125 三百一位の一拍
朝、目を覚ますと、セルカの寝台は空っぽだった。
毛布がきちんとたたまれて、枕の上に、氷の小鳥が一羽だけ置いてあった。溶けかけて、羽の先から雫が落ちていた。
分館の台所にも、いなかった。長卓の上の七つの水たまりは、きれいに乾いていた。
「……セルカは」
竈の前で粥を煮ていたフィアットが、振り向かずに言った。
「早くに、出ていきました。……ハスト様を、起こさないでって」
フィアットの声が、少しだけ震えていた。
「止めなかったのか」
「止めました。……でも」
フィアットは、木の匙を鍋の縁に置いた。
「時計は、使わないから、って。……ハスト様の秘密は、セルカが守るから、って」
◇
果たし状は、一時間目の始まる前に、白い外套の主の手に届いていたらしい。
昼休みには、もう学園中が知っていた。
『三百一位、二位に挑む! 氷の一拍は、約を越えるか』
ペトラの号外は、見出しの字が、いつもより大きかった。
「書いてて、自分でもわかんなくなっちゃったよ」
ペトラは、門の前で、刷毛を握りしめていた。
「三百一位って、学園で一番下だよ。その子が、前の一位を跪かせた人に挑むんだよ。……普通なら、笑い話でしょ。でもさ、誰も笑ってないんだ。セルカちゃんの一拍、みんな雪原の旗取りで見てるから」
「……ああ」
「ハスト君」
ペトラは、俺の顔を見た。
「親指、動いてないね。……嘘、つけないくらい、怖いんだ」
俺は、何も言わずに、ペトラの横を通り過ぎた。
◇
昼休み、俺は屋上の貯水槽の上に、セルカを見つけた。
いつもの場所だった。膝を抱えて、指先で氷の小鳥を作っては溶かしている。いつもと何も変わらない背中だった。
「……セルカ」
セルカは振り向かなかった。
俺は、貯水槽の梯子を半分まで上って、そこで止まった。
上まで上ったら、たぶん、言ってしまう。やめろ、と。命令として。
セルカの手のひらの上で、小鳥がひとつ、形を変えた。羽をたたんで、丸くなって、小さな氷の粒になった。
セルカは、それを、梯子の上の俺の手のひらに、そっと落とした。
「……おまもり」
ひやりとした。けれど、すぐには溶けなかった。セルカが、溶けないように作ったのだ。
「……ハストさまは、見てて。いつもの、柱のとこで」
それだけ言って、セルカは、また氷の小鳥を作り始めた。
俺は、氷の粒を握りしめて、梯子を降りた。
結局、何も言えなかった。
◇
放課後の中庭は、会長のときと同じくらい、人で埋まっていた。
ただ、空気が違った。
会長のときは、みんな、何かを期待していた。三年間無敗の拳が、白い紋章を打ち破る瞬間を。
今日は、誰も何も期待していなかった。期待していないのに、目を逸らすこともできずに、ただ見ていた。
雪の上に、セルカが立っていた。
小さかった。
白い外套と向かい合うと、本当に小さかった。制服の袖が少し長くて指の先しか出ていない。淡い水色の髪が、冬の風に揺れていた。
その指先が、ほんのわずかに、白く霜をまとっていた。
立会人は、ガルシア先生だった。
「両者、名乗りを」
アルブレヒトが、手のひらを上に向けた。
「――この者と我との間に、聖なる約を結ぶ。第一条、敗れし者は、期間の明けるまで、勝者に仕えるべし。第二条、この約は、血と名によって守られる」
白い紋章が浮かんだ。
光の糸が、セルカの胸の前で止まった。
「約を受ける者として、名を」
「……セルカ」
白い糸が、セルカの胸に吸い込まれていった。
セルカは、ぴくりとも動かなかった。
ただ、淡い水色の目が、ほんの一瞬だけ、回廊の柱の陰を見た。
俺のほうを。
それから、まっすぐ前を向いた。
「――始め!」
◇
先に動いたのは、セルカだった。
「――第五階梯、『Ice lance』」
詠唱は、それだけだった。
回廊が、どよめいた。
学園の生徒が第五階梯を撃とうと思えば、五節、六節の詠唱がいる。それを、セルカは、階梯と名前のひと息で呼んだ。
雪の上の空気が凍りついて、氷の槍が生まれた。
一本ではなかった。
十二本。
セルカの周りに、扇を開くように並んで、一斉に白い外套へ飛んだ。
「付則。汝の氷は、我に届かず」
アルブレヒトの指が、紋章に触れた。
十二本の槍が、アルブレヒトの胸の前、腕一本ぶんの距離で、ぴたりと止まった。見えない線を越えられずに、宙に縫い止められた。
――ここまでは、会長のときと同じだ。
北の離宮へ向かう前のセルカは、こんな魔術は撃てなかった。時を止めることしかできなくて、止めた世界の中で、ひとりぼっちで震えていた。指先はいつも冷たかった。ロリババアの修行部屋で、毎晩、加速と均衡を練習した。指だけ十日分歳を取って、泣きそうな顔で俺に見せに来た夜もあった。
その手が、今、十二本の槍を、ひと息で並べている。
セルカは、槍が止まるのを見ていなかった。
槍を撃った瞬間には、もう、次の行を呼んでいた。
「――第七階梯、『Frost seal』」
狙いは、アルブレヒトではなかった。
紋章でもなかった。
紋章に触れている、アルブレヒトの右手の指先だった。
指が、紋章から離れる、その一瞬。
ぱきん、と澄んだ音がした。
アルブレヒトの右手が、手首から先、透きとおった氷の塊に閉じ込められていた。
中庭が、静まり返った。
アルブレヒトが、初めて、目を見開いた。
――指だ。
あの日、屋上で、俺は会長にそう言った。狙うのは紋章じゃない、指だ、と。
セルカは、貯水槽の上で、それを聞いていた。
聞いて、覚えていた。
セルカの姿が、ぶれた。
一拍。
いつもの、一拍だけの加速。時計の針を、ほんの少しだけ早回しにする、セルカの秘密の端っこ。
氷の短剣が、セルカの手の中に生まれていた。
凍った右手を抱えたアルブレヒトの懐へ、まっすぐに。
速かった。
会長の影渡りより、さらに速かった。
――届く。
回廊の誰もが、そう思った。
俺も、思った。
アルブレヒトの左手が、動いた。
凍っていない、左の指先が、紋章の縁に触れた。
「――付則。汝の一拍は、我に届かず」
セルカの身体が、がくんと揺れた。
加速が、消えた。
一拍早いはずのセルカの時間が、無理やり、普通の時間に引き戻された。走っていた足が、急に重たい雪に沈み込んだみたいに、前へ出なくなった。
氷の短剣が、アルブレヒトの胸の、指一本手前で止まった。
◇
両手だった。
あいつは、両手で書けた。
レオンも会長も、そこまでは引き出せなかった。右手の指一本で、全部終わらせていたからだ。セルカだけが、右手を封じた。封じたから、左手が出てきた。
学園の天井を、セルカは、確かに一枚越えていた。
それでも、足りなかった。
セルカは、短剣を握ったまま、雪の上に立ち尽くしていた。
アルブレヒトは、凍った右手を胸に抱えたまま、静かに息を整えていた。
「……一拍」
アルブレヒトが、呟いた。
「雪原の旗取りで見ました。なぜか一拍だけ早い氷使い。……今、確信しました。あなたのそれは、氷の魔術ではない」
セルカの肩が、ぴくりと震えた。
「時を、いじっている。……盗品の中に、それほど古い理を混ぜている者が、いるとは」
回廊が、ざわめいた。
時を、という言葉が、あちこちで繰り返された。
セルカの指先が、動いた。
ほんのかすかに。
俺には、見えた。
セルカの指が、袖の中で、何かを握ろうとしていた。
――時計を。
止めればいい。この中庭の時間を、全部止めて、止まった世界の中で、あいつの喉元に短剣を突きつければいい。セルカなら、それができる。北の湖を一瞬で渡ったセルカなら。
セルカの指が、止まった。
握りかけた手を、ゆっくりとほどいた。
時計は、使わない。
人前では、使わない。
ハスト様の秘密は、セルカが守るから。
「付則」
アルブレヒトの左手が、紋章をなぞった。
「汝の氷は、汝を縛る」
セルカの手の中の短剣が、溶けて、細い氷の鎖になった。鎖がセルカの手首に巻きついて、それから足首へ。
「付則。汝は、膝を折る」
セルカの膝が、雪についた。
◇
「――勝者」
ガルシア先生の声が、ひどくかすれていた。
「アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト」
序列の入れ替えは、なかった。上の者が勝った場合は、何も起こらない。三百一位は、三百一位のままだ。
ハストさまより上は、やだ。決闘期間の初日に、セルカはそう言って頬をふくらませていた。……その願いだけは、叶ったままだった。
ただ、白い腕章が一本、増えるだけだった。
アルブレヒトは、凍った右手に左手をかざした。氷の塊は、それだけでは溶けなかった。従者のひとりが慌てて駆け寄って、温めた布を巻きつけた。
それから、アルブレヒトは、雪の上に膝をついたセルカを見下ろした。勝ったはずの男の額に、うっすらと汗が浮いていた。
「セルカ。――我が名を」
セルカの唇は、動かなかった。
約が、セルカの口を開かせようとしていた。それが、俺にも見えた。セルカの細い喉が、何かを押し戻すように、何度も何度も上下していた。
唇の端が、切れた。
小さな赤い雫が、顎を伝って、雪の上に落ちた。
「……っ」
セルカの淡い水色の目が、回廊の柱の陰を見ていた。
俺を、見ていた。
セルカの唇が、震えながら、形を作った。
――ハ、
「付則」
アルブレヒトの左手が、紋章に触れた。
「汝は、元の主の名を、呼ばず」
セルカの唇から、作りかけた音が、消えた。
ぷつりと。糸を断つように。
それから、別の形を作った。
約が、作らせた。
「……わが、あるじ」
セルカの目から、涙が落ちた。
ぽろぽろと、止まらずに。
北から帰ってきてから、温かくなった頬の上を。
◇
世界の音が、遠くなった。
回廊のざわめきも。誰かの悲鳴も。ガルシア先生が何かを言う声も。
全部、厚い氷の向こう側にあるみたいだった。
柱にもたれていた背中が、勝手に離れていた。
足元の雪が、踏む前から凍りついていた。俺の立っている場所から、柱の根元へ、回廊の石畳へ、白い霜が音もなく広がっていった。
「……ハスト様」
フィアットの声がした。
「セルカの氷があいつの手を凍らせたとき、署名の白が、また薄くなりました。……二画目。横の線です。最初の縦の線と、交わってる」
フィアットは、震える声で、それでも見たものを口にした。目を閉じたまま、瞼の裏に涙を溜めて。
袖をつまむ指がほどけていた。……たぶん、冷たすぎてつまんでいられなくなったのだ。
「ハスト様の色が、碧じゃない。……真っ白、です」
俺は、答えなかった。
三百位を、守る。
完璧に負けて、誰にも気づかれずに、三週間をやり過ごす。
それが、俺の仕事だった。
ラインハルトが膝をついたときも。レオンが泣かなかったときも。会長が、転び方は役に立ったと笑ったときも。クルトが、三節目を唱えようとしたときも。
俺は、柱の陰で見ていた。
そして今、セルカが、俺の名前を呼べなくなった。
俺が、命令しなかったから。俺の秘密を、守ろうとしたから。
――知るか。
三百位も。完璧な負け方も。頂天者が首を突っ込めば面倒になる学園の決闘も。
全部、知るか。
ポケットの中で、セルカのおまもりが、ぱきんと割れた。
溶けないように作られた氷の粒だった。それが、俺の手の冷たさに負けて割れた。セルカの作った氷より、俺の手のほうが冷たかったのだ。……あの子が北から持ち帰った温かさを、俺が、今、凍らせかけている。
割れた欠片を、握りしめた。
俺は、柱の陰から出た。
雪の上に、一歩。
回廊のざわめきが、ぴたりと止んだ。
最下位の男が、中庭の真ん中に歩いてくる。誰もが、それを見ていた。何が起きているのか、誰にもわからないまま。
アルブレヒトが、こちらを向いた。
灰色の目が、わずかに細くなった。
「……三百位の方が、何か」
俺は、セルカの前で立ち止まった。
膝をついたセルカの頭に、手を置いた。
冷たくならないように、気をつけて。
「……セルカ」
セルカは、俺を見上げた。唇が、何かを言おうとして、動かなかった。呼べない名前を、呼ぼうとして。
「いい。呼ばなくていい」
俺は、セルカの頭を一度だけ撫でた。
それから、顔を上げた。
白い外套の、灰色の目を、まっすぐに見た。
「アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト」
自分の声が、ひどく静かだった。
「決闘を申し込む」
回廊の誰かが、ひっ、と息を呑んだ。
「今日はもう一回受けてるから、断ってもいいぜ。規則の上ではな。……全校の前で、三百位から逃げたって、明日の号外に載るだけだ」
中庭が、凍りついた。
比喩ではなかった。
俺の足元から広がった霜が、中庭の雪の上を、白い外套の靴の先まで、まっすぐに走っていった。
「――次は、俺だ」




