123 ふたつの涙
全学年序列二位の席は、私の机のすぐ隣にあるわけではない。
それでも、次の日の朝から、私はずっと、すぐ隣に誰かが座っているような気がしていた。
一位と二位。序列表の一番上の二行に、私の名前と、あの人の名前が並んでいる。職員室の前の掲示板に貼り出された新しい序列表を、生徒たちは遠巻きに眺めていた。誰も近づかなかった。近づいたら、そこに書かれた名前に触れてしまうとでもいうように。
『一位 フィアット・セルジーネ(一年)』
『二位 アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト(二年)』
『三十一位 アイシャ(三年)』
アイシャ先輩の名前は、三十一番目の行に、小さく収まっていた。
廊下を歩いていると、ひそひそとした声が背中に刺さった。
「……もう、誰も挑まないってさ。上位の人たち」
「当たり前だろ。会長でだめなら、誰が行くんだよ」
「残ってるのは、一位だけ……」
「でも、あの人、トーナメントの決勝まで一位には挑まないって手紙出したんだろ」
「じゃあ、それまでずっと……」
その先は、聞こえなかった。
私は、目を閉じたまま、まっすぐ前を向いて歩いた。瞼の裏で、廊下の生徒たちの色が、灰色にくすんで揺れていた。みんな、怖がっていた。
◇
昼休みの食堂は、いつもより静かだった。
いつもなら、決闘期間の食堂は戦場だ。スープを取りに立った瞬間に果たし状が飛んでくる。パンをかじりながら負ける人がいる。それが、この三週間の名物だった。
今日は、誰も立たなかった。
食堂の真ん中の長卓に、白い外套が座っていたからだ。
アルブレヒトさんは、ひとりで静かにスープを飲んでいた。その後ろに、白い腕章の従者が四人、壁際に並んで立っていた。ラインハルト君、レオン君、二年の先輩。それから、アイシャ先輩。
先輩は、銀の盆を両手で持って、背筋を伸ばして立っていた。表情は穏やかだった。けれど、瞼の裏に見える先輩の色は、燃え尽きる直前の燭台のように、静かに揺れていた。
私は、セルカと並んで、食堂の隅の席に座っていた。ハスト様は、厨房の奥で、なぜか食堂のおばさんに頼まれて芋の皮をむいていた。
そのときだった。
「――わ、わわっ」
麦わら色のふたつ結びが、食堂の入口から転がり込んできた。
ミモザさんだった。
両手で木の盆を抱えて、盆の上には湯気の立つスープの椀がふたつ載っていた。たぶん、ひとつは自分の分、もうひとつはハスト様の分だ。最下位同盟の昼食を、厨房に届けに行くつもりだったのだろう。
ミモザさんは、食堂の真ん中の長卓の横を、小走りで通り抜けようとした。
床の、少しだけ濡れたところで、足が滑った。
――あ。
盆が、宙を舞った。
スープの椀がひとつ、くるりと回って、白い外套の肩の上に落ちた。
食堂が、凍りついた。
琥珀色のスープが、銀糸の聖印の上を、ゆっくりと流れていった。
ミモザさんは、床に尻もちをついたまま、真っ青な顔で固まっていた。
「あ……あ、ご、ごめんなさい……! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
アルブレヒトさんは、しばらく動かなかった。
それから、ナプキンで肩を軽く押さえた。怒鳴りもしなかった。眉ひとつ動かさなかった。
「……あなたは」
静かな声だった。
「一年の、ミモザ・リーフェル。序列二百九十九位。港町の干物屋の娘」
ミモザさんの肩が、びくりと跳ねた。
「入学以来、一度も魔術が発動したことがない。詠唱は完璧なのに、行が身体から出てこない。……魔力の門が、針の穴ほどしか開いていないそうですね」
アルブレヒトさんは、ナプキンをたたんで、卓の上に置いた。
「不思議に思っていました。なぜ、あなたのような人が、この学園にいるのか」
「……っ」
「盗品の魔術は、理屈を知る者なら誰でも使える、という触れ込みでしたね。二百年前、誰かがそう決めたそうです。誰にでも門は開く、と。……ですが、あなたの門は開かない。誰にでも開くはずの門が」
アルブレヒトさんは、ミモザさんを見下ろした。
その目には、怒りも、侮りもなかった。ただ、本当に不思議なものを見る目だった。
「あなたは、盗品にすらなれなかった人だ」
食堂の誰かが、くすりと笑った。
怖さを紛らわせるための、引きつった笑いだった。でも、それが合図になったように、あちこちで小さな笑い声がこぼれた。
ミモザさんの顔が、くしゃりと歪んだ。
床に散らばったスープの椀を、震える手で拾い集めようとして、うまくつかめなくて。それから、椀を放り出して、立ち上がった。
食堂の出口へ、走っていった。
泣きながら。
◇
私は、気がつくと、食堂を飛び出していた。
セルカが、何か言った気がした。聞こえなかった。
ミモザさんの麦わら色の髪が、回廊の角を曲がって、中庭の裏の、誰もいない雪の庭へ駆けていくのが見えた。
追いかけた。
雪が、深かった。靴の中に冷たいものが入り込んだ。それでも、足を止めなかった。
ミモザさんは、走っていた。
両腕で顔を覆って、前も見ずに、泣きじゃくりながら。雪に足を取られて、転んで、起き上がって、また走って。
私は、瞼を少しだけ持ち上げた。
ミモザさんの色を見ようとした。どこへ向かっているのか、どこで止まるのかを知りたかった。
銀色が、ほんのかすかに、瞼の隙間から漏れた。
――その瞬間、世界がひっくり返った。
◇
雪の中を、走っていた。
私が。
ミモザさんの背中を追いかけているのではなかった。私自身が、雪の中を走っていた。前も見ずに、両腕で顔を覆って、泣きじゃくりながら。
身体が、小さかった。
足が、短かった。雪が膝まで来ていて、一歩ごとに沈み込んで、そのたびに転びそうになった。
寒かった。
手が、かじかんで、指の感覚がなかった。
後ろから、焦げた匂いがしていた。何かが燃えている匂い。木と、布と、それから、もっと嫌な何か。
振り返れなかった。
振り返ったら、何かを見てしまう気がした。だから、ただ前へ、雪の中を、泣きながら。
誰かの名前を、呼んでいた。
私の口が、何度も何度も、同じ名前を叫んでいた。
声は聞こえなかった。
叫んでいる自分の声なのに、その名前のところだけが、ぽっかりと抜け落ちていた。音のない白い穴が、雪の中にいくつも、いくつも開いていった。
――だれか。
――だれか、たすけて。
◇
「――フィアットさん!?」
肩を、揺さぶられていた。
目の前に、ミモザさんの顔があった。涙でぐしゃぐしゃで、鼻の頭が真っ赤で、でも、今は泣いているのを忘れたみたいに、大きく目を見開いて私を見ていた。
私は、雪の上に膝をついていた。
いつの間にか、ミモザさんを追い越して、雪の庭の真ん中で、うずくまっていたらしい。
「だ、大丈夫ですか!? 急に、倒れて……!」
「……だい、じょうぶ」
声が、かすれていた。
頬が、冷たかった。
指で触れると、濡れていた。
泣いていたのは、私だった。
ミモザさんと同じように。いや、ミモザさんよりもっと。止めようとしても、止まらなかった。
瞼の裏に、まだ雪が降っていた。小さな足跡が、白い穴の開いた雪原の上に、どこまでも続いていた。
あれは、私だ。
ずっと昔の、私だ。
雪の中を、泣いて、逃げていた。焦げた匂いから。何かから。誰かの名前を呼びながら。
――その名前が、白い。
胸の奥の、縁の罅割れた白い場所が、ずきんと痛んだ。
罅が、また一本、増えていた。
◇
ミモザさんと私は、雪の庭の隅の、古い石のベンチに並んで座っていた。
ふたりとも、目が真っ赤だった。
「……ごめんなさい」
ミモザさんが、小さな声で言った。
「フィアットさんまで、泣かせちゃって……」
「ミモザさんのせいじゃないよ」
私は、首を横に振った。
「ちょっと、思い出しただけ。……昔のこと」
ミモザさんは、それ以上訊かなかった。ただ、私の手を、ぎゅっと握った。干物屋さんの娘の手は、小さくて、少しだけ荒れていて、魚の脂の軟膏の匂いがした。
「……わたし、村で最初なんです」
しばらくして、ミモザさんがぽつりと言った。
「魔力がある子。港町で、何十年ぶりかって。村長さんも、漁師さんたちも、みんなでお金を出し合って、わたしをこの学園に入れてくれて」
ミモザさんは、自分の膝を見つめていた。
「父ちゃんの燻製小屋、冬はすごく寒いんです。火を焚いても、煙が逃げるところから冷たい風が入ってきて。……だから、わたし、火の魔術を覚えて帰って、燻製小屋をあったかくするって、約束したんです。みんなに」
声が、また震え始めた。
「でも、一回も、出ないんです。……盗品にすら、なれないって」
私は、ミモザさんの手を握り返した。
瞼を、ほんの少しだけ持ち上げた。今度は、気をつけて。銀色が漏れない、ぎりぎりのところまで。
ミモザさんの色が見えた。
麦わらみたいな、温かい黄色。その胸の真ん中に、行がちゃんと届いていた。詠唱で呼ばれた行が、きれいな字で、迷わずにここまで来ている。
ただ、その出口が。
小さかった。本当に、針の穴ほどしかなかった。
でも、塞がっているのではなかった。
折りたたまれていた。
大きな紙を何重にも折ったみたいに、出口の縁が、内側に向かって小さく小さく畳まれていた。折り目は古くて、硬くて、でも、ちゃんと折り目だった。
――折ったものなら、開ける。
「……ミモザさん」
私は、瞼を下ろした。
「盗品とか、正しいとか、私にはよくわからない。……でも、ミモザさんの門は、閉じてないよ」
「……え?」
「折りたたまれてるだけ。ハスト様が、サリナ様の本で読んだって言ってた。治し方が、書いてあるって」
ミモザさんは、ぽかんと口を開けた。
それから、また泣いた。
今度の涙は、さっきとは違う色をしていた。
◇
放課後の中庭に、意外な人が立っていた。
クルト君だった。
いつも教室の隅で、誰とも目を合わせない子。学園祭の喫茶店では、一日中黙って皿を洗っていた子。私に四十八通目の果たし状を、記念に、とだけ言って置いていった子。
その子が、白い外套の前に、まっすぐ立っていた。
「……決闘を」
クルト君の声は、小さかった。
「申し込みます。……アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト」
回廊に、ざわめきが走った。
アルブレヒトさんは、少しだけ首を傾げた。
「あなたは」
「一年。クルト。序列、百八十七位」
「理由を、伺っても」
クルト君は、しばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
それから、口を開いた。
「……ラインハルトは、うるさい。レオンは、怖い。でも、ふたりとも、喫茶店のとき、俺の皿洗いを、一回も笑わなかった。……会長は、廊下で俺とすれ違うとき、いつも名前を呼んでくれた。誰も覚えてない、俺の名前を。……それから、さっき、食堂で」
クルト君は、拳を握った。
「干物屋の子を、笑った奴がいた。……俺も、笑いそうになった。怖くて」
回廊が、しんとした。
「それが、いやだった。……だから」
それは、私が聞いた中で、クルト君がいちばん長く喋った言葉だった。
アルブレヒトさんは、何も言わずに、手のひらを上に向けた。
白い紋章が、宙に浮かんだ。
立会人のガルシア先生が、始めの声をかけた。
クルト君は、両手を雪の上についた。
「――大地よ、眠れる骨よ。我が呼び声に目を覚ませ。石の牙となりて、我が敵の足元を穿て。……『アース・ファング』」
いつもの小さな声とは違う、腹の底から絞り出すような詠唱だった。
雪の下の地面が、ごり、と鳴った。
アルブレヒトさんの足元から、石の牙が三本、雪を割って突き上がった。一年生の土の魔術としては、驚くほど鋭くて、驚くほど速かった。誰も見ていない場所で、ずっと練習していたのだ。たぶん、皿を洗いながら、頭の中で何百回も。
「付則。汝の牙は、我が足に触れず」
石の牙は、アルブレヒトさんの靴の底の、指一本手前で止まった。
それから、さらさらと崩れて、雪の上の砂になった。
クルト君は、もう一度、両手を雪についた。
「――大地よ、」
「付則。汝の声は、三節を越えず」
クルト君の唇が、三節目の途中で止まった。
声が、出なかった。
喉を押さえて、それでも何かを言おうとして、口を開けたり閉じたりした。四節目に届く前に、最後の付則が書き足された。
膝が、雪についた。
ほんの十呼吸の決闘だった。
回廊の柱の陰で、ハスト様が、いつの間にか私の隣に立っていた。
ハスト様の足元の雪が、ほんの少しだけ、きしきしと音を立てて固まっていた。
セルカが、何も言わずに、ハスト様の手を握っていた。
それでも、クルト君は、我が主、と言わされる前に、私のほうを見た。
目を閉じた私のほうを。
――記念に。
唇が、そう動いた気がした。
私は、瞼の裏で、その色を見ていた。
灰色じゃなかった。
ほんの少しだけ、誇らしげな色をしていた。




