119 全知の書と、白い署名
その日の教室は、ひどく静かだった。
一番後ろの席に、ラインハルトとレオンが並んで座っていた。ふたりとも、制服の左腕に、銀の糸で聖印を縫い取った白い腕章を巻かされていた。ヴァイスハイト家の従者の印だ。
ラインハルトは、いつものように大声を出さなかった。レオンは、いつものように窓の外を見ていなかった。ふたりとも、黒板だけを見ていた。
休み時間になると、白い腕章の上級生がやって来て、ふたりを連れていった。鞄を運ぶため。主人の昼食の席を整えるため。主人が命じれば、ふたりの身体はそれに従う。
クラスの誰も、何も言わなかった。言えなかった。
クルト君だけが、ふたりが出ていった扉を、長いことじっと睨んでいた。いつもは誰とも目を合わせないクルト君が、あんな顔をするのを、私は初めて見た。
一位の椅子に座っているのは、私だ。
あの人の狙いは、最初から私だった。ラインハルト君もレオン君も、その途中にいただけ。……そう思うと、胸の奥がずしりと重くなった。
◇
ハブられ分館の台所は、いつもパンの匂いがする。
今日は、胡桃のパンだった。ハスト様が、学園から帰ってくるなり、黙って粉をこね始めたのだ。何かを考えたいとき、ハスト様はいつもパンを焼く。セルカがそう教えてくれた。
台所の長卓で、アルスさんが頬杖をついていた。
その向かいに、私とセルカ。ハスト様は、竈の前でこちらに背中を向けていた。
「――で」
アルスさんが、面倒くさそうに言った。
「俺に、その聖約とかいう代物を調べろってのか」
「はい」
私は頷いた。
「アルスさんなら、全知の書でわかるんじゃないかと思って」
「わかるに決まってんだろ。この世の魔術で、俺の頭に入ってねぇもんはねぇ。……魔術じゃねぇもんでもな」
アルスさんは、右手を顎に当てた。
探しているのだ。
全知の書。本の形をしていない、アルスさんの頭の中に流れ込んでくる、この世の理のすべて。……北の離宮で私の眼に流れ込んできた光と、同じところから来たもの。あの空き地の黒板の前で、アルフさんはアルスさんのことを「本を抱えた、口の悪い子」と呼んでいた。
――言えない。
言うべき人に、言うべきときに。アルフさんはそう言った。今はまだ、そのときじゃない。
アルスさんの目が、すっと細くなった。
一呼吸。
それだけだった。
「――血統魔法だ」
アルスさんは、顎から手を離した。
竈の前で、ハスト様が、こちらを振り向きもせずに言った。
「やっぱりな」
「……え」
私は、ハスト様の背中とアルスさんの顔を見比べた。
「ハスト様、知ってたんですか」
「見りゃわかる。階梯がねぇし、術式も組んでねぇ。ロリババアの書斎の奥に、あれと同じ手口のことが書いてある本が三冊ある」
ハスト様は、生地を台に叩きつけた。ばすん、と白い粉が舞った。
「九つのときに読んだ。真似すんなって言われた」
「真似、できたんですか」
「できねぇよ。血がいる」
それきり、ハスト様は黙って生地をこね続けた。こねるというより、押しつぶしているみたいだった。昨日の中庭から、ハスト様の背中はずっと硬いままだ。
アルスさんが、長卓の上で指を一本立てた。
「いいか、嬢ちゃん。お前ら学園の連中が普段使ってんのは、魔術だ」
「はい」
「魔術ってのは、世界にもとから敷いてある道を、行を読んで通すもんだ。理屈を知ってりゃ誰でも通れる。だから階梯がある。道の太さと長さの目安がな。学園の詠唱は、その道案内だ」
二本目の指が立った。
「魔法は違う。血統魔法ってのは、血筋が世界と直に約を交わして、世界の側に決まりを一行書き足すもんだ。道を通るんじゃねぇ。道のほうに、ここから先は通るなって札を立てる。理屈はいらねぇ。代わりに、血と名を担保に差し出す」
「だから、術じゃなくて、法……」
「そういうこった」
アルスさんは、冷めた茶をひと口すすった。
「二百年前まで、この国で魔法を使えたのは貴族の血筋だけだった。教会が洗礼って名目で、世界との約の窓口を握ってたからだ。洗礼を受けた血筋だけが、世界と約を結べる。結べねぇ平民は、どれだけ魔力があっても門が開かねぇ。……そういう仕組みだ」
私は、膝の上で両手を握っていた。
知っている。
あの空き地の黒板の前で、アルフさんが同じことを話してくれた。世界のずれた法則。教会が、貴族のために二百年守り続けてきたずれ。
「聖約ってのは、その時代の約の生き残りだ。ヴァイスハイトの家が、教会と組んでジセリアで後生大事に抱えてきたんだろうよ」
アルスさんは、茶碗を長卓に置いた。
「本文が二条。付則は、紋章に指で触れて、その場で書き足す。ただし本文に背く付則は書けねぇ。負けた奴を殺せだの、一生仕えろだのはな。本文に、期間の明けるまでって入ってるから、それより先には手が届かねぇ」
「そこまで、わかるんですか」
「全知の書だぞ」
アルスさんは、つまらなそうに言った。
「条文の書式から、紋章の文字の組み方まで、ぜんぶ載ってる。……この本を遺した奴は、魔術も魔法も、両方ぜんぶ知ってたんだろうよ。誰だか知らねぇがな」
私の心臓が、どくんと跳ねた。
――知らないはずが、ない。
全知の書は、アルフさんの遺したものだ。血統魔法の根っこを黒板に書いたせいで、断罪された人の。その人が血統魔法を知らないなんて、あるはずがなかった。
アルフさんは、壊すものの形を誰よりもよく知っていたのだ。知っていたから、壊せた。
◇
台所の中が、しんとしていた。
アベルが、台所の入口から顔だけを覗かせていた。セルカおねえちゃん、と言いかけて、私たちの顔を見て口をつぐんだ。それから柱の前までとことこと歩いていって、自分の背丈と柱の傷を見比べていた。
傷は五本に増えていた。
「……ただ」
アルスさんが、茶碗を指先で回した。
「ふたつだけ、白いとこがある」
「白い……?」
「ひとつめは、歴史だ。二百年前のある時を境に、血統魔法の約はほとんどぜんぶ切れて、魔術は誰にでも使えるもんに変わった。……なんで変わったのか。誰が変えたのか。そこだけ、全知の書が白い」
アルスさんは、茶碗を回す指を止めた。
「書いてねぇんじゃねぇ。白く抜けてんだ。まるで、誰かがそこだけ削り取ったみたいにな」
知っている。
私は、その白いところに何が書いてあったのかを知っている。
二百年前。黒板の前で、灰色の衣を着た人が、白墨でたった一行を書き換えた。魔力の門は、理屈を知るすべての人の隣に開く、と。
そしてその人の名前は、世界との契約で、本からも人の記憶からも削り取られた。
全知の書からも。
「……ふたつめは」
私の声は、少しかすれていた。
「聖約の、仲立ちの名だ」
アルスさんは、こめかみを指で叩いた。
「血統魔法の約には、血と世界のあいだに立つ名がいる。洗礼でいや、教会の側の名だ。誰の名においてこの約を世界に通すか。それが、本文の最後に一行入ってるはずなんだが」
一拍、間があった。
「そこが、白い」
私は息を呑んだ。
署名。
レオン君の決闘のときに瞼の裏で見た、紋章の鎖の最後の一行。
「……私にも、そこだけ白く見えました」
「お前にも、か」
アルスさんの目が、細くなった。
「なら、偶然じゃねぇな」
◇
「……嬢ちゃん」
アルスさんが、私を見ていた。
「顔色、悪いぞ」
「……いえ。大丈夫です」
私は首を横に振った。
アルスさんは、しばらくじっと私を見ていた。
それから、右手をゆっくりと顎に当てた。
――私を、探そうとしている。
アルスさんの目が、細くなった。焦点が、私の顔の少し奥に合った。
一呼吸。
二呼吸。
アルスさんの手が、ぴたりと止まった。
止まったまま、動かなかった。
「……ちっ」
アルスさんは舌打ちをして、顎から手を離した。
「やっぱり、お前もか」
「……え?」
「お前の中は読めねぇ。北から帰ってきた日もそうだった。……眼のせいかと思ってたが、違うな。お前は、最初から全知の書の外側にいる」
アルスさんは、それだけ言ってふいと窓の外を向いた。
それ以上、何も訊かなかった。
知っていて、言わない顔だった。
……ううん。
たぶん、アルスさんも本当は知らないのだ。知らないけれど、何かがそこにあることだけはわかっている顔。この世のことならなんでも引ける人が、引けないものの前で黙っている顔。
◇
「――で、どうする」
アルスさんが、窓の外を見たまま言った。
「血統魔法の約は、結んだ者の名でしか解けねぇ。全知の書には、はっきりそう書いてある。仲立ちの名が白いままじゃ、俺には解きようがねぇ。あのふたりは、期間が明けるまで腕章を巻かされたまんまだ」
「……私が、読みます」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
セルカが、私の袖をつまんだ。
「……フィアット」
「目を閉じてても、あの紋章の文字は見えるの。行の字がほかの魔術と違うのも。最後の一行が、白いのも」
言いながら、私はレオン君の決闘のときに瞼の裏で見たものを思い出していた。
聖約の紋章を取り巻く文字は、石に刻んだような字だった。墓石や古い記念碑に彫られているような、一画ずつ角張った硬い字。ひとつひとつの条文が、鎖の環みたいに隙間なくつながっていた。
そして、その鎖の最後の一行だけが白かった。
塗りつぶされた白。……その白さを、私はどこかで見たことがあった。
あの空き地で、アルフさんが話してくれた、名前を消された白。アルスさんが今言った、全知の書の削り取られた白。
たぶん、同じ白だ。
私は、自分の目元にそっと指を当てた。
「レオン君が紋章の縁を削ったとき、その白いところが、ほんの少しだけ薄くなったの。……ずっと見てたら、読めるかもしれない」
「読めたら、どうなる」
アルスさんが振り向いた。
「……わかりません」
正直に言った。
「でも、結んだ人の名前でしか解けないなら、その名前がわかれば、きっと何かができる」
アルスさんは、しばらく黙っていた。
それから、ふんと鼻を鳴らした。
「契約書ってのはな、嬢ちゃん。どんなに硬い書き方してても、どっかに抜け道がある。書いた奴が人間ならな」
それから、珍しくほんの少しだけ口の端を持ち上げた。
「……読めたら、真っ先に俺に教えろ。全知の書の白いとこに、書き足してやる」
アルスさんの目が、竈の前の背中に移った。
「――それとも、手っ取り早いほうにするか。相棒」
ハスト様は、答えなかった。
「本文の第一条には、敗れた者は勝者に仕えるって書いてある。あの坊ちゃん自身が決闘で負けりゃ、あいつも自分の約に縛られる。付則なんか書かせる前に、指ごと黙らせりゃいいだけだ。お前なら、瞬きひとつで済む」
ハスト様の手が、止まった。
ほんの一瞬だけ。
「……やらねぇよ」
「だろうな」
アルスさんは肩をすくめた。
「三百位様は、お忙しいこった」
ハスト様は、何も言い返さなかった。丸めた生地を天板に並べて、窯に入れた。窯の蓋を閉める音が、いつもより少しだけ大きかった。
セルカが、私の袖をつまんだまま、ハスト様の背中をじっと見ていた。
◇
竈の前で、ハスト様が、焼き上がったパンを窯から出していた。
胡桃の香りが、台所いっぱいに広がった。
ハスト様は、パンを長卓の上に置いて、それから私の向かいに腰を下ろした。
「……フィアット」
「はい」
「無理は、するな」
ハスト様の声は、低かった。
「お前の眼は、三重詠唱を読んだだけで鼻血が出る。……あの紋章を読み続けたら、どうなるかわからねぇ」
「……わかってます」
「わかってねぇだろ」
ハスト様は、焼きたてのパンをひとつ手に取った。それをふたつに割った。
湯気が立ちのぼった。
半分を私の前に置いた。
もう半分を、セルカの前に。
自分の分は、取らなかった。
「……レオンも、ラインハルトも、俺のクラスの奴だ」
ハスト様は、私を見ないで言った。
「あいつらが、あの紋章の前で膝をつかされたのは、俺が何もしなかったからだ。……三百位を守るために」
「ハスト様、それは」
「だから、お前が、自分を削ってまで何かしようとするなら」
ハスト様は、そこで言葉を切った。
台所の竈の火が、ぱちぱちと鳴っていた。
「……そのときは、俺に言え。セルカが、汲むときに俺に言うみたいに」
ハスト様は、ぶっきらぼうな顔をしていた。
でも、私は知っている。ハスト様がこういう顔をするのは、本当は、誰かのことが心配でたまらないときだ。順位戦の決勝の前の晩も、北の砦の城壁の上でも、ハスト様は、こういう顔をしていた。
私は、ハスト様の横顔を見ていた。
瞼を、少しだけ持ち上げた。
銀色が、漏れないぎりぎりのところまで。
ハスト様の色が見えた。
碧。澄んだ碧。……その真ん中の、ぽっかりと白い場所。
そして、その白い場所の縁に、細い罅が、また少しだけ増えていた。
私の胸の白と、同じように。
――見えたものを、全部口にしなくていいんだ。
私は瞼を下ろした。
「……はい。言います」
それから、パンを手に取った。
温かかった。
かじると、胡桃の香ばしい味がした。少しだけ焦げていた。ハスト様がパンを焦がすのは、珍しい。
「……ハストさま」
セルカが、パンを両手で持ったまま、ぽつりと言った。
「……焦げてる」
「うるせぇ」
アルスさんが、長卓の向こうから手を伸ばして、焦げたパンの端をひとつ、断りもなくちぎって口に放り込んだ。
「……相棒がパンを焦がすとはな。明日は、雪どころか槍が降るぞ」
「黙って食え」
「食ってるだろうが」
アルスさんは、もぐもぐと口を動かしながら、ふんと鼻を鳴らした。……それでも、二つ目には手を伸ばさなかった。
アベルが、柱の前からとことこと戻ってきた。
長卓の端に、背伸びして顎を乗せた。
「……ハストおにいちゃん。ぼくのぶんは?」
ハスト様は、何も言わずにもうひとつパンを割って、アベルの前に置いた。
自分の分は、やっぱり取らなかった。
たぶん、食べる気になれないのだ。今ごろ、ヴァイスハイト家の屋敷で、主人の夕食の給仕をさせられているかもしれない、ふたりのことを思うと。
◇
分館を出るとき、門の前に、ひとりの男子生徒が立っていた。
白い外套ではなかった。学園の制服。けれど、その胸元に銀の糸で、小さな聖印が縫い取られていた。アルブレヒトの、従者のひとり。
「――フィアット・セルジーネ嬢」
従者の生徒は、一通の封筒を両手で差し出した。
白い封筒だった。封蝋は銀色。ヴァイスハイト家の紋章が、押されていた。
「我が主より。……お受け取りください」
私は封筒を受け取った。
その場で封を切った。
中には、一枚の便箋。硬く角ばった、古い書き方の文字。
――あの紋章の文字と、よく似ていた。
『全学年序列一位、フィアット・セルジーネ殿。
決闘期間中、貴殿に決闘は申し込まぬ。
貴殿との約は、全校の見守るトーナメントの最後の舞台にて、結ぶものとする。
それまで、その椅子を、どうか温めておかれたし。
アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト』
便箋を持つ指先が、冷たくなった。
ハスト様が、私の肩越しに便箋を覗き込んでいた。
セルカが、私の袖をぎゅっとつまんでいた。
従者の生徒は一礼して、雪の中を去っていった。
私は、便箋をゆっくりと折りたたんだ。
最後の舞台。
決勝。
あと二週間と少し。
それまでに、あの白い署名を、読まなければならない。
空を見上げた。
雪が、また降り始めていた。
目を閉じた。
瞼の裏に、白墨の三文字がほのかに光っていた。
アルフさん。
あなたが書き換えなかった、ずれた行が、まだここに残っています。
……あなたなら、どうしますか。
答えは、もちろん返ってこなかった。
セルカが、私の手をそっと取った。手袋越しでも、温かかった。
「……フィアット。時計、いつでも、貸す」
「……うん。ありがと、セルカ」
その手を握り返しながら、私は、もう一度便箋の文字のことを考えた。
石に刻んだような、角張った字。あの紋章と同じ手の字。アルブレヒトという人は、自分でも気づかないうちに、あの古い字を、そのまま自分の字にしてしまっているのだ。……二百年前に、誰かが世界に押しつけた、ずれた約束の字を。
ただ、胸の奥の白い場所が、ほんの少しだけ冷たくなった。




