126 三百位、ブチ切れる
アルブレヒトは、しばらく黙って俺を見ていた。
凍った右手に巻かれた布から、ぽたりぽたりと雫が落ちていた。セルカの氷は、まだ溶けきっていなかった。
「……面白いことを言う」
アルブレヒトは、口元だけで微笑んだ。
「逃げた、と書かれるのは困りますね。私がここに立っているのは、全校の前で証を立てるためだ。盗品の魔術が、正しい魔法に及ばないという証を」
それから、温めた布をほどいて、従者の盆の上に放った。
右手の指先は、まだ赤く腫れていた。それでも、動いた。
「お受けしましょう、三百位。……前の一位に転び方を仕込んだ師の、転ぶところを見せていただく」
回廊が、ざわめいた。
ガルシア先生が、焼き栗の袋を雪の上に落とした。拾わなかった。
「……ハスト」
先生の声が、かすれていた。
「本気か」
「本気です」
「立会人は、俺でいいのか」
「誰でもいいです」
ガルシア先生は、俺の顔をしばらく見ていた。それから、何かを諦めたように、深く息を吐いた。
「……雪原の旗取りのとき、旗を放り投げたお前の手首の返しを、俺は見てる。偶然であんな角度は出ねぇ。……ずっと、何かあるとは思ってた」
先生は、中庭の真ん中に歩いていった。
「両者、名乗りを」
◇
アルブレヒトが、左の手のひらを上に向けた。
「――この者と我との間に、聖なる約を結ぶ。第一条、敗れし者は、期間の明けるまで、勝者に仕えるべし。第二条、この約は、血と名によって守られる」
白い紋章が、宙に浮かんだ。
光の糸が二本伸びて、一本はアルブレヒトの胸へ、もう一本は俺の胸の前で止まった。
「約を受ける者として、名を」
「ハスト」
白い糸が、俺の胸に吸い込まれていった。
冷たくも、温かくもなかった。ただ、胸の真ん中の白い場所の縁を、細い指でなぞられたような感触がした。
紋章の文字が、ほんのわずかに揺らいだ。
アルブレヒトの眉が、かすかに寄った。……何かに引っかかったのかもしれない。俺の胸の中の、白いところに。
どうでもよかった。
雪の上で、セルカが膝をついたまま、俺を見上げていた。
その唇の端に、まだ赤いものが残っていた。
フィアットが、回廊の柱の陰から、目を閉じたまま、こちらを向いていた。袖をつまむ相手がいなくなった指先を、胸の前で握りしめていた。
「――始め」
◇
始めの声と同時に、アルブレヒトの指が動いた。
会長のときと同じだった。始めの一声で、先に付則を書いてしまう。相手が何者であれ、最初に道を塞ぐ。それがこいつのやり方だ。
右手の人差し指が、紋章へ伸びた。
左手の指も、同時に。
両手で。セルカに教わったのだ。片手を封じられれば、もう片方が要る、と。
「付則。汝の――」
指先が、紋章に届く、その手前。
ぱき、と小さな音がした。
アルブレヒトの両手の指先に、霜が咲いていた。
爪の先から、第一関節へ。第二関節へ。手のひらへ。手首へ。
瞬きの半分より短いあいだに、アルブレヒトの両腕は、肘から先、厚い透明な氷の中に閉じ込められていた。紋章まで、あと指一本ぶんのところで。
詠唱は、しなかった。
腕も、上げなかった。
俺は、ただ、中庭の真ん中に立っていた。両手をポケットに突っ込んだまま。
回廊の誰も、何が起きたのかわからなかった。
アルブレヒトの両腕が、いつの間にか凍っている。それだけだった。
「――っ」
アルブレヒトが、腕を引こうとした。
動かなかった。
氷は、腕を包んでいるだけではなかった。宙に浮いたまま、空気ごと固まっていた。指先から紋章までの、指一本ぶんの隙間に、薄い氷の板が一枚、挟まっていた。
触れられない。
付則は、紋章に指で触れなければ、書き足せない。
「……なるほど」
アルブレヒトの灰色の目が、初めて、まっすぐに俺を見た。
「あなたも、指を狙う。……ですが」
アルブレヒトは、腕を凍らされたまま、身体を前に傾けた。
紋章に向かって。
額で、触れようとしていた。
指でなくても、身体のどこかが紋章に触れれば、付則は書ける。あの本には、そう書いてあった。……こいつも、知っていたのだ。
額が、紋章に近づいた。
その足元の雪が、音もなく凍りついた。
靴の底から、膝まで。
アルブレヒトの身体が、前に傾いたまま止まった。額と紋章のあいだに、まだ拳ひとつぶんの隙間があった。
「付則を、声で――」
アルブレヒトの唇が動いた。
声は、出なかった。
口の前の空気を、ほんの少しだけ、どけておいた。声は、空気がなければ届かない。
アルブレヒトの喉が、何度も上下した。唇だけが、形を作っては崩れていった。……付則。汝の。我に。届かず。
届かなかった。
中庭が、静まり返っていた。
雪の降る音だけが、聞こえていた。
◇
俺は、ポケットから右手を出した。
出しただけだった。何も握らず、何も構えず。
アルブレヒトの前まで、歩いていった。
一歩。二歩。
雪を踏む音が、やけに大きく響いた。
アルブレヒトの灰色の目が、俺を見ていた。腕を凍らされ、足を凍らされ、声を奪われ、前に傾いたまま動けない身体で。
その目に、初めて、何かが浮かんでいた。
怯え、だった。
「……お前さ」
俺は、アルブレヒトの目の前で立ち止まった。
「ラインハルトが、毎晩中庭で喉を潰しながら詠唱を磨いてたの、知ってるか」
アルブレヒトは、答えられなかった。
「レオンが、ラインハルトのために勝ちに行ったの、知ってるか。会長が、三年間ずっと影の中にいて、最後の一年だけ、誰かのために影から出たの、知ってるか。クルトが、誰にも見られねぇところで、皿を洗いながら詠唱を練習してたの、知ってるか」
声が、低くなっていった。
自分でも、止められなかった。
「ミモザが、村中の金で入学して、親父の燻製小屋をあっためるために、一回も出ねぇ魔術の詠唱を、毎日毎日唱えてたの、知ってるか」
アルブレヒトの喉が、ごくりと動いた。
「セルカがな」
俺は、膝をついたままのセルカを、振り返らなかった。
「あいつ、北から帰ってくるまで、ずっと手が冷たかったんだ。誰に触っても、自分の手が冷たいから、触るのが怖くて。……やっと、温かくなったんだよ」
足元の霜が、ぴしりと音を立てて、中庭の端まで走った。
「――その手を、お前は、自分の氷で縛った」
アルブレヒトの目が、大きく見開かれた。
「盗品だの、正しい血だの。……知るか」
俺は、ほんの少しだけ、息を吐いた。
それだけだった。
◇
風が、吹いた。
俺の吐いた息から、ではなかった。中庭の真ん中の空気そのものが、一瞬で、アルブレヒトの背中側から抜き取られた。
空いた場所に、空気が雪崩れ込んだ。
アルブレヒトの身体が、浮いた。
足を縛っていた氷が、根元から砕けた。腕を包んでいた氷が、粉になって散った。白い外套が、大きくはためいた。
アルブレヒトは、吹き飛んだ。
中庭を横切って、一直線に。
回廊の、石の壁へ向かって。
――あ。
校舎を壊すと、序列を十下げる。
頭のどこかで、エトワールのチョークの音がした。
俺は、風の向きを、ほんの少しだけ上へ曲げた。
アルブレヒトの身体は、回廊の壁の手前で、くるりと上向きに弧を描いた。そのまま、壁の手前の凍った噴水の上を越えて、噴水の裏に積み上げられた雪溜まりの真ん中に、頭から突っ込んだ。
どさっ、という鈍い音がした。
雪煙が、高く舞い上がった。
それから、ゆっくりと落ちてきた。
雪溜まりから、白い外套の裾と、二本の足だけが、逆さまに突き出ていた。
ぴくりとも、動かなかった。
◇
中庭の誰も、声を出さなかった。
息をする音さえ、聞こえなかった。
最初に口を開いたのは、ガルシア先生だった。
「……おい」
先生は、近くにいた一年生の肩を掴んでいた。
「今、詠唱、聞こえたか」
「……い、いいえ」
「腕、動いたか」
「いいえ……」
「指は」
「動いて、ません……」
ガルシア先生は、一年生の肩から手を離した。
それから、雪の上に落ちた焼き栗の袋を拾い上げて、中の栗をひとつ取り出した。殻ごと口に放り込もうとして、途中でやめて、袋に戻した。
「……そうか」
先生は、雪溜まりから突き出た二本の足を見て、それから俺を見た。
「……勝者」
声が、少し裏返った。
「ハスト。序列戦規則第三により、両者の序列を入れ替える」
先生は、そこで、言葉に詰まった。
自分の言おうとしている数字が、信じられないという顔で。
「――ハスト、全学年序列、二位」
中庭が、爆発した。
悲鳴と、歓声と、誰かが噴き出す笑い声と、何がなんだかわからない叫び声が、ひとかたまりになって、回廊の天井にぶつかった。
「アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト、全学年序列、三百位」
二位の白い外套が、三百位になった。
三百位の俺が、二位になった。
……二位。
ブチ切れていた頭に、その数字が、じわじわと染み込んできた。
一位のすぐ下。フィアットのすぐ下。全学年三百一人の、上から二番目。
――やっちまった。
◇
雪溜まりの中から、白い外套の従者たちが、主人を引っ張り出していた。
アルブレヒトは、雪まみれだった。淡い金髪に雪が絡まって、外套の銀糸の聖印も、半分が雪に埋もれていた。怪我は、なかった。雪溜まりは深かった。そうなるように、曲げたのだから。
アルブレヒトは、従者の手を振り払って、自分の足で立とうとした。
立てなかった。
膝が、雪の上に落ちた。
アルブレヒトの胸から、白い光の糸が一本、伸びていた。
決闘の始めに、アルブレヒト自身が結んだ約の糸だった。
その糸が、宙に浮かんだ紋章を経て、ゆっくりと、俺の胸へ向かって伸びてきた。
第一条。敗れし者は、期間の明けるまで、勝者に仕えるべし。
「……なぜ」
アルブレヒトの声が、震えていた。
声は、もう、戻っていた。
「約が……私を……」
自分の結んだ約が、自分を縛る。アルブレヒトは、その可能性を、一度も考えたことがなかったのだ。負けるということを。正しい魔法が、盗品に及ばないということを。
紋章が、アルブレヒトの顔の前で、静かに光った。
アルブレヒトの唇が、本人の意思とは関係なく、動いた。
「……我が、主」
回廊が、また静まり返った。
白い外套の男が、雪の上に膝をついて、三百位――いや、二位の男を、主と呼んだ。
ラインハルトの口が、ぽかんと開いていた。レオンが、腕を組んだまま、鼻で笑った。クルトが、なぜか小さく拍手をしていた。会長は、白い腕章の左腕で、顔を覆っていた。肩が震えていた。……たぶん、笑っていた。
◇
俺は、アルブレヒトの前にしゃがみ込んだ。
「命令する」
アルブレヒトの肩が、びくりと跳ねた。
「全員、解放しろ。ラインハルトも、レオンも、会長も、クルトも、二年の奴も。……セルカも」
アルブレヒトは、紋章を見上げた。
その左手が、震えながら、紋章の縁に触れた。
主の命令だった。約は、従者に命令を守らせる。アルブレヒトの指は、自分の意思ではなく、約に動かされて、条文の一行目をほどこうとしていた。
紋章の一番下の行が、白く光った。
署名の、白い一行が。
アルブレヒトの指が、そこで止まった。
弾かれたように、紋章から離れた。
「……できません」
アルブレヒトの顔から、血の気が引いていた。
「約は、結んだ者の名でしか、解けない。……この約の名は」
灰色の目が、紋章の白い一行を見つめていた。
自分が結んできたはずの約の、一番下の行を。たぶん、生まれて初めて、まともに。
「――私の名では、ない」
その声は、ひどく小さかった。
雪溜まりに頭から突っ込んだときよりも、ずっと、打ちのめされた声だった。
◇
全員は、解放できなかった。
約は、残ったままだ。白い腕章も、残ったままだ。期間が明けるまで。
それでも、ひとつだけ、変わったことがあった。
「……じゃあ、次の命令だ」
俺は、立ち上がった。
「お前の従者に、命令しろ。今日から、誰にも、何もさせるな。鞄も持たせるな。給仕もさせるな。好きに過ごさせろ」
アルブレヒトは、俺を見上げた。
それから、ゆっくりと、白い腕章の従者たちのほうを向いた。
「……命じる。主の主の、命により」
アルブレヒトの声が、中庭に響いた。
「今日より、汝らは、好きに過ごせ」
ラインハルトが、両手を突き上げた。
「――よっしゃああああ!!」
その声が、凍りついていた中庭を、一気に溶かした。
◇
俺は、セルカの前に戻った。
セルカは、まだ雪の上に膝をついていた。手首の氷の鎖は、いつの間にか溶けていた。
「……セルカ。帰るぞ」
セルカは、俺を見上げた。
唇が、動いた。
――ハ、
音にならなかった。
付則は、残っていた。元の主の名を、呼ばず。
セルカは、何度も唇を動かそうとした。呼べない名前を、呼ぼうとして。それから、諦めたように、唇を閉じた。
代わりに、両手を伸ばした。
俺の手を、握った。
温かかった。
北から持ち帰った温かさが、まだ、ちゃんとそこにあった。
「……いい」
俺は、セルカを立たせた。
「呼べなくても、いい。……そのうち、フィアットが、なんとかする」
回廊の柱の陰で、フィアットが、目を閉じたまま、何度も何度も頷いていた。
頬が、濡れていた。
それから、フィアットは、震える声で言った。
「……ハスト様」
「なんだ」
「二位、おめでとうございます」
俺は、天を仰いだ。
雪が、顔に落ちてきた。冷たかった。
明日のペトラの号外の見出しが、もう、目に浮かぶようだった。




