115 最下位どうしの、負けられない昼休み
決闘期間が始まって、三日が経った。
その間に、俺に申し込まれた決闘の数は、ゼロだった。
当然といえば当然だ。三百位の俺に勝っても、序列は何ひとつ変わらない。負けたら、三百位と入れ替わる。わざわざ最下位に挑むのは、得るものが何もなくて、失うものしかない賭けだ。
つまり、俺は今、学園でいちばん安全な場所にいる。
最高だった。
昼休みの廊下を、俺は鼻歌まじりに歩いていた。窓の外の中庭では、今日も誰かと誰かが斬り合っている。食堂の前では、スープの鍋を挟んで、二年生同士がにらみ合っている。平和だ。俺の周りだけ。
その平和が、廊下の角でいきなり終わった。
「――あ、あのっ!!」
誰かが、俺の前に飛び出してきた。
一年の女子だった。たぶん隣のクラス。小柄で、ふわふわした麦わら色の髪を、ふたつに結んでいる。制服の胸の序列章に、「二百九十九」と刻まれていた。
二百九十九位。
俺のひとつ上だ。
その子は、両手を胸の前でぎゅっと握りしめて、真っ赤な顔で、俺を見上げていた。それから、廊下中に響く声で言った。
「お、お願いしますっ!! 私に、決闘を申し込まないでくださいっ!!」
廊下がしんとした。
通りすがりの生徒たちが、足を止めて、こっちを見た。
「……は?」
「ハスト・アーネットさんですよね!? 三百位の!! わ、私、ミモザ・リーフェルっていいます! 二百九十九位です! もし、ハストさんに決闘を申し込まれて、負けたら……私、三百位になっちゃうんです!!」
知ってる。
「だから、お願いしますっ!! 私だけは、見逃してくださいっ!!」
ミモザは、深々と頭を下げた。ふたつ結びの髪が、ぴょこんと跳ねた。
廊下の生徒たちが、ひそひそと囁き合い始めた。
「……最下位が、最下位に命乞いされてる」
「すげぇ絵面だな」
「最下位決定戦か……」
勘弁してくれ。
「……申し込まねぇよ」
俺は言った。
「本当ですか!?」
ミモザが、がばっと顔を上げた。
「本当だ。誓ってもいい。俺は、誰にも決闘を申し込まない」
申し込んで、うっかり勝ったら俺の序列が上がる。むしろ俺のほうが、申し込まれたくない。
「よ、よかったぁ……」
ミモザは、その場にへなへなと座り込んだ。
それから、廊下の床に座ったままぽつりと言った。
「……私、まだ一度も勝ったことがないんです」
「一度も?」
「入学順位戦も、秋の順位戦も、授業の模擬戦も。全部です。魔術が、ちゃんと出たことがなくて」
ミモザは、自分の手のひらを見下ろした。
「詠唱は、合ってるはずなんです。先生にも、詠唱だけは百点だって言われました。でも、いつもぷすって。煙が出るだけで」
三回に一回の不発どころじゃない。毎回、らしい。
「うちは、港町の干物屋で。家族で魔術学校に入ったのは、私が初めてで。……村のみんなが、お金を出し合って、入学金を払ってくれたんです」
ミモザは、そこでぐっと唇を噛んだ。
「だから、せめて最下位にだけはなりたくなくて」
港町の干物屋。軒先に並ぶ干物と、それを売って少しずつ貯めた小銭。その小銭を村中から集めて、たったひとりの娘を王都に送り出した人たちがいる。……その重さは、たぶん、序列の数字なんかより、ずっと重い。
俺は何も言えなかった。
最下位ならここにいる。何なら、ずっと居座るつもりでいる。
「……ハストさんは、平気なんですか? ずっと最下位で」
ミモザが、まっすぐに俺を見上げていた。
その目に、からかいの色はひとつもなかった。本当に知りたがっている目だった。
「……まぁな。慣れた」
「慣れるんですね……」
ミモザは、尊敬とも、哀れみともつかない顔で俺を見た。
それから、ぴょんと立ち上がった。
「私、頑張ります!! ハストさんの分まで!!」
何を。
ミモザは、もう一度深々と頭を下げて、廊下の向こうへ駆けていった。途中で一回、誰もいないところでつまずいていた。
◇
中庭に出ると、ちょうど、ラインハルトとレオンが向かい合っていた。
「――レオン!! 今日こそ、決着をつけてやる!!」
「毎日言ってるな、それ」
ラインハルトは、序列百五十八位。レオンは百二十三位。同じクラスの、いつもの二人だ。どうやら、ラインハルトのほうから、申し込んだらしい。
回廊の手すりに、俺と同じクラスの連中が、ずらりと並んでいた。フィアットとセルカも、その中にいた。フィアットは、今日の分の決闘を、もう午前の休み時間に片付けてきたらしい。目を、少しだけ細めていた。
立会人の教師が、手を上げた。
「――始め!」
先に動いたのは、ラインハルトだった。
右手を、天に向かって突き上げた。
「――天を裂く雷鳴よ! 我が腕に宿りて、その名を轟かせ! 闇を穿ち敵を穿ち、我が前に立つすべてを――」
長い。
五節詠唱だ。この学園の一年生が使える中では、いちばん格好いいと評判の、雷の攻撃魔術。ラインハルトは、覇王に憧れて、これだけを、夏休みの間ずっと練習していたらしい。
詠唱の一節ごとに、ラインハルトの右手に、青白い光が集まっていく。ばちばちと細い稲妻が指先に絡みつく。回廊の女子生徒が、おお、と声を上げた。
ただし長い。
その間に、レオンはもう動いていた。
「――風よ、壁となりて我を守れ。『ウィンド・ウォール』」
二節。
短く正確な詠唱だった。レオンの前に、薄い風の膜が張られた。目には見えない。けれど、中庭の雪が膜の縁に沿って、くるりと渦を巻いた。
レオンは、昔からこういう奴だ。派手さはないが、無駄がない。自分にできることを、確実にやる。
「――我が前に立つすべてを、打ち砕けぇぇ!! 『サンダー・ストライク』ッ!!」
ラインハルトの詠唱が、ようやく終わった。
右手から雷が放たれた。
一直線にレオンへ。
速かった。威力も一年生にしては、相当なものだった。中庭の空気が、焦げた匂いを立てた。
雷は、レオンの風の膜にぶつかった。
膜がたわんだ。ぎしぎしと軋んで、それでも破れなかった。雷は、膜の表面を滑って、斜め上へと逸らされていった。中庭の楡の木の梢をかすめて、雪をばさりと落とした。
「くっそおお!!」
ラインハルトが、もう一度右手を振りかぶった。
二発目の詠唱を、始めようとした。
その足元に、レオンの風がもう回り込んでいた。
「――風よ、地を這い、足をさらえ。『ウィンド・スネア』」
ラインハルトの足が、すくわれた。
雪の上に、派手に尻もちをついた。
レオンが、その喉元に、木剣の切っ先をぴたりと当てた。
「――勝負あり! 勝者、レオン!」
回廊から拍手が起きた。
ラインハルトは、雪の上に大の字になって、空に向かって叫んだ。
「あーーーっ!! また負けたぁぁ!!」
「お前、詠唱が長いんだよ」
「長いほうが格好いいだろ!?」
「格好いいけど、負けるだろ」
レオンは、木剣を下ろして、ラインハルトに手を差し出した。
ラインハルトは、その手を掴んで起き上がった。
「……次は勝つ」
「毎日聞いてる」
ふたりは、肩をぶつけ合って笑っていた。
俺は、回廊の柱にもたれてそれを見ていた。
ラインハルトの雷は、三節目で、ほんの少しだけ術式が右にぶれていた。レオンの風の膜は、左下の継ぎ目が甘かった。もう半歩、ラインハルトが左に回り込んでいれば、たぶん膜は抜けていた。
……そういうことは、言わない。
二人とも、夏からずっと練習していたのだ。放課後の中庭で、何度も、何度も。三節詠唱を、五節詠唱を、喉が枯れるまで。
これが、この学園の当たり前の強さだ。
詠唱に三つ数えて、術式を組み上げて、最後に魔法の名前を高らかに叫んで、狙いをつけて放つ。外れたら、また三つ数える。それを、汗をかきながら、何百回も繰り返して、少しずつ上手くなっていく。
俺は、それを少しも笑う気になれなかった。
むしろ、少しだけ羨ましかった。
◇
「――おい、そこの最下位」
背中から、声をかけられた。
振り返ると、二年生が三人、にやにやと笑って立っていた。真ん中の背の高い男の胸に、「二百十四」の序列章。
「お前、三百位のハストだろ。……俺と、決闘しろよ」
回廊がざわめいた。
最下位に挑む。得るものは、何もない。それでも挑むということは、つまり、そういうことだ。見世物にしたいのだ。最下位を、昼休みの余興に。
「……一日一回は、断れないんだよな?」
二百十四位が、意地悪く笑った。
俺は、心の中で深く深く溜め息をついた。
それから、こう思った。
――よし。完璧に負けよう。
◇
中庭の真ん中で、二百十四位と向かい合った。
立会人の教師が、さっきと同じように手を上げた。
回廊の手すりで、セルカの足元の雪が、うっすらと白く凍り始めていた。
俺は、セルカのほうをちらりと見た。
だめだ、と目で言った。
セルカは、むっと唇を尖らせて、それでも足元の霜を止めた。
「――始め!」
「――炎よ、球となりて飛べ! 『ファイア・ボール』!」
三節。二百十四位の右手に、拳ほどの火の玉が生まれた。それが俺に向かって、ひょろひょろと飛んできた。
……遅い。
それに狙いが甘い。このまま立っていれば、火の玉は、俺の左肩の腕一本ぶん横を素通りする。
当たってやらないといけない。
ただし、自分から当たりにいったように見えたら、台無しだ。
俺は、試合が始まる前に、足元の雪の下に小石をひとつ、靴の先で転がしておいた。
その小石を、左の踵で踏んだ。
身体が左に傾いた。いかにも、足を滑らせたように。慌てて体勢を立て直そうとして、両腕をばたばたと振り回して。……その振り回した腕のちょうど肘のあたりに、火の玉が来るように。
ぼん、と音がした。
火の玉が、俺の肘で弾けた。
服の袖が、少しだけ焦げた。前髪がちりっと縮れた。
当たる瞬間、肘の内側にだけ、薄く防御の術式を通しておいた。詠唱もなく、指の一本も動かさずに。誰にも見えないくらい薄く。火傷にはならない程度に。ただし、痛そうな顔ができる程度に。
それから、仰向けに倒れた。
十二通りの転び方のうちの、七番。後頭部を守りつつ、大の字。雪が、ばふっと舞い上がった。
完璧だった。
「――し、勝負あり。勝者、二百十四位」
立会人の教師の声は、少しだけ気の毒そうだった。
回廊から、どっと笑い声が起きた。
「滑った!」
「自分から火の玉に突っ込んだぞ、あいつ!」
「さすが最下位!」
二百十四位が、得意げに胸を張っていた。取り巻きの二人が、背中を叩いていた。序列は何も変わらない。それでも、昼休みに最下位を雪の上に転がした。それで十分だったらしい。
俺は、雪の上に大の字になったまま、冬の空を見上げていた。
――完璧だった。
相手は、自分の火の玉で勝ったと信じている。立会人は、俺が足を滑らせたのを確かに見た。回廊の誰も、八百長だとは思っていない。
そして、俺の序列は三百位のまま。
胸の奥で、小さな満足感が、じんわりと広がっていった。
……言っておくが、これは負け惜しみじゃない。
負けず嫌いの勝ち方だ。
◇
起き上がろうとしたところに、誰かが駆け寄ってきた。
ミモザだった。
「ハ、ハストさん!! 大丈夫ですか!?」
ミモザは、雪の上に膝をついて、俺の焦げた袖をおろおろと覗き込んでいた。それから、制服のポケットから、小さな缶を取り出した。
「こ、これ! うちの干物屋で、火傷したときに塗る軟膏です! よく効きます!」
缶の蓋を開けると、魚の脂のような、なんとも言えない匂いがした。
「……ありがとう」
「いえ!」
ミモザは、俺の肘に軟膏をぺたぺたと塗りながら、小さな声で言った。
「……悔しいですよね」
「……まぁな」
「私も、いつもああなんです。……だから、わかります」
ミモザは顔を上げた。
なぜか、目が少しだけ潤んでいた。
「私たち、仲間ですね」
違う。
……とは言えなかった。
「最下位同盟、ですね!!」
ミモザは、拳をぎゅっと握って力強く頷いた。
回廊の手すりで、セルカが、ものすごく不機嫌そうな顔をしていた。
◇
午後の授業の前。
教室に戻る廊下で、フィアットが俺の隣に並んだ。
目を細めたまま。
「……ハスト様」
「なんだ」
「さっき、試合の前に雪の下に石ころ、蹴り込んでましたよね」
俺は足を止めた。
フィアットは、前を向いたまま、くすくすと笑っていた。
「それから、当たる直前に肘の内側だけ、すごく薄く光ってました。瞼の裏で、ちゃんと見えましたよ」
……その眼、反則だろ。
「……誰にも言うなよ」
「言いません」
フィアットは、くるりとこちらを向いて、悪戯っぽく片目をつむってみせた。……もう片方の目は、最初から細めたままだったので、ほとんど両目を閉じているように見えた。
「でも、ひとつだけ」
「なんだ」
「あの転び方。……ちょっと格好よかったです」
それだけ言って、フィアットは、ぱたぱたと先に教室へ駆けていった。
俺は、焦げた袖をつまんで、魚の脂の匂いのする肘を、しばらく見下ろしていた。
どうやらこの三週間。
完璧に負けるためには、敵より先に、味方の眼をどうにかしなければならないらしい。




