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117 白い法衣の帰還者


決闘期間の八日目。


一年の廊下の掲示板に、手書きの瓦版が貼り出されていた。


『学年末序列戦速報・第三号 毎日王都新聞・学園支局(非公認)』


書いたのは、ペトラだ。学園の生徒でもないのに、毎朝、取材と称して校門をくぐってくる。守衛のおじさんとは、もうすっかり顔なじみらしい。


『盲目剣セルジーネ、二十一戦二十一勝! 一位の椅子、いまだ揺るがず』

『謎の一拍――三百一位アーネット嬢の氷、その正体は?』

『最下位ハスト、本日も見事に転倒。通算三戦三敗、転び方の美しさに定評』


……最後のは、余計だ。


「転び方に定評って、褒められてんのか、それ」


隣で、レオンが、呆れた顔で瓦版を見上げていた。


「さあな」

「お前、ほんとに、毎回きれいに転ぶよな」


レオンの目が、ちらりと俺を見た。


一瞬だけ。


俺は、気づかないふりをした。


◇


昼休みの食堂は、いつもより騒がしかった。


決闘期間に入ってから、食堂は、学園でいちばん危険な場所になっていた。スープの列に並んでいる間に、背中から果たし状を突きつけられる。パンをかじっている間に、隣の席で決闘が始まる。それでも、腹は減る。


俺は、パンだけを持って、窓際の隅の席に座った。去年、冷めたスープの前で三連敗した先輩の教訓だ。


フィアットとセルカが、向かいに座った。ラインハルトとレオンが、隣のテーブルに陣取った。クルトは、少し離れた席で、黙々とスープを飲んでいた。


そのとき、食堂の入口が、急に静かになった。


ざわめきが、入口のほうから順番に消えていった。水面に石を落としたときの、波紋みたいに。


ひとりの男子生徒が、入ってきた。


白い外套を着ていた。


学園の制服の上に、膝まである、真っ白な外套。襟と袖口に、銀の糸で、細かな刺繍が施されていた。光の神の聖印を、図案化した模様。淡い金色の髪を、首の後ろできっちりと束ねていた。目は、冬の空みたいな、冷たい灰色だった。


その後ろに、二人。同じ二年の制服を着た男女が、半歩下がってついてきていた。従者のように。


「……ヴァイスハイトだ」


誰かが、囁いた。


「ヴァイスハイト侯爵家の……」

「ジセリアの教会学院に、一年留学してたっていう」

「帰ってきたのか……」


食堂中の視線が、その白い外套に集まっていた。


二年、アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト。


名前だけは、聞いたことがあった。王国でも古い名門の、跡取り。ヴァイスハイト家は、代々、光の神の教会とつながりが深い。ジセリアの教会学院に留学したのも、そのためだったらしい。


そして、その教会は、秋の終わりに崩れた。


新教皇ガブリエルが、聖遺物の暴走で死んだ。聖騎士団は解体されて、教会は、評議会のもとで一から作り直されることになった。留学していた貴族の子弟たちは、みんな、国に帰されたらしい。


アルブレヒトは、食堂の真ん中で、足を止めた。


ゆっくりと、食堂を見回した。


スープの湯気。パンくず。決闘の傷を布で巻いた生徒たち。


そして、言った。


「――盗品の市場だな」


よく通る、静かな声だった。


食堂中が、しんとした。


「一年留守にしただけで、ずいぶんと様変わりしたものだ。祈りも血も持たぬ者たちが、名前だけを盗み覚えて、魔法の真似事をしている」


アルブレヒトは、近くのテーブルの一年生の手元を、ちらりと見た。訓練で火傷した指に、包帯が巻かれていた。


「魔法とは、本来、契約だ。天と、血との。……それを忘れた者が、いくら詠唱を重ねたところで、所詮は盗品の、粗悪な複製にすぎない」


誰も、何も言わなかった。


言えなかった、のだと思う。白い外套と、侯爵家の名前と、その声の静けさが、食堂中の口を塞いでいた。


――ただひとりを、除いて。


がたん、と椅子が鳴った。


ラインハルトだった。


◇


「――ふざけんなよ」


ラインハルトは、立ち上がって、アルブレヒトをまっすぐに睨んでいた。


「盗品だの、複製だの。……魔術に、血筋なんか関係ねぇよ」

「ラインハルト」


レオンが、袖を掴んだ。


ラインハルトは、振り払った。


「俺は、夏休みの間、毎日、中庭で詠唱の練習をした。喉が枯れるまでやった。それでもまだ、レオンにも勝てねぇ。……でも、それは、俺の血が悪いからじゃねぇ。俺の練習が、まだ足りないからだ」


ラインハルトの拳が、震えていた。


「それに、覇王だって、きっと、血筋なんかで強いんじゃねぇ。……あの人は、誰も見てないところで、誰よりも練習してる人だ。俺には、わかる」


俺の手の中で、パンが、少しだけ潰れた。


アルブレヒトは、ラインハルトを見ていた。


灰色の目で。値踏みするように。


「……覇王、か」


それから、ふっと、口元だけで笑った。


「名前すら記録に残らぬ、正体不明の頂天者。……平民の夢物語には、ちょうどいい」

「――決闘だ」


ラインハルトが、言った。


食堂が、ざわっと揺れた。


「序列百五十八位、ラインハルト・アルク。……あんたに、決闘を申し込む」


百五十八位が、三十一位に。下が上に挑むのだから、勝てば、序列が入れ替わる。規則の上では、何の問題もない。


問題があるとしたら、ひとつだけだった。


アルブレヒトは、少しも驚いていなかった。


むしろ、それを待っていたような顔をしていた。


「受けましょう」


アルブレヒトは、静かに言った。


「ただし、ヴァイスハイト家の決闘は、古くから、聖約によって行うと決まっている」

「……せいやく?」

「聖なる約束です」


アルブレヒトの灰色の目が、細くなった。


「敗れた者は、決闘期間が明けるその日まで、勝者に仕える。……もちろん、私が敗れれば、私があなたに仕えましょう。三十一位の序列も、侯爵家の名も、あなたの足元に置いて」


食堂中が、息を呑んだ。


「ラインハルト、やめろ」


レオンが、低い声で言った。


「受けるな。……あれは、まともな決闘じゃねぇ」


ラインハルトは、レオンを見なかった。


アルブレヒトだけを見ていた。


「――いいぜ。受けてやる」


◇


中庭に、人が溢れていた。


回廊にも、二階の窓にも、屋根の上にまで。昼休みの食堂から、そのまま全員が流れてきたようだった。


立会人の腕章をつけた生徒会役員が、困ったように、二人の間に立っていた。


アルブレヒトが、右手を胸の前に掲げた。


「――我、ヴァイスハイトの血において約す」


詠唱では、なかった。


少なくとも、学園で教わるどの詠唱とも、違った。何かに呼びかけるのでも、何かを命じるのでもない。読み上げているのだ。古い、硬い、法の文書のようなものを。


「――この者と我との間に、聖なる約を結ぶ。第一条、敗れし者は、期間の明けるまで、勝者に仕えるべし。第二条、この約は、血と名によって守られる」


アルブレヒトの手のひらの上に、白い光が灯った。


光は、ゆっくりと形を変えて、宙に浮かぶ、一枚の紋章になった。光の神の聖印。その周りを、細かな文字が、何重にも取り巻いていた。


紋章から、白い光の糸が二本、伸びた。


一本は、アルブレヒトの胸へ。


もう一本は、ラインハルトの胸へ。


ラインハルトが、びくりと肩を震わせた。


「――名を」


アルブレヒトが言った。


「約を受ける者として、名を」

「……ラインハルト・アルク」


ラインハルトが答えた瞬間、白い糸が、ラインハルトの胸の中に、すうっと吸い込まれていった。


俺は、回廊の柱の陰で、それを見ていた。


――魔術じゃない。


ひと目でわかった。


ロリババアの書斎で、七つの頃からあらゆる魔術書を読んできた。全知の書を持つアルスと、何百回も術式の話をしてきた。この世界の魔術なら、見れば何階梯のどんな術式なのか、たいていはわかる。


あれには階梯がなかった。術式も組んでいない。世界に敷かれた道を名前で呼び出すのではなく、世界そのものに向かって、紙切れを一枚突きつけている。ここに書いたとおりにしろ、と。


そういうものが昔あったことを、俺は知っていた。


書斎のいちばん奥、梯子をかけないと届かない棚に、背表紙の擦り切れた本が三冊並んでいる。九つのとき、それを抜き出して床に広げていたら、ロリババアが珍しくまじめな顔で言ったのだ。読むのはいいけど、真似はしないこと、と。


血統魔法。


二百年前まで、この国の貴族の血筋だけが持っていた力。血と名を担保に差し出して、世界と直に約を交わす。だから魔術とは呼ばれなかった。術ではなく、法。世界の側に、守るべき決まりを一行書き足す力。


――そして、二百年前に絶えたはずのものだった。


あの本の挿絵にあった紋章と、宙に浮かぶ白い紋章が、俺の頭の中でぴたりと重なった。


隣で、フィアットが、目を閉じていた。


その瞼の隙間から、ほんのかすかに、銀色が漏れかけていた。


「……ハスト様」


フィアットの声が、震えていた。


「あれ、行の字が、違います」

「……字?」

「ほかの魔術の行は、全部、同じ人の字なんです。少し崩した、やわらかい、丁寧な字。……でも、あの紋章の文字は、違う人の字です。硬くて、角ばってて、古くて」


フィアットは、ぎゅっと唇を噛んだ。


「それに、最後の一行に、名前が書いてあります。署名、みたいに。……ヴァイスハイトじゃない名前が。でも、読めない。そこだけ、白くて」


◇


「――始め!」


ラインハルトが、右手を天に突き上げた。


「――天を裂く雷鳴よ! 我が腕に宿りて、その名を轟かせ! 闇を穿ち、敵を穿ち、我が前に立つすべてを、打ち砕けぇぇ!! 『サンダー・ストライク』ッ!!」


五節の雷が、一直線に、アルブレヒトへ飛んだ。


速かった。威力も、六日前よりずっと上がっていた。ラインハルトは、レオンに負けてから、毎晩、中庭でひとり、詠唱を磨き直していたのだ。


アルブレヒトは、動かなかった。


ただ、宙に浮かぶ紋章に、指先で、そっと触れた。


「――付則。汝の雷は、我に届かず」


雷が、止まった。


アルブレヒトの胸の前、ちょうど腕一本ぶんの距離で。見えない壁にぶつかったのではなかった。見えない線を、越えられなかったのだ。まるで、そこから先へ進むことを、世界に禁じられたように。


雷は、行き場をなくして、ぱちぱちと宙で弾けて、消えた。


中庭が、静まり返った。


「――な」


ラインハルトが、目を見開いていた。


「……なんだよ、それ」

「聖約です」


アルブレヒトは、静かに言った。


「約に書かれたことは、世界がそれを守る。……あなたがたの盗品の魔術とは、そもそも、格が違う」


アルブレヒトの指が、もう一度、紋章に触れた。


「――付則。汝は、膝を折る」


ラインハルトの膝が、がくりと折れた。


雪の上に。


ラインハルトは、歯を食いしばって、立ち上がろうとした。両手を雪につき、膝に力を込めて。顔が、真っ赤になるほどに。


立てなかった。


膝が、雪から離れなかった。


ラインハルト自身の身体が、ラインハルトの言うことを聞かなかった。


「――勝負あり、だな」


アルブレヒトが、立会人を見た。


立会人の生徒会役員は、青い顔で、しばらく口を開けたり閉じたりしていた。それから、震える声で言った。


「……しょ、勝者。アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト」


◇


誰も、拍手をしなかった。


アルブレヒトは、雪の上に膝をついたままのラインハルトを、見下ろした。


「では、約に従いなさい」

「……誰が」

「ラインハルト・アルク。――我が名を呼びなさい」


ラインハルトの唇が、動いた。


本人の意思とは、関係なく。


「……我が、主」


ラインハルトの目から、涙がこぼれた。


悔しさで。怒りで。自分の口が、自分のものじゃなくなったことへの、恐怖で。


回廊のどこかで、誰かが、小さく悲鳴を上げた。


俺の隣で、レオンが、拳を握りしめていた。爪が手のひらに食い込んで、血がにじんでいた。


アルブレヒトは、回廊の生徒たちを、ゆっくりと見回した。


「よく覚えておくといい。これが、魔法だ」


それから、その灰色の目が、回廊の柱の陰の、一点で止まった。


フィアットの上で。


「――目を閉じた一位、でしたか」


アルブレヒトは、口元だけで微笑んだ。


「あなたの眼が何を見ていようと、聖約からは逃れられない。……いずれ、あなたの椅子もいただきます。学年の終わりに、陛下へ請願を出すつもりです。この学園に、正しい血の枠を取り戻すように、と」


フィアットは、目を閉じたまま、何も答えなかった。


ただ、剣の柄に添えた指先が、白くなっていた。


◇


アルブレヒトの従者たちが、ラインハルトを雪の上から立たせた。


ラインハルトは、抵抗しなかった。できなかった、のかもしれない。


中庭を出ていく白い外套の後ろを、ラインハルトが、うつむいてついていった。


回廊の出口のところで、ひとりの男子生徒が、壁にもたれて立っていた。


背の高い、三年生だった。黒に近い深紅の髪を短く刈り込んで、背筋は定規を当てたようにまっすぐだった。腰には、長剣と並べて、古い白い鞘をひとつ提げていた。剣の入っていない、聖剣の鞘を。


ディエゴ・エスピノーザ。


全学年序列、四位。王国最古の剣術の名門、エスピノーザ家の嫡男。初代剣聖シャロンの直系の末裔だ。秋の順位戦で、フィアットと剣を交えた人でもある。


ディエゴは、通り過ぎる白い外套に向かって、低く言った。


「……教会の約が、二百年前に一度、何を焼いたか。ヴァイスハイトの家では、教えていないのか」


アルブレヒトが、足を止めた。


振り返らずに、言った。


「偽りの神に膝を折った家の末裔に、説教される筋合いはありませんね。エスピノーザ」

「膝を折ったのではない。最後まで、隣に立ったのだ」


ディエゴの声は、静かだった。


アルブレヒトは、それ以上何も言わずに、回廊の向こうへ消えていった。


ラインハルトが、最後に一度だけ、振り返った。


こちらを見て。


無理やり、笑ってみせた。


――大丈夫だ、とでも言うように。


俺は、潰れたパンを握りしめたまま、その背中を見送った。


血統魔法。


二百年前に絶えたはずの、世界に約束を守らせる力。それが、ジセリアの教会学院から、白い外套を着て帰ってきた。


フィアットの言う、違う人の字。読めない署名。


ディエゴの言った、二百年前に何かを焼いた約。


あの擦り切れた本の最後の頁に、何が書いてあったかを思い出そうとした。思い出せなかった。最後の頁は、確か白紙だった。


胸の奥で、何かが、ひどく冷たくなっていくのがわかった。


三百位を守るだけの三週間に、なるはずだった。


どうやら、そういうわけには、いかなくなったらしい。


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