121 白い紙に書いた名前
その朝、ペトラさんの号外は、いつもより一刻早く学園の門に貼り出されていた。
『前・一位、白い外套に挑む! 本日放課後、中庭にて』
刷り上がったばかりのインクの匂いがした。見出しの下には、アイシャ先輩の似顔絵と、アルブレヒトという人の似顔絵が並んでいた。先輩の絵は拳を握っていて、アルブレヒトさんの絵は、なぜか顔の半分が白いまま残っていた。
「描けなかったんだよ」
門の前で糊の刷毛を持ったまま、ペトラさんが言った。
「三回描き直したんだけどね。あの人の顔、どう描いても、なんか嘘っぽくなっちゃって。……だから、半分だけ。わかんないところは、わかんないまま載せるのが、新聞屋の良心ってもんでしょ」
それから、ペトラさんは私の顔を見て、少しだけ声を落とした。
「フィアットちゃん。会長、勝てると思う?」
答えられなかった。
私は、目を閉じたまま、小さく首を横に振ることも、縦に振ることもできずに、ただ号外の前に立っていた。
◇
始業の鐘まで、まだ一刻あった。
私は、ハブられ分館の台所に戻ってきていた。
長卓の上に、古い本が三冊並んでいた。
背表紙の革が擦り切れて、題名の金文字はほとんど読めない。表紙の角は丸く削れて、頁の縁は茶色く焼けていた。昨日の夜、ハスト様に頼まれて、サリナ様が書斎の一番奥の棚から持ってきてくれたものだ。
「――血の約の書、と、わしは呼んでおる」
サリナ様は、長卓の一番端の椅子に、ちょこんと腰かけていた。足が床に届かないので、ぶらぶらと揺れている。見た目は、セルカと同じくらいの女の子だ。……でも、この人は、二百年よりもっと前から生きている。
「誰が書いたものかは、知らぬ。わしの書斎に入れたときには、もうこの姿じゃった。背の題も、最初の頁の署名も、擦れて読めぬ」
サリナ様の小さな指が、一冊目の表紙をそっと撫でた。
「じゃが、中身は確かじゃ。血統魔法の成り立ち。血筋と世界の約の結び方。洗礼で教会が仲立ちに立つ仕組み。……そして、それがいかにずれておるか」
「ずれて……」
「うむ。読めばわかる。書いた者は、血統魔法を誰よりもよく知っておった。知っておって、怒っておった。……一行一行が、そういう字じゃ」
竈の前では、ハスト様が朝の粥を煮ていた。セルカは、ハスト様の隣で、木の匙を握りしめて鍋の中を見張っている。アベルは、まだ寝ぼけた顔で、長卓の反対の端にべったりと頬をつけていた。
ハスト様は、何も言わなかった。
でも、この本を持ってきてほしいと頼んだのは、ハスト様だ。今日の放課後、アイシャ先輩が中庭に立つ。その前に、私に読ませたいのだと思った。
私は、一冊目の頁を開いた。
細かな字が、びっしりと並んでいた。
少し崩した、やわらかい、丁寧な字。
……息が、止まった。
知っている字だった。
この世界のどの魔術の行にも書かれている、あの字。北の離宮で、私の眼に流れ込んできた、あの光の中の字。空き地の教室の黒板に、白墨で書かれていた字。
――アルフさんの、字だ。
「……フィアット」
セルカが、竈の前から振り向いた。
「どうしたの。色、へん」
「……ううん。なんでもない」
なんでもなくなんか、なかった。
私は、震える指で頁をめくっていった。
血統魔法の章。洗礼の章。約の書式の章。聖約、という言葉も出てきた。本文二条、付則は紋章への接触をもって書き足す。本文に背く付則は書けない。……アルスさんが全知の書で引いたことと、同じことが書いてあった。
当たり前だ。全知の書も、この本も、同じ人が遺したものなのだから。
ただ、この本には、全知の書にないものがひとつだけあった。
余白の書き込みだ。
聖約の章の、付則の頁。本文の横の狭い余白に、同じやわらかい字で、小さな走り書きが残っていた。インクの色が本文より少し薄い。あとから、思いついて書き足したのだろう。
『付則は、結び手の思いを写す。思いが先に立ち、指はそのあとを追う。――ならば、思いより早く届くものに、約は追いつけない』
私は、その一行を、声に出して読んだ。
竈の前で、ハスト様の手が止まった。
「……爺さんと、同じこと言ってやがる」
「え?」
「バルトロの爺さんが、昨日、会長に言ったんだと。指は、思いより先には動かねぇ。思いより先に、打てって」
ハスト様は、鍋の中をかき混ぜながら、低く言った。
「……会長には、もう届いてる。あとは、会長の拳が間に合うかどうかだ」
その声が、ほんの少しだけ、祈るような響きを帯びていた。ハスト様が祈るところなんて、私は見たことがなかった。
そして、三冊目の最後の頁。
白かった。
文字が消えたあとの白ではなかった。最初から何も書かれていない白でもなかった。もっと、ずっと、白い。紙の白さの上に、さらに白いものが塗り重ねられている。
私は、瞼をほんの少しだけ持ち上げた。
銀色が漏れないぎりぎりのところまで。
白い頁の奥に、何かが透けて見えた。
雪の下に埋まった石のように、輪郭だけがぼんやりと。……短い署名だった。三文字の。
ア。ル。フ。
「――っ」
瞼を下ろした。
鼻の奥が、つんと熱くなった。血ではなかった。たぶん、泣きそうになっただけだ。
◇
「サリナ様」
私は、長卓の上の紙束から一枚を抜き取った。
ハスト様が買い物の覚え書きに使っている、端の切れた藁半紙だ。インク壺に羽根ペンを浸して、私は、その真ん中に三つの文字を書いた。
ゆっくりと。一画ずつ。
白墨で書かれていたのと、同じ形に。
アルフ。
それから、紙をサリナ様のほうへ滑らせた。
「……これ、読めますか」
サリナ様は、紙を手に取った。
表を見て、裏を返して、また表を見た。
「何も、書いておらぬではないか」
サリナ様は、不思議そうに首を傾げた。
「白紙じゃ。……インクの染みすらない」
わかっていた。
わかっていたのに、胸の真ん中を、細い針で刺されたような気がした。
私には見える。藁半紙の真ん中に、少し震えた私の字で、ちゃんと三文字が並んでいる。インクはまだ乾ききっていなくて、窓から差し込む朝の光を受けてほんのり光っている。
なのに、サリナ様には、見えない。
二百年。この人は、二百年、その名前を呼べずにいる。あの人、とだけ呼んで。
アルフさんは言っていた。紅い子は、最後まで叫んで、怒ってくれた、と。断罪の日に、たったひとりで。……その紅い子が、今、私の目の前で、白紙を不思議そうに眺めている。
「……フィアット」
サリナ様が、紙から目を上げた。
その目が、私の顔の上で止まった。
「お主、泣いておるな」
「……泣いて、ません」
「嘘をつくときの声じゃ」
サリナ様は、藁半紙を長卓の上にそっと置いた。それから、小さな手のひらで、何も書いていない――はずの――紙の真ん中を、静かに撫でた。
ちょうど、三文字が並んでいるところを。
「わしには、ここに何が書いてあるのか、見えぬ」
サリナ様の声は、とても静かだった。
「じゃが、お主が、誰かの名を書いたことはわかる。……書くときの筆の動きが、名を書く者の動きじゃった。それも、大事な名を」
サリナ様の指が、紙の上で止まった。
「わしもな、何度も書こうとした。二百年のあいだに、何千回も。ペンを持って、紙に向かって、さあ書こうとすると、手が止まる。何を書こうとしたのかも、すぐに忘れる。……あとには、白い紙だけが残る」
竈の前で、粥をかき混ぜる音が止まっていた。
ハスト様が、背中を向けたまま、じっと立っていた。
「……サリナ様」
喉まで、言葉がせり上がってきた。
ありがとう、と。
アルフさんから預かった言葉。最後まで叫んで、怒ってくれてありがとう、と。
でも、それはまだ、言ってはいけない言葉だった。サリナ様が、自分の怒りを手放せる日が来たら。アルフさんは、そう言っていた。……今のサリナ様の指先は、白紙の上で、まだ小さく震えている。
私は、その言葉を飲み込んだ。
代わりに、言った。
「……いつか、読めるようになります。きっと」
サリナ様は、私をじっと見ていた。
それから、左の頬にだけ、小さなえくぼを作って笑った。
「そうか。……ならば、そのときまで、この紙はわしが預かっておこう」
サリナ様は、藁半紙を丁寧に四つにたたんで、自分の袖の中にしまった。
◇
「……ひとつだけ、訊いてもいいですか」
私は、三冊目の最後の頁を、もう一度開いた。
「この白と、聖約の署名の白。……同じ白に見えるんです。アルスさんの全知の書の、削り取られた白とも」
サリナ様は、しばらく黙っていた。
足をぶらぶらさせるのを、やめていた。
「名を消す契約というものはな、フィアット」
サリナ様は、ゆっくりと言った。
「ただでは結べぬ。世界は、帳簿の両側が揃わねば約を受けぬ。誰かの名を、本からも石からも人の胸からも消すなら、消す側もまた、何かを差し出さねばならん」
「……何を、ですか」
「同じものじゃ。自分の名を」
台所が、しんとした。
「消した者の名もまた、白く残る。消された名と、対になってな。……わしの知る限り、そういう決まりじゃ。古い血統魔法の、いちばん古い決まり」
私は、頁の白を見下ろした。
アルフさんの名前を消した白。
そして、聖約の鎖の最後に書かれた、白い署名。
もし、それが同じ白なら。
あの署名は、アルフさんの名前を消した誰かの名前、ということになる。自分の名前ごと、世界に差し出して。
背中に、冷たいものが走った。
「……サリナ様は、その人のことを」
「覚えておらぬ」
サリナ様は、きっぱりと言った。
「断罪の日のことは、覚えておる。広場の石畳の冷たさも、雪の匂いも、わしが何を叫んだかも。……じゃが、あの人の名を呼んだ声も、あの人を裁いた者の顔も、そこだけが白い」
サリナ様の小さな手が、膝の上でぎゅっと握られていた。
「二百年、白いままじゃ」
◇
「――おい、ババア」
台所の入口から、乱暴な声がした。
アルスさんが、寝癖のついた頭をかきながら立っていた。
「その本、俺にも寄越せ。全知の書の白いとこと、照らし合わせてぇ」
「年寄りに向かって、ババアとは何じゃ」
「ロリババアよりマシだろ」
「……ほう」
サリナ様が、にこりと笑った。
次の瞬間、アルスさんの寝癖が、一本残らず真上に逆立った。……静電気、だと思う。たぶん。指一本動かさずに。
「……っ、てめ」
「朝餉の前に騒ぐ子には、ちょうどよい目覚ましじゃろう」
アベルが、長卓に頬をつけたまま、目だけをぱっちり開けて、アルスさんの頭を見上げていた。
「……アルスおにいちゃん、ほうき?」
「ほうきじゃねぇ」
竈の前で、ハスト様が肩を小さく震わせていた。笑っているのだ。このところずっと硬かった背中が、ほんの少しだけほどけていた。
セルカが、木の匙を鍋から引き上げた。
「……ハストさま。こげる」
「わかってる」
「……またこげる」
「わかってるって」
ハスト様は慌てて鍋を火から下ろした。粥の底のほうから、ほんのりと香ばしい匂いが立ちのぼった。
今度も、少しだけ焦げていた。
◇
始業の鐘が、遠くで鳴り始めていた。
分館の門を出るとき、サリナ様が後ろから私を呼び止めた。
「フィアット」
「はい」
「眼を、使いすぎるでないぞ」
サリナ様は、門柱の陰に立っていた。朝の光が、紅い髪の端をきらきらと透かしていた。
「お主の眼は、白いものを読む眼じゃ。読めば読むほど、お主自身の白いところも、透けてくる。……それは、悪いことではない。じゃが、急げば痛む」
私は、自分の胸に手を当てた。
縁の罅割れた、小さな白い場所。眼を開くたびに、その罅が少しずつ増えていく。北から帰ってきてから、ずっと。
「……サリナ様は、私の白いところを、知ってるんですか」
サリナ様は、答えなかった。
ただ、もう一度、左の頬にえくぼを作った。
「行っておいで。今日は、前の一位の娘が、影から出る日じゃろう。……見届けてやれ」
私は、頭を下げた。
それから、雪の道を、学園のほうへ歩き出した。
ハスト様とセルカが、少し先で待っていた。ハスト様の手には、焦げた粥の代わりに、胡桃のパンの残りが握られていた。
「……食ってけ」
「はい」
パンは冷めて、少し固くなっていた。それでも噛むたびに、胡桃の香ばしさが口の中に広がった。セルカが私の隣に並んで、自分の分を両手で持って、小さな口でかじっていた。ハスト様は、私たちの少し前を歩いていた。雪を踏む足音が、いつもより少しだけ速かった。
パンをかじりながら、私は、袖の中にしまわれた藁半紙のことを考えていた。
サリナ様には白紙にしか見えない、四つにたたまれた、三文字の名前。
いつか、あの紙を、サリナ様が読める日が来る。
それまでに、私は、もうひとつの白い名前を読まなければならない。




