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116 雪原の旗取り


決闘期間の六日目は、野外訓練の日だった。


王都の北門を出て、馬車で半刻。なだらかな丘がいくつも重なった、学園の演習地。夏は一面の草原だが、今は、膝まで埋まる雪の原になっていた。


空は、薄い灰色に曇っていた。風はなかった。吐く息が、白く凍ってまっすぐに昇っていった。


「――本日は、一年と二年の合同で、雪中の旗取りを行う!」


実技担当のガルシア先生が、雪原の真ん中で声を張り上げた。熊みたいな髭面の先生だ。毛皮の外套の上からでも、腕の太さがわかる。


「各組に旗を一本ずつ渡す! 日が傾くまでに、相手の組の旗を奪って自陣に持ち帰った組の勝ち! 魔術、武器、何でもあり! ただし殺すな! それから――」


先生は、髭の奥でにやりと笑った。


「今は決闘期間中だ。旗取りの最中でも、決闘の申し込みは有効とする。……せいぜい、面白くしてくれ」


雪原に、歓声と悲鳴が半分ずつ上がった。


つまり、こういうことだ。旗取りという名目の、合法的な乱戦。そのどさくさに紛れて、序列を賭けた決闘が、あちこちで勝手に始まる。


ジャンキーにも、ほどがある。


◇


組分けの結果、俺たちの組は、一年の俺のクラスと、二年のどこかのクラスとの混成になった。


そして、旗持ちは俺だった。


「ハスト。お前が旗を持て」


組の大将になった二年の先輩が、俺に旗竿を押しつけた。


「お前、序列三百位だろ。どうせ戦力にならない。旗を抱えて、陣地の奥で雪だるまのふりでもしてろ」


周りの何人かが、くすくすと笑った。


ありがたい。


心の底から、ありがたい。


旗持ちは、旗を奪われなければ負けにならない。逆に言えば、旗を奪われれば組が負ける。そして俺は、組を勝たせるわけにもいかないし、かといって、わざと旗を差し出したように見えてもいけない。


……ん?


俺は旗竿を抱えたまま、雪原の向こうを見た。


相手の組は、一年の隣のクラスと、二年の別のクラス。陣地の旗のそばで、ミモザが、旗竿を抱えて立っていた。向こうの旗持ちも、どうやら序列の一番低い奴に押しつけられたらしい。


ミモザは、俺に気づくとぱあっと顔を輝かせた。


それから、雪原越しに大きく手を振った。


「ハストさーん!! 最下位同盟、お互い頑張りましょうねーっ!!」


何をだ。


◇


始まりの笛が鳴った。


雪原が一斉に動いた。


両組の前衛が、雪を蹴立てて走り出した。詠唱の声が、あちこちから、重なり合って響いてきた。


「――炎よ、我が手に集いて敵を焼け! 『ファイア・ランス』!」

「――大地よ、壁となりて我らを守れ! 『アース・ウォール』!」


炎の槍が飛び、土の壁がせり上がった。雪が溶けて、白い湯気が立ちのぼった。二年生たちの詠唱は、一年生よりも一節ずつ短くて、そのぶん速かった。それでも、詠唱を始めてから魔法の名前を叫ぶまでに、三つは数える。


その三つの間に、雪原のあちこちで、別の声が上がり始めた。


「――セルジーネ!! 決闘を申し込む!!」

「俺もだ!!」

「旗なんかどうでもいい、一位を獲れ!!」


二年の先輩たちが、四方から、フィアットのほうへ殺到していった。


フィアットは、雪原の真ん中に、ひとりで立っていた。


目を閉じていた。


その隣にセルカがいた。手袋をはめた手を、胸の前で軽く握って。三百一位のセルカに勝っても、誰の序列も変わらない。だから、誰もセルカを見ていなかった。


「……一日一回は、断れないので」


フィアットが、目を閉じたまま静かに言った。


「一番最初に申し込んだ人から、お受けします。……ほかの方は、順番に」

「全員まとめて来いってか!?」

「いえ、ですから、順番に――」


聞いていなかった。


三人の二年生が、同時に詠唱を始めた。


「――風よ、刃となりて――」

「――氷よ、礫となりて――」

「――雷よ――」


決闘じゃない。旗取りの乱戦を、言い訳にした、ただの袋叩きだった。


俺は、旗竿を握る手に少しだけ力を込めた。


――そのときだった。


「――第七階梯、『Frost seal』」


セルカの、小さな声がした。


詠唱じゃなかった。階梯と名前だけ。


三人の二年生の口元に、薄い霜が、ぴたりと張りついた。


「――炎よ、刃と、んぐっ」

「――んむっ!?」

「――むーっ!!」


三人とも、魔法の名前を叫ぶ前に、口を塞がれていた。唇が、薄い氷の膜できれいに封じられていた。詠唱は、名前を呼んで初めて完成する。名前が呼べなければ、どれだけ長く詠唱しても、行は来ない。


三人が、雪の上で、口を押さえてじたばたと暴れていた。


「……順番」


セルカが、ぼそりと言った。


「……フィアット、順番って言った」


フィアットが、目を閉じたままくすりと笑った。


それから、一番最初に申し込んだ先輩のほうに向き直った。


「――では、お受けします」


◇


そこから先は、俺の位置からもよく見えた。


フィアットの決闘は、相変わらず、ひとつ瞬きする間に終わった。


一人目の先輩が、三節かけて組んだ風の刃を、フィアットは、目を閉じたまま半歩でかわして、剣の腹で先輩の手首を打った。二人目の先輩が詠唱を始めたときには、もうその喉元に切っ先があった。


二人目と三人目の間に、また誰かが割り込もうとした。


セルカがそれを止めた。


氷の礫をひとつだけ。割り込もうとした先輩の、足元の雪に。


ほんの一拍、早かった。


先輩が足を踏み出そうとした、ちょうどその場所に、ちょうどその瞬間、礫が届いていた。まるで、先輩がどこに足を置くのか、先に知っていたみたいに。


先輩は、自分の足が凍りついた雪に縫い止められたのを見下ろして、首を傾げた。


「……え? 今、俺、どっちに踏み出した?」


観戦していた一年生たちが、ざわめき始めた。


「あの子、なんかいつも一拍早くない?」

「狙ってから撃ってるんじゃなくて、撃ってから相手が来てる……」

「三百一位、だよな……?」


セルカは、何も言わなかった。


ほんの少しだけ、自分の身体の中の時間を速めているだけだ。心臓の音と同じ速さで。誰にも見えないくらい、ほんの一拍ぶん。北の離宮で、均衡を完成させてから、セルカはそれを、息をするみたいに使えるようになっていた。


止めることも、戻すこともしない。人前で時間を止めるのは、サリナに固く禁じられている。


だから、一拍だけ。


それだけで、学園の生徒たちにとっては、十分に不可解な氷使いだった。


◇


一方、俺は陣地の奥で旗竿を抱えて困っていた。


旗が奪われないのだ。


相手の組の攻め手が、なかなか来ない。来ても、うちの組の守りに押し返される。うちの組の二年生たちが、思っていたよりずっと強かった。


これでは、うちの組が勝ってしまう。


いや、組が勝つのは、別にいい。俺の序列には関係ない。


問題は、ミモザだった。


雪原の向こう側で、ミモザが、旗竿を抱えて震えていた。相手の組の守りは、こっちよりずっと手薄だった。うちの組の攻め手が三人、ミモザの陣地へ迫っていた。


ミモザは、旗竿を片手で抱えたまま、もう片方の手を前に突き出した。


「――ほ、炎よ! 小さき火よ! 我が手に灯りて、悪しきを退け――『ファイア・ボール』っ!!」


ぷすっ。


煙が出た。


それだけだった。


三人の攻め手が、笑いながら、ミモザの旗竿に手を伸ばした。


ミモザは、目に涙を浮かべて、それでも旗竿を離さなかった。両腕で抱きしめて、雪の上にうずくまって。


……あれ、何回目の負けなんだろうな。


俺は、旗竿を抱えたまま、雪原の向こうのミモザの手元をじっと見た。


ミモザの「ファイア・ボール」。詠唱は、確かに百点だった。一字一句、教本どおり。


なのに、なぜ出ない。


目を凝らした。


ミモザの手のひらの、魔力の通り道。その出口のところで、魔力が、ぷつりと途切れていた。詠唱で呼んだ行は、ちゃんとミモザのところまで来ている。来ているのに、最後の出口だけが、まるで栓をしたみたいに詰まっていた。


……ああ。


あれは、才能がないんじゃない。


出口が狭すぎるのだ。あの子の身体の中の魔力の量に対して、出口が、針の穴くらいしかない。だから、行が来ても、外に出る前に詰まって煙になる。


そういう体質の奴が、まれにいる。ロリババアの書斎の古い本で読んだことがあった。治し方も、たしか書いてあった。


……今は、関係ない。


関係ない、はずなのだが。


俺は旗竿を抱えたまま、ふらりと陣地の奥から一歩、雪の上に踏み出した。


足を滑らせた。


いかにも、旗の重さによろけたように。


旗竿が、俺の手を離れて、くるくると回りながら、雪原の向こうへ飛んでいった。


ちょうど、相手の組の攻め手のひとりの足元へ。


「――あっ、旗が!!」

「三百位が旗を落としたぞ!!」


相手の組の攻め手が、俺の旗に飛びついた。うちの組の攻め手たちが、慌てて自陣へ引き返してきた。ミモザの陣地から、三人がきれいにいなくなった。


ミモザは、旗竿を抱きしめたまま、ぽかんとしていた。


それから、雪原越しに俺のほうを見た。


俺は、雪の上に大の字になっていた。十二通りの転び方のうちの、三番。旗竿を放り投げつつ、背中から。


組の大将の二年生が、雪を蹴立てて走ってきて、俺の胸ぐらを掴みそうな勢いで怒鳴った。


「何やってんだ、三百位!!」

「すみません。滑りました」


完璧だった。


◇


――それが、起きたのは、旗取りが終わりかけた頃だった。


雪原の真ん中で、二年の先輩がひとり、フィアットに決闘を申し込んでいた。炎の使い手だった。


「――炎よ! 燃え盛る紅蓮よ! 我が前の白を焼き払え! 『フレイム・ウェーブ』!!」


炎の波が雪原を這った。


フィアットが、それをかわした。


かわされた炎の波は、そのまま雪原の雪を舐めていった。雪が一瞬で溶けた。溶けた雪が、白い湯気と焦げた草の匂いになって、雪原の上に立ちのぼった。


その湯気の中に、セルカが氷の礫を放った。


炎の波の勢いを、殺すために。冷たい氷が、熱い湯気とぶつかって、細かな雪の粉になって舞い上がった。


雪原に雪が降った。


下から上へ。舞い上がって、それからゆっくりと降りてくる雪。


焦げた匂いのする雪。


フィアットの足が、止まった。


決闘の途中だった。


炎の先輩が、二発目の詠唱を始めていた。それでも、フィアットは動かなかった。剣を構えたまま、雪の中に立ち尽くしていた。


閉じた瞼の隙間から、ほんのわずかに銀色の光が漏れていた。


「――フィアット?」


セルカが、フィアットの袖をつまんだ。


フィアットの手が、動いた。


剣を持っていない、左手が。袖をつまんだセルカの手を、探すように、ぎゅっと握った。


強く。


指の関節が、白くなるくらいに。


それから、フィアットの唇が動いた。


「……だいじょうぶ」


かすれた、小さな声だった。


「……こわくない。……だいじょうぶ、こわくないよ」


セルカが、目を丸くしていた。


フィアットは、セルカの手を握りしめたまま、まだ雪の中に立ち尽くしていた。焦げた匂いの雪が、その蒼い髪の上に、静かに降り積もっていった。


「――『フレイム・ウェーブ』!!」


二発目の炎が、フィアットに向かって放たれた。


俺は、陣地の雪の上に座り込んだまま、指一本動かさなかった。


動かさずに、炎の波の一番先に、目に見えないほど薄い風の壁を、一枚だけ置いた。


炎の波は、フィアットの一歩手前で、何かにつまずいたように、ふっと右へ逸れていった。


誰も気づかなかった。


炎の先輩自身でさえ、自分の狙いが甘かったのだと思ったらしく、首を傾げていた。


その、逸れた炎の明るさで、フィアットがはっと我に返った。


瞬きをひとつ。


閉じた瞼の裏の銀色が、すうっと引いていった。


それから、フィアットは、何事もなかったように一歩踏み出した。炎の先輩の喉元に、剣の切っ先が届いていた。


「――勝負あり!」


ガルシア先生の声が、雪原に響いた。


◇


日が傾いて、旗取りは終わった。


俺の組は、俺が旗を放り投げたせいで負けた。組の大将には、帰りの馬車の中で、ずっと睨まれていた。


ミモザの組は勝った。


ミモザが旗を守り抜いたのは、入学して以来、初めてのことだったらしい。帰りの馬車の窓から、ミモザが、こっちの馬車に向かって、ちぎれそうなくらい手を振っていた。


俺は、馬車の一番後ろの席に座っていた。


隣に、フィアット。その向こうに、セルカ。


フィアットは、ずっと窓の外の雪原を見ていた。


「……ハスト様」


馬車が、王都の北門をくぐったとき、フィアットがぽつりと言った。


「さっき、私、何か言ってましたよね。セルカの手を握って」

「……ああ」

「……覚えてないんです」


フィアットは、自分の左手を、じっと見下ろしていた。セルカの手を握りしめていた、その手のひらを。


「でも、手が覚えてるんです。誰かの、冷たい手。小さくて、震えてて。……私が、握ってあげなきゃいけない手」


フィアットの声が、少しだけ震えていた。


「焦げた匂いがして。雪が降ってて。……その手を、握って。だいじょうぶ、こわくないって。……前にも、誰かに、同じことを言った気がするんです」


セルカが、フィアットの外套の袖を、そっとつまんだ。


「……フィアット。いま、だれに、言ったの」

「……わからない」


フィアットは、首を横に振った。


「わからないの、セルカ」


馬車の車輪が、王都の石畳の上で、ごとごとと鳴っていた。


俺は何も言えなかった。


焦げた匂いの雪。


冷たい小さな手。


胸の奥の、霧のかかった白い場所が、きしりと軋んだ。


――ハスト。


誰かが、雪の中で俺を呼んだ気がした。


声は、いつものように、それだけで消えた。


俺は、膝の上で、自分の右手をゆっくりと握りしめた。


焦げた匂いの雪の夜を、俺も知っている。


四年前の、あの夜を。


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