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122 前・一位、膝を折る


放課後の中庭は、決闘期間が始まってから一番の人出だった。


回廊の二階の窓という窓から、生徒の顔がのぞいていた。屋根の上にまで、三年生が何人か座り込んでいた。教師たちも、職員室の窓から腕を組んで見下ろしている。ガルシア先生は、雪の積もった花壇の縁に腰を下ろして、なぜか焼き栗の袋を抱えていた。


「前の一位と、白い外套。……今年一番の取組だよ。三週間の戦争の、天王山だ」


ペトラが、俺の隣で鉛筆を走らせていた。手帳の頁が、もう三枚も文字で埋まっていた。


「ハスト君は、どっちが勝つと思う」

「……知らねぇよ」

「嘘のときの親指」

「うるせぇ」


俺は、右手をポケットに突っ込んだ。


回廊の柱にもたれて、中庭の真ん中を見た。


雪の上に、ふたりが向かい合っていた。


アイシャ会長は、生徒会の腕章を外していた。制服の上着も脱いで、薄い稽古着一枚で、素足に近い軽い靴を履いていた。三年間、影の中で拳を振るってきた身体が、冬の夕陽を受けて細く長い影を雪の上に落としていた。


その向かいに、白い外套。


アルブレヒトは、いつものように背筋を伸ばして、両手を身体の前で軽く組んでいた。銀糸の聖印が、夕陽を受けて鈍く光っていた。


その後ろには、白い腕章が三つ並んでいた。


ラインハルト。レオン。それから、昨日の昼休みに挑んで負けた、二年の誰か。三人とも、主人の外套を預かったり、鞄を抱えたりして、黙って立っていた。


立会人は、エトワールだった。


前の一位の決闘には、学園長自らが立つ。それも、規則にない慣わしらしい。


「両者、名乗りを」


エトワールの声が、中庭に響いた。


アルブレヒトが、手のひらを上に向けた。


「――この者と我との間に、聖なる約を結ぶ。第一条、敗れし者は、期間の明けるまで、勝者に仕えるべし。第二条、この約は、血と名によって守られる」


白い紋章が、宙に浮かんだ。


光の糸が二本伸びて、一本はアルブレヒトの胸へ、もう一本はアイシャ会長の胸の前で止まった。


「約を受ける者として、名を」

「アイシャ」


会長は、迷わずに名乗った。


白い糸が、会長の胸に吸い込まれていった。会長の肩が、ほんのわずかに震えた。それだけだった。


隣で、フィアットが目を閉じたまま、俺の袖をつまんでいた。セルカは、俺の反対側で、膝を抱えてしゃがみ込んでいた。


「――始め!」


◇


アルブレヒトの指が、先に動いた。


始めの声と、ほとんど同時だった。


「付則。汝の影は、我が影に通ぜず」


紋章の文字が、一行増えた。


雪の上に落ちているアルブレヒトの影が、ほんのかすかに色を濃くした。墨を流したように。


――読まれてる。


会長の影渡りは、影から影へ渡る技だ。一番近い影は、相手自身の足元の影。三年間、会長はそこから出て、誰の背中も取ってきた。


その出口を、始めの一声で塞いだのだ。


回廊がどよめいた。


会長は、表情を変えなかった。


ふっと、雪の上から消えた。


自分の影の中へ。


次の瞬間、会長は、アルブレヒトの右手側の回廊の柱の影から飛び出していた。柱一本ぶん、距離がある。それでも、普通の生徒の目には、消えて現れたようにしか見えない速さだった。


拳が、アルブレヒトのこめかみへ伸びた。


「付則。汝の影は、我が右に出でず」


拳が届く前に、柱の影がぐにゃりと歪んだ。


会長の身体が、影の中に押し戻された。


――二手目。


左の植え込みの影。


「付則。汝の影は、我が左に出でず」


――三手目。


屋根の上で見物している三年生の影が、中庭の雪の上に長く落ちていた。会長は、その影の頭から飛び出した。真上からだった。


「付則。汝の影は、我が頭上に出でず」


押し戻された。


会長は、中庭の真ん中、元いた場所の雪の上に、片膝をついて着地した。


息が荒かった。


紋章の文字は、本文の二行の下に、四行の付則を連ねていた。


アルブレヒトは、一歩も動いていなかった。


「影の拳」


アルブレヒトが、静かに言った。


「見事です。学園で、あなたほど速い者はいない。……三年間、誰もあなたの影を読めなかったのも頷けます。ですが」


指先が、紋章の縁をそっと撫でた。


「私は、読む必要がない。あなたがどこから出てこようと、そこを約で閉じればいい。……出口が四つ閉じれば、残りは、背中だけだ」


回廊の誰かが、息を呑んだ。


右も、左も、頭上も、足元も塞がれた。影から出られる場所は、もう、アルブレヒトの真後ろしかない。


そして、出口がひとつしかない影渡りは、もう影渡りではない。


花壇の縁で、ガルシア先生が焼き栗の袋をがさりと鳴らした。


「……よく見とけ、お前ら」


先生は、周りに群がっていた一年生たちに、低い声で言った。


「今のが、この学園の天井だ。三年かけて、あそこまで行ける奴は百人にひとりもいない。詠唱なしで影から影へ、四方から四手。俺でも、二手目までしか目で追えなかった」

「せ、先生でも……」

「ああ。……その天井を、あの白いのは、一歩も動かずに四回閉じた」


ガルシア先生は、焼き栗をひとつ口に放り込んで、噛まずに飲み込んだ。


「……魔術の喧嘩じゃねぇな、ありゃ。役所の手続きだ」


◇


俺は、柱にもたれたまま、会長の背中を見ていた。


入学して間もない頃、屋上で初めて会ったときのことを思い出した。三年間無敗の生徒会長が、最下位の一年に、正面から拳を打ち込んできた。俺はそれを、静かに遮っただけだった。それから会長は、俺を師匠と呼んで、勝手についてくるようになった。弟子にした覚えは、一度もない。


それでも、毎日屋上に来た。俺が何も教えなくても、隣で拳を振って、勝手に強くなっていった。


速い。


学園の基準で言えば、桁が違う。ラインハルトの五節の雷も、レオンの一節の風の刃も、会長の拳の前では止まっているのと変わらない。三年間、無敗だったのは伊達じゃない。


それでも。


アルブレヒトが付則を思ってから、指が紋章に届くまで、瞬きの半分。


会長が影に溶けてから、拳が届くまで、瞬きひとつ。


半分、足りない。


俺の目には、その半分が、はっきりと見えていた。会長が影の中にいるあいだ、アルブレヒトの指が、もう紋章の上で待っている。


右のポケットの中で、指先が冷たくなっていた。


気づかないうちに、ポケットの裏地に、薄い霜が張りついていた。


「……ハスト様」


フィアットが、袖をつまむ指に力を込めた。


「ハスト様の色が、すごく、冷たいです」

「……気のせいだ」

「気のせいじゃ、ないです」


俺は、ポケットから手を出した。霜が、ぱらぱらと雪の上に落ちた。


セルカが、膝を抱えたまま、俺の足元の霜をじっと見ていた。


何も言わなかった。


◇


会長が、立ち上がった。


膝についた雪を払わなかった。


目を閉じていた。


――フィアットの真似じゃない。何も見ないための、閉じ方だった。


どこから出るかを、決めないために。


どこを打つかも、決めないために。


ただ、届け、とだけ思うために。


バルトロの爺さんの声が、俺の耳の奥で聞こえた気がした。指は、思いより先には、動かぬ。……あの擦り切れた本の余白に、同じ字で書いてあった一行も。思いより早く届くものに、約は追いつけない。


会長が、消えた。


今度は、影に溶ける気配さえなかった。


アルブレヒトの指が、紋章へ伸びた。


真後ろへの付則を、書くために。


「付則。汝の影は、我が――」


声が、途中で切れた。


会長は、真後ろにはいなかった。


アルブレヒトの、真正面。


紋章のすぐ下。アルブレヒト自身の胸の前の、紋章が雪の上に落とす、ほんの小さな淡い影。


光の紋章が、光であるがゆえに作ってしまった、たったひとつの影。


そこから、会長の拳が突き上がった。


アルブレヒトの頬を、拳がかすめた。


ぱっ、と赤いものが雪に散った。


中庭が、爆発したような歓声に包まれた。


――届いた。


かすめただけだった。


打ち抜くには、足りなかった。指が紋章へ向かう途中だったアルブレヒトが、首をほんのわずかに傾けた。それだけで、拳は頬の皮一枚を裂いて、空を切った。


アルブレヒトの指が、紋章に触れた。


「――付則。汝の拳は、我に届かず」


会長の二撃目が、アルブレヒトの胸の前で止まった。


見えない壁ではなかった。見えない線を、越えられなかった。


「付則」


アルブレヒトは、頬から血を流したまま、静かに続けた。


「汝は、膝を折る」


◇


会長の膝が、折れた。


その瞬間、会長の身体は、ひとりでに動いていた。


右肩から雪に入って、背中を丸めて、転がった。


顔から落ちなかった。頭を打たなかった。雪の上を一回転して、膝をついた姿勢で止まった。


屋上で、ミモザに教えていた転び方だった。


昨日の昼休み、会長は、ミモザの隣で、黙ってそれを見ていた。


「……勝者」


エトワールの声が、中庭に落ちた。


「アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト。序列戦規則第三により、両者の序列を入れ替える。アルブレヒト、全学年序列二位。アイシャ、全学年序列三十一位」


歓声は、どこにもなかった。


アルブレヒトは、頬の血を指先でぬぐった。指についた赤を、不思議なものを見るように、しばらく眺めていた。


「……初めて、約の内側に入られました」


それから、膝をついたままの会長を見下ろした。


「アイシャ。――我が名を」


会長の唇が、動いた。


「……我が、主」


会長は、泣かなかった。


ラインハルトのように涙をこぼすことも、レオンのように睨みつけることもしなかった。


ただ、少しだけ笑っていた。


かすめた拳の感触を、まだ握りしめているように。


アルブレヒトの後ろで、白い腕章の従者が、新しい腕章を一本、銀の盆に載せて差し出した。アルブレヒトは、それを自分の手で取って、会長の左腕に巻いた。


丁寧な手つきだった。


それが、いちばん腹が立った。


乱暴に巻かれたのなら、まだよかった。あいつは、本気で、それが正しいことだと思っている。前の一位に、ふさわしい敬意を払って、ふさわしい鎖をかけている。その丁寧さの中に、会長の三年間が、まるごと畳まれてしまうような気がした。


「影の拳。盗品でなければ、我が家の騎士に迎えたかった」


アルブレヒトは、回廊を見回した。


「次は、どなたが」


誰も、答えなかった。


アルブレヒトの灰色の目が、回廊の柱の陰で止まった。


フィアットの上で。それから、ほんの一瞬だけ、俺の上で。


「……三百位の方は、転び方がお上手だそうですね」


口元だけで、微笑んだ。


「前の一位にまで仕込むとは。最下位にも、使い道はあるものだ」


◇


白い外套の後ろを、四人の白い腕章がついていった。


会長は、最後尾を歩いていた。


回廊の出口で、俺の前を通り過ぎるとき、会長は、足を止めずに、俺にだけ聞こえる声で言った。


「……師匠。転び方、役に立ちました」


俺は、何も言えなかった。


回廊の人垣の中で、ミモザが両手で口を押さえていた。鼻の頭が、昨日転んだときより赤かった。


「……会長さん、ちゃんと、転べてました」


誰に言うでもなく、ミモザは呟いた。


「顔から、行かなかった……。わたし、まだ、一回もできてないのに……」


その声が、震えていた。


会長の背中が、回廊の向こうに消えていった。


右手が、また冷たくなっていた。


もたれていた柱の、俺の背中が触れているところに、細い霜の筋が一本、上へ上へと這い上がっていた。石の継ぎ目に入り込んで、ぴしり、と小さな音がした。


「――ハスト」


頭の上から、低い声が降ってきた。


見上げると、回廊の屋根の上に、バルトロの爺さんが盆栽を抱えて立っていた。いつからそこにいたのか、わからなかった。


「柱が、泣いておる」

「……」

「校舎を壊すと、十、下がるそうじゃな」


爺さんは、盆栽の枝ぶりを眺めながら、のんびりと言った。


「三百から十下がると、どこへ行くのかのう」


俺は、柱から背中を離した。


霜の筋は、そこで止まった。石の罅は、髪の毛一本ほどで済んでいた。


「……知るかよ」


自分の声が、ひどく低かった。


セルカが、俺の手を取った。小さな手は、北から帰ってきてから、ずっと温かい。その温かさが、俺の冷えた指先を包んで、霜をひとつずつ溶かしていった。


「……ハストさま」

「なんだ」

「……つめたいの、やだ」

「……悪い」


フィアットは、目を閉じたまま、回廊の向こうを見ていた。


白い外套が消えていった方角を。


「……紋章の縁が、また少しだけ欠けました」


フィアットが、小さく言った。


「先輩の拳が、かすめたとき。署名の白が、ほんの一瞬、薄くなって。……一画だけ、見えた気がします」

「一画」

「縦の、まっすぐな線でした。……墓石に刻むみたいな、硬い字の」


雪が、また降り始めていた。


中庭の真ん中に、会長が転がった跡が、きれいな弧を描いて残っていた。


顔から落ちていない、まっすぐな弧を。


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