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120 前・一位の申し出


生徒会室の燭台は、三本のうち二本が燃え尽きていた。


残った一本の灯りの下で、私は、立会記録の最後の欄を埋めようとしていた。


決闘期間、第七日。放課後、中庭。挑戦者、レオン、一年、序列百二十三位。受諾者、アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト、二年、序列三十一位。立会人、生徒会長アイシャ。


勝者の欄に、ペン先を下ろした。


下ろしたまま、動かなかった。


インクが、紙の上でじわりと滲んで、小さな黒い丸になった。


レオン君は、最後まで泣かなかった。膝は雪についていたのに、目だけは、ちっとも膝をついていなかった。白い糸が胸に吸い込まれていくとき、あの子は、私のほうを見た。立会人の私を。必ず最後まで見届けます、と言った私を。


私は、見届けた。


見届けることしか、しなかった。


ペンを置いて、両手で顔を覆った。


三年間、この学園で一番だった。誰に挑まれても、逃げなかった。影から影へ渡って、誰にも見えない拳を振るって、ずっと勝ってきた。秋の順位戦の決勝で、目を閉じた一年生の女の子に負けるまで。


今の私は、全学年序列二位。前の一位。


それでも、生徒会長だ。


この学園の決闘で、生徒が誰かの言いなりにされている。鞄を持たされて、主人の昼食の席を整えさせられて、自分の口で「我が主」と言わされている。それを止める役目は、本当なら私にある。


私は、顔を上げた。


棚から、分厚い革表紙の本を引っ張り出した。『王立魔術学園 序列戦規則 附・判例』。生徒会長が代々引き継いできた、角のすり切れた一冊だ。


エトワール学園長が講堂の黒板に書いた六つの決まりは、この本の最初の一頁にすぎない。その後ろに、細則が百と少し続いている。二百年前の学園創立のときから、ほとんど変わっていない文言で。


細則、第十二条。決闘に用いる技は、各人の修めたるものとし、その出自を問わず。


何度読んでも、同じだった。


血統魔法を禁じる条文は、どこにもない。判例の頁を一枚ずつめくっても、聖約の文字はひとつも出てこなかった。


当たり前だ。


二百年前、この規則を書いた人たちは、血統魔法を禁じる必要がなかったのだ。もう誰も使えなくなっていたのだから。


いないはずの獣に、檻は用意されていない。


私は、本を閉じた。革の表紙が、ぱたんと乾いた音を立てた。その音が、がらんとした生徒会室にやけに大きく響いた。


三年前、この部屋に初めて入った日のことを思い出した。前の会長が、この本を私の腕に載せて言ったのだ。規則は、弱い人を守るためにある。強い人を縛るためじゃない、と。


その規則が、今は、強い人の味方をしている。


書いた人たちのせいじゃない。二百年前の人たちは、二百年後に、絶えたはずの獣が白い外套を着て帰ってくるなんて、思ってもみなかっただけだ。


最後の燭台の火が、じじっと音を立てて揺れた。


◇


翌朝の生徒会室には、珍しい客がいた。


「――規則の上では、止められないわ」


レイアーヌさんが、窓辺の椅子に脚を組んで座っていた。王女様が生徒会室に来るのは、学園祭の劇の打ち合わせ以来だった。


「今朝、父上の執務室で、ヴァイスハイト家の請願書の写しを見せてもらったの。正式に出るのは学年末だけど、教会派の貴族院議員が、もう何人も名前を連ねてる」

「……何が、書いてあったの」

「血統枠」


レイアーヌさんは、紅茶のカップを受け皿に戻した。かちん、と硬い音がした。


「王立魔術学園の入学者のうち、三分の一を、洗礼を受けた貴族の血筋に優先して割り当てること。王国魔術師団の席も、同じように。……理由は、『盗品の魔術は、正しい魔法に及ばぬことが、学年末の序列戦にて証明されるゆえ』」

「……証明」

「そう。だから、あの人は、序列戦を選んだのよ」


レイアーヌさんは、窓の外の中庭に目をやった。


雪の上に、昨日の決闘の跡がまだ残っていた。レオン君が膝をついた、小さなふたつのくぼみ。


「全校の生徒が見ている前で、平民も貴族も関係なく、序列の高い者を順番に跪かせていく。最後に、一位を。……父上は、学年末の序列戦の結果を見てから、請願に返事をすると言ったわ。言わされた、って言ったほうが近いかしら。教会派を正面から怒らせるには、まだ時期が悪いの」

「レイアーヌさんは、それでいいの」

「いいわけ、ないでしょう」


レイアーヌさんの声が、少しだけ低くなった。


「私の叔父様は、二十二年、北の雪の中にいたのよ。誰かが勝手に書いた決まりのせいで、兄弟が殺し合うのを、私はもう聞かされたばかり。……正しい血だの、正しい枠だの。そういう言葉には、もうお腹いっぱいなの」


それから、ふっと息を吐いて、いつもの顔に戻った。


「でも、私は王女だから。王家の人間が、学園の決闘に口を出したら、それこそ向こうの思う壺よ。……だから、あなたのところに来たの。生徒会長」


私は、しばらく黙っていた。


机の上の、滲んだ黒い丸を見ていた。


「――私が、行くわ」


レイアーヌさんは、驚かなかった。


ただ、少しだけ悲しそうに、笑った。


「そう言うと思った。……三年間、あなたはそういう人だったもの」


◇


昼休みの屋上には、奇妙な三人組がいた。


「――はい、ミモザ。もう一回。右肩から入って、背中を丸めて、転がる」

「は、はいっ……! えいっ」


ミモザちゃんが、雪の上で、見事に顔から落ちた。


「……ちがう。顔から行ったら、鼻が折れる」

「だって、ハストさん、怖いんですもん……!」

「怖がるから顔から行くんだ。背中に任せろ。背中は、お前が思ってるより丈夫だ」


師匠は、屋上の真ん中で腕を組んでいた。その足元で、序列二百九十九位の女の子が、鼻の頭を真っ赤にして起き上がった。少し離れた貯水槽の陰では、セルカちゃんが膝を抱えて、氷の小鳥を指先で作っては溶かしていた。


私は、扉の前で立ち止まった。


「……師匠。何を、教えているんですか」

「転び方」

「転び方」

「最下位同盟の、必修だ」


師匠は、まじめな顔で言った。


ミモザちゃんが、雪まみれのまま、ぱっと顔を輝かせた。


「あっ、会長さん! 会長さんも、転び方を習いに来たんですか? ハストさん、すごいんですよ。転び方が十二種類もあって、剣の落とし方が八種類もあるんです!」

「……ええと」

「会長、うるさい」


セルカちゃんが、貯水槽の陰から、ぼそっと言った。


私は、まだ何も言っていなかった。


それでも、セルカちゃんの頬が、ほんの少しだけ赤くなっているのが見えた。この子は、北の砦から帰ってきてから、私が近くに来ると、いつもこういう顔をする。あの城壁の上で、思わず抱きしめてしまったからかもしれない。


……温かい手だった。前は、あんなに冷たかったのに。


抱きしめたい気持ちを、ぐっと我慢して、私は師匠の前に立った。


「師匠。お話があります」


師匠は、私の顔を見た。


それだけで、たぶん、全部わかったのだと思う。


「……やめとけ」

「まだ、何も言ってません」

「顔に書いてある」


ミモザちゃんが、私と師匠の顔を、交互に見上げていた。それから、何かを察したように、そろそろとセルカちゃんのほうへ雪の上を這っていった。セルカちゃんは、黙って氷の小鳥をひとつ、ミモザちゃんの手のひらに乗せてあげていた。


私は、師匠をまっすぐに見た。


「アルブレヒト君に、決闘を申し込みます」

「……」

「師匠は、負けていてください。私が勝ちます」


屋上を、冷たい風が吹き抜けていった。


師匠は、しばらく黙っていた。


それから、組んでいた腕をほどいて、自分の右手の人差し指を立てた。


「指だ」

「……指?」

「あいつの付則は、紋章に指で触れないと書き足せない。レオンは、そこまでは読んだ。だから紋章を削りに行った。……でも、狙うのは紋章じゃない。指だ。あいつの指が紋章に届く前に、全部終わらせろ」


師匠の声は、静かだった。


「紋章は、あいつの胸の前、腕一本ぶんのところに浮いてる。指が届くまで、瞬きの半分もかからねぇ。その半分より速く、あいつの懐に入れるか」


私は、自分の拳を見下ろした。


影渡り。影から影へ。出口さえ読まれなければ、私は誰の背後にでも、瞬きひとつで立てる。


……瞬きひとつ。


半分では、ない。


「……やってみます」

「やってみる、じゃ足りねぇんだよ」


師匠は、立てた指をゆっくりと下ろした。


「負けたら、お前も腕章を巻かされる。期間が明けるまで、あいつの鞄を持たされる。……前の一位が膝をついたら、学園中の誰も、もうあいつに挑まなくなる」

「わかってます」

「わかってて、行くのか」

「行きます」


私は、笑ってみせた。


「師匠が出ないのは、何か理由があるんでしょう。レオン君と同じで、私もそれは訊きません。……でも、私は、もう見ているだけは嫌なんです」


北の砦の夜。影の中で、拳を握りしめたまま、ほどけなかった夜。


昨日の中庭。ペン先が止まったまま、インクが滲んでいった机。


「三年間、影の中にいました。見えない場所から、全部を見届けるのが、私の役目でした。……だから、最後の一年くらいは、影から出て、誰かのために拳を振るってもいいと思うんです」


師匠は、何も言わなかった。


ただ、その碧い目の奥で、何かが静かに揺れていた。


怒っているのだ、と思った。私に、ではなく。たぶん、もっと別のものに。


「……会長」

「はい」

「影から、出るなよ」


師匠は、ぽつりと言った。


「バルトロの爺さんの言ったことだ。影の中で、打て。……それから、負けそうになったら、ちゃんと転べ。転び方なら、ここで教えてやる」

「――はいっ!」


返事が、思ったより大きな声になった。


胸の奥が、じんと熱くなっていた。


師匠は、屋上で私の拳を遮ってくれたあの日から、一度も私に何かを教えてくれたことがなかった。弟子にしてください、と何十回頼んでも、そのたびに面倒くさそうに目を逸らすだけだった。師匠と勝手に呼んでいるのは、私のほうだ。


その人が今、転び方なら教えてやる、と言った。


負けるな、とは言わなかった。勝て、とも言わなかった。ただ、負けたときに、ちゃんと起き上がれるように。……それがいちばんこの人らしい激励なのだと、私にはわかった。


ミモザちゃんが、セルカちゃんの隣で、小さく拍手をしていた。


セルカちゃんは拍手をしなかった。氷の小鳥を手のひらの上で溶かしながら、じっと師匠の横顔を見ていた。


◇


夕方の訓練場は、がらんとしていた。


格闘王バルトロ様は、観覧席の一番上の段に、いつものように盆栽を抱えて座っていた。王都にいるあいだ、毎日夕方になると、この訓練場の観覧席で、盆栽の枝ぶりを眺めているのだ。理由を訊いたら、「若い者の拳の音は、松によい」と言われた。


「バルトロ様」


私は、観覧席の下から頭を下げた。


「一日だけ、稽古をつけてください。……指より速い拳を、打てるようになりたいんです」


バルトロ様は、盆栽から目を上げなかった。


「指より速い拳は、ない」

「……」

「拳は、肩から出る。指は、指から出る。距離が違う。……だが」


バルトロ様は、ようやく盆栽を石の段の上に置いた。


「指は、思いより先には、動かぬ」


一段ずつ、観覧席を降りてきた。降りるたびに、石の段がかすかに軋んだ。


「あの白い小僧は、付則を書く前に、何を書くかを、思う。思ってから、指を伸ばす。……お主は、その思いより先に、打て。読まれても避けられぬ拳を、打てたお主なら、できぬことはない」


バルトロ様は、訓練場の真ん中で立ち止まった。


両の拳を、胸の前で軽く合わせた。


「来い」


それから日が沈むまで、私は、影からバルトロ様の背中へ飛び続けた。


百回飛んで、百回とも、拳が届く前に、大きな手のひらに額をそっと押さえられた。痛くはなかった。ただ、届かなかった。


百一回目。


影に溶けた瞬間、私は、何も考えなかった。どこから出るかも、どこを打つかも。ただ、届け、とだけ思った。


拳が、バルトロ様の背中に触れた。


触れただけだった。打ち抜くには、まるで足りなかった。


それでも、バルトロ様は、ゆっくりと振り返って、言った。


「……ふむ」


それだけだった。


それだけで、膝から力が抜けそうになった。


バルトロ様は、観覧席の盆栽を取りに戻りながら、背中越しに言った。


「お主は、明日、負けるやもしれぬ」

「……はい」

「それでも、行くか」

「行きます」

「ふむ」


バルトロ様は、盆栽を抱え直した。それから、少しだけ、屋上のほうを見上げた。


「……九人目の拳が、熱い」

「え?」

「今日、屋上から、ずっと熱が降りてくる。……あれは、冷たい拳を打つ小僧だ。それが、熱い。儂は、四十年、拳を見てきたが」


バルトロ様は、そこで言葉を切った。


「あれが本当に熱くなったときのことは、あまり考えたくないのう」


◇


その夜、私は生徒会室で、果たし状を一通だけ書いた。


宛名は、アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト。差出人は、全学年序列二位、アイシャ。


返事は、翌朝には届いていた。


白い封筒。銀の封蝋。石に刻んだような、角張った字。


『前の一位殿。謹んでお受けする。本日放課後、中庭にて。――影の拳が、約の前で何を為すか、楽しみにしております』


私は、便箋をたたんで、制服の内ポケットにしまった。


窓の外の中庭には、まだ、レオン君のふたつのくぼみが残っていた。


その上に、新しい雪が、静かに降り積もり始めていた。


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