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124 最下位同盟


『白い腕章、五人目! 沈黙の皿洗い、十呼吸の反逆』


翌朝の号外の見出しは、いつもより字が小さかった。


ペトラは、門の前で糊の刷毛を握ったまま、自分の貼った号外をしばらく黙って見上げていた。


「……五人目って書くの、手が震えたよ」


それから、鉛筆を耳の上から抜いて、見出しの下の余白に小さく何かを書き足した。


『クルト君は、最後まで、三節目を唱えようとしていた』

「載せていいのか、それ」

「載せるよ。誰も書かなきゃ、誰も覚えてないでしょ」


ペトラは、鉛筆を耳の上に戻した。


「英雄はね、名前を残すべきなんだよ。……負けた英雄も、ね」


◇


一年の教室の一番後ろには、白い腕章が三つ並ぶようになった。


ラインハルト。レオン。それから、クルト。


三人とも、主人に呼ばれていない間は、本人のままだ。ラインハルトは授業中に居眠りをするし、レオンは窓の外を見ているし、クルトは誰とも目を合わせない。……ただ、休み時間の鐘が鳴るたびに、廊下の向こうから白い腕章の上級生がやって来て、三人を連れていく。


二時間目のあとの休み時間、戻ってきたラインハルトが、俺の机の前にどさりと座り込んだ。


「――聞いてくれ、ハスト」

「なんだよ」

「クルトの奴、主人の茶器を洗わされたんだ」

「……それで」

「完璧だった」


ラインハルトは、頭を抱えた。


「湯の温度から、布巾の絞り方から、乾かす向きまで、完璧だったんだよ。喫茶店のときと同じで。……そしたら、あの白いのが、茶器を光にかざして、言ったんだ。『見事です。あなたは、我が家の厨房に向いている』って」


教室の後ろで、クルトが、黙って窓の外を見ていた。


耳だけが、真っ赤だった。


「褒められて、悔しいんだとさ」


ラインハルトは、ため息をついた。


「わかるぜ。俺も昨日、主人の鞄の持ち方を褒められた。『背筋がいい』って。……なんで俺、ちょっと嬉しかったんだろうな。くそっ」


笑うところなのか、怒るところなのか、わからなかった。


たぶん、両方だった。


◇


昼休みの屋上は、風が強かった。


最下位同盟の昼の稽古は、今日も続いていた。


「――はい、ミモザ。右肩から」

「えいっ」


ミモザが、雪の上に頭から突っ込んだ。


雪煙が上がった。しばらくして、麦わら色のふたつ結びが、雪の中からもぞもぞと生えてきた。


「……ハストさん。わたし、今日、ちょっとだけ肩から行けました」

「頭から行ってた」

「肩も、ちょっとだけ行ってました」

「……ちょっとだけな」


俺は、貯水槽の陰に腰を下ろした。


膝の上に、擦り切れた革表紙の本を広げていた。血の約の書の、一冊目。ロリババアから借りっぱなしになっている。今朝、フィアットに頼まれて、一番後ろの章を探していたのだ。


畳まれた門の、開き方。


昨日の夕方、フィアットが言っていた。ミモザの門は、閉じているんじゃない。折りたたまれている、と。


九つのとき、この章を読んだ覚えがある。読んだだけで、役に立ったことは一度もない。俺の門は、畳まれるどころか、開きっぱなしで閉じ方がわからないほうだったからだ。


頁をめくった。


あの、やわらかい字が並んでいた。


『血筋の約が切れた家に、まれに生まれる。門が、約のあった頃の形を覚えていて、約がないことに怯えて、自分で自分を畳んでしまう。――これは、病ではない。怯えである。ゆえに、薬は効かない』


――怯え。


俺は、その一行から、しばらく目が離せなかった。


怯えて、自分で自分を畳んでしまう門。開きっぱなしで閉じ方のわからない俺の門とは、まるで逆だ。……それでも、どこか似ている気がした。あの雪の夜から、俺は、自分の中の何かに蓋をして生きている。蓋をしたのは、たぶん、俺自身の怯えだ。


書いた奴は、ずいぶんと優しい字で、ずいぶんと痛いところを突いてくる。


『開くには、畳むのと逆の順で、一枚ずつ、手で開いてやればよい。急いではならない。畳まれた紙を、無理に引けば破れる。端から、折り目に沿って、ゆっくりと。……腹から開く魚のように』


俺は、最後の一行を二回読んだ。


腹から開く、魚のように。


「……ミモザ」

「はいっ」

「お前んち、干物屋だよな」

「はい! 港町で一番の、リーフェル干物店です。鯵と鰈と、冬は鱈も!」

「魚、開けるか」


ミモザは、きょとんとした顔をした。


それから、むっと頬をふくらませた。


「開けますよ! わたし、五つのときから父ちゃんの手伝いしてるんですから。鯵なら、目をつぶってたって、一枚三つ数えるうちに開けます!」

「やってみろ」

「……え、今ですか? 魚、ないですけど」

「手の動きだけでいい」


ミモザは首を傾げながらも、雪の上にちょこんと正座した。


右手に見えない小刀を持って、左手で見えない魚を押さえた。


それから、手が動いた。


迷いがなかった。腹に刃を入れて、中骨に沿って、すうっと。身を返して、反対側も。最後に、指先で、身をそっと平らに広げる。


見えない魚が、雪の上で、きれいに一枚に開かれていた。


俺は、思わず息を呑んだ。


――急いではならない。端から、折り目に沿って、ゆっくりと。


ミモザの手は、それを、何千回も繰り返してきた手だった。


「……それだ」

「え?」

「今のを、お前の胸の中でやれ」


ミモザは、ぱちぱちと瞬きをした。


「胸の中で……魚を開くんですか?」

「お前の門は、腹を開く前の魚みたいになってる。畳まれて、丸まって、硬くなってる。……だから、今みたいに、端から、ゆっくり開いてやれ。急ぐな。破れる」

「……あの、ハストさん。それ、本当に魔術の話ですか」

「魔術の話だ」

「干物の話にしか聞こえないんですけど……」

「どっちも同じだ。黙ってやれ」


ミモザは、まだ半信半疑の顔で、目を閉じた。


両手を胸の前で軽く合わせた。


唇が、小さく動いていた。……いち、に、さん。鯵を開くときの、数え方だ。


風が、屋上を吹き抜けていった。


ミモザの指先の上で、空気が、ほんのわずかに揺らいだ。


陽炎だった。


火ではなかった。光もなかった。ただ、ミモザの手のひらの上の空気だけが、真冬の屋上で、ほんの少しだけ温かくなっていた。


ミモザが、ゆっくりと目を開けた。


自分の手のひらを見下ろした。


「……あったかい」


声が、震えていた。


「ハストさん。今、あったかいです。……わたしの、手の上」

「……ああ」

「これ、わたしが?」

「お前以外に、誰がいる」


ミモザの目に、みるみる涙が溜まっていった。


それが零れる前に、ミモザは、ぶんぶんと首を振った。


「な、泣きません! 昨日いっぱい泣いたので、今日は泣きません!」

「別に、泣いてもいいけどな」

「泣きません!」


泣いていた。


鼻の頭を真っ赤にして、陽炎の消えた手のひらをぎゅっと握りしめて、ミモザは笑いながら泣いていた。


◇


ひとしきり泣いたあと、ミモザは雪の上に座り直して、俺の顔をじっと見た。


「……ハストさん」

「なんだ」

「ひとつ、訊いてもいいですか」


嫌な予感がした。


「ハストさんは、どうして、負けるんですか」


風が、止まったような気がした。


「……弱いからだ」

「嘘です」


ミモザは、きっぱりと言った。


「わたし、毎日ハストさんの転び方、見てるんです。十二種類、全部。……あれ、負けてる人の転び方じゃないです」

「……」

「負けてる人は、転ぶとき、怖がるんです。わたしみたいに、頭から行っちゃうんです。でも、ハストさんは、転ぶ前から、どこに落ちるか決めてる。……魚を開くときの、父ちゃんの手と同じです。迷ってない」


俺は、何も言えなかった。


港町の干物屋の娘に、見抜かれていた。毎日、転び方を教えているつもりで、毎日、転ぶ前の俺を見られていたのだ。


ミモザは、少しだけ笑った。


「でも、いいです。理由は訊きません。会長さんも、レオン君も、訊かなかったって聞きました。……だから、わたしも訊きません」


それから、ミモザは立ち上がって雪を払った。


「その代わり、ハストさんが本当に負けるときは、わたしが勝ちます。最下位同盟の、約束です」

「……どういう理屈だ、それ」

「わかりません!」


ミモザは、元気よく言って、屋上の扉のほうへ駆けていった。途中で一回、頭から転んだ。


起き上がって、振り返って、手を振った。


貯水槽の上で、セルカが、膝を抱えてそれを見ていた。


何も言わなかった。


ただ、さっきミモザの手の上に陽炎が揺れたとき、セルカの小さな唇が、ほんの少しだけ動いたのを、俺は見ていた。


――よかったね、と。


◇


その夜、分館の台所で、フィアットが話してくれた。


昨日の昼休み、雪の庭で見たものを。


「……雪の中を、走ってたんです。私が。小さい私が、泣きながら」


フィアットは、長卓の上で両手を組んでいた。目は閉じていた。けれど、睫毛の先が、細かく震えていた。


「後ろで、何かが燃えていて。焦げた匂いがして。……誰かの名前を、ずっと呼んでいました。でも、その名前のところだけ、白くて、聞こえなくて」


竈の火が、ぱちりとはぜた。


俺は、手に持っていた茶碗を、長卓の上に置いた。


置いたつもりだった。


茶碗の底が、卓の縁にかかって、ことりと傾いた。中の茶が、卓の上に少しこぼれた。


「……ハスト様?」

「なんでもない」


雪。焦げた匂い。誰かの名前を叫ぶ声。


それは、俺の蓋の中にもあるものだった。


四年前の、あの雪の夜。紋章をつけた兵たちの顔。吹雪の向こうの、銀の光ひとつ。……そして、俺が叫んでいた、誰かの名前。


その名前も、白い。


どれだけ思い出そうとしても、そこだけが、白く抜けている。


フィアットの見たものと、俺の蓋の中のものが、どこかで重なりかけているような気がした。


重なりかけて、重ならなかった。


まるで、誰かが、その継ぎ目にだけ、白い紙を一枚挟んでいるみたいに。


「……眼、使いすぎるなよ」


俺は、こぼれた茶を布巾で拭きながら言った。


「ロリババアにも言われたんだろ」

「……はい」

「なら、それでいい」


フィアットは、それ以上何も言わなかった。


ただ、瞼の下で、俺のほうをじっと見ていた。たぶん、俺の色を。俺の胸の真ん中の、白い場所を。


◇


フィアットが部屋に戻ったあと、台所には、俺とセルカだけが残っていた。


セルカは、長卓の端に座って、氷の小鳥を指先で作っていた。作っては、溶かしていた。


もう何羽目か、わからなかった。


「……セルカ。寝ろ」

「……ハストさま」


セルカは、小鳥を溶かす手を止めた。


淡い水色の目が、俺を見上げた。


「ハストさまは、負けるのが、しごと」

「……ああ」

「三百位で、いるのが、しごと。……ほんとうのハストさまを、だれにも、見せないのが、しごと」


セルカは、ゆっくりと言った。一言ずつ、確かめるように。


「でも、わたしは、ちがう」

「……セルカ」

「わたしは、三百一位。ハストさまより、下。……下の人が、上の人に、決闘を申し込むのは、ふつう」


背中に、冷たいものが走った。


「やめろ」

「まだ、なにも、言ってない」

「顔に書いてある」


会長に言ったのと同じ言葉が、口から出た。


セルカは、首を横に振った。


「わたしは、時計、つかわない。人前では、つかわない。……一拍だけ。いつもの、一拍だけ」

「あいつの付則は、一拍だって止める」

「わかってる」

「わかってて、行くのか」

「……行く」


セルカは、俺の目をまっすぐに見ていた。


氷の小鳥が、セルカの手のひらの上で、最後の一羽、静かに溶けていった。


「ハストさまが、つめたいの、やだから」


それだけ言って、セルカは椅子から降りた。


台所の入口で、一度だけ振り返った。


「……めいれい、する?」


小さな声だった。


俺は、口を開いた。


やめろ、と。行くな、と。命令すれば、セルカは従う。この子は、俺の従者だ。この子自身が、そう決めた。


でも、俺は、一度もこの子に命令したことがなかった。


命令で縛るのは、あの白い紋章と、同じだ。


「……しない」


セルカは、少しだけ目を細めた。


笑ったのかもしれなかった。


「おやすみなさい、ハストさま」


台所の扉が、静かに閉まった。


竈の火が、小さくなっていった。


命令しなかったことを、正しいと思った。


正しいと思ったのに、胸の奥が、ずっと冷たかった。あの子が明日、白い紋章の前に立つ。俺は、柱の陰からそれを見る。会長のときと同じように。クルトのときと同じように。……三百位を守るために。


その三百という数字が、急に、ひどく軽いものに思えた。


俺は、長卓の上の、溶けた氷の小鳥の跡を、いつまでも見ていた。


小さな水たまりが、七つ並んでいた。


ひとつずつ布巾で拭こうとして、やめた。


朝になれば、乾いて消える。それまでは、そのままにしておきたかった。


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