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118 完璧な負け方


翌朝、ラインハルトは、鞄を三つ抱えて登校してきた。


自分の鞄がひとつ。白い革の鞄がふたつ。


白いほうは、アルブレヒトのものだった。


「――よぉ、料理長! おはよう!」


ラインハルトは、教室の入口で、いつもと同じ大声で言った。


いつもと同じ、ではなかった。目の下に、うっすらと隈があった。声の明るさが、ほんの少しだけ上滑りしていた。


「従者ってのも、案外、悪くないぜ! 朝、侯爵家の馬車で迎えに来てもらってさ。ふかふかの座席! 鞄持ちは面倒だけど、筋トレだと思えば――」

「ラインハルト」


レオンが、低い声で遮った。


ラインハルトは、一瞬だけ黙った。


それから、白い鞄を、自分の机の脇にそっと置いて声をひそめた。


「……聞けよ、レオン。これは、チャンスなんだ」

「何がだ」

「従者ってのは、主人の一番近くにいられるんだぜ。……ヴァイスハイト家が何を企んでるのか、内側から探ってやる。覇王だって、きっとこういうときは敵の懐に潜り込むはずだ」


ラインハルトは、にっと笑った。


その笑い方が、無理をしているのが、誰の目にもわかった。


聖約は、何でもかんでも縛るわけではないらしい。主人が言葉で命じたときだけ、身体が勝手にそれに従う。命じられていない間は、ラインハルトは、ラインハルトのままだ。


だから、ゆうべ、ヴァイスハイト家の屋敷で何を命じられたのか。ラインハルトは、何も言わなかった。


レオンは、何も言い返さなかった。


ただ、窓の外を見ていた。


◇


昼休み。


俺は、屋上の給水塔の陰でパンをかじっていた。


フィアットは、今日の分の決闘を片付けに、中庭へ下りていった。セルカはついていった。たまには、ひとりの昼飯も悪くない。


屋上の扉が、静かに開いた。


レオンだった。


その後ろにもうひとり。生徒会の腕章をつけた、アイシャ会長。


「……なんだ、お前ら」


レオンは、俺の前まで歩いてきて立ち止まった。


見下ろしていた。


いつもの、少し眠そうな目じゃなかった。


「ハスト。俺と、決闘しろ」


パンが、喉に詰まりかけた。


「……は?」

「序列百二十三位、レオン。序列三百位のお前に、決闘を申し込む。……立会人は、会長に頼んだ」


アイシャ会長が、レオンの後ろで、困ったような、それでいて少しだけ楽しそうな顔をしていた。


アイシャ会長は、俺の正体を知っている。そのうえで、俺のことを師匠と呼ぶ。……つまり、この場にいる三人のうち、二人が、俺が負けたふりをすることを知っている、あるいは、疑っている。


最悪の立会人だった。


「……なんで、俺なんだ。お前が俺に勝っても、序列は何も変わらねぇだろ」

「変わらなくていい」


レオンは言った。


「お前が本気でやったら、どうなるのか。……それが見たい」

「本気って」

「お前は、いつもきれいに負ける」


レオンの声は、静かだった。


「入学順位戦のときから、ずっとだ。転び方が、毎回違う。毎回、怪我をしない。魔術の不発も三回に一回、きっちり三回に一回だ。……偶然で、そんなことになるか」


俺は黙っていた。


「北の親戚の家から帰ってきたときも、そうだ。頬に、剣の傷があった。親戚の家で、斬り合いをする奴がいるか」


レオンは、俺の目をまっすぐに見ていた。


「――ラインハルトを、取り返したい」


その声が、ほんの少しだけ揺れた。


「あいつのあの魔法に、勝つ方法を探してる。俺ひとりじゃ、思いつかねぇ。……でも、お前なら何か知ってる。そういう顔をしてる」


屋上に、冬の風が吹き抜けていった。


俺は、パンの残りを紙に包み直した。


一日一回は断れない。


断れたとしても、たぶん断らなかった。


「……いいぜ」


俺は立ち上がった。


「ただし、俺は最下位だ。期待すんなよ」


◇


屋上の真ん中で、向かい合った。


アイシャ会長が、二人の間に立った。


立会人の顔をしていた。……口の端が、ほんの少しだけひくついていた。笑いをこらえているのか、心配しているのか、たぶん両方だ。


「――序列百二十三位、レオン。対、序列三百位、ハスト。……始め!」


レオンが動いた。


「――風よ、刃となりて走れ。『ウィンド・カッター』」


二節。


風の刃が、屋上の床を削りながら、まっすぐに飛んできた。


速い。それに、狙いが正確だった。俺の右の膝。


避けられる。もちろん。


でも、避けたらいけない。最下位は、二節の風の刃を完璧には避けられない。


俺は、半歩だけ身体をひねった。


風の刃が、俺の制服の裾を、ざっくりと切り裂いていった。膝には届かなかった。


ぎりぎりで、偶然に避けたように。


レオンの目が、細くなった。


「――風よ、地を這い、足をさらえ。『ウィンド・スネア』」


二発目。


今度は足元だった。


俺の足元を、風が渦を巻いてさらおうとした。……その風の向かう先に、屋上の縁石があった。尖った石の角。


――ああ、そういうことか。


レオンは、俺を、わざと危ない方向へ転ばせようとしている。普通の最下位なら、そのまま縁石の角に頭をぶつける。それを、俺がどう避けるのか見ているのだ。


いい手だ。


本当にいい手だった。


レオンは、この学園の当たり前の強さを持っている。そのうえで、頭を使っている。相手の嘘を、正面から見抜こうとしている。


だからこそ、完璧に負けなければならなかった。


俺は、右手を前に突き出した。


いつもの、授業で見せる手つきで。


「――え、えーと……風よ、壁に――」


詠唱を途中で噛んだ。


右手の先で、ぷすっ、と小さな煙が上がった。


不発。


三回に一回の、いつものやつだ。


そのまま足をすくわれた。


身体が、縁石のほうへ倒れた。


――ここからが、勝負だった。


倒れながら、俺は腰をほんの少しだけひねった。肩を、指一本ぶんだけ前に出した。縁石の角から、頭が拳ひとつぶん外れるように。そして、外れたのが、俺の動きのせいではなく倒れた勢いのせいに見えるように。


縁石の角が、俺の頬の横をかすめていった。


屋上の床に、背中から落ちた。


十二通りの転び方のうちの、十一番。風に足を取られた者のもっとも自然な倒れ方。


レオンの風の刃が、三発目、俺の喉元の真上でぴたりと止まった。


「――勝負あり。勝者、レオン」


アイシャ会長の声が、少しだけ震えていた。


◇


屋上に、風の音だけがしていた。


俺は仰向けのまま、冬の空を見上げていた。


完璧だったと思う。


不発は三回に一回。転び方は自然。縁石は偶然で外れた。


……普通の相手なら。


レオンが、俺のそばにしゃがみ込んだ。


しばらく何も言わなかった。


俺の顔を、じっと見ていた。


それから、ぽつりと言った。


「……今、負けてやったな」


俺は、空を見上げたまま答えた。


「何のことだ」

「縁石だ。……お前、倒れる前に腰をひねった。ほんの少しだけ。あれがなかったら、頭が角に当たってた」

「偶然だろ」

「詠唱を噛んだのも、偶然か」

「いつものことだ」


レオンは黙った。


それから、小さく息を吐いた。


笑ったのかもしれなかった。


「……いい」


レオンは立ち上がった。


「どうせ、お前は言わねぇんだろ」

「……」

「言わなくていい。……お前が言わないのには、たぶん、理由があるんだろうよ」


レオンは、屋上の縁に歩いていって、中庭を見下ろした。


中庭では、フィアットが、今日の三人目を、目を閉じたまま片付けたところだった。その向こうの回廊を、白い外套の背中が、三つの鞄を抱えたラインハルトを従えて、通り過ぎていくのが見えた。


「――だから、俺がやる」


レオンは言った。


「お前が負けてやるなら、俺は勝ちに行く。あいつに。……あの魔法に、正面から」

「レオン」

「ラインハルトは、馬鹿だ」


レオンは、中庭を見下ろしたまま言った。


「詠唱が長いし、声がでかいし、覇王の話ばっかりしてるし、毎日俺に負けるし。……でも、夏休みの間、一日も休まずに中庭で練習してた。喉を潰しながら。あいつがあんなふうに、誰かの前で膝をつかされていい理由なんか、ひとつもねぇ」


それだけ言って、レオンは、屋上の扉のほうへ歩いていった。


扉の前で、一度だけ振り返った。


「……ハスト。さっきの転び方」

「なんだ」

「――俺には、真似できねぇ」


扉が閉まった。


◇


屋上に、俺とアイシャ会長だけが残った。


アイシャ会長は、しばらく黙っていた。


それから、俺のそばにしゃがみ込んで、小声で言った。


「……師匠。今の負け方」

「なんだよ」

「芸術でした」

「褒めるな」


アイシャ会長は、くすっと笑った。それから、すぐに笑うのをやめた。


「――止めなくて、いいんですか。レオン君を」

「止めて、止まる奴じゃねぇ」


俺は、ようやく身体を起こした。


制服の裾が、ざっくりと切れていた。……あとでペトラの母さんに、また頼まないといけない。


「それに、あいつはラインハルトのために行くんだ。俺が止める理由が、どこにある」

「でも、あの魔法は」

「わかってる」


俺は、自分の右手を見下ろした。


聖約。


血統魔法。世界に約束を守らせる、二百年前の生き残り。


倒し方なら、知っている。


あの擦り切れた本に書いてあった。血統魔法の紋章は、条文どうしが鎖みたいに互いを守り合っていて、外から力で壊すには桁違いの力がいる。学園の魔術では、縁を削るのが精一杯だろう。


狙うなら、紋章じゃない。指だ。


付則は、紋章に指で触れなければ書き足せない。なら、指が届く前に終わらせればいい。詠唱もいらない。腕を上げる必要もない。あいつが紋章に手を伸ばすより早く、その指先を凍らせて、それから風で吹き飛ばす。それだけで足りる。


本文の第一条には、敗れた者は勝者に仕えると書いてある。あいつが負ければ、あいつ自身が、自分の約に縛られる。


……わかっている。


わかっていて、俺はやらない。


それをやれば、三百位どころの話じゃなくなる。序列三十一位を、詠唱もなしに吹き飛ばした最下位。学園中の目が、俺に向く。九人目の頂天者がここにいることに、誰かが気づく。


やらない理由が本当にそれだけなのかは、考えないことにした。


――お前が負けてやるなら、俺は勝ちに行く。


レオンの言葉が、耳の奥に残っていた。


「……会長」

「はい」

「あいつの立会人も、会長がやってくれ」


アイシャ会長は、少しだけ目を見開いた。


それから、静かに頷いた。


「――はい。必ず最後まで見届けます」


◇


放課後。


中庭は昨日と同じくらい、人で埋まっていた。


レオンが、アルブレヒトに決闘を申し込んだという話は、昼休みのうちに、学園中に広まっていた。


アルブレヒトは、昨日と同じように、聖約の紋章を宙に浮かべた。


レオンは、昨日のラインハルトと同じように、名を名乗った。白い光の糸が、レオンの胸に吸い込まれていった。


ラインハルトが、アルブレヒトの後ろで、白い鞄を抱えたまま、唇を噛んでいた。鞄を抱える腕が、震えていた。止めたいのに、主人の前では声ひとつ上げられない。それが、聖約というものらしかった。


「――始め!」


アイシャ会長の声と同時に、レオンが動いた。


「――風よ、刃となりて走れ。『ウィンド・カッター』」


風の刃が飛んだ。


アルブレヒトではなく。


アルブレヒトの胸の前に浮かぶ、聖約の紋章へ。


回廊がどよめいた。


――そうだ。


あいつは、付則を使うとき、必ず紋章に指先で触れる。約を書き足すために。だったら、紋章そのものを先に削ってしまえば。


いい読みだった。


この学園の当たり前の強さで、頭を使い抜いた、一番いい手だった。


風の刃が紋章に届いた。


紋章の縁が、ほんのわずかに欠けた。


アルブレヒトの灰色の目が、初めて見開かれた。


「――風よ、もう一度! 『ウィンド・カッター』!」


レオンが、二発目を放った。


詠唱を一節に縮めて。無理やり。


風の刃が、紋章の欠けた縁をさらに削ろうとした。


その寸前に。


アルブレヒトの指先が、欠けた紋章に触れていた。


「――付則。汝の風は、約に触れず」


二発目の風の刃が、紋章の手前でほどけるように消えた。


「――付則。汝は、膝を折る」


レオンの膝が折れた。


石畳の上に。


レオンは、それでも顔を上げていた。膝をついたまま、アルブレヒトを、まっすぐに睨み上げていた。


「……勝負あり」


アイシャ会長の声が、ひどく静かだった。


「勝者、アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト」


アルブレヒトは、欠けた紋章の縁を、指先でゆっくりとなぞっていた。


それから、レオンを見下ろした。


「……盗品にしては、悪くない読みでした」


それから、言った。


「レオン。――我が名を呼びなさい」


レオンの唇が動いた。


「……我が、主」


レオンは泣かなかった。


ラインハルトのように、涙は流さなかった。


ただ、その目だけが、少しも膝をついていなかった。


◇


俺は、回廊の一番後ろの柱の陰でそれを見ていた。


隣にフィアットがいた。目を閉じたまま。その向こうに、セルカ。


フィアットが、小さな声で言った。


「……紋章の縁が、欠けたとき。署名の行が、ほんの一瞬だけ揺れました」

「揺れた?」

「はい。……白く塗りつぶされてるところが、少しだけ薄くなった気がしたんです」


俺は、中庭の真ん中で膝をついているレオンの背中を見ていた。


レオンは、この学園の当たり前の強さで、あそこまで届いた。


詠唱に三つ数えて、魔法の名前を叫んで。頭を使い抜いて。それでも、届かなかった。


――お前が負けてやるなら、俺は勝ちに行く。


俺は拳を握った。


負けるのは、俺の勝手だ。三百位を守るのは、俺の矜持だ。それは変わらない。


でも。


俺の周りの奴らが、ひとりずつ、あの白い紋章の前で膝をつかされていくのを、黙って見ているのは。


それは、たぶん。


俺にとって、負けよりもずっと悔しいことだった。


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