内だ。何節もかけて、ゆっくりと行のありかを探して、最後に魔法の名前を呼ぶ。その名前も、本当の綴りを耳で聞き覚えたみたいに、少しだけ訛っている。
私は、陛下とハスト様に教わってからは、階梯と本当の名前だけで呼べるようになった。道案内がいらないのは、行がどこにあるのか、もう知っているからだ。……ハスト様やサリナ様は、その名前すら口にしない。指一本動かさずに、息をするみたいに、黙って行を呼ぶ。
そして、行は人によって、少しずつ書き写し方が違う。
ゴドウィン先輩の「ヘヴィ・アーム」は、腕と肩と腰にはきっちりと書き写されていた。何百回も練習した人の、丁寧な字だった。
でも、左の膝のところだけ、ほんの少し字がかすれていた。
たぶん昔、怪我をしたところだ。かばって、そこだけ、魔力の流れが細くなる。
「――おらぁっ!!」
戦斧が振りかぶられた。
山の重さを乗せた一撃が、頭の上から落ちてきた。
私は、一歩だけ左へ踏み込んだ。
先輩の左の膝の側へ。
戦斧が、私の右肩のすぐ横を通り過ぎて、中庭の石畳を叩き割った。石の破片が飛び散った。回廊から、悲鳴が上がった。
先輩は、すぐに斧を引き戻そうとした。
左足で踏ん張って。
かすれた字のところで。
ほんの一瞬、先輩の膝が遅れた。
その一瞬で、私の剣の切っ先は、先輩の喉元の指一本手前にあった。
中庭が、しんと静まり返った。
「……は?」
先輩が、目を見開いていた。
戦斧を引き戻しかけた姿勢のまま、固まっていた。
「――そ、そこまで! 勝者、フィアット・セルジーネ!」
立会人の声が、裏返っていた。
◇
回廊のざわめきが、いつまでも収まらなかった。
「……今の、何が起きた?」
「斧を避けて一歩出て、それで終わり……?」
「速すぎて、見えなかった……」
違う。速くなんかない。
私は、一歩踏み込んだだけだ。先輩の詠唱が終わるのを待って、先輩の行のかすれたところを、見ていただけ。
剣を鞘に納めて、先輩に頭を下げた。
ゴドウィン先輩は、しばらく呆然と私を見下ろしていた。
それから、ゆっくりと自分の左膝を見下ろした。
「……お前、なんでここだってわかった」
「……なんとなく、です」
本当のことは、言えなかった。
先輩は、大きな手でがしがしと頭をかいた。
「なんとなくで、一年前の古傷を突かれちゃ、たまんねぇな」
それから、ふっと笑った。
「――次は膝、治してから来る」
「はい。お待ちしてます」
先輩は、戦斧を担ぎ直して、回廊のほうへ戻っていった。橙色は、悔しそうで、でも、少しだけ晴れやかだった。
いい人だった。
手のひらが、まだ少し震えていた。勝ったからじゃない。目を閉じたまま、人の古傷まで見えてしまったことが、少しだけ怖かったのだ。
◇
その日、私は決闘を四回受けた。
一位の椅子に座るというのは、こういうことなのだと思った。順位戦の決勝で、アイシャ先輩は、三年間ずっとこの椅子に座っていた。昼休みのたびに誰かが来て、放課後のたびに誰かが来て、それを全部、正面から受けて。……そうして座り続けた人の椅子を、私は、ひと月ぶりの学園で、ようやく本当に引き継いだ気がした。
一日一回は断れない。でも、二回目からは断ってもいい。それでも、全部受けた。四十八通を三週間で片付けるには、一日に二、三通は読まないと間に合わないから。
二回目は、三年の魔術師の先輩だった。
序列九位。三重詠唱の炎の使い手。同時に三つの行を呼んで、三方向から炎の蛇を走らせてくる。この学園で、三重詠唱ができる生徒は、五人もいないらしい。
炎の蛇は、熱くて、速くて、本当に怖かった。
瞼の裏で見ると、三重詠唱というのは、三人が一枚の紙に同時に字を書いているようなものだった。一行目と二行目は、力強い迷いのない字。けれど三行目だけが、ほんの少し急いでいた。三つ目の名前を呼ぶころには、先輩の息が、わずかに足りなくなるのだ。
だから、三匹目の蛇だけが、ほんの少しだけ遅い。
私は目を閉じたまま、自分の映しを二つ作った。今ここにいる私を、今のまま写した、ふたりの私。嘘のない私。
一匹目と二匹目の蛇は、映しの私に食らいついて、空を噛んだ。三匹目は、本物の私を追ってきた。遅れて、少しだけ迷いながら。その迷いの隙間を、私は剣の腹で払った。炎の蛇がほどけるように消えた。
先輩は杖を下ろして、長いこと私を見ていた。
「……三行目が遅いって、どうしてわかったの。先生にも、ばれたことないのに」
「……音、です。詠唱の、最後の音」
半分は嘘だった。先輩は、ふうん、と言って少しだけ笑った。
「卒業までに、直しておくわ。……ありがとう、一位さん」
ひとつ困ったことがあった。
三重の行を、目を閉じたまま同時に読むと、頭の奥が、焼けるように熱くなるのだ。
三回目の決闘が終わったとき、鼻の奥から、温かいものがつうっと垂れてきた。
慌てて手で押さえた。指の間が赤く濡れた。
「……フィアット」
回廊の柱の陰から、セルカが駆け寄ってきた。
手袋を外して、私の額に、温かい指先をそっと当てた。
「……あつい」
「……ちょっとだけ、ね」
「……時計、いる?」
「ううん。大丈夫。……ありがと」
セルカは、むっと口を尖らせて、それでもハンカチを差し出してくれた。氷の模様が刺繍してある、ミリエルさんにもらったハンカチだった。
私が鼻を押さえている間、セルカは、ずっと私の袖をつまんでいた。いつもはハスト様の袖をつまむ、あの指で。
その向こうの回廊の長椅子で、ハスト様が、外套を頭からかぶって寝ていた。
――寝たふりだ。
外套の隙間から、こっちを見ているのがわかった。瞼を閉じていても、ハスト様の碧は、外套越しに、ちゃんと私のほうを向いていた。
それだけで、もう少しだけ頑張れる気がした。
三回目は、二年の槍使いの先輩だった。四回目は、三年の騎士団長のお嬢さんだという双剣の人。どちらも、きちんと鍛えた、きれいな行を持っていた。きれいな行ほど、かすれたところがよく目立つ。
双剣の先輩には、一度だけ、自分から短く唱えた。
「――第六階梯、『Boosted all』」
先輩が三節かけて組み上げる身体強化を、私は、階梯と名前ひとつで呼んだ。先輩の双剣が届くより先に、私の剣が、その間合いの内側にいた。
四回目が終わったあと、回廊の生徒たちが、私のことをこう呼び始めていた。
――目を閉じた一位。
――盲目剣のセルジーネ。
……盲目では、ないんですけど。
◇
その夜。
セルジーネの屋敷の二階の自分の部屋で。
私は、鏡台の前に座っていた。
部屋の灯りは、燭台がひとつだけ。窓の外では、細かい雪が音もなく降っていた。
鏡の中の私は、ひどい顔をしていた。鼻の下に、拭いきれなかった赤い跡。目の下にうっすらと隈。
明日も決闘がある。
その次の日も。
目を閉じたままでも、行のかすれまで見えてしまう眼。閉じているのに、頭が焼ける眼。これを三週間、うまく使いこなさないといけない。
――見ないことも、覚えたまえ。
陛下の声を思い出して、私は、瞼を半分だけ下ろした。
開ききらず閉じきらず。銀色が瞳の外へ漏れない、ぎりぎりの細さ。それを探す練習だった。
鏡を見ながら、少しずつ瞼を持ち上げていく。
少し。
もう少し。
鏡の中の私の瞳の奥に、銀色がちらりと揺れた。
――ここまで。
覚えておこうと思って、私は、鏡の中の自分をじっと見た。
それで、つい。
手が動いていた。
鏡台の鏡の前に、手のひらをかざして。淡い蒼い光をこぼして。
鏡映し。
鏡の中にもう一枚、私の鏡を立てた。嘘のない鏡。今ここにいる私を、今のままこちらへ返す鏡。
その鏡に映る私を、私は真眼で見た。
――色があった。
私の色。
自分の色を見るのは、初めてだった。セルカの水色や、陛下の紺色や、ハスト様の碧みたいに、私にも、ちゃんと色があった。淡い薄青。冬の朝の空みたいな色。
ちょっと、地味だなと思った。
それから。
胸の真ん中に。
息が止まった。
小さな、白い場所があった。
手のひらで覆えるくらいの、小さな白。何の色もない。何も映らない。ただ、白い。雪の降り積もった、誰も歩いたことのない野原みたいな。
ハスト様の胸にあるのと、同じ白だった。
ハスト様のものよりずっと小さくて、ずっと浅い。
でも、同じ白だった。
そして、その白い場所の縁が。
ほんの少しだけ罅割れていた。
細い細い罅が、白い場所の縁をぐるりと走っていた。まるで、何枚も重ねた蓋の一番上の一枚に、細い傷が入ったみたいに。
鏡の中の私が、口元を押さえていた。
私も、口元を押さえていた。
――今の君には、ないのかもしれない。
あの空き地で、アルフさんはそう言った。
――あの夜、殺したはずの娘が。
ゼノン殿下は、最後に私を見てそう言った。
鏡映しがふっと消えた。
私の手が、震えていたから。
鏡台の鏡には、ただの私が映っていた。蒼い瞳。鼻の下の赤い跡。いつもの私の顔。
私は、自分の胸にそっと手を当てた。
心臓が打っていた。少し速く。
この下に、白い場所がある。
何が入っているのか、わからない場所が。
――俺は、何かを払って何かを忘れた。
分館の台所で、ハスト様がセルカにそう言っていたと、あとでセルカから聞いた。何を払ったのかも思い出せない、と。
私も、何かを払ったのだろうか。
何を。いつ。誰のために。
考えようとすると、胸の奥の白い場所が、ほんの少しだけ冷たくなった。雪に、素手で触れたときみたいに。
――いつか、君が自分で見つける。その眼でね。
窓の外で、雪が降り続けていた。
私は、燭台の火を吹き消した。
暗闇の中で目を閉じた。
瞼の裏に、白墨の三文字がほのかに光っていた。それだけが、今の私のたったひとつの確かなことのような気がした。




